第二話 流れる月日の

 将臣は毎日の様に私の見舞いに来てくれていました。

 まるでその行為は私が春香お姉ちゃんにしていたそれと似ていた。

 まあ、私はその期間色々複雑な気持ちに苛まされちゃって将臣の様に純粋にお見舞いで来た訳じゃないですけど。

 勿論、将臣がどんな思いで、私と弥生のいるこの病室へ足を運んでくれているのかなんて分って上げられる筈ないです。でも、彼のその厚意は本当に嬉しかった。

 今すぐにでも目を覚まして、彼に抱きついていっぱい涙流して、感謝の気持ちを伝えたかった。だけど、体は動かないし、重たい瞼を動かすことはできなかった。

 まあ、私は将臣に対して天の邪鬼な方だから今思ったようなことを実際するかどうか知らないけどね。


2005年12月21日、水曜日

 将臣は私達の所へ、いつも見舞いに来てくれる時間より、やや遅めに姿を現しました。

 どんな気持ちで、どんな態度で、どんな表情で私や弥生に話しかけてくれるのか分かってあげられないけど、彼は、

「今日、日本ボクシングコミッションからプロ合格通知が届いたぜ。お前や弥生がこんなんじゃなくて、貴斗さんや藤宮さんが・・・、生きていたら三人で聖大に進学して・・・、でも、しょうがないよな、これじゃ」

 彼はそこで言葉を一旦止めて、弥生の頭を軽く叩き、私の額にかかる髪を軽く手で寄せ、前髪の生え際あたりを数回撫でその手をそこから離さずに、独り言を続ける。

「どれだけの歳月をかけなくちゃならないのか分からないけど、翠、お前が春香さんへあの時ああしたように、俺はこの拳で勝ち続けてやる・・・」

 左利きの将臣は私の額辺りに移動していたその手を上げ、誓う様に強く握りしめているようだった。その決意はとても固そう。

「はぁ、弥生もいるから一筋縄じゃいきそうもないな・・・」

 小さな溜め息と一緒に自嘲気味にそう言い、弥生の方へ振り返る将臣。

 それから、彼が腕時計に目を移した時、彼以外の誰かが私達の病室へ入って来た。

「ふぅん・・・、翔子さん、こんばんは」

 初めに口にしそうになった言葉を無理やり呑み込み、来訪者の名を言う将臣へ、窘める様な表情、穏やかな口調で、先生は声を掛ける。

「フフッ、初めに何をお口になさろうとしたのですか、結城将臣君」

 今現在、私達の担任である藤原翔子さん。貴斗さんのお姉様は学校以外では先生と敬称付きで呼ばれる事が好きじゃないみたいです。

 それでどちらかというと名字で呼ばれるよりも名前で呼ばれるほうを好んでいるようだった。だから、今、普段街中でよりも学校で顔を合わせる機会が多く、定着している言い方、将臣が口から出してしまいそうになった藤原先生って言ってしまうと、翔子さんは笑顔でお咎めの言葉するんですよ。

 私のお友達談だけど下手をすると学業のお説教まで頂いてしまうらしい。そして、今回の私の彼はセーフじゃないようですね。弥生と私のいるこの病室で三十分近く、小言を聞かされた様でした。

 翔子さんの小言を何とか止めようと将臣。

「プロボクシングの合格通知が届いたんです。ぼっ、ぼく、じゃなくて俺にはもう、不必要な分野の学業を身に付けるのは無駄です。それでも翔子さんの授業は頑張りますから勘弁してくださいよ・・・」

 かなり小柄な方の翔子さんは瞳を閉じたお冠の表情のまま軽く双肩を上げ下げすると、小さく息を吐いて、穏やかな表情に戻し、瞼を挙げたのでした。

「学生は学業だけが本分と言います考えではわたくしもありませんが・・・、将臣君以外の生徒は就職や他校への進学のために頑張っているのですよ。そのような皆様たちへちゃんとした配慮をして下さるなら本日のところは・・・」

「ういっす・・・、・・・、・・・、翔子さん、俺、トレーニングに戻るんで後のこと宜しくお願いします。俺が翠や弥生の体をぬぐってやったりしたら・・・、こいつらが目覚めた時が怖いんで・・・」

 将臣の言葉に返さず、微笑むだけの翔子さん。

「翔子さんだってホントマジデ忙しいのにこんな事をお願いして済みません」

「気にしなくてよろしいのよ。結城家の事情も、涼崎家の事情も・・・、よく知っておりますもの。自己をお鍛えする事に無理をしないで下さいと言います言葉は変ですが、無理を為さらぬよう、重々気を付けてください。体調管理はしっかりと、わたくし、翔子の手助けができる事があれば遠慮せずお申しください」

「先生に、ほいほいかんたんに物なんて頼める訳がないでしょう」

 最後に爆弾を踏んでしまった将臣は翔子さんにきつい目を向けられ、逃げるように病室から出て行った。

 居なくなってしまった将臣の方を見続けながら困った顔をしながらまたため息を吐く翔子さん。でも、翔子さんは一体パパやママの結城兄妹のパパさんの何を知っているというのだろう。え?弥生と将臣のママさんはって?

 事情は知らないけど、小学校からの付き合いの二人だけど、私の記憶の中には一切ない。覚えていないだけなのかもしれない。

 そこら辺の事は多分そのうち、将臣か弥生か、他の誰かが教えてくれるんじゃないかな・・・。

 まあ、それより将臣は覚醒しない私達の身体のお掃除を翔子さんに任せちゃっていた。

 彼は私の恋人なんだから気にしないで遣っちゃってくれてもいいのに・・・、何て絶対ない無い。

 実際私は眠ったままだから外界で何が起こっているのか、目の前がどんな様子なのかなんて分る筈ないけど、私が目を覚ました時、将臣がそんな事をしている途中だったら100%大声出して、全力で殴り飛ばしているに違いないです。うん、間違いなく違わない。

 弥生なんかは、『弥生、将臣お兄ちゃんに一生、お嫁に行けない体にされちゃいましたぁ』とか泣き叫ぶだろうな・・・。

 翔子さんはゆっくりと時間をかけて私と弥生の体を丁寧に拭ってくれる。伸びた爪も綺麗に切りそろえてくれる。

「今日はこれでおしまいです。毎日、お見舞いに来て差し上げたく思うのですが、翠ちゃん、弥生ちゃん。私が参じる事ができません時は必ず、代理を遣しますし、心友の京ちゃんにもお願いしておりますから・・・、それでは失礼いたします」

 翔子さんは入口で立つと私達へ微笑んでからいなくなる。


2006年4月15日、土曜日

 夕方五時過ぎごろ、毎日、お見舞いに来てくれている将臣と入れ替わるように葵ママが来てくれた。二人は簡単な挨拶だけで擦れ違う。

 私の方へ歩み寄るママは少し身を屈め、腕を私の方へ伸ばしていた。

 その先端、ママの手が私の左ほほへ静かに寄せられる。それから直ぐに葵ママは親指で優しく私の頬をなでてくれていた。

 その時、ママがどんな感情でどんな顔を作っていたのか知らないけど、春香お姉ちゃんの時を思えば、糸目がちでいつも穏やかそうな笑みを絶やさないママでも、今はそうじゃないのかもしれない。

 だって、今はもう春香お姉ちゃんは・・・、現実にいないし、私がこんな状態なんだもん、ママ、つらい気持ちを抱えていないはずがないです。

 今の私に葵ママを安心させてあげられる言葉も、行動も示せなかった。

 ただ、暗闇の迷路、出口の見えない無限回廊を彷徨っているだけです。

 ママはポツリポツリと世間話を私達へ語りかけ、十四、五分くらいそうすると、いったん病室を空け、数分くらいで戻ってきてから、弥生と私の介護を始めてくれた。

 翔子さんや看護婦さん達とはまた違うママの手。

 ママの手が弥生や私の体を綺麗に拭ってくれる。

 ママやみんなの介抱をとても感謝しているけど、本当の私は何も感じる事が出来ないから、いつか私が目を覚ました時にその厚意に何も言葉を返してあげられない。

 とてもそれは寂しいこと。

 喧嘩別れしたまま、逝ってしまった春香お姉ちゃん、お姉ちゃんが今の私みたいに寝たきりだった頃、喜怒哀楽色々な感情を表に出しながら私は春香お姉ちゃんの看護をしていた。

 お姉ちゃんもこんな私と同じように外界の様子なんて感じ取れなかったと思うけど、事実どうだったのかな?だけど、今となっては、私は眠り何ちゃらだし、春香お姉ちゃんはもう・・・、翠の手の届かない所へ逝っちゃったし聞く事はできない。

 私も向こう岸へ渡れば・・・、思考が悪い方へ流れそう。

 でも、ホントの処、表層意識もなく唯寝ているだけの私に生と死を別つ選択肢を選ぶ権限なんてあるはずなかった。

 いつの間にかに葵ママは私達の病室からいなくなっていた。

 まるで、基からこの場所には弥生と私しかいなかったみたいに、初めから何も変化していなかった風な感じがこの簡素な病室内を埋めていた。



2007年2月17日、土曜日

 日の沈みが早い冬。陽が水平線より下へ降りてから一時間くらい過ぎてから、トレーニング姿の将臣がお見舞いに来てくれた。

 ランニングの途中で寄ってくれたのか、タオルで拭う汗がまだ止まらないようだった。

「やっぱこんなんじゃ、翠も弥生も嫌だろうな・・・。シャワー借りてくる」

 彼はそう言って直ぐに席を外した。

 それから二十分くらいでサッパリして気持ちいいって感じの顔で戻ってきた。

 ベッドとベッドの間、弥生と私の間にパイプ椅子を広げ、私達の様子を窺う将臣。

 視線を私とも弥生とも合わせず、香染色のリノリウムに向ける。

「明日から新人王者決定戦が始まるんだ。四回戦って予定みたいだな。今日まで負けなし、KO勝ち。俺って凄いだろう・・・、フッ」

 自画自賛する将臣はなぜか自嘲気味に笑ってからまた私達へ語りかけた。

「明日も絶対勝ちにいく、もちろん、判定やテクニカル・ノックアウトじゃなく、ノックアウトで・・・、俺は絶対に負けない。お前等が目覚めてくれるまでは・・・、それが何時になるか分からなくても、相手がどんなヒールな奴だって怯まないぜ」

 いつの頃からだろう、将臣は、将臣の一人称を〟僕〝から〟俺〝と口にする様になったのは?

 それは私達、翠と弥生がこんな状態になってしまったため?

 それともただの気紛れかな?

 或いは此奴が自分で口にするくらい理想なんだって言う・・・、貴斗さんに近づくため?

 兎に角、どんな心境の変化が、将臣の奴にあったったのか理解してあげられないけど、彼の今の一人称は〟俺〝だという。

 将臣は両手を強く握りしめ拳を作ってから、それを開き掌で両頬を叩き、気合いを入れるそぶりを見せていた。それから、弥生を見てから私を眺める将臣は、

「ぅん?なんだ、お前、少し身長伸びたのか?ここは低くなっているようにも見えるけどな」

 将臣は若干顔をにやけさせながら、私の胸を突こうとしたその瞬間。

「こらっ、将臣君っ!翠ちゃんが気付かないからと言いまして、その様な行為をするモノではありませんわ、破廉恥です」

「しょっ、しょうこせぇ、いや、翔子さん。俺は何も疾しいことなんて」

「どうしてでございましょう、将臣君のお声が狼狽して私の耳にお届きしますのわ?」

 翔子さんは将臣を咎めるような表情、くの字に腕を曲げ、腰に当てる姿勢で追及する。

 そんな翔子さんに将臣はたじたじして、苦笑いをする。

 反省の色を示さない将臣へ翔子さんは大きな溜息をついてみせる。

「将臣君、明日は大切な試合が有るのでしょう?お二人のお見舞いにきたいといいますお気持ちはご察しいたしますが」

「わかっていますよ。今日はちょっと顔見に来ただけですから、もう帰ります。まだ、トレーニングの途中だし」

 将臣は翔子さんの言葉を遮り、そんな風に返すと、パイプ椅子を片付けここを出て行こうとした。

「無理は禁物です。明日の試合のために体調管理は万全を期してお望みします事をわたくし翔子は強く願います」

「了解です。それじゃ、帰りますけど、俺みたいなガキに対しても翔子さんその丁寧口調何とかならないんですか?調子狂っちゃいますよ」

「駄目ですわ、これが私の性分でございますから・・・、フフ」

 二人は二人が掛け合った言葉に小さな笑みを乗せながら、別れて行く。

 先生は行く、将臣の背中を視界から無くなるまで見続けてから、私達の方へ体を向け、私達の様子を眺めていた。

「お二人とも、暫くご無沙汰しておりまして大変申し訳なく思います。今、お体を綺麗にします準備をしてまいりますので、少々お時間を頂かせて貰います」

 翔子さんは言葉の締めと共に微笑み病室を立ち去った。

 桃色の大きめな洗面器にぬるま湯と二本のタオルを持って翔子さんは戻ってきてくれました。

 タオルを湯に浸け、今回は弥生から身体を拭き始めた。

 翔子さんは私達の体の垢を拭ってくれている間、先生の仕事奮闘記のようなお話を聞かせてくれる。

 どのような内容かって?何でも出来てしまいそうに見える翔子さんとは思えないほどの突っ込み所満載の面白い内容でした。

 他の人には内緒ですよって言うから残念ながら先生が私達へ語ってくれた事を公表する訳にはいきません、ごめんしてくださいね。

2008年4月29日、火曜日

 若し、弥生や私がちゃんとしている状態だったらもう大学の四回生。

 私達二人は就職なんかの事を考えて、あたふたしているのだろうか、それとも競泳の世界で栄冠を掴むために遮二無二に泳ぐ練習だけしているのかな。でも、覚醒できないこんな私達には現実を思う事は虚構と同じ・・・。

 それじゃ、現実の世界で私達の目覚めを待ってくれている私の彼、結城将臣はというと。

 彼が私達の病室に何時頃に訪れたのか知ることはできない、でも会話の内容から、大凡は特定できそう。

「よっ、翠、弥生。遅くなってすまないな。調川先生にはあと三十分って釘刺されちまった。今日は翔子先生と翠ん所の葵おばさんがきてくれたんだって?」

 将臣はそう語りかけながら、弥生と私のベッドの空間にお折りたたみ椅子を開き、座った。弥生の頭を軽く撫でながら、私の方へ顔を向ける。

「三ヶ月後、新人王者決定戦最後の試合。今まで勝ち続けてきたんだ、最後だってどんなに打たれ倒されても、立ち上がって、勝ってみせるよ。そして、その次は日本タイトルマッチだ・・・、練習でどんなに時間をとられても、見舞いに来てやるから、安心しな」

 私の彼氏は鼻で笑い大柄な事を口にしていた。だけど、その時の将臣の瞳は疲れを感じているようだった。

 私が春香お姉ちゃんのお見舞いに来ていた頃は学校の友達も多く、将臣も弥生もいたし、私を精神的に大きく支えてくれた人、貴斗さんと詩織さんがいた。だから、どんなに辛くても、毎日頑張ってこられた。

 でも、今の将臣はどうなの?私だけじゃなく、一卵双生児じゃないけど、弥生までこんな状態で、将臣は大丈夫なの?

 無覚醒でも私の事を想ってくれるのは凄く嬉しい。

 でも、私は彼をこんな状態の私のために束縛したくなかったし、他の誰かと付き合い始めたって文句なんか言わない。

 軽く指先を交差させて、膝の上に置き、どことも視線を合わせないぼんやりとした眼で将臣は座っていた。

 春香お姉ちゃんが目を覚まさない状況で精神的にまいってしまった柏木宏之さんを支えようと頑張っていた香澄さんの気持ちを理解してあげられず、子供染みた感情で意地張って大事な先輩を突っぱねてしまった私。

 意識なんてないはずの私だけど今ならはっきりと先輩の気持ちが理解できそう。

 だけど、その大事な香澄さんももう、同じ時間軸には存在していない。

 もう、謝りたくても、謝れない。本当は詩織さんと一緒に香澄さんにも甘えたかったのにもう二人は居なくなってしまった・・・。

 将臣は椅子から立ち上がり、それを畳む。

「二人ともじゃましたな、また練習の続きをしなくちゃんらないから帰るよ。制限時間も来てしまったし・・・、また来る」

 将臣はそんな風に言い残して、病室を後にした。

 今の将臣に新しい彼女ができた雰囲気は感じられない。

 弥生は以前私に繊細だからって口にしていた。本当に繊細なら、お姉ちゃんの時の柏木さんのようになってもおかしくないと思う。

 将臣はそんな風には見えなかった。それじゃ、一体誰が、一体何が、将臣の心を支えてくれているの?まさおみ・・・。


2008年7月23日、水曜日

 今日は私が眠ったままで四度目の誕生日を迎えていた。

 弥生は名前の通り、三月生まれだから、同じ年齢になるのは来年。説明なんて必要ないけど、将臣も。

 毎年、意識なんて無い私へお祝いの言葉をくれたのは将臣、葵ママ、それと翔子さんだった。

 毎年ママは私が好きなポップ・ミュージシャンのCDアルバムを買ってそれをプレゼントしてくれていた。その厚意は嬉しいことなのにママは、『ごめんなさい、翠、このようなものしかプレゼントできませんで。翠はあまり蒐集するものがないから何を買ってあげてよいか分からなくて、だめな母親ですね、わたくし。何でも買い与えれば喜ぶ歳でもありませんでしょうし、翠に似合うお洋服や小物を買って差し上げたいのですが、気に入ってくれませんでしたら嫌ですし・・・』と言葉を漏らしていた。

 そんなママに有難うって感謝の言葉を伝えたいのに今の私にはその手段がない。

 葵ママはこうして、私が眠り続けた状態でも、毎年、春香お姉ちゃんの時と同じようにお祝いをしてくれた・・・、でも、パパは。

 いつから、秋人パパは祝ってくれなくなったのだろう・・・。

 思い返すのは簡単、それはお姉ちゃんが倒れてからずっとだった。

 あの日から、ずっとパパは私のことも春香お姉ちゃんのお誕生日も一緒に祝ってくれる事はなくなってしまった。

 秋人パパの考えている事は全然わからないけど・・・、どうしてなのだろう。

 いつの日にか、パパの気持ちを分かってあげられるのかな、私は・・・、でも、その前に私は目を覚ますことが出来るのでしょうか?

 ママが誕生日のお祝いと体の介護をしてくれてから帰り、一時間弱過ぎた頃に、翔子さんが来てくれました。私の知らない人を一人連れて。

「翠ちゃん、二二歳の誕生日おめでとうございます。貴女の好きなものを知っておりましたらプレゼントして持って来て差し上げるのですが、今年もこれで許して下さいませ」

 翔子さんはそう言って両手で抱えていた高そうな花がつまったドライフラワーバスケットを簡易棚の上に優しく置いてから、私の傍へ寄り、

「だいぶお伸びになりましたね。今日は私のスタイリストのお友達をお連れしましたのでプレゼントの代わりに切らせていただきます」

 そう私へ語りかけながら慈しむ様に髪を撫でてくれました。

「私の知っていた貴女の最後を見た時はショートカットでしたが、今の翠ちゃんの年齢とお顔立ちにお似合いしますように切って戴きますので、良しなに。それではえっちゃん、お願いいたします。ああそうです、無論、調川先生には弥生ちゃんの時と同様ここで許可をいただいています」

「本人の意見が聞けないから、気にいってもらえるかどうか分かりませんけど、ショウちゃんの期待にできるだけこたえるように頑張るよ」

「もう、何をお言いになるのですか、エッちゃん。仮にも美容界で名を馳せています貴女のお言葉ではありませんわ」

「はいはい、そうですね」

 翔子さんにエッちゃんと呼ばれた人は呆れた風な表情を翔子さんへ向けながら、私のベッドの傾きを変え、手際よく理髪の準備に移っていました。

 エッちゃん、本名、並木恵理さんが私の首にタオルを巻き、散発用エプロンを私にまいた頃、翔子さんは弥生と私が均等に見えるくらいの位置で椅子に腰掛け、話しかけてくれる。

「翠ちゃん、弥生ちゃん、貴女方は今何がほしいのでしょう・・・。ふぅ、答えは分かっていますのに、今すぐにでもお目覚めしたいのでしょう・・・。わたくしが私のお母様の様に医療研究の道に進んでいましたら、或いはお救いすることもできたのでしょうか?もしものお話をしても仕方がないのでしょうけど・・・」

 それから翔子さんの話は日常奮闘記が語られ、時折、恵理さんが突っ込みを入れる。

 櫛で私の髪を梳く小さな音、素早く単調な音を刻む、恵理さんの鋏を捌く音、それと翔子さんの語り声。

 現実の時はちゃんと進み、弥生も私の身体の生態維持の為の成長(活動)もそれに従っていた。でも、私達二人の思い出は時間の流れに乗れていない。

 私達の様な境遇、事故後、覚醒できない状態が続く人ってお話の中だけじゃない。

 そんな人達が何年もの隔たりから目を覚ました時、何を思うのだろう?

 あの時の春香お姉ちゃんの様に時間の流れに逆らって過去にとらわれちゃうのかな?それとも何も感じないのかな?

 時間が過ぎたことを受け入れられるのかな?

 私、翠はどうなのだろう?弥生は・・・。

 なにもお礼を返してくれない私なんかの為に翔子さんはスタイリストを呼んでくれて、ただ髪を整えてくれるだけじゃなく、切り終わった後は院内の浴室まで恵理さんと一緒に私を運んでくれて、そこで頭まで洗ってくれて最後まで美容院でやってくれること全部してくれた。

 浴室は介護用の為、大きく作られていた。浴槽も一人では大きすぎるくらい。

 そんな中、私は二人の年上の女の人と一緒に入り、頭だけじゃなく全身、洗ってもらっていた。

 浴槽に浸る私は私より、背の低い翔子さんに抱かれる状態で眠っているだけでした。

 時間が経ち、私は又、病室のベッドへと戻される。

「翠ちゃん、お疲れさま、でした。エッちゃんも、ご苦労様です。翠ちゃんこのようなことしか今の私にはして差し上げられませんが・・・、貴女がお目覚めになった時に気に入って下さるとうれしいです」

「それは、私も同感だよ、ショウちゃん」

「翠ちゃんのこの髪形を維持してあげたいですから、またお伸びしましたら、よろしくお願いいたしますわね、エッちゃん」

「親友の頼みだから仕方があるまい。ちゃんと料金は貰うけど、フフ」

「お友達でしたからといいまして、その所の分別はちゃんとつけております。ですから、その様な事を教え子の前でお口にしていただきたくないものです、もぉ」

「はははっ、ごめんごめん。遊びでいったつもりなんだけどな」

 恵理さんは朗らかに笑い翔子さんにへ言葉を返していた。

「弥生ちゃん、翠ちゃんそれではまた時間が出来次第、お見舞いに参らせていただきます。エッちゃん、参りましょう」

 翔子さんは別れの言葉を私達へ届かせると恵理さんとこの病室を後にしました。

 四年間伸びっ放しだった私の髪が綺麗に整えられていた。でも、今の私にはどんなふうに切ってくれたのか知ることはできない。

 こんな風に翔子さんが世話を焼いてくれるのは私だけじゃなく、弥生にもだった。

 弥生は今年の三月に同じように髪を切ってもらっていた。

 どんなふうにかは想像できないけど。

 翔子さんはちゃんとどっちかに偏るのではなく、私達を隔てなく見てくれている。

 そのような翔子さんへ感謝の一つもいえないなんて、とても悔しいです。


2009年10月16日、日曜日

 私達が眠ったままの状態で、何年目の秋を迎えた頃なのかな?私の事なんかどうでもよくなっちゃってお見舞いなんか絶対来てくれないんだって思い込んでいた、秋人パパが何冊かの書籍をもって姿を見せたのです。

 涼しい瞳、冷静な態度で私を穏やかに見つめるパパ。

 秋人パパは静かに椅子に座ると右手で私の左手を包んでくれて、優しく、翔子さんの親友、恵理さんが整え直してくれた髪をなでてくれた。

「まったく、翠、お前は本当にねぼすけでしようがありませんね。私も、葵も、翠を知る皆がお前の目覚めを、今か、今かと待っているというのに・・・。翠が起きないから、弥生君だって友達想いで待ってくれているというのに・・・。ですから、早くお目覚めしなさい。そうしたら、また家族で翠が好きそうな処へお食事に出かけましょう。無論、将臣君も弥生君もご一緒に・・・。私が次に来る時までにこの雑誌を読んで決めておきなさい、翠が行きたい場所へ・・・」

 パパの語りが終わる。

 私に触れていたパパの両手が私から離れて行く。

 立ち上がったパパは弥生の方を振り返り、申し訳なさそうな雰囲気をだすと、軽く頭を下げた。

「弥生君、翠の我が儘のせいで貴女まで巻き込んでしまい。翠が起きたらしっかりとお灸をすえますのでその時は翠を許してやってくれると助かります」

 ちゃらりと秋人パパはそんな謝罪を弥生に伝えていました。

 で・す・がぁ、どっちかっていうとこんな状況になってしまったのはアンポンタンな弥生の所為・・・、っていってしまうと私には何の罪もなく聞こえてしまう。でも、事実は私の判断が甘かった事が原因。

 弥生との関係が崩れたって嘘言って詩織さん達の事を隠しておけばよかったんです。

 近い将来、その嘘がばれたってこんな状況に追い込まれなかったかもしれません。だけど、こんな考え方は意味無いです。

 すべてがもう、変える事の出来ない若しもと言う唯の虚構だからです。


2010年9月27日、月曜日

 病院の面会時間はもうとうに過ぎていました。

 午後、十一時二十八分。

 私達の病室の扉が近隣の病室への迷惑を考えず勢いよく開かれました。

 個人病棟で両隣との距離も防音設備も振動対策も確りしている造りらしいから、他の患者さんたちへ迷惑をかける事はありません。

 大きな引き戸式のそれを豪快に開けた本人が嬉しそうに大きな声で、

「やったぜっ、翠、弥生。世界チャンプっ!!俺、世界チャンプになったんだぜ。しかも、今まで日本人では取れなかったウェルターっていう階級でだ。凄いだろうっ!」

 上機嫌な表情で将臣はそう私達へ語りかけながら、弥生と私の顔を交互に見ていました。

 彼に何も返してあげられない私達。将臣が此処へ来るまで持っていた優勝醒めやらない熱気が急速に落ち、がっくりと肩を下げる彼。

「くっ、これだけ、頑張っているというのに、まだ、俺の頑張りは足らないって言うのか?どうして、翠も、弥生も、何も言ってくれないんだ・・・。なぜだよっ・・・」

 悔しそうに、床に跪き、その床に将臣の額が着くか、着かないかくらいに頭を下げていました。強く歯を食い縛る。

 小さく呻いているようだけど、涙を流している風ではないみたいです。

 私が三年目の夏で、競泳の全国大会で優勝した時に、私の願掛けが叶ったのか、他の要因でそうなったのか知らないけど、春香お姉ちゃんは長い眠りから目を覚ましてくれました。

 その時の私が一番になったのは日本という国内での事です。でも、今回、将臣が報せに来てくれた彼の偉業は世界一。しかも、日本人前人未到の快挙と言う物です。

 そんなすごい大業を私達の為に頑張って勝ち取ってくれたのに弥生も私も、彼に対して何一つ言ってあげる事ができません。

 将臣が私達の為にこんなに一生懸命、必死になってくれているのに私達は彼に何も答えてあげられない。

 でも、私達は現実を知ることもできなし、将臣がそんな風に躍起になっている事だって知らない。

 この大きな隔たり、隙間を埋めるすべは私達にはないんです。

 私の将臣へ向ける好きという気持ちはあの時、私が大きなトラックに撥ね飛ばされた時と変わらない。

 その時からずっと止まったまま。

 将臣はどうなの、今でも私の事を好きでいてくれているから、私の為、何時も意地悪ばかりしていたけど、本当はすごく大切に思っていた、弥生の為に頑張ってくれているの?

 それとも他に理由があって・・・。

 私が春香お姉ちゃんの為に水泳を頑張ることを誓ったあの頃、初めは本当にその積りだった。

 でも、途中からそれ以外の要素が私の頑張りに励みを掛けてくれた事は私しか知らない内実。

 私と同じ様な心境変化で将臣もずっとボクシングを続けてきたのかな・・・。

 どれだけの時が過ぎ、将臣や翔子さん、葵ママ、たまに来る秋人パパ。

 それと私の知らない誰かが弥生と私達が眠り続ける病室へ幾度もお見舞いに来てくれました。

 この先の未来に本当に目を覚ますか、どうかも分からない私達の為にこの場所に訪れる人達。

 そんな人達を弥生と私は一生ここに束縛してしまうのかもしれない。その人達の行動の自由を奪ってしまうのかもしれません。でも、私にはどうする事も出来なかった。それは弥生もでしょうけど・・・。

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