問題編 6,血塗られたテトラドラクマ

 朝になると、篠突く雨が嘘だったように澄んだ青空が中庭から見えた。

 安東が食堂に赴くと、既に遠山と有馬以外の人間は起床しているようだった。

「おはようございます。台風は無事に去ったみたいですね」

「部長が遅起きなんて珍しいっすね」

「枕が変わると眠れない質なんだ」

 率直に事実を言い、昨晩と同じ席に座る。綾乃に朝食を供していた阿曇が、パンでいいかと安東にも確認を取って台所に消えた。

「そう言えば部長さん。祭壇に置かれたドラクマについて知らない?」

 向かいの席でディズニーのTシャツを着た綾乃が、リスのように小麦パンを頬張りながら言う。知らないも何も、そもそもドラクマという言葉を聞いたことがない。意図を探りつつ逆に質問を投げ掛ける。

「中庭の祭壇のことか? 何か異変でもあったのか」

「実は、これなんですよ」

 眉尻を下げた貴島が、亜麻布に包まれた数枚の硬貨を机の隅に置く。

 貴島の説明によると、表にアテナ神、裏に女神を象徴するフクロウの彫刻がされた、一般にテトラドラクマと呼ばれる古代の銀貨らしい。その枚数は九枚あり、その内一枚が赤く塗りたくられていた。

「知らないな。見たのも初めてだ」

 ふうん、と寺田が息を吐く。

「部長が不毛な嘘を付くとは思えないけどなあ。こればかりは論理的に考えないと」

 彼は、まだ楽しんでいる節がある。しかし安東としては、昨夜の謎を含めると三つ目の不可思議な出来事だった。

 阿曇が小麦のパンと、豆とレタスのサラダを載せた皿を持ってきてくれた。謎解きを楽しむ心境には至れず、遅めの朝食をいただきながら、彼らの言動を見守ることに徹する。

「なあ……。俺でも分かるぜ。貴島さんと阿曇君の二人が共に嘘を言っていないからこそ、これを置けた人物なんて、限られるんじゃないのか?」

 消えた邸宅の主人か……。あるいは、と安東は寝ぼけた思考を廻らす。寺田の言いたいことは、貴島と阿曇の双方が知らないと言ったことで、どちらかは嘘を付いていると断言出来ることを言いたいのだろう。安東達ミス研のメンバーは、邸内に詳しくないのだから。しかしこの考えは性急な結論だ。

 阿曇も同じ考えに至ったのか、寺田の視線に気付いたらしい。

「ドラクマはオレ達も存在を知らなかったんだ。もしかしたらオレ達より先に物置とかで見つけた誰かが置いた場合だってあるよな。使用人というだけで容疑者扱いされるなんてまっぴらだね」

 阿曇は居丈高に答えた。

 場の空気が重くなる。雪乃が取りなすように口を開いた。

「確かに、誰が置いても不思議ではありません……」

 しかし意見を反転させて、

「それでも通貨を祭壇に並べたということは……生け贄の代わりとして、私達を望んでいるのではないでしょうか……。九つの銀貨、この島にいるのも、未だに姿を見せない弓塚さんを入れて九人です」

 安東にも思うところがないわけではなかった。だがしかし、何も事件も起きる前からネガティブな感情に同意するわけにもいかない。

「お姉ちゃんまで、不吉なことを言わないでよ。それに無理矢理クローズド・サークルに持っていこうとしてるでしょ。もし仮に……もしもの話よ。犯人がいて連続殺人を計画しているとしたなら、なんで初めから祭壇にドラクマを並べておかなかったのよ」

 綾乃の言に、寺田が反駁する。

「お供え物として無いものがあったら、貴島さん達が片付けてしまうからだろ」

 一理ある。クリスティの名作に登場するインディアン人形とは違って、使用人がいる邸宅で初めから無い物を置いておくことは難しく思える。

 安東は咀嚼したサラダを飲み込んでから発言した。

「思うんだが、それなら逆に使用人の二人は除外されるんじゃないか? 二人ならば、綾乃が言ったように俺達が来る前から置いておけたはずだ。供物の一種だと言われれば受け入れていたさ」

「昨夜は台風が通過したじゃあないっすか。祭壇に置かれた物は、ことごとく吹き飛ばされてましたぜ」

「台風は誰にも予測出来なかっただろう? つまり置いた人物がそれを見越して、初めから祭壇に銀貨を置かなかった、という推理は本末転倒なんだよ」

「んん……」と、寺田が言葉を詰まらせる。「じゃあ、そういう部長は誰の仕業だと思うんです?」

「分からないって。証拠が不十分だ」

 それを聞いた寺田は表情を和らげると、

「それなら俺が状況整理のついでに、各々のアリバイを説明しますぜ」

 サークルで催す推理ゲームのように、形式張った台詞を発する。『誰がテトラドラクマ銀貨を祭壇に置いたのか』という犯人当てを即興で行なう意気込みらしい。安東もようやく覚醒し始めた頭で付き合うことにした。

「まずは、それぞれの人物の起床時間を。阿曇さんが真っ先に起きて台所で朝食の準備。その後、貴島さんと雪乃さんが起床して食堂に行ったそうです。次に俺が起きたときには、雪乃さんはすでに朝食を終えて中庭を散歩してたっすよね」

 当の雪乃が話を継いだ。

「折角の機会なので……神像を眺めていたのです。ローマンコピーの模造でしょうが、精緻な石造りで惚れ惚れする作品だと思います……。祭壇も拝見させていただいたのですが、そのときには硬貨は置いてありませんでしたよ。――あ、そういえばアテナ像の持つ槍が消失していました。大理石の台座や裏側を隈なく覗いても落ちてはいなかったので、誰か持っていったのでしょうか? 私が使わせてもらっている部屋の前なので、昨日はあったと記憶しているのですが」

 安東はその言葉に反応する。

「ああ、俺も槍が見当たらないと思っていたんだ。昨夜の零時頃には無かったな。眠れなくてね」

 寺田が愉快ではないといった顔で、

「ちょ、ちょっと、出題中に別の謎を提示するのは勘弁してくださいよ。そりゃあ槍も気になりますがね。大方、遠山か有馬が写真を撮りたくてこっそり持ち出したんっすよ。あいつらなら無許可で持ち出しそうですからね。後で返すつもりでした、なんて言って」

 昨日の安東の思考とほぼ一致する回答を寺田は言う。あの二人の信用度はサークル内で統一されているようで、思わず苦笑が漏れる。だとしたら硬貨も二人のどちらかの仕業ではないか? とも思えるが、さすがに殺人を想起させる行為はしそうにない。

「話をドラクマに戻しますよ。俺が像を鑑賞中の雪乃さんとすれ違って、食堂に入る。その後、俺が食べ終わる頃に綾乃が雪乃さんと一緒に食堂に来た。俺と貴島さん、雪乃さんと綾乃で雑談をしていて、綾乃に朝食を供して手の空いた阿曇さんも加わる。入れ替わるように俺が用を足しに部屋に戻ろうとすると、祭壇に一枚だけ血に塗れたように置かれたドラクマを発見したってわけです。部長が食堂に来たのはその五分後ってとこっすね」

 ……ふむ。要するに食堂を中心に出入りがあったわけだ。安東はほぼ覚醒状態となった頭で思考を廻らすが、答えは出ない。パンの最後一欠片を飲み込んでから、フラッペの入った陶器のマグカップを傾けて落ち着くと、いくつか質問を投げてみる。

「中庭に出た人物は他にいないのか?」

「貴島さんが朝の仕事をってことで出入りしていましたが、俺が朝食を取る前の時間らしいっすね」

「つまり雪乃が祭壇を見てから食堂に入った後は、誰も食堂から出ていないんだな?」

「そうなるっすね」

「祭壇は、どのタイミングで見たんだ?」

 安東は次に、雪乃に向けて問うた。

「回廊を一周した後なので、最後です……。そこで妹も起きてきて、一緒に食堂に行きました……」

「なるほど。因みに細かい部分だが、どちらが先頭で食堂に入ったか覚えているか?」

「綾ちゃんは眠そうにふらふらしてましたから……後からついて来ました」

「だとすると――」

 安東はしばらく黙考した後で、解答を出す。

「ドラクマとやらを置いた犯人は、俺、雪乃、綾乃、寺田、有馬、遠山……つまり現時点では、貴島さんと阿曇さんを除いたほとんどが容疑者だな」

「え、俺もっすか!?」

「私も含まれるのですか……」

 寺田と雪乃が順に異議を唱えた。

「寺田は第一発見者なんだから当然だろう。ミステリの常套手段だ。雪乃は綾乃より先に食堂に入ったことから除外されそうだが、綾乃が寝ぼけているならさり気なく置いてもバレないさ」

「なんか、腑に落ちない結論の推理ね。『誰がテトラドラクマの銀貨を祭壇に置けなかったのか』だったら二人まで絞れたのに」

「それこそ不毛な出題だろ……」

 中途半端に終わった犯人当ての幕が下りると、それなりの時間が経っていることに気付く。

「遠山と有馬はまだ寝ているのか?」

「有馬君なら、オレが起きてから早々に食堂に来て朝食を食べていったよ。部屋に戻ってるんじゃないかい?」

 阿曇が新たな事実を出すと、「え、それなら早く言ってくださいよ」と寺田が不満げな声を出す。さっきの推理の前提が云々とブツブツ独り言を呟く。

「だったら遠山だけか。遅起きの俺が言うのもなんだが、さすがに遅いな」

 安東が疑念を呈したとき、回廊から足音が聞こえた。

「おやおや、皆さん揃って昼食が待ちきれないんですか? グルメサークルに入った覚えはないんですが」

 それはニヒルな笑みを浮かべ、冗談を飛ばす有馬だった。


 彼を加え閑談して時を過ごしながら、安東は腕時計の針に目を落とす回数が増えていることに気付く。理由は一つだ。午前十一時を過ぎても遠山が食堂にくる様子はなく、安東は一抹の不安を胸に抱いていた。

 アテナの槍、穴だらけのハンギングバスケット、そして赤くまみれたドラクマ……。陰で着々と物事が進んでいるような、何かがお膳立てされているような、そんな不穏な気配を感じる。気掛かりなのは安東だけではないようで、

「ははっ、もしかしてあいつの短編みたく刺殺体になってたりしてな」

「……寺田さん、笑い事ではありませんよ。もし不慮の事故で身動きが取れなくなっていたら……もしくは、体調不良で同様の事態に陥っているかもしれません。……私、声を掛けてきます」

 確かにその可能性はある上に、一刻を争う事態ならば確認するべきだ。杞憂なら御の字なのだから。

「俺も行――」

「待って下さいよ雪乃さん。そんな美味し……応答も無く施錠もされていたら男の力が必要でしょう。僕も付いていきます」

 安東の言葉を遮って有馬がしゃしゃり出た。こいつは今、口を滑らせなかったか?

「応答が無ければマスターキーを持つ貴島さんに頼るまでだよ、悠士君。ドアを蹴破るなんて物騒」ピシリと雪乃が言う。そして、「……すみませんが貴島さん、取り越し苦労かと思いますけれど、マスターキーの準備をしておいてもらえませんか?」

「分かりました」

 朗らかに答える貴島を見ると、雪乃は満足げな表情を薄く浮かべて部屋を立ち去った。

「おっと、スマホの充電が切れそうです。僕も少しの間失礼しますよ」

 有馬は大袈裟にスマホを見遣ると、止める間もなく浮き浮きと食堂を出ていってしまった。十中八九嘘だろうが、迷惑が掛からないなら気が済むまで探偵ごっこをさせておけばいい。

 それよりも、遠山の安否の方が安東には気掛かりだった。本当に寝ているだけならいいが、妙な胸騒ぎを感じる。台風後の急激な気圧変化に拠るものだろうか。あるいは……。

 食堂にもドアはないので、邸内の声や音はよく届く。雪乃の声と、やはり有馬の声、そしてノックを何度もする音が、中庭の向こうにあるヘファイストスの間から聞こえていた。それは数分間続いたように思う。

 安東達が覚束無い心地で待っていると、二人が帰ってきた。どうやら無駄足に終わったようだ。

「……何度もノックして呼び掛けても、駄目なんです。返事がないどころか物音一つしないんです。……鍵は掛かっていましたので、室内にいるはずなのですが……」

「ねぇねぇ、どうします? ドアは施錠され窓は板張りで塞がれている。室内から部屋の鍵が発見されれば、これは完璧な密室ですよ! ああでも、マスターキーの存在が無粋だな……。それに遠山先輩が朝食も取らずに出かけてるってオチだったら、がっかりですね」

 表情を張り詰めた雪乃と、満面の笑みを浮かべた有馬が交互に言った。

 雪乃は珍しく憤りを見せ有馬を一瞥してから、安東達一人一人に問いかけるように、

「杞憂なら……、それで構いません。けれど私は一刻も早く安否を確かめたいです」

「ドアを閉めれば、中庭の物音も聞こえないほど部屋の防音性は高いですからねぇ。聞こえてないのかしら。でも、ノックの音は室内に響くはずよ。……変ねぇ」

 貴島の表情にも、さすがに陰りが差していた。

「雪乃に賛成だ。すぐに向かおう。貴島さん、マスターキーは用意してくれていますか?」

 安東が問うと、

「鍵は常に携帯しています。行きましょう」

 いつもの朗々とした口調を潜ませて答えた。

 七人が揃ってヘファイストスの間に向かうと、貴島が施錠を解く。そしておもむろにドアを開けた。

 夏の暑さのせいか、得体の知れない緊張感のせいか、額に汗が滴り落ちる。

 ドアを開けた貴島が部屋のランプを点し、昼時でも真っ暗な室内に明かりが差す。数歩踏み入る。安東もその後に続いて室内を見回すが、そこはもぬけの殻だった。

 ベッドの傍には遠山のバックパックが置かれている。安東は失敬して中を検めると衣服や必需品の他に、ビニールに入れられた衣服が一着分あった。

「トイレにもシャワー室にもいないぞ!」

 そちらを確認していた寺田が声高に伝えた。

「……うそ。ちょっと、ほんとに朝食も食べずに外出したっていうの?」

 綾乃は目をぱちくりとさせている。

 遠山が部屋にいない事実から推測する限り、本当に食堂に顔も出さずに出掛けたのだろう。あるいは、昨夜から部屋に戻っていないのか……。

「遠山を探そう」

 安東は最悪の事態を想定して皆に呼び掛けた。

「貴島さん、この島には四阿以外に観光出来そうな場所はありませんか? 遠山が写真を撮りたくなりそうな場所や建物は」

「そうですねぇ……。島の北側の、山頂とは名ばかりですけど、そちらに山小屋があるそうです。……もしかしたら主人も、そこに籠もっているのかもしれません」

 貴島は真摯な表情で答えた。

 もしくは、海の景色につられて崖から足を滑らせた可能性も否定出来ないが、まずはその山小屋を確かめようと安東は決断した。外れたなら、戻り次第全員で島中を探せばいい。主人の弓塚とやらは申し訳ないが二の次だ。

「なら、その山小屋を調べよう。俺と……阿曇さんは山小屋を知っていますか?」

「行ったことはないけど、方角なら分かるよ」

「では、お願いします。もう一人くらい欲しいな。……寺田、来てくれるか?」

「勿論ですぜ――」

「待って下さいよ!」

 言下に、有馬が不満の声を上げた。

「寺田さんを連れて行くぐらいなら、僕を同行させて下さい。ほら、もしも応急処置が必要な場合があれば、僕の方が役に立ってみせますよ」

 この期に及んでお前は、ピクニックに出かけるわけじゃないんだぞ――そう出掛かった言葉が寸前のところで止まった。見ればいつの間にか有馬は、小型の鞄を手にして毅然と待機している。処置の道具が入っているのだろうか。

 救助の意味で寺田を指名したが、冷静に考えれば有馬の言い分は理に適っているように思えた。確かに、万が一の事が起きた場合、有馬の知識と技術は頼れる。胸中の葛藤を宥めて、同行を頼むことにした。

「分かった、代わりに有馬が付いてこい。他は貴島さんと一緒に邸内を探してみてくれ」

 寺田はやや不満げだったが、医学知識の差は歴然だと理解しているのだろう。何も言わなかった。

 三人が足早に回廊を巡って玄関に出る直前のことだ。

「おや、これは何でしょうか」

 有馬が一箇所を見つめて立ち止まり声を上げた。先を急かそうとした言葉が喉元で止まる。それはスマホのようだった。しかも、カバーからみて遠山の私物だ。アテナの間の前にある、アテナ像の足元。高さ数センチの平らな大理石の台座に、立て掛けるようにしてそれは置かれていた。背後の台座が保護色になっていて、有馬が注意を払っていなければ見逃していただろう。だが、なぜここにあいつのスマホが?

 有馬がハンカチを取り出して慎重に手に取った。安東と阿曇が証人として見ているだろうことを確認して、画面を点灯すると、動画撮影の終了が表示されていた。有馬はゆっくりとタップ操作を繰り返し、その動画を再生した。

 昨夜の中庭を中心に映した映像だ。アテナ像の足元に立て掛けた状態の角度だろう。ゆえにローアングルで、邸宅の下側寄り、やや右側を映していた。

 不意に、有馬が停止ボタンをタップする。画面が暗転した。

「おい、映像を確認しないのか」

「これは……もしかしたら重要な証拠になるかもしれません。後で全員がいる前で改めて観ることにしましょう。ああ、僕が持っているのが不安でしたら、部長さんに預けますよ」

 真剣味を帯びた口調の有馬から、安東は無言でそれを受け取って大事に内ポケットに入れる。それからようやく安東、有馬、阿曇の三人は邸宅を出発した。

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