第2話
「――初めまして。僕は今、訳あってこの灰色の星に滞在している宇宙人です。ここから見える青い星に生きる、僕と目が合った人。私は、君と会ってみたいです。お話がしてみたいです。もちろん、君さえ良ければ、の話ですが。
僕は君に危害を加えるつもりは全くありません。もし興味があるようでしたら、この短距離惑星間移動用宇宙船軽量タイプに乗って下さい。スイッチを押せば、勝手に僕が今いる灰色の星に飛んでいきます。抵抗があるようでしたら、乗らずにスイッチだけ押して、宇宙船だけ飛ばして下さい――」
ちょうど封筒が置かれていた場所の真下に、小さな凹凸が一つあった。恐らくそれが、手紙の主が言うスイッチなのだろう。望美はスイッチと手紙を、交互に見比べた。
一旦紙を折り畳んでからもう一度開くと、先程の声が最初から再生される。その声を聞きながら、望美は自分の頭の中がぐるぐると回り出しているのを感じていた。
昨日も、何度も思ったことだ。だが、一体これはなんなのだろう。一体何が起きているのだろう。一体……。
何度同じことを考えても、答えには辿り着く気配も見せない。そうこうするうち、手紙は、「――もし興味があるようでしたら、この短距離惑星間移動用宇宙船軽量タイプに乗って下さい――」の下りに入った。
「……い、いやいや……」
それは有り得ない、と首を振る。何もわからないことずくめだが、一つわかることがあるとしたら、この手紙を送ってきた人物が怪しすぎるということだ。危害を加えないという言葉をほいほい信じて、月になど迎えるわけがない。
望美は窓を開けた。昨晩、月が出ていた位置を見上げる。そこには青い空と白い雲しか見えず、月の姿は無かった。
宇宙船だけ飛ばしてしまおう。そして忘れてしまおう。もう一度寝て、全部夢だったと思ってしまおう。そう決めて、星形の乗り物にあるスイッチを押そうと屈み込んだ、その瞬間のことだった。
さっと足下を、何かが掠めていった。チュウチュウと甲高い鳴き声と共に、ネズミが屋根裏部屋の床を走って行く風を感じる。それは、体勢を崩すには充分すぎる刺激だった。
あ、と思ったときにはもう遅かった。望美の体はよろめき、星形の乗り物に倒れ伏していた。
その時、衝撃とは別に、体に妙な違和感を覚えた。かちりという、小さなものを押し込んだような違和感だ。
ぶうううん、と、乗り物全体が揺れ出した。消えていたはずのドームが下から現れ、乗り物全体を包み込んだ。
「え」と、自分でもわかるくらい間の抜けた声を発した。
すう、と乗り物が宙に浮く。次の瞬間には、乗り物は窓から飛びだし、ぐんぐんと空に上昇していっていたのだ。
望美は、乗り物にしがみつくように、うつ伏せのまま体勢を変えることができなかった。
雲を突き破ったと思ったらそれも見えなくなり、視界に広がるのは空だけになった。
空の色が最初は青だったのが、見る間に濃くなっていき、やがては黒になる。その黒色を背景にして、銀に光る砂を散りばめたような、数多くの星空が瞬く。望美の目の前に現れたのは、そういう光景だった。
幾多もの星のなか、星形の宇宙船は、一直線に何処かに向かって行く。程なくして正面に見えてきたのは、大きな灰色の星だった。地球に住む人々にとって、見慣れた星。ほぼ毎晩のように見る天体。
宇宙船は、月に向かって、全く速度を緩めることなく、突進していった。ぶつかる、と思ったのに、その衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。
宇宙船は急激に速度を落とすと、月の一部にあるクレーターに、滑り込むようにして着陸した。ぶううん、という低いモーター音のようなものが鳴り止む。
聞こえてきたのは、静音だった。静かすぎて耳が痛くなるほどだった。そのしじまを破ったのは、足音だった。
足音はどんどん近づいていき、やがて宇宙船のすぐ傍で、立ち止まった。宇宙船を覆っていたドームが、すっと消える。
「来て下さったのですね」
降ってきたのは、手紙を開いたときに聞いた声と、全く同じものだった。望美は、ゆっくりと顔を上げた。
「僕は、ルノアと言います。初めまして、青い星の人」
望美と同じ年くらいの少年は、そう言って礼儀正しく片手を胸に当て、軽く一礼した。
「この超高倍率望遠鏡であの星を覗いて、君の姿を目にしたときから、ずっと気になっていたのです。良かったら、君の名前を、お聞かせ願えますか」
小さな望遠鏡を手にするルノアと名乗った人物は、真っ白な宇宙服に、頭をすっぽりと覆う透明のヘルメットを被っていた。
宇宙服は体にフィットした軽そうなもので、ヘルメットも何てことの無い普通の形状をしていたが、それよりもルノアの頭が気になった。
彼の頭からは、触覚のように、先端が丸い形をした二本のアンテナが生えていた。
望美と同じ色である黒髪は、毛先に近づくにつれ、周りの空のように、まるで星空のような煌めきが散りばめられていた。
ルノアの瑠璃色をした瞳が、不思議そうに丸くなった。
「……あれ? 言葉、通じてませんか? おかしいな、通訳機能に異常は無いはずなんだけれど」
「えっ、あ、いや、その!」
そこで望美は、自分が声を出せることに気づいた。それどころか、自分が声を出せる生き物であることを、すっかり忘れていた。反射的に上半身を起こすと、ルノアは嬉しそうに笑った。
「良かった、言葉がわかるんですね。では改めまして。僕はルノアといいます。君の名前は?」
「の、望美です。月野、望美です……」
「ノゾミさんですか。よろしくお願いします、ノゾミさん。わざわざ来て下さり、ありがとう」
ルノアはにっこり微笑むと、一歩ほど下がり、今いるクレーターをぐるりと見回した。
「このクレーター部分には、ドームが張ってあります。衛星や、他の人に見つかる可能性も無いし、隕石や小惑星の衝撃にも耐えられるものですし、ドーム内には空気もちゃんとあるので、心配しなくて大丈夫ですよ。重力も普通です」
だから宇宙空間にいるはずなのに、普通に息ができているのか。
しかし望美はその事実を、おいそれと納得することができなかった。まだ夢の中にいるような心地でいっぱいだった。
宇宙船から立ち上がって月の地面に下り立ったとき、体がふわふわと浮かぶような軽さを覚えたので、尚更そう思った。
ルノアは、「貴方の星の重力は、この星よりもやや重いのですね」と興味深そうに言った。と、そのときだ。ルノアがいきなり、望美に向かって腕を伸ばしてきた。
びくりと体を跳ねて後退すると、その前に、ルノアの手は、望美がずっと掴んでいた手紙を取った。先程読んだときから、ずっと手紙を握りしめたままでいたことに、今更ながら気づいた。
「この手紙にも書きました通り、僕は君とお話がしたいと思っているんですが、いいでしょうか?」
「は、はい」
「ああ、良かった! では最初に聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
ルノアはどこか浮き浮きとした様子で尋ねてきた。望美が返答する前に、ルノアは勢いをつけて、横方向へ真っ直ぐ指を指した。
「あの青い星は、なんという名前なのでしょうか?」
ルノアの指さす方向に目を向けて、望美は目を見張った。その先に見えたものに、息も声も感覚も何もかも失ったように感じた。
やや遠く。闇の中に、ぽっかりと浮かぶ、一つの星があった。周囲に見える星が、皆同じような銀色をしているなか、その星だけ違う色をしていた。なので、とても存在感があった。
青色の星。しかし青一色だけではない。緑色、白色、薄い茶色など、別の色もある。しかし、やはり目につくのは、青色だ。一番面積が多く使われている色が、青色だった。
「――地球、です」
「チキュウ!」
ルノアの深い青色の目が輝いた。チキュウ、チキュウと何度も声に出して呟き、その名を確認する。やがて、咀嚼し飲み込むように、深く頷いた。
「それをずっと知りたかったんだ。あの星の名前はなんだろう、って、目にしたときから気になっていたから。そういえば、僕達が今いるこの星にも、名前はあったりするんですか?」
「月と、呼ばれています」
「ツキ! そういえばさっき、ノゾミさんが教えてくれた名前の中に、同じ単語が出てきましたね?」
「あ、ああ、まあ、はい……。たまたまですけど」
「たまたまなものですか! 何かとても運命のようなものを感じますよ、僕は!」
ルノアは両手を合わせ、ふわふわと笑った。
「ではノゾミさんは、チキュウ人ということになるのですね? チキュウ人のノゾミさん。僕と、友達になって下さいませんか!」
ルノアはそう言って、朗らかに笑った。暗い宇宙に不釣り合いな、明るい笑顔だった。は、と望美は固まった。自分の耳を疑っている間に、ルノアはどんどん話を進めていく。
「昨日、望遠鏡でチキュウを見ていたとき、君と目が合って、ぴんと来ました。この偶然は、間違いなく必然なのだと。なのでノゾミさん、僕と仲良くなって下さい!」
目の前に差し伸べられた右手を、望美は唖然として見つめるしかできなかった。呆然としていた。これが現実で起きている出来事など、とても信じられない。だがそれとは別の感覚が、望美の中に沸いてきていた。
友達。そう言われたとき、望美は頭の中が、妙にふわりと浮いたような感覚を抱いた。重力の軽さとはまた違う、ふわりとした感覚だ。
それに捕らわれたからなのだろうか。望美は気がついたときには、小さく頷いていた。ぱあっと、ヘルメット越しにルノアの表情が輝いた。
「ではノゾミさん。これから、よろしくお願いしますね!」
ルノアは望美の手を取り、握手を交わしてきた。白い手袋越しに触れた手は、地球人のものと、何ら変わりない感触に思えた。
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