第8話

 ルノアはゆっくりとした動作で、望美の手を払った。そして両手で、包むように望美の両手を握った。


「――よし、躍ろう!」

「………………はい?」

「待ってて、今準備するから!」


 ルノアは妙に浮き浮きとした足取りで、その場から去った。残された望美はただ、唖然とするしかなかった。程なくして戻ってきたルノアは、レコーダーのようなものを手にしていた。


 サイズは小さいのに、ルノアが再生ボタンらしきものを押すと、大きな音が辺りを包み込んだ。生演奏なのかと錯覚してしまうくらい音は澄んでおり、迫力があった。 


 電子音楽のようだが、曲調としてはゆったりとしており、滑らかだった。自然とワルツが連想された。


 ルノアは望美の正面に立つと、片手は胸の前に当て、もう片方の手を、ついと差し伸べてきた。


「お手をどうぞ」

「……待って、どういうこと?!」

「躍ると気持ちが良いよ、心が落ち着いてくる」

「で、でも、私は」

「ほらほら!」


 有無を言わせぬまま、体を引き寄せられる。そのままルノアは望美の手を取ったまま、ステップを始めた。両手を握られている望美も、自然とそれに従うしかなくなってしまう。


「あ、あの、私ダンスとか踊れないんだけど」

「あ~、僕も実は苦手でね……。でも故郷では無理矢理習わされたんだよね。まあ、硬くならずに、好きに踊ろうよ。いっぺんやってみたかったんだ、作法とか気にせずに踊るのをさ」


 ルノアはどこまでも気楽そうだった。言葉通り、彼は自由そのものに踊った。


 ワルツのようにゆったりと弧を描くように回ったかと思えば、いきなり望美の手を離し、陽気にステップを踏み出す。かと思えばまた望美の手を取って、一緒になってジャンプしたりして、派手に踊り出す。


 BGMとして流れている音楽は、軽すぎず重すぎずの雰囲気の曲調なのだが、明るく楽しいダンスには合わない音楽に思えた。にもかかわらず、ルノアは宣言したとおり、好き勝手に振り付けを変えて、踊っている。


 それに付き合わされている望美も、段々と、ルノアの調子に流され始めた。ルノアにエスコートされるばかりだったのが、徐々に、自分もメロディに乗り始めたのだ。ついには、望美のほうがルノアを引っ張って踊るパートまで現れた。


 不思議な時間だった。奇妙な気持ちだった。空のどこを見ても満天以上の星が輝く中、月という衛星で、地球という星を見ながら、灰色の地面で踊る。


 ダンスの振り付けは全て即興で、種類やジャンルに一貫性はない。クレーター内を縦横無尽に移動しながら、ふと気がついたときには、いつの間にか望美の体から、頭痛も腹痛も動悸も耳鳴りも消え失せていた。


「調子はどう?」


 そのタイミングを見計らったように、ルノアが声をかけてきた。彼は優しく微笑んでいた。


「確かに、落ち着いてきたかも」

「おお、良かった!」


 すると、ルノアはふいに足を止めた。まだ音楽は奏で続けられているというのに、ぴたりと動かなくなった。ルノアは望美から、手を離した。ルノアの碧眼が、静かに伏せられた。


「……僕の勝手だってことはわかってる。でも、できることなら、言わないでほしいんだ。チキュウが、嫌いってこと」


 小さな声は、抑揚が無かった。ルノアは顔を上げないまま、目線だけを地球に向けた。


「故郷の星で、生きている意味が無いとか、嫌いだとか……言わないでほしいんだ。


――僕の故郷は、もう滅んでいるから」


 次の台詞も、抑揚が無かった。しかしその中に、何かを堪えるような、震えが感じ取れた。望美は言葉を無くした。瞬きもできなくなった。


「僕の故郷の星は、科学がとても発展しているのは言ったよね。発展した科学のおかげで、人々の様々な願いを叶えてきた。でもそのせいで、故郷の星で戦争が起きた。何年も何年も続いた上に、科学が発展していたおかげで、だから兵器となるものの性能も軒並み発達していたから……気がついたときには、どうやっても手遅れなほど、故郷の星はぼろぼろになっていた。生き物なんて虫一匹も住めないような星になって、生き残った住民達は、皆散り散りになって逃げ出した。僕も宇宙に逃げて、そのままずっと、旅をしている」


 ルノアは顔を上げた。望美を見ると、「そんな顔をしないでくれ」とぎこちなく笑ってきた。一体自分は、どういう顔をしていたのだろうか。


「……だから僕は、ノゾミが羨ましい。帰れる星があるノゾミが、羨ましい。ノゾミはさっき、味方なんて一人もいないって言ったけど、僕からすれば、チキュウっていう星があるじゃないかって、思ってしまった。故郷が無事なのにって。

あのままだと、ノゾミの気持ちも考えずにそう言ってしまいそうだったから、僕の気持ちを落ち着けるために、踊り出したってわけなんだよ。いきなりで、ごめんね」


 ルノアは苦笑いした。苦笑すらも、無理矢理作ったようだった。ノゾミは震える両手をいなして、頭を下げた。


「……ごめんなさい、ルノア。こっちこそ、ごめんなさい」


 ごめんなさいの単語は際限なく浮かぶが、それだけでは到底足りないことはわかる。だが、どんな謝罪も、いくら謝っても許してもらえそうにないことを、自分は口走ってしまったのだ。


 それなのにルノアは柔らかく笑って、「いいんだよ」と言った。


「それに、どちらにせよノゾミを連れていくことはできないよ。宇宙の旅って結構危ないからさ」


 おどけたように言うルノアの姿に、涙が零れてきそうになる。気遣わせないようにという配慮をしているのが伝わってきて、胸が苦しくなった。


「……ねえ、ルノア。あなたも地球に来るっていうのはどう?」


 望美は地球を見た。故郷である青い星を見ても、そこに懐古や愛着といった感情は湧いてこない。ルノアにああ言われたばかりだとしても、だ。


 だが、地球にルノアもいるなら、自分はあの星で生きていけそうな気がした。希望を持って、強く進めるだろうという確信があった。だが、ルノアはかぶりを振った。


「この前の流星群のときに言ったよね。僕には願いがある。自分の手で叶えなくてはいけない願い事が色々ある。その中の一つが、故郷の星を再建することだ。

僕は故郷の星を元通りにしなければいけない。今もこの広い宇宙のどこかでさ迷っている故郷の生き残った民達のためにも、僕だけ安住の地を手にするわけにはいかない。考えては、いるんだけど……」


 それは、それまで聞いてきたルノアのどの声よりも、硬かった。穏やかな眼差しが、険しくなっていた。そんな目で地球を見るルノアに望美は、また自分は失言をしたのだと悟った。


「……だから本当は、こうやって、ノゾミと楽しい時間を過ごしているなんて、駄目なことなんだけどね。それよりも、やらなきゃいけないことがあるのに……わかっているのに、心が安らいでしまうんだよね」


 ルノアは力なく笑った。自責するような口調に、なんと声をかけるべきか、望美は必死に考えを巡らせた。


「ルノア。明日、お誕生日なんでしょう? 私、お祝いしてもいい?」


 口から出た台詞に、望美自身は納得していなかった。今言うべきことでないことはわかっていた。もしかすると否と言われるかもしれなかった。


 こちらを向いたルノアは、先程の強張った表情とは打って変わって、妙にあどけない、幼い子供のような顔つきになっていた。


「……祝ってくれるの?」


 望美は頷いた。お礼も、お詫びも、それくらいしか望美にできることはなかった。




 宇宙船から下りて部屋の床に立った瞬間、ふと望美は、何かの視線を感じた。振り向いて、その刹那、思わず体を跳ねさせた。


 というのもすぐ後ろのベッドの上に、白猫のネジが座っていたからだ。窓を開けていたので、屋根でも伝って、部屋に入ってきたのかもしれない。


「もうネジ、驚かさないでよ……。友達と色々あって、落ち込んでるんだからさあ……」


 望美は白猫の頭を撫でた。ところが白猫は無反応だった。薄い青色の目を、じっと星形の宇宙船に注いでいた。


 見慣れないものに興味があるのか、はたまた警戒しているのか。そう思った直後、突然白猫は、宇宙船の上に下り立った。

 白猫の前脚が、宇宙船の起動スイッチを押しそうになっているのをみて、急いで抱きかかえて距離を取る。


「駄目だよ、宇宙に行っちゃうんだよ?!」


 ところが、白猫は望美の腕の中で、ばたばたと激しくもがいた。どれだけ宥めても、いっこうに抵抗をやめようとしない。


 どうやらよほど宇宙船が気になっているらしいと、望美は唸った。


「うーん、そうだなあ……。……じゃあ、ネジも明日、月まで行く?」


 尋ねると、いきなり白猫は、ぴたりと大人しくなった。まるで、それが答えだと言わんばかりだった。


「それじゃあ明日、約束ね」


 手を離すと、解放された白猫は、何度も振り返って宇宙船を見ながら、窓の外へ出て行った。


 ルノアはまだ、地球の動物にどういうものがいるか、その実物を見たことがない。良い機会に思えたし、ルノアもすぐにネジと仲良くなれるだろうと、望美は考えた。

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