第六話 大好きだった先輩たち
また数日が鬱のままに過ぎる2011年4月の23日、土曜日の午前九時前。
「みどりぃ~~~。将臣君と弥生ちゃんが来ましたわよぉ」
一階から葵ママの声があけっぱなしの私の部屋のドアを越えてまだ、微睡の中の私の耳に届いていました。階段をゆっくり上がってくる二つの足音。
寝ぼけた表情のまま目を擦り、ゆっくりとベッドの布団と自分の上半身を起こすと、結城兄妹が部屋に入って来ようとしていました。
「みぃ~ちゃん、まだ起きてなかったの。お兄ちゃんはまだ入ってはだめです」
弥生はそう言って将臣を押し出すと、ドアロックを掛けていました。
ドア越しに弥生兄の声が通る。
「なにするんだよ、弥生。別にいいじゃないか、翠は俺の彼女なんだから、恥ずかしがることないじゃなえぇか」
「そういう、デリカシーの無いのはいけないんですからねぇ。妹としても恥ずかしいし、貴斗さんを理想としているのでしたら、女の子への配慮も身につけてくださいねぇ」
「馬鹿、言え。何でもかんでも貴斗さんの真似したら、俺の持ち味なくなっちまうだろうが」
将臣の言う事は正しいと思う。
だけど、まだ男の人の前で着替えなんてするのは恥ずかしいです。
多分ですけど、そういう恥ずかしさがなくなるって事は精神的に歳老いたって事になるのだと思います。偏見かもしれませんけどね。
私はそんな事を思いながら着替えをしていました。
「・・・、・・・、・・・」
私は毎度、ブラジャーを付ける度にすごく落ち込んでしまう。だって、緩くなっているからです。萎んでいるんです。
なんとかぎりぎりCだったのにBぎりぎりに。
春香お姉ちゃんの時はそんな事なかったといいますか、成長していたのに・・・。それにそれだけじゃなかった。傍目で弥生の方を確認すると・・・、何かの間違い。そんな事はない。
「どうかしました、みぃ~ちゃん」
「うん、ちょっとジーンズが短いように感じちゃってねぇ」
「ふぅ~~~ん」
「なによ、その嘘ついているっていう風な顔は」
「だって、本当は違うんでしょう」
「また、そんなわかった風な顔して弥生の馬鹿」
「前向きに考えよう。胸が低くなった分、背が高くなったと思えば」
そう、弥生の言うとおり私の胸が小さくなった分、どうも身長が高くなっているようでした。
高校三年の時、最後に計ったのが164cmでいまはジーンズの裾の上がり具合を見ると少なく見ても2cmは・・・。
「処で、今日は少し早いけど、どこへ行くつもり?」
「弥生も聞いていません。でも、私達の事を励ますようにいろいろ考えてくれているみたいだから、おかしな所じゃないと思うけど」
「よしょっ、着替えは終わり。顔洗って髪梳かして来るから、下に降りてまっててよ」
「うん、わかった。下で待ってるよ」
弥生はにっこり微笑む。でも、その笑みはまだ、彼女も無理していると分かるような表情でした。
まだまだ、弥生も普段通りには戻れていないという事の表れ。
鍵を開け、弥生が将臣に言葉をかけようとしたけど、そこにはいなかった。一階でふてくされているんでしょうね。
下に降りると将臣と弥生は我が物顔で葵ママとお茶をしていた。
「馬鹿マサっ、なに内のママ見てデレデレしてんのよっ」
「そんなにしまりのない顔してっねぇだろうって・・・、まあ、葵おばさんが綺麗なのは事実だけどさ」
「まあ、将臣君タラ冗談をいって私をからかわないでください、フフフフ」
「冗談じゃないですってぇ。翠も葵おばさん見たいなしとやかさ見に付けろよな」
「それはあんたの態度次第よ」
つんとした表情で将臣から顔をそらすと弥生はクスクス笑っていました。
「それじゃ、俺達、出かけてきます」
将臣は内ママに出かけの挨拶をして先に玄関へと行ってしまいました。
「それじゃ、行ってくるね」
「おば様、行ってまいります。みぃ~ちゃんいこっ」
弥生は私の方へ右手を出し、私はそれを左で握り返し、手を繋いだ。
外に出ると将臣が空を眺めながら待っていました。
私達が出てくるのを知った彼は何も言わず、先に駅のある方角へ歩きだします。
私は弥生と手を握ったまま、彼の後を追いました。
それから暫くお互いに会話がなかった。
静寂はどうしてか辛かった。
将臣に何を話しかけていいか、弥生とどんな話をすれば嫌な気分にならないか考えるけど答えは見えず。沈黙は続く。
「ねぇ、将臣は・・・、私と手をつないで歩いてくれないの?弥生はそうしてくれているのに」
「はぁん?そうして欲しいのか?」
「えっ、うん、そうじゃないけど。だって、昔の将臣だったら」
「まあ、心境の変化って奴だよ。大人だからな、お前らよりも六年分・・・」
将臣の明るい声に皮肉は感じられない。でも・・・、明るいのに悲しそう。だから、私の方から彼に並ぶように前に出て、その手を握っていた。
釣られて前に出る弥生も私のその行動が嬉しかったのかにっこりと微笑んでいました。
私達から顔を背けながらフッと気障な顔でにやける将臣。
大きな手。秋人パパともあの人とも違う別の優しさと強さの感じがする将臣の手。
何故か、将臣なんかの手を握っているだけなのに心が安堵を覚えてしまう。
静けさで不安だった気持がいつの間にか穏やかになってしまう。
将臣の手はそんなマジックを隠し持っていたんです。将臣のくせに・・・。
人通りの多くなる道に差し掛かると、将臣の方から手を解かれてしまいました。
「なに、残念そうな顔してんだよ、翠。こっから先は嫌だかんな」
「なんでよぉ。手をつなぐぐらいで」
急に将臣が私から手を離すから不安になっちゃってその表情プラス懇願顔で将臣にそう口にしていました。で将臣は言う。
「よく俺自身も分からないけどな。高校の頃以前に普通だって思っていた感覚が結構今では恥ずかしく思う事が多いんだよ。だから、勘弁な」
むっと、不満の顔を彼に見せると彼はごめんなって顔して、正面を向いてしまいました。
「そうなの、家にいても将臣お兄ちゃん、私に余所余所しい時あるんですよ。昔は平気で私の着替え覗いたり、私がお風呂入っている事知っているくせに入って来ようとしたのに、今は私が間違えてそうすると、すっごく驚くのですから、お兄ちゃん」
「俺の歴史の捏造をするな、弥生。いつ俺がお前の着替えを除いたって?ガキクセエェ弥生なんぞまったく興味ねぇよ」
悪態を弥生に吐くと歩調を広げて前に行ってしまう。
「馬鹿マサっ、先に行っちゃ、何のために私達を外に出したのか意味無いでしょう」
「そうですよ、将臣お兄ちゃん、先に行かないでください」
急に立ち止まる将臣に歩く勢いをつけ始めた私達が彼の背中にぶつかってしまった。
「まさおみぃっ!わざとやったなぁ」
「お兄ちゃん痛いですよぉぅ」
「まったく、本当にお前ら騒がしいな・・・、まあ、その方が安心するけどな俺的にはさてと、三鷹ノ杜駅へいくぞ」
「そんな処へ行ってどうするのよ?」
「何かありましたっけ?」
「はぁ、覚えてないならいいや。着けばわかるさ」
将臣は言うと先に改札口に向かい通過認証機に携帯電話をかざしていました。
そう、私達がちょこっと眠っている間に少しだけ便利なものが増えていたみたいで、携帯電話がお財布代わりになるみたいなんです。そういえば、まだ、目覚めてから携帯電話を新調していなかった。
そうする時は私も便利機能が付いているそれにしようかな・・・。
弥生と私は将臣を追う様にMAPHY(=マフィー=Multi-Access Portability Hyper System Card、SuicaやEdyなど多くの機能を統合した非接触支払札)カードを将臣と同じ様に認証機に当てて改札口を通過しました。
駅に着いた時間が丁度よかったみたいで、乗り場まで降りた時に三鷹の杜へ進行する電車が到着したところでした。
私達はそれに乗り込み、走りだすのを待った。
天気はお出かけ日和だったのでもう少しいるかなと思いましたが、車内の人数はまばらで気兼ねなく椅子に座れたのに、将臣は入口隣の椅子との仕切りに体を預け立ったまま外を眺めています。
なぜだか、将臣は昔から電車の中が空いていても椅子に座る事の方が少なかった。
意地張って立っている訳でもなく、そうする理由を彼自身理解していならしいですよ、将臣曰くね。
「お兄ちゃんも座ったら?」
「そうだよ、将臣。私達の間に座ればいいのに」
「だったら、お前等が俺の隣に立てよ」
「えぇええぇ、それはいやですねえぇ。何されるかわかりませんものぉ」
私はあからさまに嫌な顔をすると。
「なに、変な想像してんだ。そんな事白昼堂々公然の前で出来るわけねえ」
「じゃあぁ、人がいない処だと将臣お兄ちゃんはそういうことするんですね?」
「そういうことするんですんぇ、将臣はぁ」
「お前らなぁ」
将臣がアホくさって顔で目頭下を親指と人差し指で摘まんだ頃、電車は走り始めました。
電車に乗って二十分くらいで三鷹の杜へ到着しました。
駅のホームから改札口を抜け、外を見ると・・・、思い出すんです。三鷹の杜がどんな場所なのかを。
駅を出てすぐ近くにあるフラワーショップで将臣は両手で抱えるくらいの花束を買って、また黙々と歩き始めました。緩やかな坂道を弥生と私は彼の背中を追う様に歩く。
街の賑わいが徐々に、徐々に離れて行く方へ、私達は向かっていました。
「ねぇ、将臣。私も持つよ」
「弥生も・・・」
「いいって、大丈夫さ。もうどこへ向かっているのかわかっていると思うけど、そっちに着いたら持ってもらうさ」
人通りもほとんどなくなり、車がたまに走りすぎるような処まで登ってくると、大きな門が見え始め、『龍鳳寺』と大きく掲げられたお寺がありました。
私達はその門を潜り抜け中へと入らせてもらう。
入って直ぐの処に水汲み場があって、そこで将臣の足が止まると、もともと三つに分けて包まれていた花束の一つ一つを弥生と私へ手渡し、彼は一束になったそれを肩に担いで、桶二つに一杯に水を入れたそれを器用に持って、墓園内へ歩き始めた。
私は一度だけしか、ここへ来た事がありません。
弥生は勿論ないけど、察しのいい彼女だからここに何しに来たのか理解しているみたい。
将臣は淀みのない足取りへ、目的地へ向かう。
私ははっきりとした場所を覚えていないので彼を見失わない様に弥生と一緒に歩いていた・・・、もう少しゆっくり歩いてほしい。
将臣の歩く速度は遅くない。もしかして、態と?私達をこんな処で迷子にさせようって魂胆?な訳ないか、ここにきてそんな事するほど将臣は厭味性格じゃないと思うから。
「もぉ、将臣、もうちょっとゆっくり歩いてよ。私達、女の子なんだよ」
「そうですよぉ、将臣お兄ちゃん」
「運動馬鹿の二人が何を言っているんだか?まぁ、しゃぁないなぁ。もうすこし・・・、早く歩いてやる」
そんな事口に出した将臣はマジで、今まで以上に歩く速さが上がる。 こっちは向いていないけど、絶対私達を小馬鹿にした笑み浮かべているんだろうなって思いながら、私は小走りし始め、弥生も私に合わせる様にそうなっていました。
そして、急に止まる馬鹿将臣でした。
「何走ってんだ、ここだぜ、俺達の先輩が眠っている墓が並んでいるところは」
将臣が言ったそこには私の記憶にある周りに比べるとかなり格式の高そうなお墓が三つ並んでいました。
でも、どうしてか、私の記憶の背景と若干のずれがあるようでした。
「ふっ、なんだよ、その何か違うって顔・・・、よおぉ~くみろよ。その隣に掘っている墓の名字」
直ぐに認識できなかった。
わかってからは驚く事だけで精いっぱいで頭の中が混乱していました。そんな私へ将臣じゃなくて、弥生が、
「これって、春香おねえちゃんのお墓ですよね、将臣お兄ちゃん、それに柏木さんって方の・・・」
「ああそうだ。俺が頼んだんだよ。柏木さんも春香姉さんもぜってぇ、貴斗さん達と同じ場所に眠りたいんじゃないかって。寺の敷地や契約の関係ですぐにはいかなくてよ。去年になってやっと移せたってわけさ」
「将臣のくせに・・・、こんな・・・、・・・、こんな・・・、嬉しい事してくれちゃうなんて、生意気なんだから・・・」
嬉しいはずなのにそんな言葉で将臣に悪態をついてしまったけど、彼は鼻で笑うだけで怒っている様子ではない。
将臣は精神的にこんなに成長しているのに・・・、私って。
何を思っているのだろう、私は。
今は折角、ずっとこられなかった先輩達のお墓参りに来たのにこんな気持ちじゃ、香澄先輩達、私の事心配しちゃいますよね・・・。
「ほれ、さっさと飾ってやろうぜ」
私は率先して、水洗い場から持ってきた水と将臣が用意していた雑巾で先輩達の墓石の掃除を始めました。
私は初めに香澄さんの墓石から掃除を始めました。
弥生の足は貴斗さんの方へ、向かおうとしていたんですけど、直ぐに、方向を転換して、私の方へやってきた。
「弥生、わざわざ、私に合わせなくたっていいだよ」
「みぃ~ちゃん、独りでやるより、二人で、です」
「お節介なんだから、弥生は・・・」
私の厭味を込めた皮肉に、親友はにっこりとほほ笑んでから、水に浸けていた雑巾を絞り、天辺から拭き始める。
私は彼女の反対から殆ど同じくらいの頃に手がそこへ伸びていた。
香澄さんの石を拭いながら、私は先輩の事を考え始めた。
私が水泳を始めた切っ掛けが、香澄さんと似ている処や、春香お姉ちゃんが事故に巻き込まれる前の振る舞いが、詩織さんではなくて、香澄さんよりだったのか。
以前にも言ったと思うけど、私は金槌を克服したくて、泳ぐ事をちゃんとスクールで学び始めて、その場所で先輩達と出会うことになりました。
最初の頃、私は水につかる事も怖かった。
そんなおどおどしていた私の眼に、懸命に泳ぐ香澄さんが映っていた。
低年齢層は組分けがあいまいで、上手いも、下手も関係なくひと括りにされ泳がされるんです。
ひと月くらい通い続けていたんですが、一向に私は水につかる事を恐れて、いまだに皆の輪に入る事が出来なかったんですよ。
ある日、誰かを追う様に懸命に泳ぐ、香澄さんは私に気が付き、私のサイドへ泳いできました。
水中から、勢いよく姿を見せた先輩は、ゴーグルを外し、声を掛けてくれたんです。
「ねえ、君、水が怖いの?もしかして、金づち?」
おどおど、しながら頷く、私へ、ものすごく明るい笑顔で、
「あたしも、そうだったんだ。はじめは、なんだってこわい。でもね、ちょっとした勇気で見えるものがっずっと変わるんだ。だから、君も一緒に泳ごうよ」
香澄さんはそう言って、私へ手を差し伸べてくれた。
泳ぎを教える先生も、私へずっと手を拱いていた。
でも、先輩のそんな小さな、一言は、先輩の私へ向けてくれた手は、幼く小さな、小さな身体の私には輝いて見えた。
成長した大人の人から見たら、何だその程度で、って思うかもしれないけど、幼少の頃の体験は、大人が思う以上に大きいことなんだと私は思う・・。
それからは、ただ香澄さんについていく事が必死で、無我夢中で泳ぐ事を覚えました。日に日に上達する私を見て喜ぶ、春香お姉ちゃんを見るのも好きでした。
更に一年が過ぎて、同じ年齢では誰にも負けないくらい上手くなるとずっと一つ上の組にいた詩織さんと同じクラスに上がる事が出来たんです。香澄さんと一緒に。でも、直ぐに、詩織さんはまた一つ上のクラスに上がっちゃったんですけどね。
またしばらく、香澄さんと一緒に泳げるんだな、なんて思っていたら、どうして、そこまで頑張るのと思うくらいすごい速さであっという間に詩織さんと肩を並べるくらいまでになっていました。
二人の先輩達とは三年も歳が離れていたので、クラス関係なしに泳ぐ事が出来たのは、私が小学生二年生になるまででした。
それからはひたすら、香澄さんや、詩織さんと同じくらい泳げるようになるんだって事を目標に、いつか、先輩達とオリンピックに出て、誰が世界一になれるのか勝負だって、幼少のころから思ってもいたんです。
ですが、その願いはもう叶いません。
精神的にずっと頑張ってこられたのは香澄さん、もちろん詩織さんもそうですけど、のお陰だったのに・・・、お姉ちゃんが事故に遭って、柏木さんがおかしくなっちゃって、香澄さんが・・・。
香澄さんは悪くなかったのに子供染みていた私は、拗ねた子供よりも陰湿に、香澄さんを嫌っちゃっていたんです。
それが今では許せないし、お姉ちゃんが亡くなってから、仲直りできたのに、これからは春香お姉ちゃんの分まで、先輩と一緒に頑張って未来を進もうと思っていたのに・・・。
「みぃ~ちゃん。泣きたいのはわかるけど・・・」
「なっ、泣いてなんかいないんだからね、勘違いしないで頂戴、弥生」
感傷的になり始めた私は、弥生が言う様に涙を流していたのかもしれない。でも、これはこれで悪いことじゃないと思う。だって、相手事を思うからこそ、感情的になるものだから。どうでもいい、嫌いだって相手にこんな悲しい気持ちなんてならない。
『香澄さん、まだ、目が覚めたばっかりで頭の中がぽやんってしているけど、ちゃんと前を見て、頑張りますから、見守っていてくださいね』
心で、呟き、綺麗にした花活けに弥生と片方ずつ、花を添えた。
次に詩織さんが眠る墓石の掃除を始めた。
香澄さんと知り合ってから同じくらい長い間、うんうん、私が高校入学後からは香澄さんと疎遠になってしまったから、一番長くお付き合いさせてもらった年上の人で、考え方や立ち振る舞いとかの目標だった人。でも、結局、詩織さんに自分を似せる事はどんなに頑張っても出来ませんでしたけどね。
色々な意味で凄いと思っていた先輩。
何でもそつなく熟して、人当たりも良く、非の打ちどころがない本当に素敵な女性だった。
本当に多くの事を平然と普通の人以上に出来てしまうけど、多分、私や春香お姉ちゃん、香澄さん以外は詩織さんが誰よりも努力家だって事を知らないだけだと思う。
その努力の理由が単純でとても純粋なものだった。
貴斗さんに認められたい、褒めてもらいたいとか、兎に角、貴斗さんに対する想いの強さが詩織さんの励みになっていた。
そのような詩織さんの心を知りつつも、私は一時、貴斗さんに惹かれ、そんな彼女と彼の仲に割って入ってお邪魔虫をしてしまっていた。
終には貴斗さんの記憶が戻った事で詩織さんとの恋人関係が白紙化された時、その二人の仲を割こうともしてしまっていた。
今こうして、冷静に考えてみると、恩義のある詩織さんに酷い事をしてしまったのだと悔やんでしまう。
恩を仇で返してしまったみたいであの頃の私がどれだけ、他人の事を考えず我儘だったのか自分を蔑んでしまいそうだけど、それが表情に出ない様に下唇をきっと噛みしめ、一生懸命、詩織さんのお墓を雑巾で磨いた。
詩織さんの貴斗さんへの愛情がどれ程深い物なのか、ずっと二人の傍にいた私はよく知っていました。
春香お姉ちゃんとも香澄さん同等に仲のよかった詩織さんが愛しさ余って憎さなんとやらで、その大事な貴斗さんを春香お姉ちゃんが横恋慕したからと言って詩織さんがお姉ちゃんを殺してまで、貴斗さんを奪い返そう、と策謀を巡らしたなんて、今でも信じる事が出来ません。
あれほど聡明だった詩織さんがそのような物騒な事を考えるなんてとても想像できなかった。
詩織さんならもっと賢く、何とでも出来たはずなのに。
私の知らない誰かが、詩織さんに罪を擦り付ける為に張った罠なんじゃないのかと私はそんな風に感じて仕方がなかった。
詩織さんが春香お姉ちゃんを殺害したという事を私へ教えてくれたのは貴斗さん。でも、彼が私に本当の事を語ってくれたかすら怪しいものです。
詩織さんの眠る場所を綺麗にし終えた私と弥生は花を活け、香澄さんの時の様に両手を合わせ拝む。
『詩織さん、私はこうして、こちらへ戻ってくることができちゃいました。それは詩織さんがこちらへ留まれって彼岸から願ってくれたからだと思っています。だから、今度こそ恩を仇で返す様な事がない様に一生懸命生きていきますよ、だから、見守って下さいね』
「みぃ~~~いちゃん、いつまで拝んでいるのですかぁ。次は貴斗さんのでしょう。はやくっ!」
「貴斗さんは最後。次は柏木さん、それとお姉ちゃん」
私はそう言って、桶を持ち柏木さんのお墓の方へ移動していた。
柏木さんと、お姉ちゃんのお墓は移してきたばかりだって事で綺麗だった。でも、汚れがないからって、手を抜くつもりはない。
なんだかんだと言っても、春香お姉ちゃんの初恋の人で、正真正銘初めてのお姉ちゃんの恋人だった人だから、手を抜くだなんて出来ないよ。
春香お姉ちゃんのあの日記の中には柏木さんをどうして好きになったのか、念願叶って、恋人に成り、その後の日々の心境や、その時の思いがいっぱい綴られていました。
書かれていた内容は良い事ばかりじゃないですけどね。
それでも、お姉ちゃんが彼の事を好きだったこと、彼に愛をこめていた事は嘘じゃない。
三年後の不完全な目覚めからも、ちゃんと記憶の食い違い異常が治った後でもそれは変わっていなかったんです。
まあ、最終的には柏木さんの優柔不断な性格と貴斗さんの存在の所為で、私のお義兄さん候補から脱落してしまったんですけど・・・。ただ、お姉ちゃんのあの事故がその後が柏木さんの人生を大きく変えてしまった事は間違いないんです。
柏木さんがお姉ちゃんの目覚めをずっと待ち続ける強い心があったなら、今私のいるこの場所にこうして眠る事もなかったかもしれない、なんて思うのは彼がどうして、春香お姉ちゃんの事故で彼自身が精神衰弱してしまったのか知らないから言える訳で在って知っていたらこんな考えが起きる筈もないですね。
でも、どうしてだろう。柏木さんはお姉ちゃんが目覚める日を待ち続ける事が出来なかったのは?
何故、春香お姉ちゃんの事故位であんな風になるまで精神が擦り減ってしまうような事態になってしまったのは?
どうしてか、お姉ちゃんの事故だけが原因じゃないような気もするけど、それを推理できるほどの頭を私は持っていないので考えない事にします。
うぅ~~~ん、八神さん、そこいらの事情を知っているのでしょうか?今度お会いできる機会があって、覚えていたら聞いてみようかな?
ああだ、こうだ、柏木さんの事を考えている裡に別の意思を持っていてくれた私の良い子な両手君は自動的にその人のお墓を掃除していたのでした。
弥生と柏木さんの墓前に並び、両手を合わせて拝む。
『春香お姉ちゃんに再び、巡り合える時が来たら、今度は振られないように注意しちゃってくださいね』
そんな事を心の中で私の知らない世界に旅立ってしまった柏木さんへ言い伝えたのでした。さてと、お次はお姉ちゃんのお墓。
ちゃちゃっとやって早く、貴斗さんのそれをお掃除して綺麗にして上げよ、っと。
同じ血が流れている姉妹だからって、好きになる異性の好みが一緒とは限らない。でも、私も、春香お姉ちゃんも貴斗さんを好きになってしまった。
私にとって初恋の人。
お姉ちゃんにとっては柏木さんと別れてまで愛したいと思った人。
よく、初恋は叶わないって風潮があるけど、私にも該当し、春香お姉ちゃんも柏木さんと別れてしまったようにそうでした。
春香お姉ちゃんが亡くなって、葬儀の時に貴斗さんからお姉ちゃんとのお付き合いの事を聞かされた時にその事を私にずっと隠していたお姉ちゃんに寸刻、憤慨したけど、お姉ちゃんも葛藤の中で貴斗さんを選んだことをあの日記で知って凄く、短い間だったけど、私の事を含めて、辛い思いをしていたんだなと思うと、その事を考えると胸が痛くなってしまう。それは今にも、泣いてしまう位に。
私が悔やんだってどうしようもないのに、どうして、こんな結末になっちゃったんだろう。
大好きだった春香お姉ちゃんの笑顔を思い出すと、そのお姉ちゃんのもう有り得ない未来を想像してしまうと・・・。
「みぃ~ちゃん、まだ辛いんですね。春香お姉ちゃんの事を思い出すと・・・、いいですよ。泣いたって私達の前では・・・。将臣お兄ちゃん、お兄ちゃんが自分の事を繊細だなんて思っているのなら、こういう時はみぃ~~ちゃんの気持ちを察してあげて胸を貸してあげる事が恋人として大事だと思うんですけどぉ~、弥生は」
親友のその言葉を聞かないと、私が、今泣いている事すら気がつかなかった。
どんなに頑張っても、どれ程、人差し指に表で拭っても、それは止まってくれませんでした。
「ばぁ~~~ろっ、此奴がそんな珠かよ。本当に翠がそうしたいなら、何も言わずに行動してるってぇの」
「弥生の言う通りよ、私だって女の子なんだから、そんな処に突っ立ってないで・・・」
「なんだよ、何だよ。翠らしからぬこと抜かしやがって。はぁ、六年眠っていた裡に、少しばかり、しおらしくなったか?」
将臣は私の事を小馬鹿にしながらも、歩み寄ってくれて、私が知っている高校三年の末頃より、少し身長が伸びている彼の胸に私は縋り、静かに泣いた、止んでくれるまで。
今の将臣は雰囲気があの人に何となく似ていた。
年上の人の安心感と包容力の様な物を彼から感じてしまった。
すごく気に食わないけど、将臣の胸の中でこんなにも安堵感を覚えてしまうなんて、不覚すぎます。
絶対にこんな気持ち彼に知られる訳にはいきません・・・。
私はその負心を消し去るように縋っている将臣の服を、ギュっ、と掴んで、少しばかり彼に体重を掛けてしまっていた。でも、将臣は点で動じていなかった。ただ、何も言わず、優しく包んでくれる。
こんな私達の姿を弥生は穏やかな表情で観察している。
私こんなに涙脆くなかった筈なのに大好きな先輩達が居なくなってしまった事は私をこんなにも弱くさせてしまう。
それほど、私の心のウエイトをあの人達は占めていた。
将臣や弥生が居るじゃない。そう思うのは贅沢だって事を言わないでよね。
生前の貴斗さんが言っていましたけど、『誰かが、まったく同様に誰かの代わりになるなんて出来るはずがない。個人の性格を表面で真似る事は出来ても、その存在感まではどんなに頑張っても不可能だ』って。でも、どうしたらこの喪失感を埋める事が出来るのでしょうか?ふぅ。
「落ち着いたようだな、翠。それじゃ、最後も済ましてしまおうぜ」
将臣は冷静な笑みでそう私に云うと私から距離を置き、貴斗さんの墓を顎で指していました。
私もちゃんと持っていましたけど、弥生が彼女のハンカチを私へ、差し出してくれた。彼女がしてくれた折角の厚意を拒絶したくなかった。
だから、素直にそれを受け取り、よれよれになっている私の涙が伝っていた処を拭い、冗談で最後に鼻を噛む仕草をして見せた。
「みぃ~ちゃん、見え透いた冗談」
彼女はおどけながら、私へ近づき、私の鼻の頭に掛けていた彼女のハンカチをするりととり、丁寧に畳んでポケットにしまっていました。
弥生は私に背を向け、貴斗さんの墓石へ歩みだす。
私より先に貴斗さんのそれを触れるなんて許せないから、彼女を追い越すように歩みだし、移動と一緒に桶と雑巾を持つと彼女よりも先に、貴斗さんのお墓の前に立った。
最も謎多き人物である藤原貴斗さん。
私は貴斗さんが何故、アメリカに留学していたのかも、記憶喪失になったのかも、記憶が戻ってからも多くを語ってくれなかったので、どうして、詩織さんと別れてまで春香お姉ちゃんを選んだのかも、まあ、色々と謎が多すぎて、亡くなっても未だに意識してしまう私の初恋の人。
お姉ちゃんの日記には貴斗さんとお付き合いしてからの事が暫く書いてあって、彼がどのような心でお姉ちゃんに接していたかも結構細かく書いてありました。でも、それはお姉ちゃんから見た、貴斗さんで在って、彼が本当はどのような気持ちでお姉ちゃんと接していたかは彼以外知る由もありません。
本当に貴斗さんはどの様な気持ちで春香お姉ちゃんとお付き合いしていたのでしょうか?あれほど、大切にしていた詩織さんを切り捨ててまで。
貴斗さんは非情な人でも、割り切りな人でもなく、一途に誰かを愛するような人に思えたのに。
何がどうして、詩織さんとの歯車が噛み合わなくなってしまったのだろう?
もう、本当に、どうしようもなく、不思議でしょうがない。
知りたい。貴斗さんが、詩織さんと別れてまで、私のお姉ちゃんを選んだ理由を。どうして、私や弥生、それと私達が知らない人じゃ駄目だったのかを。
その理由を知りたい・・・。
詩織さんや香澄さん達と同じくらい頑張って、貴斗さんのお墓を綺麗にして、最後に弥生と一緒に片方ずつ買って来た花束を活け、彼方に居る彼へ挨拶の言葉を向けていました。
まだ焚いていなかったお線香に火を点し、三等分して、弥生と将臣に渡した。
香炉へ全員に均等に置ける様に考えながら右のお姉ちゃんから順に、柏木さん、貴斗さん、詩織さん、香澄さんへ煙立つ香を添える。
藤原家の墓石が中央にあるのでそこを基点として最後にもう一度、先輩達の冥福を祈るように黙祷した。
『また、ここへ来れるように、私がこれからもくじけない様に、皆さん、私を見守ってください』
そんな事を心で呟き、拝み終わると閉じていた瞼を上げ、青天の空を眺めていました。
龍鳳寺の帰り際に将臣が、来月のゴールデン・ウィークに八神さん達とキャンプに行く計画になっているのだと教えてくれました。
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