3.

 けれど果たしその明日が来るかどうかだ。繋ぎ目がいつできたのか、そしていつまであるのか、僕らには計り知れない。今この瞬間にかき消えたっておかしくはないのだ。僕の気持ちを読んだかのように彼女が教えてくれた。


「大丈夫よ。わかるものなの。世界が行く時にはね、色が揺れるの。滲んで薄くなる。離れていくのが見えるのよ」


 ああ、と思わずため息がれた。彼女はかつて見たのだ。生まれた場所を置いていくなんて、一体どんな気持ちだっただろう。嫌だと思いながらもそこには様々なものがあったはず。僕はそこまで考えが及ばなかった。ただただ自分の想いを押し付けた。軽率とも思える自分の言動に恥じ入るばかりだ。


「ごめんなさい、僕……あなたの気持ちを踏みにじった……」

「いいえ。いいの。そんなに優しくしないで。私は生まれた世界を捨てたずるくて冷たい女なのよ」

「違います! あなたは温かい人だ。だからもう逃げないと決めた。その世界の人たちを裏切らないって決めた。そうでしょ?」


 もし世界が終わってしまうなら、裏切りなどなんの意味もない。たとえ逃げたって誰もとがめない。だって、誰一人そこには残らないのだから。それでも彼女がそこに残りたいというのは、そういうことなのだ。


 僕の言葉に、彼女の綺麗な瞳が潤んだ。あんなにも強気で凛として、だけど今、それは朝露に濡れた若葉のようだ。儚げで心乱されて、今すぐにでも彼女を攫いたいと思った。彼女の決意を後押しした自分を殴りつけたい。ああ、そうだ、取り消そう。呆れられてもいいから、もう一度懇願しよう。しかし、僕が口を開くよりも早く、彼女は静かに微笑んで言ったのだ。


「ありがとう。そう、もう心残りは嫌なのよ。きちんと責任を持って生き切りたい」


 重い衝撃に打ちのめされる。けれど、彼女が大事なら、彼女の心を認めてあげるしかないのだ。僕はどうにか声を振り絞った。


「……わかりました。じゃあ、明日またここで」

 

 彼女は満足そうに頷き、坂道を下っていった。朝には気づかなかった村がその先に見えていた。繋ぎ目のピークなのだろうか。全てが恐ろしく鮮明だった。遠く微かな物音も聞こえてくる。それが何かまではわからないけれど、これは夢ではない、確かに人の営みがあるのだと、そう教えられているような気がした。

 

 翌日、僕は朝から塀の上に座り、彼女の村を、僕らを繋ぐ丘陵地を、分け目などないように見える空を眺めた。どこかにあるはずの亀裂は見つからず、今この瞬間に起こっていることはなんなのか、僕には難しすぎてわからなかった。世界の揺らぎは、どんな最先端の科学にも見つけられない。それはまるで意思を持った生物のようなものなのだと思い知る。


 彼女の暮らす時代の中ではもうじき、近隣の集落やもっと遠くからも多くの氏族が集まって、この平野を埋め尽くす。けれどそれは全て帰らぬものとなる。僕たちの歴史書にはそう書かれている。そして彼女が学んだ教科書にも。

 僕は、過去に起きた核戦争についても知っている。それは世界を揺るがすほどのものではなかった。噂ばかりが先行し、結局、人々の生活が脅かされることはなかったのだ。彼女が話してくれたような悲惨な日々などやってこなかった。しかしそれは、彼女の世界と僕の世界が違っていることを意味する。

 それが唯一の希望だった。今、塀の向こうに広がっている世界にも違う未来があって、彼女が生き残る可能性だってあるということなのだ。それでも五分五分。恐ろしい確率。けれどそれが彼女の選択なら、僕は受け入れるまでだ。

 もう心残りは嫌だと彼女は言った。そんな人をこれ以上苦しめることはできない。僕の胸が締め付けられ、後悔の念に苛まされ、苦しくて血の涙を流しても、だ。運命は、その人のものだから……。


 やがて彼女の姿が見えてきた。昨日と同じ格好。泥に汚れた裾、つくろい跡がそこかしこにあるエプロン、磨り減った靴。彼女はすっかり時代に馴染んでいる。

 僕はじっと見つめた。ボンネットに押し込まれた髪は太陽の色をしていて、その瞳は背後に広がる丘陵地のように鮮やか緑だ。その美しさを決して忘れないように、深く強く胸に刻みこんだ。


「こんにちは。遅くなってごめんなさい」


 僕は静かに首を振った。切り離されていくこの世界を憶えていたくて、僕は時間の許す限りここにいるつもりだった。


「これ」


 彼女が腕に下げていたバスケットの中から木の碗を二つ取り出した。中には丸いものが入っている。


「これは?」

「林檎よ」

「林檎?」

「ええ、パイ生地で包んで焼いたもの。丸ごとの林檎の芯をくり抜いてお砂糖とバターとレーズンやナッツなんかを入れるの、でもここじゃあ、その多くが貴重品だから、中身はちょっぴりだし、パイ生地も硬くて歯ごたえがあるものだけど……」

「いえ、美味しそうです、素朴で……素敵だ。あなたが一生懸命作ってくれたと思うと余計」

「まあ、子どものくせに気取った紳士みたいな口をきくのね。悪い男になるわね、あなた」


 彼女がふざけて言っているのはわかっている。だけど僕は虚しい抵抗を試みた。気持ちを少しでも伝えたかった。


「本当のことを言ったまでです。それに……僕は子どもじゃない。もう高等科ですから! そりゃあ背は低いけど、きっともっと伸びるだろうし……」

「あら、ごめんなさい。高等科……そうね、その年ならもうみんな立派な兵士だわ。あなたがとっても綺麗な顔をしていたから、もっとずっと幼いかと……ごめんなさい」

「いえ……僕もちょっとムキになりすぎました。そうですね、僕らは戦いなんて知らない、日々の食べ物に苦労なんてしたこともない、あなたの知っている同じ年とは違って見えて当たり前です。僕ら、命を張って覚悟を決めたことなんかないから……」


 言えば言うほど惨めな気持ちになった。彼女より年下で、経験も浅く、体も小さくて頼り甲斐もない。いいとこなんて一つもないじゃないかと、僕は唇を噛み締めた。

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