問題編 7,遠矢射る君

 からっと晴れた夏の日差しに、地面に染み込んだ雨が加わって蒸し暑い。

 まずは石畳の道に沿って四阿まで行くと、「ん?」と今度は阿曇が声を上げた。すぐに安東も異変に気付いた。荷車の位置が昨日見たときと変わっているのだ。台風の影響かと思いきや、それだけではなく、

「おかしいな、お客が来るからと昨日載せておいた黒像式の壺が、荷車から降ろされてる。……もしかして台風が来たからと、急いで貴島さんが下ろしてくれたのかな」

 阿曇が不思議そうに呟く。

「それなら邸内に入れるのではないですか?」

「それもそうだね……んー」

 安東が訊くと、阿曇は納得して考えに沈んだ。

 台風は誰も予測は出来なかったはずだ。それは使用人にも当て嵌まることで、現に、装飾品や植物、干してあった葡萄や無花果などは、無慈悲にも強風で飛ばされ、散々な様相を呈していた。

「ちょっといいですか」

 と、有馬は小さめの壺を持ち上げた。元あった地面を矯めつ眇めつ観察するが、雨が十分に染み込んだ様子しか窺えない。それもそうだ。壺の置かれている地面は、一夜の横殴りの雨に根負けしたように一様に濡れていた。四本の柱と、隙間だらけのパーゴラドームしかないのだから仕方ないだろう。

 有馬は次に、大きめの壺を選んで両手で持ち上げてみせた。細い腕でよく持ち上げられるなと感心するも、さすがの重量に整った顔立ちは引き攣っている。三十センチほど横にずらすと、ふぅと息をつき、彼は元の壺の位置を注視した。

 すると、壺のあった場所には、丸い小さな円を描くように乾いた地面が存在した。壺の底より乾いた円の直径が小さいのは、雨が染み込んだせいだろう。内側に行くほどグラデーションで描いたように地面の色合いが薄くなっている。

「で、これが何だと言うんだ?」

 安東は黙考する有馬に尋ねる。自分達は遠山の捜索に来たのだから、あまり道草を食っている場合ではない。

「いえ……何の意味もありませんよ。今の時点ではね」

 意味深長な言葉にも覇気はない。壺を持ち上げて疲れたわけでもなく、何かを熟考しているようだ。昨日の夕食時のように。

 とにかく、ここで突っ立って有馬の謎かけを聞いていても不毛だ。

 石畳の道は昨日と同じく、ポセイドン像が控える浜辺の方角に延びている。そちらには向かわず丘の方に逸れて、阿曇のガイドに従って北に上っていく。その間、足跡の類いは見当たらなかった。

 雨水を吸い込んだ岩や土の地面から緑の生い茂ったそれに変わる頃、くだんの山小屋は北端の崖より二百メートルほど手前に建てられているのが見えた。普通の山小屋なのだろうが、正午の太陽を真向かいに受けて荘厳に見える。確かにここにゼウス神殿を建てれば、祀りたくなる気持ちにもなりそうだ。

 波音がより強く聞こえる入り口に着くと、阿曇が先頭に立ってノックをした。何の装飾もない木のドアだ。しかし立て付けは悪くない。縦横に配された木材には隙間なく――。

 ふと、ドアと壁の隙間から小さな黒い何かが羽ばたいて、海風に消えていった。

 小さな、黒い何か?

 何だろう今のは。

 安東が思考するよりも早く、阿曇が不快感を訴える。

「なんか、変なにおいがしないかい?」

 言われて鼻を海風に預けると、僅かに異臭を嗅ぎ取った。

 心臓が早鐘を打ち始める。

「鍵は、掛かっていませんか?」

 安東が阿曇に問いかけると、彼はドアノブを下げることで返答とした。施錠はされていない。この奥にどんな光景が待ち受けているのか。安東は暗澹たる思いを振り払えないでいた。

 ノブを下げたまま振り向く阿曇に、安東は言う。

「……開けて下さい」

「分かった」

 阿曇が頷いて、ゆっくりとそのドアが開かれる。頭上から照らす太陽の光が室内の闇を少しずつ払っていく。それに伴って小さな黒いものが、少量の蠅が、安東達の合間を縫って海風に散っていった。急激に悪臭が強まる。

 三人ほぼ同時に、室内を覗き込んだ。

 それは一生、心に残るであろう光景だった。この島で最も天上に近い場所で、冥府の門を開いた心境だった。

「う、うわあああぁぁ!」

 と阿曇は室内の状況を理解するなり、短い悲鳴を上げて頽れる。腰を抜かしたらしい。無理もない。彼が叫ばなければ、安東がその役割を担っていたことだろう。

 引き返すことは出来なかった。安東と有馬は衣服で簡易的に口と鼻を押さえつつ、十畳ほどのロッジ内に踏み入った。二人の足音に反応して、群がっていた蠅が渦巻くように喚き始める。

 それによって、床に仰向けの遺体がよく見えた。見えてしまった。絨毯の上の遺体は両手両足を投げ出すような格好だ。足をこちらに向けている。そして、身体の各部位には、まるで張り付けにするように銀の矢が穿たれていた。両の太腿に二箇所、胴に狭く三箇所、両肩に二箇所、両肘にも二箇所……。計九本の矢が衣服ごと貫き、そこから滴った血は黒く乾燥していた。

 ――星座がギリシャ神話を由来にして。

 ふと、昨日の貴島の台詞が脳を過った。安東は眼前の弄ばれた遺体が、何の見立てなのかを理解した。星座だ。それも、小学校高学年でも知っているオリオン座だった。

 オリオン座に見立てられた、遠山と思しき遺体。思しきと表現したのは、その遺体には顔が無かったからだ。止めとばかりに顔面には、例のアテナの槍が深々と突き立てられていたのだから。

「これは……何なんだ? ……俺はまだ、昨夜の星座でも見上げているのか」

「現実ですよ」

 有馬が言下に、真顔で答えた。

 そして素早く次の動作に移ったのも有馬だった。

 真剣な双眸でスマホを構え、数枚の写真を角度を変えて撮る。その後、一度山小屋の外に出て嘔吐き、空気を吸った。今にもリバースしそうなほどの嘔吐きは、初めて酒の味を知り失敗したときような辛さだ。十分息を整えると、復帰した阿曇と共に再び室内へ。今度はしっかりと電球の明かりを付け、蠅を追い払いながら有馬が遺体に触れ、検死をするのを見届ける。

「分かってましたが、死んでいます。昨晩着ていた服装や、髪型からして……残念ながら、遠山先輩でしょうね……」

 安東は改めて事実を告げられ、悔恨の思いが込み上げた。アテナの槍が盗まれたことに対して、もっと警戒心を抱いていれば……。そして憤りが。犯人に対する憎悪がふつふつと湧き上がる。誰がいったい遠山を、それも、これほどまで凄惨に。

「それから」

 有馬は膝立ちの姿勢で、室内の端の一箇所を指差す。

 そこに転がっているのは、錠剤らしき物が入ったガラスの小瓶。これには彼が指を差す前から、安東は気が付いていた。事細かに言うと、電球が灯されたときからだ。船酔いをする遠山を案じて、クルーザーで雪乃が貸した酔い止め薬だろう。

 遠山ではない僅かな可能性を願う安東の心に、無情にも彼が被害者であることの証拠が上乗せで突きつけられる。

「服は血液以外では濡れていませんね。死因は……生活反応からして、腹部を三箇所刺されたことによる出血性ショックでしょうか。しかし、床に流れ出た血液の量が妙に少ないです……」

 よく短時間で検死出来るなと思うが、替えが利かない重要な情報だ。感謝しなければ。

「さぁ、外へ」

 端的に有馬の指示が飛ぶ。

 安東も腐敗臭を堪えられなくなっていたところだ。

 再び外で息を整えること数十秒。その後で、おもむろに有馬がピンク色の薄い花片を摘まんでみせた。

「それは?」

「遠山先輩のベルトに挟まっていました。おそらく、アネモネの花でしょう」

 ひとひらのピンク色の花片は、少なくともこの島で飾られた花のうち、荷車に載せられていたアネモネしか安東には思い付かない。しかし、なぜ遺体にそれが付着していたのだろう。

 だが今はそんなことよりも。

「急いで邸宅に戻ろう」

 この惨事を、早急に他の人にも伝えなければ。

 二人も無言で頷き、島内を南へと下り始める。

 先ほどの惨憺たる光景が、脳裏にフラッシュバックする。顔が無残にも穿たれ、半ば張り付けにされていたせいで、眼を閉じさせてやることも、両手を握らせてやることも出来なかった。だからといって、遺体に手を加えては鑑識の妨げになるはずだ。安東は自分の無力さを痛感する。

 晩夏の日差しが眩しい。湿った大地が不快指数を上げる。それに伴って耳鳴りや頭痛が体の不調を訴えてくる。普段なら平気で堪えるはずのそれらに、安東は苛立ちを覚えずにいられなかった。邸宅までの道のりが、嫌に長く感じた。

不意に、隣を早足で急ぐ有馬の口から信じられない声が漏れ聞こえた。

「……フ、フフ……」

 嗚咽? いや、嘲笑? まさか。

 これも幻聴だろうかと横目で確認する。

 有馬は口元を手で覆ってはいるが、明らかに笑みを浮かべていた。目は爛々と輝きに満ち、先ほどの光景に対して愉悦を覚えていることは間違いなかった。

 安東の視線に気付いても、その表情を止めることはしない彼におぞましさを覚える。それどころかこちらを見ながら滔々と語るには、

「予想以上ですよ、部長さん。僕の想像を遙かに上回ることを仕出かしてくれました。……まさか星座の見立てで来るとは!

 オリオン、そう、海神ポセイドンの子の一人、オリオンです。狩人であるオリオンは、ある日クレタ島を訪れたとき、同じく狩猟の女神であるアルテミスと恋仲になりました。しかしアルテミスの姉弟であるアポロンは彼の粗暴さをよく思わず、毒サソリを仕向けます。そして慌てて海へと逃げたオリオンを指差し、アルテミスを唆すのです。『ハッ、遠く水平線に光るあれを射貫くことは、さすがのお前にも出来るまい!』と。同じ弓矢の神でもあり自尊心の高いアルテミスは、その口車に上手く載せられ、自らオリオンを射殺してしまうのです! 嗚呼、ヘカテーボロス……遠矢射る君よ!」

 こいつは……。

 晴天の空の先に星々を見据えるかのように仰ぎ、そして雄弁と語る彼に合わせて、安東と阿曇も立ち止まらざるを得なかった。

「自らが射たものがオリオンだと気付いたアルテミスは、死者をも蘇らせる名医アスクレピオスに懇願しますが、冥府を与るハデスがそれに反対します。アルテミスは最後の願いにと、ゼウスに彼を空に上げて欲しいと頼みました。そうして星座となった今でも、オリオン座はさそり座に追われて続け、また、月の女神でもあるアルテミスとすれ違う日を待ちわびているのです。哀れなオリオンよ……!」

 今度は悲嘆に暮れるかのように、彼は身振り手振りで優雅な表現を務める。阿曇は得体の知れないモノのように、有馬を見ていた。

 安東は胸中で複雑な思いを抱いていた。ミステリを嗜む人間にとって動機を重視するかどうかは、読み手によって差があることは経験から理解していた。綾乃は動機重視、雪乃と寺田はどちらも必要、遠山は謎解き優先といった具合に。そして有馬は、動機など必要ないと……不可能性の怪奇さや、緻密に練られた論理のみをこよなく愛しているのだと、豪語していたことがある。

 だからといって、それを現実の人格に落とし込むのは間違っているのかもしれない。だが、彼が今見せた素顔は、まさに極上の謎というディナーを眼前に差し出されたときのそれだった。ミス研メンバーである遠山の無残な姿を目にしたにも関わらず……! 信じたくはないが、軽蔑せざるを得ない。有馬には悼む心がないのかと。

 安東は堪らずに彼の胸倉を掴み上げた。身長は安東の方がやや高い為、吊り上げる格好になる。そうして語気を荒げながら忠告した。

「いい加減にしろ……。そんな神話上の話が何だというんだ? 遠山はサソリの毒で殺されたとでも? あるいはアポロンやアルテミスの間の人物が犯人だとでも? いいか、見立ては所詮見立てだ。犯人が戯れに行なった悪魔の所業だ。俺達はその意図を汲む必要は微塵もない。まして遠山をあんな目に遭わせた何処ぞの殺人鬼を賞賛する言葉は不謹慎過ぎる……。少し、黙っていてくれないか」

 有馬は感情の無さそうな目で見返してきていた。何も言い返しては来ず、何を考えているのか、全く読めない。

 安東は苛立ちを露わにして、胸倉を掴んだ手を解放すると、

「有馬、これだけは言わせてもらう。お前が内心でどう思おうが構わない。けれど、邸宅に戻った後でも同じ振る舞いをするのなら、自由はないと思え」

 安東が釘を刺すと、有馬は拍子抜けした顔をしてから双眸を細め、一見、話の繋がりがなさそうなことを述べる。

「なるほど、部長さんは外部犯を疑っているんですね。僕は好感が持てますよ、あなたのそういうところ。僕には到底、真似出来ないことですから」

 有馬が何を伝えたいのか、やはり理解は出来なかった。

 サークルで行なう犯人当てでも、ちょっとした謎解きでも、唯一対抗出来る頭の回転を見せるのは雪乃くらいだ。彼の聡明さが群を抜いていることは、入部して半年も経たない現在で理解している。そして安東自身は凡庸なのだと嫌というほど痛感している。

 だから彼は遺体を検死して、犯人までとは言わずとも、すでに何らかの真実に辿り着いているのではないか。先ほどの発言も鑑みると、そう思わずにはいられなかった。

 それでも、軽はずみな言動は頂けない。

 数十分の出来事だったが、安東は疲弊していた。ミス研内で自分が真っ先に取り乱してどうする。まずは体を休めて、心を鎮めよう。

 重い足取りで水気を帯びた丘陵を下る安東の眼に、すでに懐かしく感じる邸宅が映り、これは現実なのだということをしみじみと自覚させられた。

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