2.
微笑みすら浮かべて彼女は続けた。
「そう、ここはパラレルワールドよ。でもね、いつだってまっすぐ平行なわけではないの。大きく蛇行しているものもあれば、極端に時間の進みが遅いものもある、ねじれも歪みも。そして接合する場所も時間も恐ろしく流動的よ。だからズレが生じる。大きな違いが生み出されるの。それでも、一度繋がれば数日間は持つわ。でもそれを超えたら……綺麗さっぱり消え失せる。一切の痕跡を残さずね」
僕が欲しかった答えを彼女は与えてくれた。疑う余地はない。
「あなたは……」
「ええ、今あなたが思い描いているそのもの。かつて、その境を越えて世界を渡ったわ」
こみ上げる緊張に口の中が異様に乾いた。だったらなぜ! なぜそこにいる。僕は思わず彼女の方へ身を乗り出した。
「逃げてください! 決戦の時は迫ってる!」
「知ってるわ。私の教科書にもあったから。でもね、言ったでしょ。ここはパラレルワールドで、タイムスリップしたものではないの。この意味がわかる?」
その謎かけにはっととする。同じように見えて同じものではない……。
「……知っていることがそこでは本当にはならないと?」
「ええ。私はここへきて、それを身をもって経験したの。起こることも起こらないこともあるのよ」
「でも……」
「そうね、あなたの言いたいことはわかるわ。起きないとは限らない。死ぬか生きるかなら、確実に死なない方を選べってことでしょ」
「わかってるなら!」
彼女がうっすらと笑った。それはすべてを手放したような微笑みだった。けれど
「でも、そうしてどうなるの? ここから逃げ出して何が変わるの? 人はいつかみんな死ぬわ。場所がどこでそれがいつか、ちょっと違うだけで」
淡々とした声に彼女の決意を感じた。それがあまりにも綺麗で、僕は一瞬呆けてしまう。自分が生きる場所を自分で切り開いていく強さ。それは僕が求めていたものだ。非常事態だというのに、僕は急速に彼女へと傾いていく気持ちに抗えなかった。それだけに、切り込まずにはいられない。
「あなたは……あなたは、その世界の人じゃない。運命を共にしなくてもいいはずだ!」
そう叫んだ次の瞬間、僕の脳裏をかすめるものがあった。
「もしかして……あなたをその世界に導いた人に操立てしてるんですか?」
彼女がくしゃりと顔を歪ませた。まずいことを聞いたと気づき謝ろうとした時、それがふっと笑顔に変わる。
「ずいぶんと直球ね」
「すいません……言葉が足りないってよく言われます。でも……」
「いいの。ありがとう。今の一言でなんだか吹っ切れたような気がするわ。そうね。知らないうちに、そんなことを言い訳にしていたのかもしれないわね」
遠い過去を見つめるかのように、彼女は晴れ渡る空を仰いだ。
「確かに彼は素敵な人で、一緒にいたいと思ったからきた。でもね、ここへきたのはそれだけじゃない。私は、私の世界を捨てたかったの」
それはあまりに衝撃的な一言だった。僕はバカみたいにおうむ返しした。
「捨てたかった?」
「ええ、逃げ出したかった。世界は核の脅威に怯え、大きな戦争があちこちで勃発し、誰もが怯えて暮らしていた。明日のことなんて考えられない。そんな世界で暮らしたい?」
「それは……」
「だから私は逃げた」
戦いなんて知らない僕らには、本当のところそんな状況は理解できない。まるで夢物語のように、ちっとも心に響かない。けれどなぜだろう、今は彼女の感じた恐怖が伝わってくるかのようだった。
揺らぐ界の狭間にいるとそんなことが起きるのだろうか。僕は、不思議な感覚に支配されている自分を感じていた。僕の前を、まるで走馬灯のように彼女の時間が走り去る。新しい土地で感じた安堵、それに続く時間。見たいものも見たくないものも、過去のあれこれが鮮やかに浮かび上がる。
「っ!」
一つのシーンを前に僕は息をのみ、失礼は承知の上で尋ねた。
「その人は……?」
彼女の表情は驚くほどに凪いでいた。そこにもまた、この世界で生きていくんだという彼女の決意が読み取れた。
「死んだの。そういう時代なの。核なんかなくても、人は簡単に死んでしまう。剣で突かれても、銃で撃たれても、
……見た通りだった。僕は彼女の悲しみを感じながら、どこかでほっとする自分に気づく。そんなところにつけ込むなんて、とんでもなく嫌な奴だと思う。けれど僕史上最大の勇気を振り絞って言った。
「じゃあ、なおさらです。ここは安全です。僕のところへ来ればいい。あなたはもう自由なんですから」
彼女がふっと笑った。
「でしょうね。あなたが無防備にお昼寝していても襲われることがない世界、安全で高い生活水準」
「そうです、だから!」
身を乗り出しかけた僕に、けれど彼女はかぶりを振った。
「それは無理。私、二度も世界を放り出したくないの。そろそろ覚悟を決めないと、それこそ時の放浪者のままだわ。今度こそ、共に生きることを誓った人たちがいる場所で命を終えたい」
こんな彼女だから僕は惹かれたのだ。けれどそれは今、あまりにも残酷すぎた。板挟みになった感情に押し潰されそうだ。みっともないと思いながらも僕は足掻いた。
「……家族はいるんですか?」
「家族のような人たちはね」
「でも、彼はいないんですよね」
「ええ、一人になったわ」
「寂しくないですか?」
「……寂しいわ」
「でも、僕のところには来てくれない……」
「ええ、いけないわ」
「明日、死ぬとわかっていても?」
「ええ、たとえ明日死ぬとしても」
その意思を曲げることはできないのだと悟った。それでも僕は関わり合いたかった。
「……僕にできることはありますか?」
「そうね……じゃあ一緒に甘いものを食べましょう。小さい頃、この季節には家族でよく食べたの。大好きなもの、幸せの味よ」
「幸せの味……」
「ええ、美味しいってすごいことなのよ。一口で芯から満たされる。心配なんかなくなって、純粋な喜びに包まれる。それが私を支え勇気づけてくれるわ」
「そうしたら……寂しくない? 怖くないですか?」
「ええ。こんなにも素敵な気分になったのは久しぶりよ。温かくて嬉しくて……ありがとう。だから、あなたと食べたいわ。一緒に食べてくれる?」
はにかんだ微笑みを見せる彼女に僕は大きく頷いた。
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