第9話
翌日、望美は玄関を開けて、最初に驚いた。望美を待っていたように、白猫が玄関を開けたすぐ前に座っていたからだ。
近所にあるケーキ店に行く望美の後を、白猫は律儀に追いかけた。
猫がこんな行動をするなんてとびっくりしながら、望美は店でケーキを二つ買った。
本当ならホールケーキを買いたかったが、値段が高かったので我慢した。それに、二人で食べきれる自信も無かった。
帰路についている最中、ふとこちらを見る視線を感じて振り向くと、すぐ後ろをついてくるネジが、ケーキの入った箱をじっと見つめていた。
まるで狙いを定めるように食い入った目をしていて、慌てて望美は、ケーキの箱を高く上げた。
「ごめんね、これはあげられないんだ。友達の誕生日をお祝いするためのケーキだからさ。ネジにはまた、猫用のお菓子とかあげるからね!」
家に帰った後、改めて今日持っていくものを確認する。ごちそうを持っていきたかったが、金銭的にそんな余裕は無いことと、手作りするにしても望美はあまり料理が得意ではないので、結局たくさんのお握りを用意するしかできなかった。
その代わり、量は多く用意した。結果、準備に手間取ったせいで、普段月に行く時間よりも少し遅れてしまったが。
重箱に詰めたお握りとお茶、ケーキ、そして昨日買ったブローチを鞄に入れると、望美は星形の宇宙船と共に、白猫と家を出た。
家に帰ってきたら望美が留守で、しかも窓が開いていた。その不審さを昨日母が追求してきたばかりなので、その状態で家から月に向かうのはなんとなく気が引けた。
結局昨日からずっと、母とはぎくしゃくしたままでいる。きっとこの先も、ぎこちない空気感のままなのだろうなと、望美は漫然と信じ切っていた。
それには諦めも抱いていた。どうせ、この星に味方なんていないのだから――。
家の裏庭に回ると、そこで望美は、ネジと一緒に宇宙船に乗り込んだ。
望美よりも先に宇宙船に飛び乗った白猫に、本当に楽しみにしているんだなと微笑ましくなる。
地球から出発して月まで向かう間、望美はずっとネジを抱きかかえていたが、ネジは望美のほうを一切見ようとせず、ひたすら宇宙船の外を見つめていた。
月に辿り着くと、いつも通りルノアは望美を出迎えてくれた。だが、「ノゾミ」と呼ぶ声は、どこか、昨日から残っている硬い空気が燻っていた。
望美はそれを振り払うつもりで、いつもより一層明るく「ルノア、こんにちは!」と挨拶した。
「……あれ? ノゾミ、それは……」
ルノアは、望美が白猫を抱っこしていることに気がついた。うん、と望美は頷く。
「私が飼ってるわけじゃないんだけど、この子は私の友達なんだ。私は勝手にネジって呼んでるんだけど」
するりと、ネジは望美の腕から下りた。どこかふらふらと覚束ない足取りで、ルノアのもとへ近づいていく。
「これがチキュウの、ネコという動物なのか」と、ルノアが興味深そうに膝を折り、白猫と目線を近づけたときだった。
ネジが突如、ひれ伏すようにして、頭を垂れた。
「――……ルノア様」
知らない男の人の声が、どこからか聞こえてきた。辺りを見回しても、望美とルノア以外に、広大な月面に他の人の姿は見えない。
「まさか、まさかまた貴方様に会えるだなんて……!」
だが、確かに人間の声は、聞こえてくる。その声は、泣くことを必死になって堪えているように震えていた。ルノアが、目線を地面へと下げていった。
「……レキ?」
レキ。ルノアがそう呼んだのは、白猫のネジだった。ネジは、ゆっくりと頭を上下させた。白猫の口が動く。
「そうです。レキです、ルノア様。夢でも見ているかのようです。まさか、貴方に会える日が再び訪れるとは……」
紡がれたのは、聞き間違えるはずもなく、人間の声だった。ルノアにレキと呼ばれた白猫は、かしずくようにルノアの足へ顔を近づけた。
「ル、ルノア?」
望美は声を絞り出した。喉がからからに渇いていた。今目の前で何が起きているか、全くわからなかった。
「どういうこと? 何が起きてるの? その猫は何? その子はネジだよ……?」
「……いや、違う。このネコは……」
ルノアは、足下の、人語を喋る白猫を見やった。
「正確には、このネコの中身は……。……僕の故郷の星の、住民だ。レキという名前の」
「はい。故郷を逃れて一年あまり……。チキュウに流れ着いて、このネコの姿になったときは、まさかルノア様に出会えるとは想像もしていませんでしたよ」
レキは望美ではなく、ルノアのほうを見ながら言った。
「ルノア様も、さぞ苦労なされたのではないでしょうか。側近も部下も誰もいないまま、たった一人で、宇宙をさ迷い続けて……」
その姿のまま、とレキは涙ぐんだ声を漏らし、俯いた。「いいんだ」とルノアはどこか焦ったように首を振った。
「ルノア様が大変なときにお力になれなかったことが、私は悔しくて仕方がありません。ですがルノア様。こうして出会えたのです。これからはの貴方様の旅路に、どうか私もお供させて下さいませんか?」
「ああ、それは構わない。だが……」
「故郷を取り戻すための計画のほうも、どうやらちゃんと進んでおられるご様子ですしね。私も、手伝わせて下さい」
それは、と言ったきり、ルノアは急に黙り込んだ。レキは振り返り、薄い青の瞳を望美に向けた。望美は一人だけ蚊帳の外に放り出されていたため、ただ呆然としながら二人の会話を耳にする以外に、できることはなかった。
「この広くて暗い宇宙を、今も同胞達は、故郷を思い続けながら、故郷に帰れる日を夢見ながら、さ迷い続けているのです。わかっているでしょう、ルノア様。ご自身が、何を為すべきかを」
「……忘れたことは、一日だってないよ」
ルノアが顔を上げたのは、その直後だった。「ノゾミ」と妙に強張った声でいきなり名前を呼ばれたため、望美の両肩はびくんと跳ねた。
「突然のことで申し訳ないが。僕は近日中に、ツキを発とうと思う」
「……えっ?」
「今日か明日かはわからない。でも、チキュウの時間でたとえるなら、間違いなく一週間以内には旅立つ」
今までありがとう。ただ一言残し、ルノアは頭を下げた。
だが望美は、今言われたことに対し、さして衝撃は受けなかった。それよりも、気になっていることがあった。
――どうしてルノアは今日、全然笑っていないのだろう。
「ルノア様。宇宙船に、案内して下さいませんか」
「……ああ、わかった」
ルノアは背を翻し、歩き出した。その後ろを追いかけるレキも途中で振り返り、「ノゾミさん。貴方も来て下さい」と、短く述べた。
望美は言われるがまま、二人のあとをついて行った。
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