問題編 4,パリスの審判

 安東の引き当てた部屋は、ディオニソスという酒神らしい。部屋の前に佇む神像は、葡萄の房で作られた冠を頭に乗せ、これまた葡萄の蔦と松笠の付いた杖を携えていた。

 施錠を解いて室内に入る。すぐ脇のスイッチを押すと、天井のランプが真っ暗な部屋を明るく満たした。そこでふと、ドアの挙動が気になった。ホテルのように、開けっぱなしのままでは自動で閉じていかないようだ。決して木製のドアは安っぽい造りではないが、これも当時の再現というわけなのだろうか。

 そうなると、はたしてベッドがあるのかと懸念を抱いたが、寝心地の良さそうなそれを確認して安堵した。客人に配慮してだろうか、さすがに内装まで完璧に再現することは断念したらしい。ついでにバスルームとトイレもしっかりと備わっている。ただし窓は引き違い窓になっているが、そもそも外側でしっかりと板張りが施されている為、太陽光は諦めるしかなさそうだった。

 ベッド以外に着目すると、棚に置かれた赤茶色の壺には溢れそうな葡萄、壁には松笠の杖やヒョウの剥製、そして賑やかな男女の絵画が飾られている。おそらくこの絵の中にディオニソスがいるのだろうが、安東には判別が付かない。

 さっそく汗を流そうと思いバスルームに足を運ぶと、およそ日常生活で見掛けない、縁の婉曲した猫足のバスタブがあり、口許がほころぶ。

 シャワーを浴びて着替え終わると、有馬の台詞を思い出す。酒宴部屋があるようなことを言っていたが、場所を聞きそびれていた。

 取り敢えず安東は部屋から出て、回廊を時計回りに進んでみることにした。

 どうにも目に付く神々の前を幾つか通り過ぎると、女性達の声が耳を掠めた。ドアの付いていない部屋からだ。覗いてみると、床には絨毯や動物の毛皮が敷かれ、柔らかそうな織物が雑多に転がっている。

 雪乃と綾乃と貴島が、木製の低い長椅子に座り喋っていた。寺田と有馬は、壁に飾られた弦楽器や大楯などを興味深げに眺めている。

「ハデスがいないのは冥府の神だからかと思うのですが、ゼウスの神像はここにはないんでしょうか……?」

「ああ、ゼウスさんね」

 と、近所の住民の居場所を教えてくれるような口振りの貴島。

「古代ギリシャでは、栄えていたポリスの中心で祀られた神は、アテナなどの守護神、戦の神なのよ。街並みによってはアポロンやアフロディーテなども祀られていたけれども、ゼウスは神々の頂点。彼が祀られるべきは山頂なの。……ここからでは見えないんだけど、島の北側に建てられてる山小屋があってね。そこを近々、りっぱな神殿に変えたいと主人は言っていたわねぇ」

 まだ島内がギリシアに染まっていることを知らない海上で、クルーザーで島を旋回したとき、北側の高所に見えた建物だろう。思えばあれは目的地ではなく、貴島の言う山小屋だったようだ。

「と言っても、実はゼウスはこの家でも祀られているのよ? さあて、どこでしょう」

 貴島は子供になぞなぞを出すような仕草で問う。口調はほぼため口になっていて、少しの時間で堀川姉妹と親しくなっている雰囲気が伝わってきた。

「家の中? うーーん……あ、分かったわ! 中庭の祭壇でしょ」

 綾乃が声を上げると、

「ピンポン、正解よ。中庭に設けられたあの祭壇はゼウス・ヘルケイオスといって、家の神としてのゼウスの呼び名なの」

「――なるほど。では他の神々が祭壇ではなく神像として祀られていることには、どんな理由があるのですか?」

 安東が目配せで挨拶をしながら傍の椅子に腰掛け、話に割り込んだ。

「そういやぁ俺も思ったぜ。笠井潔の『オイディプス症候群』の舞台となる館には、牛神像ばかりが立ち並んでいたな」

 古代楽器に注いだ目線を外して、寺田が言った。

 彼の言う本は、船上で遠山がわざわざ寺田に返却した分厚いミステリのことだろう。シリーズ五作目らしく、安東はまだ手が出せていない。

「うーんとですねぇ」貴島はやや眉根を上げる。そして密談をするような声音を作り、

「ここだけの話ですよ。……この島の主人がどう考えているかは分からないけど、美術館としてならまだしも、この邸宅は当時の富裕層の家に似せているのよね。だとすると、これだけ多くのローマンコピーの複製を祀ろうとするのは傲慢というものよ。再現度を求めるなら、家庭内にゼウス・ヘルケイオスの祭壇があれば十分ですからねぇ。神殿でさえ一つの建造物に一柱の神を祀るのが習わしですから。つまり、アポロンが好きならアポロンだけ祀れば良かったのに、と思ってしまうの。……あら、ちょっと言い過ぎたかも。ほんと、主人には内緒にしてくださいねぇ」

 最後の言葉は、なぜか寺田や有馬の方に向けて言った気がした。

 少しして遠山もやってきた。仮眠をとったらしく、顔色はかなり良くなって見える。全員が集まって話に花を咲かせていると、貴島を呼ぶ男性の声が聞こえ、彼女が席を立った。やがて「夕食の支度が出来ました」と伝えに戻ってきたところで皆で食堂に移動することにした。ドアのないもう一つの部屋から漂う匂いが、腹の虫を鳴らそうとしてくる。安東は腕時計を確認すると、すでに午後七時を過ぎていた。


 各々が食堂の席に着くと、厨房の方から長身の男性が顔を出した。格好は貴島と同じで、おそらく彼女に阿曇君と呼ばれていた人物だ。料理全般は彼一人で担当していたのだろう。ということは、使用人二人だけで安東達六人をもてなしてくれていることになる。手厚いもてなしに感謝だ。

 彼は安東達を一瞥すると、

「阿曇っていいます。よろしく」

 それだけ言い、本来の職務を全うするように手際よく料理の盛られた皿を運び始める。

 長髪を星座のマークの付いたヘアゴムで結んだ髪型に、切れ長の目をした精悍な顔立ちの男性だ。貴島いわく、阿曇廉也は二十代半ばだと言う。口数は少ないが、人見知りをするようなタイプには見えなかった。

 結局、招待主は姿を現さず、一人分席の空いた食堂で晩餐が始まった。

 料理は豪勢だった。魚のスープ、ムサカ、たっぷりの野菜にチーズを載せたサラダ、貝やエビをつなぎにしたミートボール風の肉料理と、多くにオリーブオイルが使用されていて舌鼓を打ちたくなる美味しさだった。さすがに料理の方も現代ギリシャ版らしいが、この口福は阿曇の腕があってこそだろう。

 料理を一通り堪能すると、会話の根幹は自然と古代ギリシャの話題になった。安東もなけなしの知識で参加する。

「初めて月に着陸したアポロ11号は、光明の神アポロンから取ったと聞いたことがあります」

「よくご存じね。ギリシャ神話は現代にも様々な影響を及ぼしているのよ。例えば、そうねぇ。ヨーロッパの語源は、神話に登場するエウロペという美女だとか、映画で有名なタイタニック号は、ティタン神族という巨人の神々が由来だとか、それから自動車メーカーSUBARUのロゴは、プレアデス星団の六連星をイメージして付けられたらしいとか」

「星座もギリシャ神話に由来してるんだよな」と寺田。

「でもさ、ポセイドン座やアフロディーテ座なんて聞いたことがないよ?」

 綾乃は子供の頃の天体観測を思い出すように小首を傾げた。

 貴島はマニア気質に火が付いたようで、饒舌になる。

「星座がギリシャ神話を由来にしている、というのは有名な話ではあるんですけど、神々自身が星座になるわけではないんです。神が人(英雄)や動物達の功績をたたえて、天に迎え入れることによって、星座は生まれたのです」

「例えば、俺の誕生日だと天秤座なんですが、それもエピソードがあるってことっすか」

「えぇもちろん。その星座は正義の女神アストライアの持つ、善悪を計る天秤のことですねぇ。神々が去っていく青銅の時代、英雄達の活躍によってアストライアは最後まで正義のあり方を説いていました。しかし、人間同士の戦争が絶えない鉄の時代にまで突入すると、最後まで残った女神はついに人間を見限り、天上に去りました。その際に彼女の天秤が星座になったと言われています」

「へぇ、ギリシャの神様は天空を司る立ち位置ってわけなのね」

 貴島はよく出来た子供に見せるような笑みで頷くと、話を続ける。

「けれども、星々の中に存在しないわけではありません。実は有名な神々の名は、太陽系の惑星の方に付けられているんです。水金地火木土天海のあれですね。英語表記になっているから知らない人が多いだけで、全てギリシャの神々の名が付いているんです。

 水星……マーキュリーは、ギリシャ神話の伝令神ヘルメスです。金星、ヴィーナスは愛と美の女神アフロディーテ。地球、アースは大地の女神ガイア。火星、マーズは戦いの神アレス。木星、ジュピターのギリシャ名は最高神ゼウスです。そして土星、サターンはゼウスの父でもある農耕の神クロノス。天王星、ウラヌスはこれまたクロノスの父である天空神ウラノス。海王星、ネプチューンは海と地震を司る神ポセイドン。2006年まで太陽系の第九惑星になっていた冥王星、プルートゥは冥府の神ハデスです。それぞれの惑星の周囲を廻っている衛星の名前も、それぞれの神にまつわるものが多いんですよ」

 なるほど。英名に翻弄されているだけで、実は有名な神の名が多いんだなと安東は率直な感想を抱いた。ヘルメスやアレス、ウラノスはこの島に来て初めて知った神々だが。

 有馬は当然知っていることばかりだろうが、話に割り込んで弁舌を振るうことはなく、借りてきた猫のように大人しくしている。……というより、何かを黙考している? 一点を見つめ、口元に片手を添える仕草は、部室で謎解きゲームをする際に思考するそれと似ている。彼は、何か気掛かりでもあるのだろうか。

 阿曇が口の細長い陶器を手にテーブルを回った。食後のワインだという。一口味わってみると芳醇な香りと口に広がる甘さが絶妙だ。遠山なんかは「美味しい!!」と声を上げ、寺田と共におかわりを要求していた。

「なぁ、ギリシャ神話で面白い話といったら何がある?」

 阿曇は語源ばかりではつまらないと判断したのか、遠山に再度ワインを注いだ後で、気を利かせるように話題を振った。

「オレは『パリスの審判』だと思うけど」

 そう言って細長い陶器の先端で、壁に掛けられた絵画の複製画を指す。三組の裸の女性と二組の男性が向かい合い、何かを談じている光景だ。

 貴島はちらりとそれを見た後、

「そうですねぇ。面白い逸話は数多くありますけど、有名どころで言えばパリスさんの話になりますかねぇ。このルーベンスの絵画でも有名ですから」

「ぜひ、聞かせてもらえますか?」

 安東が水を向けると、「もちろんです」と貴島は微笑んだ。

 そして少し頭の中で物語を纏めるように手を握り締めると、語り始めた。

「あるとき、女神テティスと英雄ペレウスの結婚式が開かれました。この結婚には神々も大賛成で、それはそれは豪華な、そして婚礼の場には全ての神々が招待されました。ただし、紛争の女神であるエリスだけは呼ばれませんでした。彼女が来ると喧嘩が起こるから……今回はお祝いの席ですし……みたいな理由でしょうか、ちょっと可哀想ですよねぇ。そんなエリスは婚礼が行なわれていることを知るや否や激怒しました。楽しげに集う神々のところにひとっ飛びに向かうと、腹いせに『最も美しい者へ』と書かれた『金のリンゴ』を、ぽんと会場に投げ入れます。それに気付いた神がリンゴを拾い上げ「最も美しい者へ」と書かれている旨を声高に伝えると、ならば私のことでしょうと、女神が三柱も名乗り出てしまいました。それはゼウスの妻であるヘラ、正義と戦いの女神アテナ、愛と美の女神アフロディーテでした。通常なら最高神のゼウスが裁定を下せば済むところですが、女性遍歴の複雑な彼が選ぶと更なる諍いのもとになってしまいます。そこで神々はトロイア王の息子であるパリスという人間を引き連れてきて、審判役をやらせることにしました。さて、女神達はメンツが掛かっていますので、パリスを何とか掌握しようとします。ヘラは富と権力を、アテナは知恵と名誉を、アフロディーテは人間の中で最も美しい美女を、それぞれ自分を選んでくれたらあげるわ、と唆しました。どれも魅力的ですよねぇ。けれどパリスが選んだのはアフロディーテ。つまり美女だったんです。権力や名誉よりも、どうしても美女が欲しかった……パリスも若い男性ですから、仕方ありませんよね」

 と、貴島は再び微笑んで話を終わらせた。

「そっかー、だから私の部屋の前に飾られたアフロディーテは、金のリンゴを持っているのね。自分が選ばれた証として」

 綾乃は得心した顔つきで言った。

「そうです。神々のアトリビュートは往々にして大小のエピソードから来ています。なので、神像や絵画を見たときに、その神にどんな逸話があったかを知っていると、より楽しむことが出来るんですよ」

 安東は食堂に飾られた絵画、『パリスの審判』に再び視線を向けた。

 三組の裸の女神がそれぞれのポーズで並び、片側には二人の男。黄金のリンゴを今にも渡そうとしているのはパリスだろう。彼の隣にいるのは、羽帽子からしてヘルメスだろうか。立会人なのかもしれない。

 それぞれの女神を見ると、リンゴを渡されようとしている真ん中がアフロディーテ。左の女神は楯やフクロウからアテナ、ということは右の女神が孔雀を従えたヘラだろう。少しだけ分かるようになってきた。

「うーん、僕だったら権力を手にしてからお金の力で解決したいと思ってしまいますけどね。そっちの方が最終的に全てを手に入れることが出来るんだから、合理的じゃないですか?」

「分かってないわね、遠山くん。愛はお金や権力では手に入らないのよ」

 綾乃はアフロディーテの加護を受けたかのように悟り顔で言った。

「強引に結び付けられた愛はアリなんですかね……」遠山は苦笑気味だ。「……って、あれ? 絶世の美女であるヘレネは、なぜ素直に求愛を受け入れたんでしょう? それとも拉致同然だったんでしょうか」

 黙考から浮上した有馬が解説に加わる。

「一説にはパリスに誘惑されたとありますけど、女神の力が働いた可能性もあります。それにアフロディーテの子、エロス(キューピット)の矢は、どんな相手でも恋に落とす金の矢と、逆に全ての愛を嫌悪させる鉛の矢を持っていたと言いますからね」

「それは……恐ろしい弓矢だね」

「ある意味、ギリシャ神話で最強の武器かもしれませんよ。ゼウスの持つケラウノスなんて目じゃないくらいに」

 ニヤニヤと笑む有馬は普段と変わらない様子だった。

「実は、まさに遠山君の疑問に沿うように、この話には続きがありましてね」

 と、貴島が言う。

「アフロディーテがパリスに捧げたヘレネという美女は、スパルタの王妃であり、既婚の女性だったのです。唐突に誘拐されたようなものですから、スパルタ王メネラオスは大激怒。強奪されたヘレネを取り返すべく兵を挙げ、トロイアの国を攻めます。そしてこれが、十年も続くトロイア戦争の発端になったわけです――」

 そう言って貴島は壁に目線を遣る。

 『パリスの審判』とは反対の壁に掛けられた絵画には、大勢の人間が巨大な木馬を引き摺っている光景が描かれていた。……トロイア? 木馬? 何処かで聞いたことのあるフレーズだと安東が引っ掛かりを覚えていると、

「女性達の虚栄心が一人の男性に不公正な判断を促し、最後には国の滅亡にまで至る……。つまり些細な個々の思惑が、予想を上回る破滅的な結果を招く場合があると、そんな教訓が含まれているかのようです……」

 雪乃が話の訓戒を読み解くように締め括った。

 阿曇が黙々と料理の皿を片付けているのを目にして、貴島が掛け時計を見る。

「あら、もうこんな時間ね」

 そう言って立ち上がり阿曇を手伝い始めた。

 安東も腕時計に目を落とすと、午後九時になろうとしている。話の続きが気にならないでもないが、初日はさすがに疲れが溜まっているようだった。寺田はすでに目を閉じて船を漕いでいる。先ほどのパリスの審判の話など聞いていなかったに違いない。

 他にも美味しいワインがあるというが、まだ滞在日程は三日もある。別の日に頂くことに決め、本日は解散となった。

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