36 空腹におにぎり

 ──「『大晦日の白雪しらゆき』を起こしたのは、俺なんだ」


 桃也とうやの告白を聞いた途端、あふれかけた涙は自分でも驚くほどに引いてしまった。

 怒りが込み上げてくることもなく、ただ呆然ぼうぜんとコートを掴んで衝動のままに部屋を出る。

 追い掛けてきてくれるかと少しだけ期待したが、彼は来てくれなかった。

 駅からいつもの電車に乗り、ぼんやりと歩いて辿り着いたのはアルガスの自室だ。


 昼下がりのシンとした部屋は少し肌寒かったが、徐々に暖まる温度に張り詰めていたものが緩む。京子は横たわるの抱き枕を抱きしめ、ソファへ沈むように身体を預けた。

 自分の半分より背の高いそれは、殺風景な部屋にと昔セナが置いていったものだ。まだ桃也がマサのアパートに住んでいた頃で、そんなことを思い返すと彼に初めて会った時のことが蘇ってくる。


 五年前、『大晦日の白雪』から一夜明けた、京子の誕生日だ。

 一日中事件の後処理に追われ、ようやく一息ついた所で突然マサに呼ばれた。彼の部屋へ行くように言われたが、「少し遅れる」という本人の姿はなく、代わりに積み上げられた書類に埋もれるように、まだ中学生の小さな桃也がいたのだ。


 彼が被害者の遺族である高峰桃也だと気付いて、当然責められるだろうと思っていた。

 けれど桃也は京子がキーダーだと知っても、何も言ってはこなかった。だから余計に自分を抑えられなかったんだと思う。

 衝動的に流れた京子の涙に、桃也は「泣かないで下さい」という。そんな彼に甘えて、ハッピーバースデーを歌ってもらった。


 何故あのタイミングでそんなことを言ってしまったのか自分でも分からないが、ぎこちなく歌った彼の歌が、嬉しくてたまらなかった。


 あの日から何年も彼に会うことはなかったが、高校を卒業した桃也がマサの元を離れた事は噂で知っていた。

 去年の夏に再会し、中学生だった小さな桃也は別人のように背が伸びていた。けれど吊り上がった眉と常にむっすりとした表情はそのままで、すぐに彼だと気付くことができた。


「とうや……」


 仙台に行く前まで幸せだった。彼との日々が続けばいいと思っていた。

 なのに今どうしてこんなことになっているのだろう。東北から戻り、今頃二人でマンションに居たはずなのに、何故一人でアルガスここにいるのか。


 ――『もういいよ』


 ふと浮かぶのは、彼にフラれたあの日の言葉だ。思い出す度、心に刺さる。

 昨日なかなか寝つけなかったことと、全力疾走した事でひどく疲れていたらしい。

 目が覚めた時にはすっかり外が暗くなっていて、煌々こうこうと光る蛍光灯をまぶしく感じた。


 トントンと叩かれた扉の音に身体を起こし、うさぎを抱えたまま目をこする。

 「いいか?」という声に目覚めの頭がハッキリした。

 「どうぞ」と返事すると、いつものジャージ姿の彼が浅く頭を下げて入って来る。


「外から明かりが見えてな」

「マンションに帰ったけど、戻ってきちゃった」


 「そうか」とマサは手にした小さなお盆をテーブルに置き、京子を呼んだ。

 海苔に巻かれた三角のおにぎりが二つと、お茶の入った湯飲みが乗っている。


「何も食ってないんだろ? 平次へいじに作らせたから、とりあえず食えよ。お前は空腹だと駄目だからな」


 確かにお腹は減っている。朝食以降何も食べていない空っぽの胃が、ふわりと香る海苔の匂いにキリリと痛んだ。

 のろりと立ち上がり、京子はテーブルにつく。うさぎを放す事ができず、子脇に抱えたままおにぎりをくわえた。


「美味しい」


 中から昆布が顔を出す。京子の好きな味を知っている平次の計らいだろうか。一気に二個を平らげ、添えてあった味噌漬けの沢庵をボリボリと食べる。

 まだ熱い緑茶を流し、京子は空になった皿に視線を落としたまま躊躇ためらいがちに口を開いた。


「昼間はごめんなさい。私、本当のことが知りたいよ」


 詳しいことを何も聞かずに、子供のように感情的になってしまった。


「悪いのは俺なんだから、お前が謝るなよ」


 マサは開けっぱなしのブラインドを閉め、京子の向かいに腰を下ろした。あまり使われていないブラインドは新調時のままに白い。

 マサはテーブルの上で組んだ手を見つめながら、ゆっくりと話し出した。


「俺が初めて桃也に会ったのは、あの現場に駆け付けた時だ。けどその少し前に、アイツの母親には会っててな」

「桃也のお母さんに……?」

「アイツとあんまり似てない小柄で綺麗な人だった。あの年末、アルガスん中がやたら慌しかったのを覚えているか?」


 京子は首をひねるが、『大晦日の白雪』の印象が強すぎて、内部の様子などあまり記憶には残っていなかった。


「ほら、あん時は北陸支部ができたばっかりでやたら忙しかったんだよ」


 そういえば、そんな時期だったと京子はうなずく。

 綾斗がここに来る前に居た場所で、訓練施設を併設している。


「書類仕事にイラついて煙草を買いに出た時、門の外で彼女に会った。俺の顔見て向こうから声掛けてきてな。立ち話じゃ話し辛そうにしてたから、『恋歌れんか』に連れてったんだ」


 『恋歌』は、アルガスの入口から道を一本隔てた路地にある小さな喫茶店だ。

 マサは組んだ手をひたいに当て、ふうっと溜息を漏らす。


「そこで、息子がバスクかもしれないって相談されたんだよ」

「えっ、お母さんが気付いてたの?」

「超能力が使えるってな。もしやキーダーの力じゃねぇかって心配して、彼女なりにネットとかで調べてここへ辿り着いたらしい。もしそうならって話をしたら、彼女泣いちまったんだ。何も知らないで育ったから、普通の子として生きて欲しい、って」

「そんな……」

「言い訳にしかならねぇけど、今も後悔してる。あん時は本当に忙しくて、息子に会うのを年明けにしてもらったんだ。すぐに動けば未来は変わってた。少なくとも『大晦日の白雪』は起きなかった。あの夜の詳しい事は桃也に聞いたのか?」


 京子が横に首を振ると、マサは「そうか」と力なく手を下ろす。


「事件の瞬間は俺も見てないから、本人に聞いた話だが」


 京子は息を呑み、うさぎの抱き枕を強く抱きしめた。


「桃也の父親は海外にもグループを多く持つ大会社の社員で、大分裕福な家庭だったみてぇだ。桃也自身も生まれたのは日本じゃないらしいから、検査をスルーしちまったんだな」

「アメリカに居たって聞いたことあるよ」


 帰国子女と言う言葉に京子が「凄い凄い」とテンションを上げると、桃也は「覚えてねぇよ」と笑っていた。


ねたまれたんだろうな。あの日、桃也が留守にしてる間、家に強盗が入ってな」

「強盗? って、まさか……」

「あぁ。桃也の両親と姉は、その強盗に殺られたんだ」



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