問題編 5,夜空を廻る英雄

 夜中、安東は目が覚めた。手探りで腕時計を手に取ると、まだ午前一時前という時刻が文字盤に浮かんでいる。安東は小さく溜め息を付いた。枕が違うとなかなか寝付けない性分で、従兄弟のペンションに宿泊したときにも苦労したものだ。

 板張りの窓からは外を窺えないが、D大学周辺よりも星が煌々として見えるのだろうか。安東はベッドから立ち上がり、外に出るべく部屋のドアを開けた。

 中庭と回廊では松明を模したランプが赤々と点され、昼間とは違った邸内の姿を見せている。

 ふと足音が聞こえたかと思うと、「あら?」という声。暗がりの食堂から明るい場所までその人物が来て、ようやく正体が分かった。ヒマティオン(外套)を着込んだ貴島が、ワインの入った陶器と手燭を手に回廊を歩いてこちらに来ていた。

「眠れませんか?」

「ええ……心地良い部屋ではあるんですが、恥ずかしながら枕が変わるとどうも眠れない質でして。貴島さんは、喉が乾いて?」

 安東は飲み物から推測して問うた。

「ふふ、飲み物が欲しかったのは本当ですけど、私も人のことは言えませんよ。夜型の仕事を転々としてきましたからねぇ。この時間は平常運転です。それに、この島では星々がこんなにも綺麗に見えますから、ちょっとした寝る前の贅沢をしているんですよ」

 と、貴島は微笑んだ。そして、

「よかったら屋上に行きませんか? 中庭よりも風通しが良くて快適ですよ」

 そう言って安東に待機するように言うと、台所に戻っていった。

 安東は暇を持て余して目線を中庭に向ける。ふと、何かが違っているような違和感を感じた。夜の帳によって感覚が狂っているのだろうか。安東は慎重に視線を順繰りに巡らす。そしてようやく気が付いた。アテナ像が持っている槍が無くなっているのだ。左手に持つ盾や防具はそのままに、右手はやや拳を掲げる格好になっている。……誰かが持ち出した? 筆頭候補はこんな機会はないと熱心に写真を撮っていた遠山だろうか。ギリシャ知識を披露していた有馬も、十分あり得る。いや待てよ、その二人なら堂々と許可を取るような気がする。だとすると、綾乃あたりがダークホースとも言える。

「どうしました?」

 答えの出ない考えに耽っていた安東に、今度は二つの陶器を両手に帰ってきた貴島が不思議そうに問う。隠しても無意味だろうと結論付け、安東は打ち明けた。

「それが……アテナの持つ槍がないなと思いまして」

「あらま、ほんとね。……でも学生さん達を見る限り悪さをするような人はいなさそうだったから、あんまり心配はしていないわ。ふふ、案外朝にはこっそり元通りになってるかもしれないわよ」

 楽観視する貴島を見て、安東の心にも幾分気がかりだった気持ちが薄れるのを感じた。

 それから彼女に飲み物の入った陶器を渡される。

「葡萄酒はお嫌い?」

「いえ、お酒の中では一番好みです」

「それならよかった。中庭も夜空は綺麗に見えるのだけれど、ピルゴス(上層部分)の方が島の景観も良くて全天を見渡せるの」

 安東は彼女に委ねることにした。石造りの階段の感触を踏みしめながら、二人で階上に向かう。二階も全面、ロの字型の屋上になっていた。石造り風の手摺りから内側を見下ろすと中庭が、外側を見渡すと島の夜景が月明かりに照らされて見える。二人は屋上を半周してディオニソスの間の上辺りで歩みを止めた。

 なるほど、夜風が肌に心地良い。空を仰げば遮る物などない満天の星々。秋の空が近づいていることを思わせる。異国情緒漂う島に着いてから、安東は初めて心が落ち着くのを感じた。葡萄酒も入っているから余計にそう思うのかもしれない、というのは風情がないだろうか。

 揺蕩うような甘美な心地に、安東はもっとギリシアの世界を堪能したくなり話題を振った。

「面白い逸話でも聞かせてもらえませんか?」

「そうですねぇ」と、貴島は自分の好きな古代ギリシャを語れるのが嬉しそうだった。頬に手を当てながら考えた後、

「男の子なら、英雄の話が良いかもしれませんね」と笑む。

 安東はこの歳で男の子と呼ばれるとは思わなかったが、五歳も離れている女性から見れば、大学生の自分など少年のように見えるのかもしれない。

「どのお話にしましょうね? 食事時に話したパリスの審判の続きは、パリスがヘレネを連れ帰ったことが切っ掛けで十年も続くトロイア戦争が勃発するのだけれど――トロイの木馬作戦で有名な戦争ね――、そこで活躍した英雄アキレウスやオデュッセウスの話はどうかしら……」

 そうか。夕食のときに思い出せなかったフレーズはトロイの木馬だ。詳しい内容は知らないが、巨大な木馬を城内に入れてしまったことにより戦争に終止符が打たれたはず。今なお続く悪質なマルウェアの語源でもある。

「もしくは、五十人の勇者と共にアルゴ号で出航し、金羊毛を探し求めた英雄イアソンのお話はどう? ギリシャ三大悲劇のメデイアにも繋がるエピソードね。あるいは、名工ダイダロスによって築かれた迷宮の最奥にいるミノタウロスを退治した、英雄テセウスの話はどうかしら。彼に恋したアリアドネの糸や、テセウスの船というパラドックスでも知られているわね」

 どの話も一律に魅力的だったが、星々を見ながら彼女の澄んだ声で語り聞かされる神話なら何でも構わないなどと、無粋なことを思ってしまう。本心なのだから仕方がない。

 安東が選び倦ねていると感じたのか、貴島の方から話を選んできた。

「それなら、ヘラクレスという英雄はご存じです?」

「名前だけは……。星座にもなっていますよね。勇猛果敢な戦士だったとか」

「正解です」と彼女は微笑んだ。

 星座の名であることは知っている。しかし降り注ぐ星々を注視しても、どの辺りにヘラクレス座があるかは見当もつかず、夏に見える星座なのかもさえ知らない有様だ。安東は自分の浅学を改めて自覚する。

 安東の胸中などおそらく知らずに、貴島は滔々と神話を語り始めた。

「彼はゼウスの子、英雄ペルセウスの孫にあたります。神と人間の両方の血を持っていたわけですけれど……実はこれまた彼もゼウスの子なのです。ゼウスさんは自分が生ませた子孫であっても手を出す困った神様だったんですねぇ。案の定、正妻のヘラの嫉妬の的にされ、赤ん坊であるヘラクレスの揺りかごに二匹の蛇を放ちますが、彼は難なく二匹を両手で絞め殺しました」

 赤ん坊なのに強すぎるだろう、という思いを安東は飲み込んで続きを聞く。

「ヘラの嫉妬は執拗に、再び襲いかかります。成人になっていたヘラクレスは、ヘラに狂気を吹き込まれ、なんと自分の子を殺してしまうのです。失意に暮れたヘラクレスは、妻をおいて旅立ち、デルフォイの神殿でアポロンからご神託を伺います。それが十の試練……結果的には二つ増えて、十二個の試練を乗り越えよ、というものでした。ヘラクレスはその神託に従い、次々と困難を乗り越えます。黄金の獅子退治に始まり、アマゾネス女王の腰帯の奪取や、ケルベロスの生け捕り、三十年も放置された牛小屋の掃除なんてものもありまして、特にヒュドラ退治で得たヒュドラの猛毒は、後々多くの場面で登場することに――。……って、安東さん? あのう、もしかして退屈ですか?」

 安東が邸内の一点を見つめていた為、心配したようだ。実際に安東は、邸宅内側の手摺りに寄り掛かっていた。何故なら、よく目を凝らすと、月明かりと松明の火に薄らと浮かび上がる謎めいたものを発見したからだ。

「あれ……何か変ではないですか?」

 安東は斜向かいの屋上(デメテルの間の上辺り)の内側を指差す。貴島がよく見ようと隣に並び、ふわりと香水のオリエンタルな香りがした。

 それは二階の屋上から内側に向けて、彩りの良い花や植物を飾る為に吊す植木鉢――ハンギングバスケットの一つだ。その木製のバスケットは屋上の内側と外側、四方向に複数個が並べられ掛けられているのだが、問題は件のバスケットの籠に穴が空いているように見えることだった。加えて、緑の覆いのように垂れ下がった植物が、その一つだけは枯れてしまったかのように少ない。それゆえに籠の木製部分が剥き出しになっていて、僅かな明かりでも穴が空いていることに気づけたのだ。


見取り図,邸宅屋上(みてみんに投稿)

https://34896.mitemin.net/i580608/


「無くなっていた槍といい、おかしなことが起こりますねぇ」

 貴島が小首を傾げて不思議そうに言った。

 アテナの槍か……。それを盗んだ犯人が、バスケットに穴を空けたのだろうか。いや、中庭からは背伸びをしても、瓦屋根が邪魔をして届かないはず。そう、中庭の二階部分とベランダとの境には、傾斜のある瓦屋根が存在している。一階の九本の柱は直接屋上ではなく、その屋根を支えている構造だ。

 では、中庭に置いた脚立に乗ってから刺したのだろうか。いや、ここには脚立などありそうもない。ならば、二階に上って手摺りから身を乗り出して刺したのかもしれない。

 ……待てよ、だからどうだと言うのだ。ハンギングバスケットを突き刺す行為に、何の意味があると言うんだ? ……嫌がらせか? 誰が、どうして。下手をすれば、この行為は誰にも気付かれなかった可能性もあった。それに嫌がらせをするのなら、故意ではないが綾乃のように神像を壊した方が手っ取り早く効果的だ。

「元々、穴が空いていたなんてことはありませんか?」

「どうでしょうねぇ。お昼のうちに花や植物に水を掛けて廻りましたけど、上層からでは気が付きませんでした」

 不意に貴島は、はっと思い当たった表情する。そうして自信満々に、

「そうだわ。太陽の当たる昼間なら絶対に気が付いていたはずです。中庭からは視角的に無理でも、回廊からは見えますからね。お客様が来る日だからと、色んな角度からの見栄えをこれでも確かめたんですよ」

 朗々と説明する彼女は、それほど不審に思っていないようだ。

 反対側に回れば手が届くだろう。確かめに行きたい気持ちは大いにあったが、貴島の話を中断させてしまった負い目の方が強かった。部屋に戻るついででも遅くないと判断して、彼女に向き合う。

「話を遮ってしまってすみません。続きを聞いてもいいですか」

 貴島は少し困惑しながらも、考えるように眼を泳がせる。

「どこまで話したかしら……? そうそう、見事十二の功業を果たしたヘラクレスは、兄であるミュケナイ王、エウリュステウスに報告しました。因みに王の座にはヘラクレスがつくはずだったのですが、ここにもヘラの報復が影響して、兄弟が生まれてくる順番を入れ替えてしまった、という話があります。

 無事に平穏を取り戻したヘラクレスでしたが、彼の最期はちょっと悲しいです。ある日、ヘラクレスと家族が川を渡ろうとしたところ、あまりに流れが急であり、川辺にいたケンタウロスのネッソスに、妻のデイアネイラを乗せてもらうよう頼みました。ネッソスは快くそれを引き受けると妻を乗せ、いち早く向こう岸に着きます。するとネッソスは不適に笑い、なんと妻を犯そうと襲い出すのです。けれど数多の苦難を乗り越えてきたヘラクレスにとっては些末な出来事。ヒュドラの毒矢を放ち、いとも簡単に射殺すことに成功します。しかし悲劇は、彼の与り知らぬところで展開していきます。ヘラクレスが川を渡って妻の元へ行く前に、瀕死のネッソスは妻に囁くのです。

 『ヘラクレスはモテるだろうさ。あんたはいずれ捨てられるかもしれない。旦那の愛が離れそうなそのときは、俺の血を服に忍ばせな。俺の血は媚薬になるんだ』

 嘘だと思いつつも、不安なデイアネイラはその血をこっそり残しておくんですねぇ。そして日々が過ぎた頃、イオレという王の娘に愛が移ることを懸念した彼女は、密かに儀式用の衣装に血を染み込ませて送りました。ヘラクレスが身に付けると、たちまち猛毒が体を蝕みます。ネッソスの血はヒュドラの毒と同じ効果をもたらしたわけです。そして一説によると、苦痛に耐えきれず生きたまま火葬してくれとポイアスに頼みました。ヘラクレスは死後、ゼウスによって天上の星に変えられ、神々の仲間入りをします。それでもヘラの妬みは続いていて、逆さまの星座で夜空を廻ることになるのでした――。こと座のベガを横に見て、あれがヘラクレス座よ。明るい星が少ないのが残念だけれど」

 と、貴島は背伸びして夜空の一点を指差す。安東は今度こそヘラクレス座を見つけることが出来た。

「なんとも、救われない話ですね」

 安東は貴島の語りに相槌を打ちつつ、消えた槍について考えていた。そして新たに浮上した、向かいのハンギングバスケットの謎も。

「それにしても神々や英雄の浮気や嫉妬は、人間のそれと変わらないように感じますね」

 安東が言うと、貴島は興奮気味に、

「そうでしょう、そうでしょう? 人間くさい話が多いのが、ギリシャ神話の魅力とも言えます。例えばポセイドンはすぐに怒ることで有名ですねぇ。よくよく神々と領土の所有権を争っては、負ける度に洪水を引き起こし、ゼウスから次に同じ事をやったら許さないと咎められますが、今度は逆に川を干上がらせて言うのです。『洪水は起こしていないぞ』と――」

 槍を密かに持ち出したとして、どんな意味があるだろうか。先ほどは写真を撮る為などと考えていたが、どうも腑に落ちない。神像は部屋の外に飾られ、触る程度だったら貴島も阿曇も快く了承してくれそうだ。ならば、あの穴空きバスケットと関係があるに違いない。安東は再び向かいのそれを見遣るが、何の推測も思い浮かばなかった。

「やっぱり、退屈なお話でしたか?」

 視線を戻すと、貴島が心の奥を見透かすような眼をしていた。

「いえ、そんなことは……」つい言葉が詰まった。まだまだ耳を傾けていたいと思っていることは本当だ。しかしアテナの槍の件といい、穴の空いたハンギングバスケットといい、どうにも謎に気を取られ、彼女の話に集中出来なかったことも本当だった。

「誰もが、古代ギリシャの世界を好きになるわけではありません。とりわけ安東さん達はすでに、ミステリーという趣味をお持ちなんですから」

 安東の心を汲み取るように、貴島が言った。

 一部誤解もありそうだが、反駁するのも違って思えた。魅力的な世界ではあるが、安東にとってミステリと比肩するほど夢中になれるかと言われれば難しい。ミス研を創設した安東には、やはりそれだけミステリに拘泥するほどの愛があることは事実だからだ。

 安東は言葉を厳選しつつ、

「お互い、これが好きだと思える趣味があるというのは素晴らしいことだと思います」

 自分でも陳腐な台詞だと思ったが、彼女は合わせてくれるようだった。

「そうですねぇ。好きなものに巡り会えたことに乾杯しましょうか」

 貴島は僅かに口角を上げて、器を掲げた。

 陶器なので無骨な音が鳴る。

「折角なので、ミステリーと関連のあるお話を少しだけ。実は英雄ヘラクレスは、アガサ・クリスティと密接な関係があるんですよ。エルキュール・ポアロという名探偵を安東さんは勿論ご存じだと思いますが、エルキュール(Hercule)とは他でもないヘラクレスのフランス語形なのです。そしてクリスティは『ヘラクレスの冒険』という作品を執筆していたり、ポアロの一卵性の兄弟であるアシル(Achille)も、フランス語でアキレウスのことですね。ああ、アキレウスというのはアキレス腱で有名な、トロイア戦争で活躍した英雄です。

 ……ただ、ポアロが豪腕だったり、大男だったという話は聞きません。逆にヘラクレスが知略に富んでいたという逸話も思い付かないので、クリスティはどういった意図で神話から名を取ったのだろうとは不思議に思いますねぇ」

 安東にもポアロとヘラクレスの共通点はまるで分からなかったが、ギリシャ神話とは、かの有名なミステリの女王にまで影響を与えているのかと感嘆した。

「この道楽のような仕事でも、私は、ご主人の気まぐれで採用されたのでしょうけど、今では悪くないと思ってます。だってこんな仕事、海外で暮らしても簡単には出来ませんでしたから。生きていれば良いこともあるんだなって思えました」

 彼女は星座を仰ぎながら、のちに教わったホメロス風讃歌の一編を口ずさみ始めた。その横顔は満足そうで、意味深長な言葉のわけを問うのは野暮かと思い、安東も彼女の歌に耳を傾けつつ倣って星座を眺めた。

 何分、そのまま天空を仰いでいただろう。

 頬にかすかに触れた水滴で、はたと気付く。風が心なしかざわめいている。夜空には疎らに黒雲がかかり、今にも雨を降らせようとその密度を急速に高めていた。それは瞬く間に大粒の雨になり、それまでと様相が一変した。

 二人は慌ててベランダを駆け、石段を目指す。

「おいおい、まさか本当にポセイドンの怒りかよ……」

「今、ポセイドン、と言いました?」

 小声で言ったつもりだったが、聞こえていたようだ。

「あー、いえ……それは」

「気になるじゃないですか。教えて下さい」

 安東は失言を後悔した。急いで石段を駆け下り、回廊の壁面に逃れると、貴島の問い詰める視線に根負けしたように口を開いた。

「浜辺にポセイドンの神像があるのはご存じでしょう。実は……あの像が手に持っている槍を、うちの綾乃が誤って折ってしまったんです。本当に申し訳ありません」

 安東が頭を軽く下げると、貴島は無邪気に破顔してみせた。

「なぁんだ、そんなことですか。構いませんよ、と私が言うのも変ですけど、お客さんを呼んでおいて当の主人が姿を眩ましているんです。その失礼さに比べたら安いものでしょう」

 孤島にこんな世界を作ってしまうくらいお金があるんですから、と付け加えながら、ちろりと舌を出した。安東はそれを聞いて安堵する。それにしても謎の招待主はどこにいるのか。

 雨脚は急速に強まっていき、風もビュウビュウと不吉な音を耳に届ける。これは間違いなく台風が進路を変更したのだと安東は確信した。

 中庭から恨めしく空を覗くと、星々はすでに雲の向こう側だ。頂いたお酒も、先ほどから眠気を誘発させていた。

「仕方ありません。寝るとしましょうか」

「そうですねぇ」

 飲み干した二つの陶器を片付けに行こうとする彼女の背に、「貴島さん」と呼び掛け、胸中で燻っている疑問を飛ばす。

「先ほどのバスケットの件なんですが、見栄えと貴島さんは言いましたよね。しかし回廊の一部からしか見えないあんな場所にどうして飾ってあるのでしょうか? ……あぁ、失礼な質問でしたらすみません」

 貴島は朗らかな口調で言う。

「ふふ、ほんとにミステリがお好きなんですね。でも蓋を開けてしまえば、たいした謎ではありませんよ。主人に内側も飾れと言われたからです」

「そうでしたか。……では、穴が空いたように見えたあのバスケットだけ植物の緑が少なく見えたのですが、それは」

「あらま、ミステリ研究会としては気になって眠れませんか?」

 ふふっと笑みを浮かべるが、今度は、

「けれど今日のところは部屋に戻りましょう。ほら、雨脚が強くて、回廊まで水飛沫が……」

 穴の空いたハンギングバスケットに気を取られ過ぎていて、迂闊だった。サンダルを履いた彼女の足元にも地に落ちた雨が跳ね返り、キトンの裾まで黒く染め始めている。安東も同じ有様だった。

「すみません。気が回らずに」

「いえいえ、私がギリシアの話に熱が入ってしまうのと同じですよ。それでは、お休みなさい」

 二人は回廊で別れ、安東は神の間に戻った。飲み干した陶器の片付けは彼女にお願いしてもらった。明日、神話の話のお礼と共にもう一度感謝を伝えよう。それと、謎にかまけて話を上の空で聞いていた謝罪も、出来るなら。

 デュオニソスの間に入る前に、回廊から中庭の上層部を振り返った。傾斜のある瓦屋根の上、手摺りの部分にあるバスケットはここからでも見えたが、思考をリセットするようにかぶりを振る。謎は明日解こう。安東は後ろ髪を引かれる思いで部屋に入った。

 短時間に濡れてしまった髪や体を持参したタオルで拭き、寝間着に着替える。ベッドに横になるとすぐに睡魔はやってきてくれた。

 明日は島内の探索や山小屋とやらも見に行ってみるか。

 招待主の不在は思うところがあるが、建造物は安東に予想以上の驚きを与え、知識欲も刺激された。貴島さんの解説も然りだ。有馬の蘊蓄も……一応。他のミス研メンバーはどう思っているだろう。奇妙な状況となった合宿を楽しめているだろうか。そんなことを考えながら安東は深い眠りの淵に落ちていった。

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