月で待ち合わせ

星野 ラベンダー

第1話

 地上から見る月は、いつも白色だ。だが今、望美が見ている月の色は、灰色だった。真っ黒な空を背景にして、視界のほとんどを埋める巨大な月。灰色の大地には、大きなクレーターがいくつも存在する。


 こうやって望遠鏡でよく見てみると、いつも見る月とはまた全然違う印象を抱く。一旦望遠鏡の接眼レンズから目を離し、一気に遠くなった月を、開いた窓から見上げる。


 深い黒色に染まる夜空の上の方で、ぼんやりと淡い光を纏って輝く白い月が、望美を見下ろしていた。外から聞こえてくる秋の虫の声と相まって、浮かぶ丸い月の静けさは普段よりも増している。


 屋根裏部屋に置かれている、50から250倍の倍率を誇る望遠鏡は、父の私物だ。今日はたまたま父が出張で家を留守にしているため、望美は望遠鏡を借りて、屋根裏部屋から天体観測を行っていた。


 春に引っ越してきたばかりのこの家だが、家そのものは若干古いため、時々屋根裏部屋には、ネズミ等が出現することがある。が、望美としてはこの部屋は、この望遠鏡が置かれているというだけで、絶好の天体観測スポットだった。


 もともと星を見るのが好きな望美の部屋にも望遠鏡はあるのだが、ここまでの高倍率ではない。十五歳、つまり来年の誕生日になったらもっと倍率のある望遠鏡をプレゼントしてくれるという約束だったが、こんなによく晴れた夜に低倍率の望遠鏡で天体観測など、勿体ないにも程がある。


 そういう考えのもと、天体観測を始めて一時間弱。普段見上げるばかりの遠い月や星がずっと近くにまで来てくれたような気がして、望美は夢中になって望遠鏡を覗いていた。


 星も綺麗だったが、とりわけ月をよく見た。月の色や、クレーターの形。自分にも地球にも身近な衛星である月の、今まで知らなかった一面や新しい一面を見つけることができて、ついつい観測してしまうのだった。同年代の子達にはあまり理解されない趣味だったが、それでも望美は、星を眺める時間が大好きだった。


 ふと、望美は自室から持ってきていた置き時計を見た。デジタル表示されている時刻は、ちょうど午前3時を示していた。さすがに寝なくてはいけないと、望美はため息を吐いた。そうでないと、明日起きるのが辛くなる。明日は、絶対に学校に行こうと決めているのだから――。


 胸の辺りが重くなるのを感じた。それを振り払うつもりで勢いよく首を振ると、気分を入れ替えて、今夜の見納めにもう一度月を眺めることにした。接眼レンズ越しに、間近に迫った月の姿を思い浮かべながらベッドに入れば、きっと良い眠りにつけるはずだ。望美はレンズを覗いて、もう一度月を観測した。


 その時に見えてきたものを、望美は瞬時に理解することができなかった。


 見間違いだろうと思った。だから何度も倍率を変えたり、瞬きして目を擦ったりした。しかし、何度確認しても、それが見えている事実は変わらなかった。


 灰色の地面。大きな月のクレーター。その中心に、何かが立っていた。


 粒のように小さな影を、最初は岩か石かだと思った。しかしそう思った直後、その影はゆらりと動いた。それはまるで、人が歩いているような動き方だった。


 望美は反射的に、望遠鏡から飛び退いた。体を動かすことができなかった。手も足も、どこの部位も石のように固まっていた。


 あれは一体なんなのか。見間違いか。それとも……。震える体を無理矢理押さえ込んで、窓から月を見上げる。


 白い月に、変わった部分など何も見当たらなかった。だが、全て気のせいだと自身を納得させて、屋根裏部屋から出て行くなどできなかった。望美は、月から目を離すことができないでいた。


 瞬きもろくにできないせいで、両方の瞳はどんどん乾いていく。乾燥していく目がそれを捉えたのは、そんな折のことだった。


 月の近くで、何かがきらりと光った。望美は我に返って何度も強く瞬きを行った。なるべく月がよく見えるよう窓から身を乗り出す。望遠鏡が視界の端に映り込んだが、それを使う気にはなれなかった。


 光の正体は、流れ星なのではないかと思った。少なくともそういう発想が浮かぶほどには、流れ星に近かった。月から現れた光の筋は、どんどん大きくなっていった。


 光の筋が、真っ直ぐこちらに向かって飛んできていると気がついたときには、既に遅かった。


 夜空を横切るようにして、流れ星は凄まじい速度で、屋根裏部屋の窓から家の中に飛び込んで来た。衝撃で望美の体は軽く吹き飛び、壁に背中を打ち付ける羽目になった。


 悲鳴を上げそうになったが、寸前で口を手で押さえたため、どうにか堪えることができた。だが、叫びだしたかった。思う存分に悲鳴を上げて、大騒ぎしながら逃げ出したかった。そんな衝動が、望美の全身を包んでいた。


 屋根裏部屋に飛び込んで来た流れ星もとい、謎の物体は、淡く黄色に光る、平たい星形の形をしていた。人一人がその上に座って、少し余裕があるくらいの大きさだった。


 全身を透明なドームのようなもので覆われたその物体は、中に何かが入っていた。 

 それは、一つの封筒だった。




 「望美、起きなさい!」


 母の大声に、深く沈んでいた望美の意識は強制的に浮上させられた。だが、頭は夢と現実の境目をさ迷うようにぼんやりしており、覚醒には程遠い。


 ううんと唸りながら寝返りを打つと、被っていた布団を剥ぎ取られた。


「早くしないと、学校に遅刻するわよ!」


 望美は体を丸めつつ、薄く目を開けた。母が開け放ったと思われるカーテンの向こうの窓から、眩しい朝の光が差し込んでいるのが見えた。


 ベッド脇のサイドテーブルに置かれている置き時計にもその陽光は照らされており、ちょうど朝の7時を示していた。部屋全体に飛び込んでくる眩しい光に目を開けていられなくなり、望美は枕に顔を埋めた。


「……ごめん。起きられない」

「何、今日もなの? 昨日も夜更かししてたんじゃないでしょうね?」


 首を左右に振る。本当は夜中の3時まで天体観測をしていたなど言えない。その後、明け方までなかなか寝付けなかったことも。


「じゃあ、学校はどうするの? また休むわけ?」


 母の苛立ったような声に、びくりと身が竦む。

 ごめんなさい、と望美は言った。ちゃんと謝らないとと思っていたのに、その声はほぼ消え入っていた。


沈黙の後、重いため息が聞こえてきた。冷たさの感じられる音だった。望美は体を強張らせた。


「……わかった。それじゃあお母さん、仕事に行ってくるから。お昼は適当に食べてね」


 返事をする前に、母は部屋を出て行った。ばたんとドアが閉まった後、一層部屋の温度が下がったような気がした。


 今日も駄目だった、と望美は仰向けになって、天井を見つめた。今日は起きようと思っていた。登校しようと思っていた。思うだけではなく、決意していた。その意思は、ちゃんと硬いものだった。


 しかし、いざ“その時”が来ると、こうしてベッドに捕まったように、体を起こすことができなくなる。起き上がっても、頭の痛みに襲われる。お腹が痛くなる。もちろん、学校に行くなどできなくなる。


 この町に引っ越してきてから二ヶ月弱。そんな日々の繰り返しにより、望美は転校先の学校に行けない日々が、ずっと続いていた。


 しばらくしてから、一階で玄関の開閉音が聞こえてきた。いつもはその音を聞く度、罪悪感で胸が軋むのだが、今日はそんな余裕はなかった。


 何せ、とても眠かった。眠気が、余計なことを考える余裕を与えなかった。望美は布団をたぐり寄せ、その中に潜った。薄れゆく意識の中、屋根裏部屋にある物体のことを、ぼんやりと思い描いていた。


 次に目が覚めたとき、時計の表示は13時近くになっていた。のろのろと起き上がると、頭が鮮明になっているのがわかった。よく寝たことにより、眠気もすっかり鳴りを潜めていた。それにより、昨晩の出来事も鮮明に蘇ってきた。


 着替えを済ませた後、恐る恐る屋根裏部屋へと向かい、ドアを半分だけ開けて隙間から中を覗くと、薄暗い屋根裏に、それはまだあった。


 カプセルのようにドームに覆われた、平たい星形の物体は、それそのものが淡い光を放っているようだった。これは果たして乗り物なのだろうか、それとも違う用途があるのか。いずれにせよ、こんなものを望美は今まで見たことがなかった。


 屋根裏部屋に向かうときよりも更にゆっくりと、慎重な足取りで星形の物体に近づく。ドームに一瞬だけ触れてすぐ手を引っ込めると、ドームは宙に溶け込むようにして消えた。


 望美は膝を折り、星形の物体の上に乗っている封筒を手に取った。昨日、望美が中を読んだので、既に封は開けられている状態だった。その中身を読んで、それで望美はなかなか眠れなくなってしまったのだ。


 深く深呼吸を繰り返した後、望美は封筒から折り畳まれた一枚の手紙を取り出した。


 広げたそれは、白紙だった。文字の一つも書かれていなかった。その代わり、望美の頭の中に、知らない人の声が聞こえてきた。男の子の声だった。

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