林檎の樹の下で、 僕は時の旅人を待つ
クララ
1.
惑星規模で進んだ汚染から身を守ろうと、人々は地下へ逃れた。街は星の奥へと広がり、空は虹色に輝くドームで覆われる。それは一時的なものであったはずだ。けれどいつしか当たり前となる。不安定な天候に悩まされることのない生活に人々は満足し、そこから出ようと思わなくなったからだ。自然の治癒力で、星は息を吹き返したというのに、もう誰もかつての世界を顧みようとはしなかった。
だけど僕は違う。一人でよく街を抜け出している。僕らの居住地の外れにはゲートがあって、もう管理する者などいないそこは何の問題もなく通り抜けできる。セキュリティーなんて存在しないのだ。けれど誰も気にしない。興味がないからだ。
僕にはそれが不思議でたまらなかった。この星はこんなにも美しいのに。僕は、いたずら心で飛び出した日から、そんな外の世界に夢中だ。
何があるわけではない、いや何もない。緑の絨毯のような丘陵地は、はるか遠くまで見渡せる。ただただ果てしない緑の広がり。でもそこにはかつて多くのものがあった。そしてそれはすべて無になった。それだけ長い年月が経ったということだ。それでも、強固なものがわずかながらに残されている。外敵から幾度となく、街を守ったであろうと思われる石積みの塀もその一つだ。
人類学のフィールドトリップで訪れた資料館。そこで僕は「この世界に残る美しい廃墟」というタイトルの1冊の本に出合った。恐ろしく古い本だ。その中に塀の写真もあった。それは、人がまだ外の世界にいた時からすでに廃墟だったのだ。
戦いが何度も起き、長い時間の中で塀は緩やかに瓦礫へと姿を変えた。それでも、写真の中のそれは、成人男性の肩ほどの高さはあったような気がする。
けれど今、それは僕の胸にも満たない小さな小さなものになっていた。僕は高等科に入ったばかりで、成長期はこれからだろうと思っている。そんなクラスでも小さい方の僕が、楽々と登ることのできる代物。しかし幸運なことに厚みは残されていたから、僕はそこに寝転がって空を眺めた。誰にも邪魔されない昼寝は最高だ。
今日も今日とて、僕は青空を見上げながら、胸いっぱいに風を吸い込む。植物は戻り、空気は澄みきっている。この丘陵地が、他の生物たちで賑やかになるのも時間の問題だろう。
「誰?」
突然聞こえた涼やかな声に、僕ははっと身を起こした。丘陵地側に、焦げ茶色のドレスに灰色のエプロンをつけた女の人が立っている。こんな場所で誰かに出会ったことはない。けれどその驚き以上に、僕は違和感を覚えた。
ドレスの裾がずいぶん長い。場所が場所だけに「ぬかるんだ道では汚れてしまうんじゃ」なんてぼんやりと思う。しかしそれは仮装パーティーなんかで見かけるような薄物ではなかった。質素で分厚い生地。それは……日常着だ。
(こんな場所で……日常、着? 何? 何が起こったわけ?)
そっと辺りを見渡しても、何一つ変わらないのに、明らかに何かが違う。女性からは敵意も悪意も感じなかったけれど、僕は慎重に言葉を選んだ。
「あのぉ……ここは」
彼女はすっと目を細めた。綺麗な人だ。少し年上だろうか。彼女は僕の全身にさっと目を走らせ、小さく頷くと静かに切り出した。
「あなた……。ねえ、ずっとここにいた?」
思いがけない言葉に戸惑いつつ、でも僕は偽ることなく答えた。
「ええ、僕は朝からここに寝転がってますけど……それが何か……。あれ? さっきより塀が高い」
「私にはいつもより低く見えるけど」
僕は息を飲んだ。とっさに閃いたのだ。まさかと思った。しかしそれしかないとも。塀のあっちとこっちは違う。ここは世界の境目だ。それも全く異なった世界の。
パラレルワールドの存在は僕らにはすでに常識だ。それは夢や妄想なんかではないれっきとしたもの。科学的に認められ、教科書にだってその発見や内容は載っている。世界のどこかに存在する
そして同時に人々は気づいた。それは必要なものなのか? 今以上に平和で幸福な時代はない。貧困や争い、あえて危険な世界に行こうなど、誰も思わないだろう。パラレルワールド、それは存在しても僕らには不必要なもの。世紀の発見は、こうして人々の興味を失ったのだ。
ところが今、それが僕の目の前にある。よくよく見れば、塀はいくつものフィルターを重ねているかのように揺らめいていた。その存在は限りなく曖昧だ。だから、高さが知っているものとは違って感じられたのだ。
やはりここが境目なのだと納得できた。いつもと同じように塀を降りれば僕は家に帰れるし、彼女もまた、元来た道を辿れば変わらない日常が待っているだろう。それでもこの瞬間、二つはしっかりと繋ぎ合わさっている。
僕は彼女を観察した。化粧っ気のない顔、しかし妙に手入れの行き届いている肌。そのアンバランスさに一つの可能性が浮かびあがる。もしかしてこの人は……。
「今、いつですか、そしてそこはどこです?」
塀の向こうの彼女に、僕は真正面から切り込んだ。賭けだった。
彼女はまっすぐに僕を見て、ゆっくりと数字を口にした。僕の問いへの疑問など全く感じられない。……間違いない。彼女は僕が言わんとすることをわかっている。彼女もまた、かつて同じように問いかけたのだと確信した。
しかし、それは思った以上に古い時代だった。土地の名も今の僕らの知っているそれではない。僕の背筋を冷たいものが流れ落ちる。
それは歴史に刻まれた年。地方氏族たちが
けれどそこで僕ははたと気がついた。
「なんだよ、ここ。時代が違いすぎるだろ。パラレルワールドって……」
思わず口をついて出た言葉に、ためらうことなく彼女が答えた。
「さすがね。未来の学生さん、かしら?」
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