第3話

 平日の昼間は父も母も仕事でいないため、家の中を望美は一人で自由に使えることになる。


 望美は一階にある出窓を開け、そこからぼんやりと、空を眺めていた。見えるのは、明るい青空の彼方に滲む、白い岩の塊。周りが明るいからか、その姿は夜のときほど目立っていない。

 望美は確かに一昨日、今見ている月まで行った。そこで宇宙人と出会った。更にその宇宙人から、友達になってほしいと言われた。


 夢だったのではないかとしか思えないが、夢ではないことは確実だった。月で出会った宇宙人のルノアに、「ノゾミさんにはこれをあげますね」と、あの星形の宇宙船を渡されたからだ。


 星形の宇宙船は、望美の部屋にある押し入れの奥に隠してある。それを見る度に、月での出来事は嘘ではなかったと、突き付けられる。


 ルノアは、この宇宙船には位置情報登録をしているので、いつでも好きなときに、月と地球とを往復できると説明した。せっかく友達になれたので、できれば毎日会いに来てほしいと、地球のことを色々聞かせてほしいと、浮き浮き弾んだ調子で言っていた。


 その話を聞いた後、望美は宇宙船に乗って、一人地球に戻ってきた。それが一昨日のことだ。毎日会いに来てほしいと言われていたが、昨日は月に行かなかった。行けなかったのだ。


 複雑な思いで昼間の月を見上げていると、ふと茂みをかき分けるような音が聞こえてきた。望美の家の周りを囲む生け垣をかき分けると共に、真っ白い猫が現れた。それを見た望美は、思わず窓から身を乗り出した。


「あっ、ネジ!」


 白猫は望美の名前に呼ばれるようにして窓の下まで来ると、器用にジャンプして、窓辺に座った。明るい青色の目が、望美を見上げる。


 ちょっと待ってて、と声をかけ、一旦キッチンまで戻り、戸棚から煮干しの入った袋を取り出し、皿に少量を移す。その後急いで二階に駆け上がると、いつも父が日曜大工で使う工具箱から、ネジを数本手に取った。


 一階の出窓まで戻り、煮干しの入った袋とネジを白猫の前に置くと、白猫は嬉しそうに一つ鳴き、煮干しを食べ始めた。望美は白猫の頭を、軽く撫でた。


 この白猫は望美が引っ越してきてから、唯一仲良くなった相手だった。ネジという名前だが、望美が名付けたのではない。そもそも野良猫なので近所の人達からは、様々な名前で呼ばれている。


 望美がネジと名付けたのは、この猫と初めて出会ったとき、道端に落ちていたネジに強い関心を示しているのを見たからだ。


 口に入れてしまうのではないかとハラハラしたが、予想と反して、白猫はネジを転がして遊ぶばかりで、それを餌とは認識していないようだった。だから望美は、ネジが好きな猫で、ネジと名付けた。


 実際にネジは本物のネジだけでなく、釘やナットやボルトなど、工具の類いに興味を惹かれやすかった。以前、父の工具箱を見せたところ、大層嬉しそうに体を跳ねさせて、そのまま箱の中に飛びつかんばかりの勢いまで見せた。


 工具が好きという変わった部分を持っていても、人からは、むしろそこが愛されている。人間もそうであれば良いのに、と望美は思った。


 ネジは煮干しを食べ終わると、望美が持ってきたネジを前脚でつついたり、転がして遊んだりした。その姿を見ながら、望美は窓辺で頬杖をついた。


「ネジ、聞いてくれる? 私ね、初対面の人から友達になってくれって言われたんだよ」


 ネジは遊んでいた手を止め、顔を上げて望美の顔を見た。


 一昨日出会ったルノアは別れ際、自分のことを、決して他の人には言わないでほしいと切願してきた。言っても信じてもらえないのは明白なので、誰かに言いふらすつもりは全然無かった。だが、さすがに猫相手にならいいだろう。


 たまに会うネジは、いつでも望美の話を否定せずに聞いてくれる。宇宙や天体の話をしても、嫌な顔一つしない。

 向こうから望美に何かを言ってくることは決して無いが、それでも、ただ話を聞いてくれるというそれだけで、望美にとっては充分すぎるほどだった。


「ルノアって、いうんだけどね。その人に、毎日会いに来てほしいって言われたんだけど……昨日、行けなかったんだ。そりゃだって、全然何が起こったか飲み込めていないんだもの。それに、やっぱり怖いじゃない。月で――」


 その時だ。両耳をぴんと立てていたネジが、顔を家の前の道路のほうに向け、じっと見つめた。と思ったら、突然窓辺から下りて二羽に着地し、そのままどこかに走り去っていってしまった。


 どうしたのかと訝しんだ直後、道路側から人の話し声が聞こえてきた。望美と同じ年くらいの子の、賑やかな笑い声。


 反射的に望美は、しゃがんで身を隠していた。笑い声はどんどん近づいていき、やがて遠ざかっていく。


 そっと外を覗くと、生け垣の向こうを、友達同士らしき制服を着た中学生くらいの女の子数名が、仲睦まじそうに楽しく話し合いながら、歩いているところが見えた。


「……」


 今日は、学校が早く終わる日だったらしい。望美は窓を閉め、その場にしゃがんだ。華やかな笑い声が、一人の室内に、妙に空いた頭の中に、ずっと響いているようだった。


 望美は深く息を吐き出した。猫に漏らすつもりだった話が、息と共に消えていく。

 月に行って、宇宙人と会ったという出来事が、信じられないと言おうと思っていた。

 ルノアに友達になってほしいと言われたが、正直に言って怖いと言おうと思っていた。

 なのに、どうしても気になってしまうと、言おうと思っていた。


 あの日、ルノアから、「友達になってほしい」と言われたとき。未知の体験の連続で、バグを起こしそうになっていた望美の頭に、その台詞は、すっとすんなり入り込んできた。以降、部屋にある宇宙船を見る度に、月を見る度に、ルノアのその言葉の部分だけ、何度も脳内で繰り返された。


 今はそこに、先程の女の子達の笑い声が、重なっている。

 望美は両膝を抱え、そこに顔を埋め、目を閉じた。


「……」


 ややあってから、また女の子や、男の子達の笑い声が、窓越しに聞こえてきた。


 望美は顔を上げた。立ち上がり、二階の自分の部屋に向かった。

 それから数分後には、望美は月に旅立っていた。

 



 クレーターまでやって来ると、ルノアは設定されているという宇宙船の着陸場所に、既に立っていた。望美の姿を見るや、「ノゾミさん!」と大声を上げた。


「昨日来てくれなかったので、今日も来てくれないんじゃないかとばかり思ってましたよ!」


 ルノアは責めているというより、心配しているような口調でそう言ってきた。望美は慌てて頭を下げた。


「ご、ごめんね。昨日はちょっと、用事があって」


 嘘だった。引っ越してきてから、望美に用事があった日などない。一日中家の中にいるのだから。


 だがルノアは、望美の言うことをあっさりと信じ、疑う素振りなど欠片も見せなかった。


「用事があるときは、もちろん無理して来なくていいんですよ。……でも、ちょっと我が儘を言ってしまうなら、なるべく来てほしいなって思いますね。このツキという星、一週間くらい前に来たばかりなんですけれど。他に人がいませんので。一人で過ごしていると、退屈なのですよ」


 辺りを見回したルノアに釣られて、望美も周囲を見た。


 青空の中、太陽が常に頭上を照らしている、というわけではないため、月は地球よりもずっと暗い。


 空気のない月面では、そよ風すらも吹かない。


 周りの宇宙空間には幾多もの星が見えるし、それらの星の瞬く音が聞こえてきそうだが、実際に聞こえてくることはない。


 暗闇と無音の世界で、ルノアは「一人で過ごしている」と言った。


「ルノアには……一緒に月に来ている友達はいないの?」


 ルノアは首を傾げ、その後緩くかぶりを振った。そのとき浮かべた笑みは、どこか寂しげなものだった。


「いいえ。僕一人ですよ。故郷の星にも、よく考えたら、友達と呼べるような間柄の者はいませんでした。だから、尚更、ずっと夢見ていたんですよね。宇宙人と友達になってみたいって」


 ルノアは視線を横に向けた。望美も同じ方角を向いた。その先には、地球がある。月から地球を見ると、それは月より少し大きく見えた。


 望美は息を吸い込んだ。本来空気はないはずなのに、ドームの中という事で、宇宙服無しに普通に呼吸できることが、やはり不思議な感覚だった。


「ルノア。昨日は行けなくて、ごめんなさい」

「いいえ。心配はしましたけど、怒ってはいないので、謝る必要はありませんよ」

「でも、ごめん。それで、明日からなんだけど」


 望美はルノアの目を、真っ直ぐ見た。


「多分明日から、毎日来られると思う。あまり面白い話はできないだろうけど、ルノアが気になるって言うなら、地球の話、色々するよ」


 ルノアの深い碧眼が、何度か瞬きされた。目が見開かれ、その瞳がそのまま星空を閉じ込めたかのように、きらきらと瞬きだす。


「はい! 是非、聞かせて下さいっ!!」


 ルノアはにっこりとはにかみ、明るく言ったのだった。

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