第2話 リトルクライベイビー part2
――――堕落した愛の行く末だった。
昼から降り続けている雨は、夜になってもまだ止みそうにない。天気予報でも、この雨は明日の朝方になって、ようやく止むのだと言っていた。
静まり返った住宅街――――、一軒家の二階は、屋根に雨が当たる音がよく聞こえる。
街頭のあかりがぼやけている窓。デジタル時計はこの部屋の温度と湿度、今日の日付である九月十四日を示していた。そして午後の八時三十一分二十二秒、二十三秒、二十四秒と動作通り時を刻んでいた。
シングルベッドの周りに散乱する男女の学校制服と下着。本来ならばそこは、普通の男子高校生が暮らす、どこにでもあるような一人部屋だった。
しかし、日常の部屋の雰囲気が、今日だけは違っていた。
――――雷が光った。音は聞こえない。落ちた場所は、どうやら遠いようだ。
照らされた一人部屋。ベッドの上、少年にまたがる少女。
彼女の顔は笑っていた。
体格身長、下敷きになる彼よりも一回り大きい彼女は、長い黒髪を後ろでしばり、衣服を一つもまとっていなかった。
彼女は高校の入学式早々、美人と評判になった。
スタイルもよく、高身長なので、モデルかなにかだと思うものもいた。
ただ彼女が、自身のクラスメイトの男子と恋愛関係になってからというものの、化けの皮が剥がれはじめた。
それは、脱皮というより羽化に近かった。外見蛹だったものが、蝶へと変態する。しかし蝶の羽根には猛毒が付いていた。近づけば近づく程凶暴性を増す毒――――。
彼氏になったその少年は、クラスで最も背丈の低い人だった。
童顔ながらも顔つきが整っていて、黒の瞳が澄んだ輝きをする、外見に随分恵まれた人だった。ただ、性格は積極性に欠けると評されても仕方がない程に、おとなしい少年でもあった。
誰しもがはじめこそ、その身長凸凹カップルに尊さを感じたが、なにかが妙だった。
確実に、なにかが変だった。
そして徐々に、彼女の異常性にクラスメイトは気づいていくのであったが、その時既に、少年には異性でも同性でも彼の家族でも、誰も近寄ることができなくなってしまった。
蝶が飛び立ったのだ。
――――闇に浮かぶ彼女のシルエットには実に艶があった。
その肉体美は完璧に近く、古代ギリシアの彫像のようだった。
しかしその一方で飲み込まれてしまうような心理的に深く黒い部分もあった。
彼女の胸から下が、赤い血で染まっていた。しかしその血は彼女のものではない。
仰向けの少年の瞳には涙が浮かんでいる。目の焦点もあっていない。
ようやく、雷の落ちた音が聞こえた。
少年の口から血が出ているのが見える。髪が荒れ、栄養不足が心配されるほどの細い体、白い肌。そして腹部には複数の切り傷があり、そこから大量の血が流れていた。
彼女の手には、血の付いた出刃包丁があった。
少年の指先はもう動いていない。医者が見ずとも、死の素人が見ても、彼が死んでいることが分かる。だが体はまだ温かい。彼女はその温もりを逃がさないように、持っていた包丁をベッドから投げ捨てて、少年をゆっくり、包み込むように、愛をこめて抱きしめた。
彼女は愛を忘れなかった。むしろ、彼の死をもってより愛は深まった。
堕落した性の果て。いつか終焉を迎える男女の関係。
今日もその延長線上のはずだった。いつか別れるまでの時間稼ぎ。そこに愛情も未来もなかった。その現状から抜け出したかったのは男も女もそうだった。
――――だから殺した。
――――だから死んだ。
彼女は、少年と出会った時から、心に抱き続けていた愛を忘れなかった。彼が忘れていた愛を、彼女だけは忘れることはなかった。なんとか、彼に愛を思い出してもらいたかった。身体や金や、思いつく限りの全ての媚態を、彼氏に差し出した。
だが彼はそこに虚無を感じてしまった。関係に飽きたわけではない。彼女の態度も受け入れようとした。だが彼は、彼女との間柄に疲れ果ててしまった。
奉仕の精神と同時に現れる彼女の支配の愛情。いつしか自分がそれに飲み込まれてしまうのではないか。
彼はもう彼女を相手にしているのではなく、彼女から出てくる感情と相手していたのだ。
逃げたい――――。その思いは彼女の歪んでいく愛情に比例して増えていった。
彼女はその彼の感情を愛の欠落と認識していた。何としてでも愛を取り戻そう。かつての恋を蘇らせようと必死になった。
何故彼は私を遠ざけるか? その問いに対し、彼女は一つの結論に固執した。
「きっと、他の人が好きになっちゃったんだ」
そうして彼を周りから孤立させようとした。近づいてくる異性を暴力で殲滅した。彼が彼女だけを見てくれる環境を作り出そうとした。
だが結果は最悪だった。彼は彼女をより遠ざけた。
己の愛に対する見返りが小さいことへの苛立ちはとうとうピークに達した。
そして今日、彼の愛を取り戻す手段が明確な暴力へと変わった。少年に馬乗りになった後、彼の家のキッチンから取ってきた出刃包丁の先端を少年の腹部に向け、
「もし、自分を愛さなければ、刃が腹の奥深くに刺さることになる」
――――と脅した。彼は初め何が起こったのかまるで理解ができなかった。切っ先が胸についた時、ようやく自分の立場がわかった。
彼は「やめて……」と声を振り絞った。
だが、少年の体は彼女を拒んだ。
心の底の絶望と嫌悪が表出した結果、肉体は彼女の求める姿を見せなかった。「おねがいだから殺さないで……!」と涙声で訴えたが、彼女はその萎えた体を見て、ついに憤怒した。
「だいっきらい」
そこからは長かった。
彼女は両の手でナイフを振り上げて、腹部にそのまま突き刺した。彼ははじめこそ抵抗したが、華奢な体では、馬乗りという有意な態勢にある彼女から、逃れることができなかった。
痛みに叫び、涙を流し、絶望に耐え抜くため『生』にしがみついた。僕には家族がいる。死ぬわけにはいかない。だが彼女は孤独だ。彼の想いなど理解できるはずもない。その時点で、この恋愛には決定的な差異が存在していた。
彼女は再び彼の腹部に刃を突き刺した。絶叫し彼はまた血を吐いた。その叫びは今まで彼女が聞いたことのなかった声だった。この声に感動した彼女は恍惚とした表情で、また彼の体にブスリと包丁を突き刺した。
少年は何度刺されてもすぐ死ぬことはできなかった。全身全霊の愛をこめて突き刺した刃は、偶然にもほとんど彼の急所を外していた。緩急をつけ、勢いよく突き刺したり……、ゆっくり包丁の重さに任せて切り刻んだり――――。
まさに嬌声。突く度に変わる彼の反応は彼女の興味を刺激してやまなかった。
いつまでも彼の喘ぎを聞いていたいと思い、包丁で突き刺す瞬間を携帯で記録したりもした。裸で男にまたがり、携帯を向ける。この情事ほど狂い、甘い瞬間はないだろう。
しかしベッドから流れ出ていく鮮血が示すように、着々と彼は死へと落ち始めていた。
彼は、抵抗しても意味がないと悟ると、痛みとほんの少しの快楽を覚えながら死を待つことにした。遠のいていく「好き、好き、好き」と囁くような声。深い闇に飲み込まれて沈んでいく感触が体を包み込んだ。
お父さん、お母さん、さようなら。僕は尊厳なく死ぬんだ。
頭の中を十六年間分の走馬灯が駆け巡った。
その時、雷が光った。照らされた彼女の狂気的な笑顔が、最期の景色だった。
彼女は、これまでになく大きく振りかぶってから包丁を彼の腹部に突き刺した。もう血だらけで臓の見え始めた肉塊。悲鳴を上げることもできなくなった彼は、その一刺しでとうとう息絶えた。
死。
◇ ◇ ◇
――――雨がより激しさを増していく。
錆びた鉄のような臭いが部屋を満たす。
また雷が光った。音は聞こえない。ただ雨が屋根を打ち付ける音が響くだけ。
「だい好きだよ……」
彼女は冷たくなっていく少年をさらに強く抱きしめながらそう言った。ゆるやかに物体へと変わっていく彼の瞳が光を失っていく。それでも彼女は少年を愛していた。むしろ今までよりもずっとはるかに、愛していた。
痛みを与えなければ知らなかった彼の姿、死ななければ見られなかった彼の顔、聞くことのできなかった彼の喘ぎ。殺さなければ見出せなかった自分の愛情。
もう一度彼を殺したいと思った。
けれどどうだろうか。
もう少年の魂はここにはいない。
どこか遠くへ、フラフラと、行く先も知らない風や、雲のように流れていった。
ようやく雷の音が聞こえた。とても大きな音があたりに響いた。
彼は、一度目の転生を迎えた。
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