end.2 ハッピーエンド

@22311

第1話

私はアリスだ。あのルイス・キャロルが作った名作の主人公。しかし、私の名前は柚葉 咲で、容姿も違う。だが何故だろう、ずっとそれを感じていた。証拠も無ければ理由もない。ただ、1つ言えることがある。それは、単なる思い込みではないということだ。



今朝のニュースは、いつも通り淡々と事件を読み上げる。


『○○県のとある家にて、5歳の少女の遺体が発見されました。警察は親の身元を調査しているとの事です。』


ありふれた事件の1つ。見ている不特定多数はそれを日常として、朝ごはん片手に寝ぼけ眼で眺めている。


話題性に欠けた事件は次々と消費され、芸能人の不祥事が大きく取り沙汰される。


それが、大切な日常のワンシーンだ。




某月某日月曜日のこと。


「柚ちゃん起きて〜?ホームルーム終わったよ?」


そう呼びかける少女は神崎 楓華(かんざき

ふうか)である。中学3年生。髪はギリギリ結べる位の長さであり、どちらかと言うとつり目気味。人智を超えた美貌の持ち主だ。


「ありがと、先生なんて言ってた?」


呑気に眠っていた少女は柚葉 咲(ゆずは さき)である。中学3年生。背の順で並んだら真ん中位の身長で、どちらかと言うとたれ目気味。病的な色白で、気味悪がれていたこともあった。


ホームルームが終わったあと、神崎が柚葉を起こすのは恒例行事だ。


「今日は部活が無くなったって。」


「えーなんでー」


「会議?らしいよ。」


「会議かー先生も大変だね」


「ね。クレームでもあったのかな…」



ふと、柚葉は教室を見渡す。寝ていたこともあり、ここにはもう2人しか居ない。

刹那、この景色が名残惜しく思った。

日に焼けたカーテンの香りも、体育の後に追ってくる心地いい疲労感も、授業中のぬるま湯に包まれた様な安心感も、制服を着ている自分も、"もう味わえない"と、本能が訴えてくるのだ。黄昏色の空を見る。暖色系を極めた様なオレンジなのに、漠然とした恐怖を感じる。言葉にするなら『終末感』だろうか。この空は、物心ついて初めて経験する地震や雷を想起させる。親がどれだけ自分を安心させようと這い上がってくるそれに似ているからだ。何かが違う、このままではいけない。何か、何か行動を起こさなければ--


「大丈夫?すごく汗かいてるけど…」


「ああ、ごめん、なんでもない」


そう、言いかけた時だ。


「やぁやぁ。ここが君の学校で合ってるかな」


中性的で、ミステリアスな声だ。

声のする方向に顔を向ければ、宙に浮く猫がそこにいた。紫と黒のスプライト柄は綿毛の様にふわふわしている。大きく開かれた瞳は藍を映し、瞳の中にまた瞳が嵌め込まれていると錯覚する程に美しい。驚く2人の様子に口を悪戯げに緩めた。端的に言えば、アリス・イン・ワンダーランドのチシャ猫に瓜二つの猫が笑っている。


「えーっと…まだ寝てんのかな、私…」


頬を掻きながら困り顔をする柚葉と


「う、浮いてる…えっと、ごめんなさい!」


震えながら歯をカタカタ鳴らしている神崎に向かって、その猫は


「おっと、流石アリスは冷静だねぇ。君も怖がらなくていい。」


そう、おっとりと返したのだった。




「と、言うわけで、ボクは別に悪い猫じゃないんだよ?」


一通り落ち着いた後、チシャ猫が説明を始めた。柚葉は興味津々に、神崎はおどおどしながら聞いている。


「まず、ここに来た理由からだ。ボクはワンダーランドに住んでてね。アリス、君を招待しに来た」


柚葉はアリスと呼ばれて、思わず食い気味に返事してしまう。チシャ猫は机に寝そべり、顎に手を当てている。柚葉の反応を楽しんでるようだ。


「ちょい待って、ん?招待?そもそもワンダーランドって言った?あんの?」


「有るとも有るとも。」


宙に浮くチシャ猫に言われると説得力が違う。柚葉はワンダーランドという単語に強烈に惹かれるものがあった。


「ワンダーランドってマジであるんだ。いいじゃん楽しそう。最近なんかやること無くて暇だったし」


柚葉からしたら興味しかない。前から焦がれていた場所なのだ。


「ふむ、暇とは?」


目を光らせる柚葉に向かってチシャ猫は静かに問いかける。


「うーん、特に理由とかないけど」


「君には学校も、十分過ぎる衣食住もある。それなのにかい?」


「いやいや、学校とかめんどくさいし、衣食住とか言われましても」


「へぇそうか、やっぱりだ。」


チシャ猫は目を細め、口早に呟いた。その眼光には確かな敵愾心がある。瞬く間にその場は瘴気で満たされた。神崎はその空気に耐えられないのか、肩幅を縮めて下を向く。柚葉も神崎程では無いものの、謝った方が良いのではと焦る。


「え、なにごめん」


「また、会おうね」


柚葉の言葉を遮って、チシャ猫は瞬時に消えていく。一触即発な空気は雲散霧消した。穏やかな教室の空気が戻ってくる。一体、今の猫は。場に流されてしまったが、改めて考えると不可解にも程がある。だが、それを柚葉も神崎も口には出さなかった。


「帰ろっか」


「そう、だね…」



某月某日火曜日のこと。


「柚ちゃん〜!」


朝、柚葉が待ち合わせ場所に行けば神崎が手を振って待っている。いつもの通学の風景だ。


「おはよ〜」


小走りで待ち合わせ場所に行く、その時だ。

一瞬、風景がブレる。建物は輪郭を無くし、所々がブツ切りになっている。まるで不具合を起こしたゲーム画面だ。頭を抑えながらも、神崎を探す。神崎が居たはずのそこは誰も居ない。神崎だけでなく、人通り、更には車すら無かった。


「柚ちゃん!?ねぇ!?大丈夫!?」


神崎が声を裏返して呼びかける。気づけばいつも通りの日常が広がっていた。今のは何事か。


先程の光景は非常に強い嫌悪感を抱いた。クトゥルフ神話TRPGならSANチェックものだろう。


「今日は休んだ方がいいんじゃ…」


確かに正しい判断だと思う。だか、今はそういう訳にもいかない。チシャ猫はまた会おうと言った。つまり、今日も現れるだろう。


「いやいや大丈夫だってーハンカチ貸してー」


神崎は押しに弱い。それを利用させてもらう。


「だめでしょ!」


「えーやだやだ、私は部活もしたいのー!

ハ、ン、カ、チ、プリーズ!!」


なかなかに我儘な態度だと思うが、ここで印象を気にしてる場合では無いのだ。


「---。わかったよ…。でも、無理はダメだからね!」


そう言いながらハンカチを渋々渡してくれた。登校の時にハンカチを借り、下校で返す。いつからか始まった習慣だ。この為にハンカチを2枚持ってきてくれているらしい。


「ありがと。ねぇねぇ、大人になったら動物飼ってみたくない?」


「いいね。猫とか、うさぎとか」


昔からよく話しているシェアハウスの話を始める。将来、大人になったら一緒に住む予定なのだ。まだまだ先の話なのに、駅が近い家がいいだの、ハンモックが欲しいだの、具体的な話ばかりだ。


早朝の雲はゆっくりとなだらかに動いている。太陽が煌めく眩しい空は、地球が廻っていると実感させる、壮大な蒼色をしていた。




夜の9時、柚葉は自室のベッドに座っている。なにかする気分では無い。本来興味のあるものでさえ、めんどくさいで済まされてしまう。きっと、胸騒ぎが原因だ。チシャ猫に会ってからというもの、ずっと終末感が付き纏ってくるのだ。常に緊張状態で、全く落ち着かない。この前も寝るのに一苦労したのだ。その疲労のしわ寄せに、今の無気力がやって来たのだろう。とはいえずっと座っているのも飽きてきた。もう寝てしまおう、横になって瞳を閉じてみる。全く眠気が来ない、むしろ眩しいのだ。それもそのはずで、電気はつけっぱなしのまま、人工的な光が部屋全体を照らしている。


「ため息は良くないよ?幸せが逃げるからね」


チシャ猫の声がかかる。反射的に目を開ければ、部屋の電気で瞳が刺されたように傷んだ。柚葉は明らかに嫌な顔をする。


「誰のせいだと思ってんの」


強気に言い返す。チシャ猫と会うとろくな事がない。そんなアリスなりの勘が働くのだ。


「気にならないのかい?ボクが君を招待しに来たってことについて」


柚葉は頬を硬くする。


「そっちには行きたくない」


「何故」


「帰れなくなる、よね?そんな気がする」


チシャ猫がバツの悪そうな顔をする。

事実なのだろう。


「ワンダーランドを維持する為には必要なことだよ。平行世界、聞いたことくらいは有るだろう?それだよ。みんながワンダーランドを『物語』として楽しんでいる。」


眉唾なものだ。だが、それが嘘では無いことは、目の前の猫がいい証明だろう。


「みんな、ねぇ。それが平行世界の皆様?」


「君たちも含めてね。そもそも、招待自体が珍しいことなんだ。向こうは寿命なんて無いからね。永遠に繰り返される。だからこそ、抜け道は無いはずなんだが…」


「アリスちゃんが逃げ出したと?」


横に寝返りを打つ。


「そう。アリスちゃんが自害したんだよ。全く、どうやったんだか。」


チシャ猫は一瞬開きかけた口を閉じて、改めて説明を続ける。


「平行世界と、物語の世界、ふたつがあるんだ。平行世界はそのまま今君がいる世界のコピー。物語の世界はお話を演出するためにある世界。」


「物語なんて無数にあるじゃん。全部なんて無理でしょ」


「流石に全部はないよ。例えばね、誰かが頭の中だけに作ったお話に世界はない。でも、本とか、データとか、形に残れば世界判定されるんだ。」


「ふーん。で、なんで私?他にも代わりはいるでしょ?」


「アリスの代役は君以外居ない。初めっから決まってるんだ。急遽替えられないよ。」


私以外もアリスの代役がいる。そんな淡い期待は消え去った。ならば、余計はっきり言ってやろう。体を起こして深呼吸する。


「私は行きたくない。」


はっきりと、チシャ猫を見据えてそう言った。行きたくないと。チシャ猫は残念そうに目を伏せると、一言。


「でも、もし君が来なかったら、ここがワンダーランドに成るだけのことさ。」


チシャ猫がそう零す。脅しの言葉ではないだろう。その声は震え、同情が滲み出ていた。

ワンダーランドに成る。それは、つまり、世界滅亡。またはそれに酷似した何か。柚葉は息の仕方を忘れる程、思考が鈍る。その理解の経過は声に漏れていた。


「--は?え、待って、今なんて?ねぇ!?」


柚葉の怒号に似た何かを無視してチシャ猫は消えていった。




某月某日水曜日のこと。


下駄箱は柚葉の密かな秘密基地である。秘密基地と言っても、雰囲気が秘密基地なだけで、何も占拠はしていないが。神崎が委員会の日はこの下駄箱で待っている。本来、委員会の友達を待ってはいけないのだが、バレた試しが無いので気にしていない。

下駄箱の外へ目を向けた。ここからはグラウンドや道沿いに植えられた花などを一望出来る、個人的絶景ポイントだ。夏なのに、何故か虫は一切見当たらない。運が良かったのだろう。ここまで心地良いと、寝ない方が不自然だ。早速寝ようと体育座りをして顔を膝に近づける、足元を見ればチシャ猫が毛繕いをしていた。


「うわ」


チシャ猫は柚葉の嫌味を無視して話しかけてくる。


「あれ?今日はお友達が居ないね?」


「今日はね。それより来たんだ。来ないと思ってたけど」


昨日の話について深堀するいい機会だ。いっそ全部ここで全て吐いて貰おう。


「昨日の話、全部話して。いややっぱり、アリスの件から全部吐いて。」


「吐いてとは、なかなかだ。いいとも。話してあげよう。」


意外だった。口を割らせるには骨が折れると思っていたが。


「昨日の話は事実だよ。君が来なかったらここがワンダーランドさ。」


「具体的には?」


「まずは生命体が存在ごと消える。生命体は植物を除く食物連鎖の順でね。それがある程度進めば自然災害が起きて大規模な工事さ。そしてワンダーランドの住人が集められる。それでやっと、ワンダーランドに成る。」


生命体が消える。自然災害。さらっととんでもないことを聞いた気がする。


「生命体が消える…?まっ、て、もう始まってたり?」


存在ごと消える。それではまるで自分は殺人犯ではないか。ワンダーランドに行きたくない、そんな我儘が人を殺したことになる。つい昨日までは自分に都合のいい展開を無意識に想像していた。ワンダーランドになるのは1部だけとか、自分の視点だけワンダーランドになるとか。食物連鎖の下、まだ虫などは罪悪感は少ない。では、何人消えたのか。人間は食物連鎖の頂点だ。10万人か、100万人か。あえて多い数字を浮かべる。


「始まってるよ?既に人間以外は綺麗さっぱりさ。今んとこ人間はざっと8億かな?」


涼しい顔でチシャ猫が告げる。


「嘘。そんなになったらニュースになるはずじゃん。例えば、スーパーにお肉が無くなるってことでしょ?」


「"生命体"だから屍はそのままなんだ。確かにこのままだと人類は食料難に陥るだろうね。でも、安心していい。存在ごと消えるんだ。消えたことすら気付いてない。」


「は?」


「次にアリスの件だね。アリスは冒険するだろう?だから君は人より再生能力がある。」


「それぐらいだよ。ボクから言えるのは。」


洒落にならない程の動悸がする。テスト返しとか、大勢の前でのスピーチとか、大会の試合とか、そんなレベルではない。いくらなんでも早すぎやしないか。チシャ猫に会ったのは3日前だと言うのに。たった3日でこれだ。決断を急ぐべきだと分かっている。それでも、脳からは気を逸らせる為の質問が大量生産された。


「この前世界が一瞬おかしくなったんだけど、それなに?」


「それは予兆のようなものさ。いずれはこうなるってね」


「アリスに選ばれる基準は?」


「アリス役が完遂出来る個体。だね。」


「今ここで私が死んだら?」


「残念ながらワンダーランドは行き場を失い消失する。」


「今ここで私が行くって決めたら8億は救える?」


「さあ?それはボクにも分からない。唯一分かるのは、君がこっちに来たら元通りになるってことさ。でもその元通りに生命体が含まれているかは分からない。」


「消える人ってランダム?」


「君と物理的な距離が近い程と消えない。

後は公平なランダムさ。」


「えっと、私が消えたら?」


「それはさっき答えたじゃないか。」


「ほら!あれ、えっと、私が寝て、そのままだったら」


「んん?永眠ってこと?それも同じだって。ワンダーランドは消える。」


「じゃあ、あれとか、えっーと…」


次の質問を、次の質問を、作らないと、理解してしまう。台詞が決まる前に、口が勝手に開く。だか、開いた口からは何も出てこない。


『でも、もし君が来なかったら、ここがワンダーランドに成るだけのことさ。』


昨日聞いたことが、また聞こえる。口からは嗚咽が漏れていた。頭がごちゃごちゃで、人混みにいるような雑音を感じる。


「ま、考えてくれ。前向きにね。」


その様子を哀れに思ったのか、チシャ猫は柚葉の頬に柔らかい肉球で触れる。その感触で我に返った柚葉はチシャ猫から逃げるように後ずさりした。


「訳わかんない。困らせてるのはそっちじゃん…」


チシャ猫は、申し訳なさそうな、悲しそうな、複雑な顔をして、無言で消えていく。


「柚ちゃん?チシャ猫と話してたの?うっすら紫が見えたけど」


神崎が顔を覗かせた。


「あ、うん。暇だったからさ。」


即座に表情をかえて、いつも通りの受け答えをする。本当に、巻き込みたくないのだ。


「ごめんね待たせちゃって。」


「ううん。行こっか。」


靴を履いて、歩き出した。外気は蒸し暑く、じめっとしている。それでも体の芯は震えるほど冷たくて、温度差で風邪を引いてしまいそうだ。


「あ、ハンカチ返すわ。ありがとね」


いつも通りハンカチを返して、前に向き直す。空からは、今日も終末感を感じさせる濁ったオレンジが2人を見下ろしていた。




某月某日木曜日のこと。


朝、目覚ましを止めて階段を降りると、母親が急に抱きしめてきた。


「良かった。ほんとに。」


「いや、ちょっと、なになに」


柚葉が激しく抵抗すると、母親は我に返ったようで、恥ずかしそうに腕を離した。慌てて誤魔化すようにニュースを指差す。


「人口が激減してるみたいで、何人消えたかもよく分かってないんだって。それでね、専門家の意見は半分以上は確実って。お母さん、咲も消えちゃったかもって焦っちゃった。」


もうそこまで来ていたのか。やはり決断すべきだった。しかし、自分はどちらを取ればいいと言うのか。真夏だと言うのに、口内まで震える。血の気が引いていくのを感じる。寒い。脳に血が足りなくなったか、危険信号を発するものの、具体的な解決策は何ら浮かばない。


「お母さん、朝ごはん作るから」


母親は柚葉がショックを受けたと思って1人にしてくれた。確かにショックを受けたが、それを上回る絶望感が、のしかかった。


『速報です。○○市で震度6弱の地震が起きました。現地の方は速やかに避難してください。』


『速報です。○○山が噴火しました。現地の方は速やかに避難してください。』


『速報です。○○川が氾濫を起こし、住宅地まで被害が及んでいます。』


『『『『『『『速報です。』』』』』』』


勢いよく体を起こし、その弾みでベットが揺れる。ひとまずは良かった。夢だった。


自分は、どちらを取るべきなのだろう。考えなければならない現実を突きつけられた。率直な、真っ先に出た欲望は、楓華ちゃんと居たい、だった。世界と友達を天秤にかける。友達を取ったとして、どうせ消えてしまう。考えが巡って巡って、しまいには茫然自失していた。ひとりでに目覚ましが鳴る。どうやら朝になっていたらしい。あれは夢だ。自分に言い聞かせながら階段を下る。リビングの扉を開けると、母親が急に抱きしめてきた。


「良かった。ほんとに。」




柚葉の世界はモノクロだった。


でも、今までの人生で不満があった訳ではなく、平々凡々と過ごしていただけだ。


家族の仲は普通だった。仲が良かったかと聞かれれば、言い淀むけど。

友達も数人いると言えば居たし、たまには話もしていた。


日々に飽きてきて、なんか辛かったのだ。

いじめられたとか、家族が怖いとか、そういった根拠もないし、ただ、もっと新しい世界で生きてみたいなと思った。しかし、新しい世界とは、果たしてあるのだろうか。もし無ければ、自分は一生悶々と過ごすしかないのか。沈思黙考していると、道端に走る白うさぎが見えた気がした。

そこで、やっと気づいた。自分はアリスだ。摩訶不思議な世界で冒険するアリスだ。

主人公で、その世界の中心で、ほっと一息つく暇もない、紛れもないアリスなのだ。

ワンダーランドに比べたら、この世界は味のないガムを永遠と噛み続ける様な味のない日常だ。


小学六年生の秋、転校生がやって来た。日々が何となくつまんなくて、クラスメイトが1人増えることになんの興味も湧かなかった。


「神崎、楓華、です…えっと、よろしくお願いしますっ」


酷く緊張した姿をモノクロの世界から眺めていた。


クラスメイトから仕事を押し付けられ、教室に1人で帰る準備をしていた。神崎が後から教室に入ってくる。お互い無言であり、居心地の悪さを感じる。痺れを切らしたのか少女が話しかけてきた。


『初めまして…その、大丈夫…?』


---。ふっと、崩れ落ちた。


知らない、初めての感覚が一気に押し寄せてきて、脳が処理し切れない。


例えるなら、500歳の元気な人間がいたとして、人生で初めて甘いものを食べたとか、ずっと黒しか見えない視界に色が差し込んだとか、そんな感じの衝撃だったのだ。


『えっお腹痛い!?具合悪い!?』


慌てながらハンカチを渡して来る。理解が出来ない。理由を聞こうと少女の方を見た。

何故か上手く見れない。視界が曇っている。


『保健室行く…?場所分かんないけど…』


瞬きをすれば、頬を雫が伝った。気付いてしまった。今自分は泣いているのだ。


『 ごめんね…?』


視界が広がって、いつもより、世界の彩度が確かに上がったのだ。その日の黄昏時は、水彩画の中にある、淡い水色とオレンジの暖かいグラデーションが2人の後ろ姿に影を作っていた。




小学六年生の秋、転校することになった。

不安で仕方ない。5年間過ごした人達の中に馴染めるだろうか。新しい教室の前でこの上ない緊張に苛まれていた。自己紹介の失敗は人生の終わりだ。そんな思考が行ったり来たりする中、教師に呼ばれて恐る恐る中に入っる。


「海星、楓華、です…えっと、よろしくお願いしますっ」


休み時間には、机を囲まれる。大人数に囲まれ、人酔いしてしまいそうだ。


「どこから来たの?」

「テレビとか見る?」

「好きなキャラクターとかいる?」


質問攻めを受け、笑顔で対応するのに必死だった。


怒涛の1日が終わり、帰りの準備をしていると、教師に職員室へ来るように言われた。転校生が貰うプリント等を貰い、教室に戻る。そこにはとても無表情の少女が居た。少女は淡々と帰りの準備を進めている。なんとも気まずく、意を決して話しかけた。


「初めまして…その、大丈夫…?」


自分の手元を見て、相手の反応を伺う。何も言わないので不安に思い、少女を一瞥しようと顔を上げた。ドサッと音がして、少女が倒れるとしゃがむの真ん中みたいになっている。何が起こったのか分からなくて、夢なのではと疑ってしまう。


「えっお腹痛い!?具合悪い!?」


血でも出たのではないか、だったら止血しないと。そう思い、ハンカチを差し出す。ほかの可能性だってごまんとあるが、幼い頭では血が出た、しか想像出来なかった。


やっとまともにみれた少女の顔は、無表情はなのに変わりないが、静かに涙を流している。驚きながらも、やっと保健室が選択肢に出てきて、パニックのままかろうじて提案した。


「保健室行く…?場所分かんないけど…」


少女は固まっている。どうしよう、泣かせてしまった。あとから罪悪感が登ってくる。


「ごめんね…?」


その日から、この少女と一緒に帰ることになった。



某月某日金曜日のこと。


今日、立て続けに地震、氾濫、噴火、人口の激減が起こった。世間はそれでも当然と言ったように出勤を、学生には登校を促した。それに違和感を感じるのは柚葉だけで、神崎でさえ当たり前といった態度だった。

いや、それは柚葉にとって都合が良い。『作戦』を実行する準備は済んでいる。授業中、全く眠くなかった。いつも、日常は眠くて仕方がないのに。授業が眠たい、月並みな表現だが、それは幸せだったと、今更ながらに思った。



ホームルームが終わって、しばらくした頃。神崎が柚葉をいつものように起こす手前、カーテンの膨らみがそれを阻害した。カーテンからは、赤に近いオレンジが滲み出ている。この景色が好きで、起こす時間をあえて遅らせるのが密かなマイブームだ。改めて手を柚葉の肩に置こうとした既、次は柚葉のバックに目がいった。いつも身軽で必要最低限しか持ってこないのに、今日は通学用とは別に大きいバックまで持ってきて、パンパンに膨らんでいる。魔が差して、それに手を伸ばした。


「あ、楓華ちゃんおはよ」


体の中心が、揺れた気がした。あとから罪悪感が這い上がってくる。


「おは、おはよう。珍しいね…」


自分から起きるなんて、そう続けようとすると、食い気味に柚葉が言葉を被せてきた。


「ね、今日の水筒いいお茶なんだ。飲んでみない?」


「いや、いいよ…悪いし…」


「大丈夫。口つけてないから。」


渡された小さい水筒はずっしりと重い。飲まないとさっきの件について問い詰められる気がして、異様に乾いた口を潤そうと水筒を傾けた。


「---」


突然、水筒をぐいっと上に押しあげられた。容赦なく水分が流れてくる。反射的に伸ばした腕を強く握られ、引っ張られた。段々五感が機能しなくなっていく。何事も分からぬままに、意識は暗転した。




「派手にやったね。流石に可哀想だったよ。」


「まーね。仕方ないじゃん。だいたい、チシャ猫も共犯者だからね?」


チシャ猫に首根っこを掴まれ、重い荷物と神崎に耐えながら空中を移動している。家から1番近い森の中に入ってゆく。一見、効率の悪い移動手段に思えるが、足で歩くよりも圧倒的に速い。荷物をかけた腕は既に紫色だが、神崎の顔色の方が人間として忌避すべき色をしている。水筒の中身は大量の醤油だ。醤油の多量摂取は死に至る。それの手前を1g単位で計算し、思いっきり飲ませ、意識不明にさせた。あと1時間後に吐いてもらう。卑劣極まりない行動だが、やむを得ない。世界よりも、楓華ちゃんと最後の1秒を過ごしたい。それが柚葉の答えだった。


「森ってこんな綺麗なんだ。幼い頃から虫さえ居なければなんて思ってたけど、マジになるとは思わ無かったよ。」


泥々とした、もはやオレンジでは無い赤茶の夕日と、青々とした木々のコントラストが美しい。どこまでも続く森の奥は、薄緑の霧が覆っている。


「とんでもない願いだね。幼い頃からの願いが叶った感想は?」


「最悪」


チシャ猫はため息をついて、やれやれといった態度だ。


「さて、ボクもそろそろ体力の限界だよ。」


そう言って柚葉を離した。出来る限り外の世界と隔絶したかったのだ。自分のせいで居なくなる人を実感したく無かった。自然災害を報道するニュースも、少しずつ消えていく学校の友達も。挙句の果てに親友、いや、恩人までもこんな目に遭わせて。


「起きて、楓華ちゃん。」


静かに神崎の口へ、指を突っ込んだ。






草原の色が見てみたい。それが夢だった。


「あぁ、クソったれ」


痛みに耐えて、刺さったナイフを抜き取る。敵国の子供が突然刺してきたのだ。深い傷はその悲憤を実にリアルに体現している。


「大丈夫かな?お兄さん。」


幼い声に呼びかけられる。青いワンピースを着た少女だった。服も体も全く汚れていない上に、ここでは見ない顔立ちだ。


「誰だよ。アンタ。」


「私はアリス。ここは残酷ね。」


なるほど、この浮世離れした少女はどこかの箱入り娘と言ったところか。そんな非力な少女も、世界の毒牙からは逃れられない。


「嬢ちゃん、ここは危険だ。早くママのところに帰るんだな。」


「ううん。違う。私はあなたを招待しに来たの。ここよりずっと平和で、美しい世界に居たいと思わない?」


そんな夢物語は少女の頭の中にしかないだろう。今は忙しいのだ。


「はぁ?ママゴトに付き合ってる暇はねぇよ」


「嘘じゃないわ。」


「証明出来んのか?あ?」


「出来るわよ!と・に・か・く!さっき言った世界に行きたいか聞いてるのよ!」


荒唐無稽な少女にひと泡吹かせたい。現実を見せてやろう。


「じゃあ、行きたい。」


さて、これから少女がどうこじつけるのか見物だ。


「言質、取ったわよ。」


そうアリスが呟いた直後、意識がぷっつりと途切れた。




「やぁやぁ、ボクはチシャ猫。道に迷ったのかい?」


「ええ。そうなの。どっちに行ったら正解なの?」


「さあ?好きな方に行くといい。迷って迷って、歩き続ける。そうすれば、いつかは辿り着くよ。そんなもんさ。」


「ありがとう!親切な猫さん。」


青いワンピースを見送って、自分の持ち場を離れた。


「お疲れ様です。チシャ猫さん。1杯いかがでしょう。」


緑の帽子を被った老紳士が紅茶を勧めてきた。役の中では狂っているが、中身は穏やかな青年だ。


「いや、今日は紅茶の気分じゃ無いんだ。」


「それは残念。」


美味しいのですが、そう呟いてカップを放り投げる。カップは呆気なく散れ、中身は土に染み込んでいった。だが、瞬きをすれば割れたカップは白いテーブルクロスの上に置かれている。老紳士はまた別の紅茶を手に取った後、目を伏せる。


「私は不安です。アリスさんが日に日に弱っている。目に光がなくて。」


「ま、そうなるだろ。主役で忙しいしな。」


取り留めもない会話をしていると、老紳士は歪んだ懐中電灯を見せてきた。


「チシャ猫さん。そろそろでは?」


「ああ、行ってくる。」


次は赤の女王の城に向かう。体が浮くのはとても楽だが、その分動く役だ。体を透明にして、目が乾燥しないように薄目で目的地へ移動する。ああ、何回聞いたことか。赤の女王もよく喉が枯れないな。怒り狂った演技は耳に来る。ふと、アリスが気になった。確かに最近元気がない。不純物みたいな空が、やけに眩しく見えた。


ある日、知らせが配られた。--アリスが、自殺したらしい。気持ちは、理解できる。無限に同じことの繰り返し。気が狂うのも当然だ。それでも、アリスには居て欲しかった。アリスがいないここはワンダーランドでは無くなったのだ。底無しの寂寥を感じ、アリスの代役の勧誘を自ら名乗り出た。役割は2つ。1つは代役の監視。もう1つは本人の意思で決めさせた上に、来ない選択をした場合のデメリットを教えること。


柚葉と神崎という少女を初めて見つけた時、憎たらしく、いや羨ましく思えた。ワンダーランドの洗礼、記憶消去を受けているが、魂に焼き付いている。自分が幼い頃求めていた安寧を、感謝も持たずに生きているんだろう。その傲慢な生き方に、苛立ちを覚えた。故に、あえて生命体がある程度滅んでから話を持ち出す。考える時間を減らすという、ささやかな嫌がらせを決行することにした。

それがささやかだと考える位には、時間と比例した脳の腐敗が進んでいた。



「起きて、楓華ちゃん。」


神崎は喉の違和感に気付くと同時に、胃の中のものを吐き出した。


「ごめん。これ、水。」


差し出された水を飲むと、脳がようやく今の状況を把握した。そうだ。一気に醤油を飲まされたんだった。それをしたのは紛れもない目の前の親友だ。


「あ、ペットボトル落ちたよ」


手に力が入らない。恐怖で足も竦む。柚ちゃんは、何がしたいのだろう。まともに前が見えない。


「ごめんね。ほんとにごめん。」


その声は突然泣き出した。いつの日か聞いた泣き方で謝罪を繰り返している。急に泣き出す所まで昔と変わらなくて、親友であることには間違いないと、確信した。その時点で恐怖は無くなった。しかし疑問は残る。なぜ自分は森の中に居るのだろう。


「柚ちゃん?なんで森にいるのかな…?」


その問に応えてくれたのは、空が黒くなって暫くしてからだった。




「って感じで、もう世界はひっちゃかめっちゃかなのよ」


「そっ…か、ごめん、信じらんないというか、びっくりしすぎて、待って、夢…?」


神崎は頭を文字通り抱えて困惑している。思考を巡らせた神崎は小刻みに震えながら口にしたくない現実を確認する。


「私…もう死んじゃう、しかも柚ちゃんも死んじゃう…」


「まあ、そうなる」


どうすれば良かったのだろう。誰が悪者かなんて次元ではない。どうして自分が選ばれてしまったのだろうか。


「物語の世界なんて無くなればいいのに。」


アリスに選ばれる基準はアリス役を完遂できる個体だったか。そんなの山ほどいるでは無いか。世界の全人口は把握してないが、沢山アリス候補はいるはずなのに。アリス役が務まる人、五体満足、五感が機能している、そんな人間、何人存在しているというのか。いや、待て、つまりは--


「いや、死なないよ。楓華ちゃん。」


柚葉は躊躇うことなく、。ずぶり、以外にも簡単に目を潰せた。後から追ってくる生温い感覚。血と涙が混じった液体が指を伝う。


「え、柚ちゃん!?」


神崎の心配を他所に、その場に居ないチシャ猫に向けて不敵に笑った。


「これで、アリス役を完遂できる個体じゃ無くなったね?」


チシャ猫はふわりと落ちる枯葉のように現れて、呆れたようにため息をついた。


「ギリギリセーフって所かな。知ってる?実は君たちしかもう存在して無かったんだよね」


「そんなことより!大丈夫!?」


2人の声が混ざる。それをぼんやり聞きながら、柚葉の意識は薄れていく。灯台もと暗し、よく言ったものだ、なんて呑気に考えている。ゆっくり、感覚が体から抜けてく気がした。




俺はアリスの代役を監視する使命があった。

アリスの代役が死亡することや、大怪我をしてアリス役を全う出来なくなることを防ぐ為に。


「いや、死なないよ。楓華ちゃん。」


この少女は、抜け道に気付いたのだろう。確信した表情に、全てを察した。この場で致命的な怪我をするなら、目を潰すくらいか。チシャ猫であれば止めるべきだ。実際、止めることは可能だった。でも、思ってしまったから、気付いてしまったから。出来ない。


--抜け道に気付けるなんて、やっぱり君はアリスだ。


ワンダーランドに嫌気が差し、自害という方法を見つけ出したアリスが、重なった。輪廻転生、それがよぎったのだ。別人だと分かっていても、それに縋ってしまったから。眼球を自ら潰す姿を見て、ほっとした。呪縛から解き放たれた少女を見て、祝福の意を感じ、ワンダーランドの消失に勘づいた。




目を覚ませば、森の中だった。世界が急に暗くなって、その後どうなったのだろうか。柚ちゃんが目を潰して、倒れて。


「あっ、そうだ、柚ちゃん!」


隣で寝ている柚ちゃんの脈を確認して安心する。そうだ、これからどうしよう。漠然とした恐怖が襲ってくる。とりあえず柚ちゃんと荷物を持って歩いた。森の木漏れ日は青を写している。チシャ猫は元通りになると言っていた。


『さあ?それはボクにも分からない。唯一分かるのは、君がこっちに来たら元通りになるってことさ。でもその元通りに生命体が含まれているかは分からない。』


ゾッとした。まさか、そんなことは、ないはずだ。祈りながら森を歩く。みんな元通りで、日常にまた溶け込める、はず。余計に不安になって、早歩きから走り始める。違う、きっと。嘘だ。だって、たまたま、そう、まぐれだ。


---真夏なのに、森の中は静かなんて。


走った。それを否定したくて、外に出れば人が居る。それを信じて。走った、走った、走り続けた。




「あっ、柚ちゃん、おはよう!大丈夫?」


柚ちゃんはベットの上で目を薄開きにしてうとうとしている。


「あー、うん…おはよ…。やば、色しかわかんないわ…」


「凄いね…!あんなに思いっきりやったのに色を認識出来るなんて」


「うーん、まぁ、再生能力持ってるらしいし…えっ、待ってあの後どうなった!?」


混乱するの今更だな…。なんて思いながら、計画を実行する。


「それを今から説明するから、ちゃんと聞いてね!質問は後で受け付けるから」


噛まないように、早口にならないように、気を付けて、作り上げた状況を話し始める。


「柚ちゃんは、実はずっと寝てて、私達はもう成人してるの。ここは柚ちゃんのお家で、あと、柚ちゃんの耳も壊れちゃったみたい。目と耳の神経って繋がってるんだって。それでね、私の声とか、生活音とかは聞こえるけど、人のガヤガヤとか、その他諸々聞こえないってチシャ猫が言ってた。それとね、柚ちゃん目が見えないし、耳も悪いから、社会保障で、年金みたいなものを貰えてるの。柚ちゃんとシェアハウスの話も、許可貰ってて、だから、私がここに居るの。説明終わり!」


「お、おう…何となく理解したわ…」


「じゃあ、私スーパー行って買い出し行ってくるから、安静にね!」


柚ちゃんと一緒に居るとボロが出そうだ。ひとまず落ち着きたいので、外の空気を吸いに行く。


「待って、私も行く。それに、みんなは?元通りなの?」


「柚ちゃんはダメ。目がグロテスクだから、みんなびっくりしちゃうでしょ?ついでに眼帯も買ってくるから。」


「元通りなんだね?みんないるよね?」


固唾を飲んで喉を潤し、柚ちゃんの方を見る。


「大丈夫。みんないるから」


ほっとした様子で柚ちゃんはベットにもたれた。


「良かっっった〜」


その様子を尻目に、玄関の扉を開けて外へと1人で歩き出した。




外の世界は静謐を湛えていた。いや、正確には雨粒が地面を叩く音がする。傘なんて大層なものはさしていない。ずぶ濡れになった服は身動きがとりずらいし、靴の中もぐしゃぐしゃだ。自分の家を通り過ぎる。たが、数歩進んだ後に立ち止まった。悩んだ末、出来心で自分の家へと引き返す。もしかしたら、誰かいるかもしれない。いや、きっと家の中は無人だ、絶対誰もいない。せめぎ合う矛盾を抑え、無表情で家の扉を開けた。リビング、居ない。トイレ、居ない。お風呂場、居ない。階段を上って、自室、居ない。寝室、居ない。親の部屋、居ない。物置、居ない。初めっから分かっていた。想定の範囲内だ。大丈夫、知っていた。鼻から期待などしていない。無表情で顔を固めたまま、台所へと向かう。まな板の上には黒くなったピーマンが3分の2くらい切られっぱなしになっていた。鍋には冷めきった麻婆茄子がある。冷蔵庫には賞味期限が切れた食パン、タッパーに入ったお米、前の晩御飯にもあった既製品のコロッケなどが入っている。無性に寂しくなって、冷えきった麻婆茄子を口に運んだ。ナスは給食みたいに味がしっかりと染みていて、余計に虚しくなった。これ以上ここに居ては耐えられないと悟り、足早にその場から去る。


世界は、元通りになったのだ。


---生命体を、除いて。


でも、元通りは元通りだ。スーパーに置かれている食料も、1日毎に一新されているし、ガスも水道も電気も通っている。あたかも人がそこに暮らしている様に、今までと同じ様に。

空を仰げば、無数の水が自分1人に向かって自由落下してくる。恐らく、今自分は『悲劇のヒロイン』の表情をしているのだろう。であれば、柚ちゃんは主人公になりうるのか。もし、自分たちが物語の登場人物になるならば、せめてお話の中だけでもハッピーエンドがいい。みんなが幸せになって、最後の一文に、こう添えられるのだ。




そうして、幸せに暮らしましたとさ。


おしまい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

end.2 ハッピーエンド @22311

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る