第1話 客人(シグムンド)
シグムンドは、戦っていた。
いや、今は逃げているとした方が正しいかもしれない。
森林の中をさ迷って、ほんの
厳しい追撃から長時間逃れて来たのだ。汗みずくになったシグムンドの体は、身に付けた金を被せて装飾されたメイルと、上に着込んだコートオブプレートの重さで軋んでいた。
疲れ切って喉が焼けるように痛み、思考を纏めることすら困難な中、それでも正確に馬を駆って林に飛び込めたのは、戦士としての本能が働いたからだろう。
シグムンドはそうして無事だった。
だが味方は戦に敗れ、彼の周りを守っていたハスカールたちも離ればなれになるか、ほとんど倒されるかしてしまった。乗馬も森の中の泥地で落馬して失い、見付かる望みはない。
ここにいても、いずれ発見されるだろう。
逃げる際に、兜を吹き飛ばしてしまって無防備な、そして疲れきったシグムンドの頭に、絶望的な思いが浮かんだ。この辺りに詳しいタイタン族の連中なら、森の地面や木々に残る痕跡など辿るのは容易かろうからだ。
まあ、これだけ慌てて逃げた者の痕など、誰でも見つけることは可能だろうが――
荒い息をつき、シグムンドはもう見通しもない考えを巡らしていたが、ふいにハッとして辺りを見回した。
今、何か聞こえなかっただろうか?
(敵か――――)
凍りついた思いが脳裏を掠め、シグムンドは、疲労も忘れて飛び上がった。
確かに、人の声がした!
そのまま一足飛びに茂みを超えて向こう側の斜面に伏せようとしたが、しかしもう遅かった。森林の中に続いている、道とも言えぬ道の上に、数人の追っ手が姿を現した。
(遅かったか!)
ある程度は撒いたつもりだったが、追いかける者が優れていたのだろう。追っ手は、想像よりすぐ近くに来ていたらしい。
先頭に立つ、粗末な茶色い兜を被った男が、角笛を取り出し、口にあてがった。
アフーーーーーーーーーーーーーーー
割れた引きずるような音が周囲に響き渡り、茶色い兜の男が息を上げ、残りの角笛の音が森に吸い込まれると、ほんの一巡静寂が訪れ――――そして、一呼吸もしない内に、吸い込んだ音は木々の間から帰ってきた。
木霊のように次々と。
アフーーーーーーーーーーーーーーー
アフーーーーーーーーーーーー
アフーーーーーーーーーーーーーーー
アフーーーーーーーーーー
押し寄せてくるそれらの木霊と共に、斜面の周りがざわめき、下生えが踏み荒らされる音が響き、どこにこんなに居たのかと思うほど、武装した男たちがわらわらと至るところから現れた。
それらを斜面の上から眺めながら、シグムンドは立ち上がり、ゆっくりと腰の物に手をかけ、抜いた。
(観念する時か、だが、出来るだけ殺してやる)
左手にあるべき盾は、戦場で既に失っている。シグムンドは、追っ手の中に弓兵がいないことを、大神アンヌーンに感謝した。
「囲め!行け!」
鋭い命令が、ネイザル(鼻当て)を付けた半球型の兜を被った追っ手から発せられた。追撃隊の隊長であろう男のその号令を聞いたとたん、他の者たちが一斉に彼の居る斜面を目指して登りだした。
逃げられぬようにだろう、斜面を登ってくる連中は、ゆっくりと膨らんだような配置で進み、シグムンドを取り囲もうとしている。
「アンノールのシグムンド殿と見た。武器を捨てられよ、王子」
先程のネイザル付き兜の隊長らしき男が、斜面の下の方で呼ばわっている。降伏せよ、ということだろう。
「大神アンヌーンの名に懸けて、貴様らなど呪われるがいい!」
シグムンドの身に流れる誇り高きインペリアルの血は、降伏を許さない。どうせ死ぬなら、敵を殺せるだけ殺して死ぬ。
シグムンドが、隊長に向かって唾を吐き捨てると、彼は革手袋をつけた手を振り上げた。それを合図に斜面に配置された敵が、ゆっくりと距離を詰めて来る。
彼らは、粗末なキルティングのチョッキや長袖を身につけたり、その上に薄いレザーの上着を羽織ったりしている。
シグムンドの身に付けた、鋲や細工物で飾られたコート・オブ・プレートや、金を被せたメイルに比べれば粗末な防御ではあるが、疲れきった男一人が相手のこの場では、この防備で充分に用途を満たすだろう。
手近な所にいた、タイタン族らしくがっちりとした体に、四角い顔をした追っ手の一人が不用意に近付き、タイセイ(※大青/ウォードのこと、染料の原料)で染めた盾を構え、抜き身の剣を振るって迫ってきた。
亀のように鎧を着込んでいるとはいえ、斜面の上でふらふらと立ち、声を挙げるのも辛そうな男など、二・三回切りつければ容易に仕留められよう。
手柄は俺のもの――そう思ったに違いない。
油断も露に振るわれた剣は、しかし振りかぶられた半分も降りてくることは無かった。
くるりと身を翻したシグムンドの、城内鍛造された鋼の長剣が、一振りで粗末なギャンべゾンを貫いて、右腕を肩ごと切り取り、二の太刀が腹を抉って彼を跪かせたからだ。
シグムンドが、相手の背骨まで届いた剣を力任せに引き抜くと、追っ手たちから驚愕の悲鳴が漏れた。
あっという間の光景に、何名かは明らかに怯んだ様子で、隊長の方を伺う者や、斜面で後ずさっている者もいる。
「さあこい!次にエアドール(※死後の世界の意)の道筋に加わりたいのは、どいつだ!」
「何をしている!やつを殺すか捕らえた者には、族長がサガに歌われる栄誉と賞金を約束しているぞ!!」
シグムンドが、喉の乾きで掠れた罵声を絞り出すと、隊長がそれを圧する大声で叫び返した。
「賞金……」
そうだった――
追っ手たちは、足を止めた。
同僚の恐ろしい最期を見て、彼らは怯んでいたが 、それでも臆病な婦女子の一団ではない。欲と栄光の後押しを受けた追っ手たちは、わめきながら再びカイゼルを取り囲んだ。
だが、先程の剣の勢いを見たからか、彼らは中々かかってこようとはしない。褒美が貰えると分かっていても、死んでしまっては意味がない。
今囲んでいる相手は、一息吹けば倒れそうに見えても、十分に危険な手負いの獣なのだ。
「おい、相手は一人だぞ!一人で敵わぬならば、囲んで一斉にかからんか!行け、行かんか!!」
隊長が発破をかける。
それでもまだ、追っ手の多数は躊躇していたが、中には勇敢な者が(この場合は無謀といった方がいいかもしれないが)居たと見えて、隊長の怒声に背中を押され、わめきながら切りかかった。シグムンドが得たりと応戦して、そいつの内兜の顔を突きでぶち破るや否や、周りの追っ手も飛びかかる。
たちまち、森の奥は多数の獣が死命を争う、鉄の悲鳴と怒号で満ちる阿鼻叫喚の場所と化した!
(確実に倒す、一人でも多く。どうせ死ぬなら、
目の前で切りかかる十人以上からの剣士を、シグムンドは良く防いだ。川を渡り、数ドーレング(※この世界の長さの単位。キロに当たる)からなる逃避行を、完全武装でこなしたとは思えぬ足さばきでかわしながら、斜面の傾斜と茂みを上手く使って一人一人を着実に仕留め、素早く確実な死をもたらす。
だが、神話に聞く強力な幻獣でも、最終的には疲労に打ち勝つことはできない。盾と兜は捨てていても、重い鎧を着用して斜面を駆け回れば、どんな男でもいつか疲れてしまう。
アンヌアの中でも、傑出した身体能力を持つ貴種インペリアルの血を引くシグムンドであろうとも、やがて限界は来る。しかも、シグムンドの体力は最初から磨り減らされた状態だ。
十人目を切り払った時、既にシグムンドの眼底は乾き、視界は真っ白になっていた。
「どうした?かかってくるがいい!それとも、恐ろしくて手が出んか?このアンヌアの恥さらしども、臆病者どもが!!」
息が切れて、ほとんど歯ぎしりに近い呻き声になっているが、シグムンドは罵った。シグムンドの鍛え上げられたぶ厚い肩は荒々しく上下し、固く引き締まった腹はふいごのように大きく動いている。
落ち葉が散り敷かれた森の地面は荒く踏み荒らされ、その上には彼の汗が滝のようにしたり落ちていた。
(……こ、これまでか?俺が……この俺が……)
疲労して干からび、痺れたシグムンドの脳裏に狂おしいまでの思いがよぎる。
自分の周りの剣士たちはほとんど倒したが、下の斜面には未だ敵が残っていた。
(まだだ……まだ死ねぬ、俺は……俺は覇者になるのだ。古の英雄マクシミリアン大帝のような)
まだ死ねぬ――そう思うと、シグムンドの紅い眼が強烈な光を放って周囲をねめつけた。覚えず、敵兵が鼻白ずんで再び後ずさる。
それでなくとも、もう充分な人数が斬られてそこらに転がっているのだ。
敵の返り血が汗に混ざり、土が飛び散って汚れたシグムンドの顔は鬼気迫る形相になっていた。
激しく息をつき、もはや剣を杖にして立っているだけだが、誰も敢えて立ち向かおうとしない。恐ろしい沈黙が降りた。
(死ねぬ、このまま死ねぬ……が)
視界が揺れ、吐き気がして、自分の呼吸音がやたらと大きく聞こえる。
(まるで、瀕死の獣のようだな。なんて様だ)
「クソッ!この種無しどもが!貴種といえど、たかが死に損ない一人殺せんのか!?」
――――しばらくして、これではならじ、と思ったらしく例の鼻当て兜の隊長が口汚く罵って、斜面の下で剣の柄に手を掛けた。
彼は彼で必死なのだろう。隊長は自分の周囲にいた男たちと共に、シグムンドを見据えながら、斜面を一歩踏み出した。
「シグムンド殿下!勇戦はご立派なれど、貴方の後ろの森にも我々の仲間が大勢いる!もうじき四方を囲まれるのだ、もう一度申し上げる!大人しく降伏されよ!」
手にした円盾を構え、隊長が叫んだ。
「臆したか、下郎が!アンヌアの貴種は……………敵を前にして、誰も、降伏せぬ!」
シグムンドは、途切れ途切れに叫び返した。疲弊して、ほとんどまともに立つことすら出来ないが、なんとか声を出しながら剣を構え直した。
「勇敢な戦士よ……では死ね!」
鼻当て兜の隊長が吠え、周囲の者共に顎で合図し、斜面を登り始めた。隊長は、鉄を被せて強化された盾の縁に剣の平を押し当てて、しっかりと構えながら、正面からこちらに迫ってくる。
「囲め!囲め!!」
他の奴らはシグムンドのぐるりを取り巻くように動き、盾を押し付けるようにして、襲いかかろうとしている。その動きは、さっき屠った連中より統制がとれており、それなりに精鋭と見える。
(盾を押し付けて、一斉にかかられたら防げまい。どこでもいい、飛びかかって一人崩せば――)
疲労して靄がかかった頭で、シグムンドは考えた。相手が足並み揃えてかかってくる前に飛び込んで、囲みを崩さねば後がない。
分かってはいるが、足がもう動かない。
「やつは疲れ切っているぞ!者共、やれ!!」
シグムンドが動かないのを、力の限界と見て取った隊長が鋭く叫ぶ。
「かかれ!」
それを合図に、歩調を合わせ、盾を連ねた戦士たちが一斉に飛びかかってきた!
シグムンドもかすれた喉から力を絞りだし、獣のように咆哮して応じたが、ほとんど本能のままに正面に突き出した剣は、鼻当て兜の隊長の盾に当たって少々の木屑を飛ばし、簡単にいなされた。
いなされた体勢を立て直す――暇もなく、殺到してきた周囲の戦士たちが、シグムンドの身体に剣を振り下ろしてくる。
それらすべてを防ぐことは、神々にも不可能だと思えたが、シグムンドは狂おしく身を捩って藻掻いた。
次の瞬間、敵の盾や剣が、頭、顔、背中、肩、体のあらゆる場所にぶつかる強い衝撃を感じ、瞬間に世界が赤く染まった。
そして、足が震え、全身の力が抜け、敵の姿や、木や、斜面、それらの光景が細切れになり物凄い速さで回転し、一つになって、目の前が暗くなった。
――気がつくと、ぼやけた視界に森の落ち葉と、何人かの敵の足が見えた。
それを切り落とそう、突きやぶってやろう、とシグムンドの頭が本能的に考えたが、身体が動かない。それどころか、右手に握っているはずの剣の感触もなかった。
精神も肉体も反応が酷く鈍く、自分の息遣いも聞こえない。ふいに目の前の敵の足が、素早く動き、そいつのブーツの裏側が見えた。
と思うと、視界がぐるりと転じた。
前見えていたものはそこにはなく、ますます世界はぼやけ、模糊とした光が見え、かろうじて
それらが動き、鋭く光る何かを振り上げているように見える。
そして突然、影たちのもっと上でなにかが強烈に閃いて――視界全部が眩く輝きに包まれ、全てが白く消え、同時に黒に覆い尽くされた。
誰かが笑う声が聞こえ、そしてシグムンドには、何もわからなくなった。
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※はみだし小欄
序盤の文に『数秒前』という概念が出てきますが、まず本作において、この章で取り扱われる北方諸国の背景は、中世前提(初期〜盛期ない混ぜ)です。
中世には秒という概念がない(時代や地域によるが、時間はある)ため、ここでは文章として『秒』と書きましたが、『ルビ部分がこの世界での呼ばれ方である』ことを断っておきます。
表記の仕方で興醒めと言われるかもしれないですが、一応、ノルウェー語前提で
クロッカ=時間
ミヌテル=分
セクンダル=秒
という概念もいくつか考えました。しかし、やはりそれは場違いであると思い除きました。
趣はないですが、時間関係はルビの文がこの世界で呼ばれているやり方であることを、今後も覚えておいて下さい。
つまり
というのは、人が指を折って数えているくらいの間と、この物語における北方諸国の住人は考えているし、表現しているということです。
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