天使の消え方
膿
天使の消え方
職員室から見える海。
僕はその景色が好きだ。
海が見える学校は日本中で少ないと思う。それだけで学校の希少価値というのは上がるものだ。実際、フィクションのようなうっとりした学校生活を送りたくてうちを志願する生徒も少なくないらしい。まぁ、現実というのは酷なもので、海なんて見えようが見えまいが、学校生活の中身は変わらないのだ。おまけに、海なんて入学して半年もすれば飽きてしまう。夏の海水浴で磯の香りを楽しむことなんてもう無いのだ、うちは磯の香りなんて窓から一年中漂うんだから。
とまぁ、海や学校に対して散々文句を述べたが、僕は、職員室の窓からから見える海を、目の前にして見ている。十月の夜の浜辺は、少し肌寒いけれど、それがまた心地よい。
時刻は午後九時過ぎ。
いつもならこの時間ぐらいに学校を出、クタクタになりながら駅へ向かうところだ。
今日は何故か帰る前に海に寄りたかった。
いや、別に僕は女子高生みたいなセンチメンタルな人間じゃない。海に向かって「バカヤロー」と叫ぶような歳でもない。ただの気まぐれだ。
今日は月がよく出ている。
月の光でキラキラ海が光っている。何度も何度も繰り返される小さな同じ波の音が僕の耳を癒していた。
僕はセンチメンタルな人間ではないが、このような風情を楽しめる人間だとは思う。
来てよかったな、今日は月も綺麗だし。
そう思った時だった。
「だーれだ」
突然、よく聞くセリフとともに視界が奪われた。
…え?
声の主は恐らく女性。
こんな声の人間は知り合いにはいない。
いやいや、誰だよ。
見ず知らずの人間にずっと目を塞がれるのも嫌なので、声をかけることにした。
「あの…人違いじゃありませんか?」
本当は人違いですよね?と言いたかったが。
すぐ手を離してくれるかと思ったけど、なかなか離してくれない。
それどころか、よく聞くと相手は笑っている。あははは、あはははは、と。
…何だこいつ、酔っ払ってるのか?
「人違いじゃないよ、小野先生」
「…は?」
思わずまた声が出てしまった。
こいつ、なんで僕の名前を…!
もしや、生徒のイタズラ?家の学校には九百人以上生徒が在籍しているし、こんな声の生徒がひとりいても気づかない。
「ほんとに、ほんとに誰ですか…?」
「えー、分からないの?…仕方ないなぁ」
後ろの女はそう言うと、僕の目を塞いでいた手を外した。月あかりが眩しく、思わず目を一瞬瞑ってしまう。
「…初めまして。私、天使です」
目を開くと、そこにはありえない光景が拡がっていた。
少女が、微笑みながら宙に浮いていた。
頭には純白のヘッドドレスを着け、そして同じく純白のフリルたっぷりなロリータを着ている。髪は肩の高さで切り揃えられたボブで、頭髪登録なら絶対四番と五番の間で登録されているような黒髪。そして白い肌、細い手足。
空の満月の光に照らされているその少女は、
まるで本当の天使のようだ。
「…いやいや」
疲れてるんだ、きっと。
僕は目を瞑り両手で顔を覆った。
だってそうだろ。あんなの、幻覚、幻聴。そうだ、あれはまやかし。だって宙に浮く少女なんて変すぎる。大丈夫。次目を開ける時には何も見えないはず。
そう思って目を開け、手を顔から取ったのに。
「なんでまだいるんだよ…」
なんで…いやいや、僕はそんなまやかしに頼らないと生きていけない弱い人間じゃない。そうだ。そうなはず。
「…ねぇ、何してるんですか?先生」
そんな僕の思いも知らずに、目の前の天使(仮)は話しかけてくる。
「ねぇ」
今度は僕から話しかけてみた。科学教師が天使なんて非科学的なものと会話してるなんて、生徒に見られたらそれだけで死ねる。『科学の小野はイマジナリーフレンドがいる』なんて噂が広まったら、耳にした瞬間に死んでやる。
「なぁに?先生」
「…これ、イタズラですか?ほら、どっかから吊るしたり。というか、貴方きっと生徒ですよね」
「もう、どっちも違います」
そう言うと目の前の天使(仮)はさらに高いところで浮遊し始めた。
「ここから海面まで約五メートルあります。生身の人間をこんなところまで吊れるわけないでしょ?…それとも何?ここから海に落ちて無事に出てきたら信じてくれます?」
「え?いや、その…」
さすがに中高生ぐらいの女の子に海に飛び込めとは言えない。僕だって一応教師だ。それなりの良心はある。
「じゃ、信じてくれる?私が本物の天使だって」
「…」
…分かった。そうだ。これは僕の心の弱さが産んだまやかしだ。僕の心は弱い、それは認めよう。ということは、僕の心が強くなったらこれは消えるはず。大丈夫大丈夫。
ならばいっそ今は僕の心の弱さが産んだまやかしを楽しもうじゃないか。
「…あぁ、信じた。キミは本当の天使なんだな」
「本当?…やったぁ!やっと信じてくれた」
目の前の彼女はそう言うと手を後ろに組んで無邪気に笑った。
「私はねぇ、花子。花子って呼んでください!」
「なんでいるんだよ!?」
突然僕の前に現れた天使(仮)(しつこいようだが、僕はまだ彼女を天使として認めてない。某アニメにハマった時、天使について少し学んだ。が、当たり前だがこんな天使は聞いたことないのだ。認めないもんね!)は、あれから僕の家までついてきた。帰り道、電車の隣の席に座り、僕の三歩後ろを家まで歩いてきた。まるでストーカーだ。やっぱり、彼女は僕だけにしか見えないらしい。もし周りに彼女が見えていたなら、確実に僕は通報されただろうから。
寝たら彼女も見えなくなるはず、そう思って家に着いた後、彼女のことは無視してすぐに死んだように眠ったら、起きた時には何も見えなかったのだ。よしよし、僕の心は回復したんだな、もう大丈夫だなと思っていたのに。
思っていたのに…!
只今の時刻は午前八時五分。僕は週に一回の当番の日で校門前に立っていた。
友人同士で仲良く話しながら校門をくぐる生徒達に挨拶をしていた時だった。
あの派手なロリータ姿の彼女が、まるで生徒のように目の前を歩いていったのだ。
それで、ついさっきのように叫んでしまったというわけだ。
周りの生徒は四人。どよめいた顔をして立ち止まっている。
当たり前だろう、目の前の教師が急に叫び始めたら誰だってこんな反応をする。まだ比較的早い時間だから目撃した生徒が少ないのが不幸中の幸いだが…
まずい。
「あ!あ、あは、あはは〜。あ、先生、ちょっと電話かかってきたので失礼しますね…」
苦しい言い訳だと思う。僕はそう言うと小走りで正門を離れ、生徒が通らない裏道へと向かった。慌てて後ろの天使(仮)がぷかぷかとついてくる。
「おはようございます、先生。どうかしたんですか?急に走ったりして」
「キミと話してるところが生徒に見つかったら大事になるだろ!?」
僕は小走りしながら潜めた声で言った。
「あ〜、確かに」
納得が遅いよ。
学校の近くにある細い裏道は、表の道を通るよりショートカットにはなるが、いつも人通りが少なく薄暗い。過去に登下校時にここを通った生徒が襲われた事案もあるため、基本生徒の通行は禁止されている。
「はぁ…はぁ…ここまでくれば生徒はもちろん人は誰も来ないはず…びっくりした…まさかまだ見えたなんて…もういなくなったと思ったのに…」
「その『まだ見えた』ってどういうことですか?あー、まだ私の事幻聴幻覚だって疑ってますね!私は本物の天使ですっ!」
「はぁ…キミさ…いつまでいるの?」
やっと息が整った。
「いつまでって…神様が戻ってきなさいって言うまでです。私はある使命を果たしに先生の所へやってきたので」
「何、その使命って?」
「それは内緒です。本人に教えることは出来ない決まりで」
「何だそれ…まさかまた現れるなんて…学校で変な噂が流れたらどうするんだよ…」
「え?んーと…減給?」
彼女は首を傾げながら聞いた。
「天使の癖に現実味のあるようなこと言わないでよ…」
「あははー、すみません。…私、バカなんで、迷惑だとかそういうの分からなくて…」
そう申し訳なさそうに言う彼女は、髪の毛先をくるくる指で回した。
「ま、まぁ、数人にしか見られてないし何とか誤魔化したから大丈夫だとは思うけど…」
いやいや、誤魔化しきれてないだろと自分にツッコミを入れる。
「にしても、今までどこにいたの?」
「今まで?…まぁ、色々」
彼女はるんっと笑いながら言った。
「寝るとこや帰るとこは?」
「天使だから寝なくていいんですよ。あと、今は小野先生の家が帰るとこです」
勝手に帰るとこにされても困る。
「そもそも、天使って羽生えてたり頭の上に輪っかあったりするんじゃないの?キミにはどっちにもないじゃないか」
「そんなの人間が勝手につけたイメージでしかないんですよ。人間と一緒で、天使にも様々なのがいますからね。十人十色!みんな違ってみんないい!」
名言みたいに言うな。
「私は適当にぶらぶらしてるので、先生はいつも通りの生活をお過ごしくださいね。それじゃ!」
「…ちょ、ちょっと!そんなこと言われたって!」
出来るわけないだろ…!!
そう心の中で叫ぶと、目の前の天使(仮)はパッと消えてしまっていた。
ほんっとに。
僕はひとつため息をついた。
何しに来たんだよ。
…お迎え?
まさか、僕を迎えに?
…いやいや、こんな変な天使が迎えに来るとか。ないから。そもそも死なないから。
頭の片隅で「死亡フラグ」という単語が浮かぶ。
いやいや!違うから!
顔の前で右手をハラハラ振りながら裏道を出、人通りの多い大きな道へ歩いていった。
「…小野先生?」
突然後ろから声をかけられた。
そして、その声には聞き覚えがある。
「…あ、西岡さん…」
西岡冴。
僕の受け持つ一年五組の生徒で学級委員長。その肩書き通りにとても真面目な人物で、教師の僕からすると手のかからないとても楽な生徒だ。
「おはようございます、先生。今から学校ですか?…ん、でも先生にしては遅すぎますね…あれ?こんなとこで何してるんです?」
相変わらず、勘の鋭い生徒だ。
「…実は知り合いから電話がかかってきちゃって。急ぎの電話だったっぽいから外で出たんだ。でも、ほかの先生にバレると面倒な事になるからシーだよ、シー」
僕は笑いながら口の前に人差し指を立てた。
生徒に、それも自分が受け持っているクラスの生徒にこんなスラスラ嘘をついてしまう自分が情けない。
「なるほど、そういうことなら…」
西岡冴は眼鏡をクイッと持ち上げながら納得したように呟いた。
「それじゃ、先に学校に戻るから。また後で!」
僕はそう言うと、小走りで校門へ戻った。他の教師にサボりだと思われたら面倒なことになる。途中でうちの生徒に何人か会ったが、軽く挨拶して追い越した。
正門に着くと、ほかの教師は誰もいなかった。
「ふぅ…よかった…あ、おはようございます…」
八時十分近くになると、段々生徒が増えてくる。この時間帯がピークだ。
…さっき、花子という天使は、『ある使命を果たしに』と言っていたが、ある使命とは何なのだろうか?何しに僕の元へ来たのだろうか?…天使にお世話になるようなことはしてないと思うが…
僕はそんなことを思いながら校門をくぐる生徒に向かって気の抜けた挨拶をしていた。
「はぐしゅん!」
朝のホームルームを終えた職員室。一限の授業はどのクラスも入っていないのでプリント作成をしていた。
「はは、可愛らしいクシャミですね、小野先生」
そうやって軽口を叩くのは、向かいのデスクにいる、一年四組の担任の木下先生だった。教科担当は英語。
ひょろっとした僕とは違ってガッチリとした体型、大きな声、そしてノリの良さで生徒からは人気の高い先生。
「うちの生徒にも負けない可愛いくしゃみですよ」
「からかわないでください」
「風邪、まだ治らないんですか?」
木下先生はデスクのパソコンに貼り付いている付箋をペチンと指で弾きながら僕に聞いた。
「あぁ…もう大丈夫と思ってたんですけど」
そう、僕は一週間前まで風邪をこじらせて休みを二週間ほど貰っていた。風邪の引き始めを適当に放っておいたら、いつの間にか熱が出てしまい、三十八度前後の熱がなかなか下がらなかったのだ。しかも、高熱だったからかずっと家にいた二週間ほどの記憶がほぼ無い。ただ一つよく覚えているのが、お見舞いに来てくれた友人がお粥を作ってくれたということ。
生徒にうつしたら悪いと思って、ちゃんと熱を下げてから来たのだが、まだ治りきってなかったのかもしれない。
「それか、生徒が僕の悪口でも言ってるんですかね…は、はっぐしゅん!…あぁ、また」
「またそんなこと言って。相変わらずのネガティブ節ですね」
「ほっといてください」
木下先生が小さく笑う。
「あ、そういえば」
「どうかしました?」
「いや、ちょっと相談がありまして」
「へぇ、小野先生が私に相談なんて」
いちいちうるさい男だ。
「…灰澤このか。今日も休みで。…学校を休み初めてから1度も家庭訪問はおろか電話も出来てなくて…どうしたらいいものか」
木下先生が付箋を弾いていた手を止めた。
僕の受け持つ一年五組には、一人だけ不登校の生徒がいる。
灰澤このか。
一番ドアに近い端の席。そこに彼女の席はある。彼女は二学期の初めからずっと学校を休んでいるのだ。特にいじめがあった訳でもなさそうだだったし彼女の友達は割と大勢いた。彼女は出しゃばるタイプでは無かったが、明るくて和やかな性格だったから友達が大勢いたのはそのおかげだろう。
それなのに、二学期の初めから、パタリと登校をやめてしまった。彼女の友人らに話を聞きに回ったが、誰も彼女が休んでいる原因を知らないという。メッセージを送っても曖昧な返事しか返ってこないらしい。最初はいじめを疑ったが、僕以上にクラスの友人らは彼女のことを心配していた。
問題はそれだけじゃない。不登校になってからの期間、僕は一度も家庭訪問はおろか保護者に電話も出来てない、ということだ。
別に僕が行きたくないわけじゃない。むしろ逆だ。ただ、家庭訪問に行こうとする時、電話をかけようとする時、必ず校長や教頭から邪魔を入れられるのだ。『小野先生、これ先にしてくれますかね?』『小野先生!こっち急ぎでお願いします!』などと、いつも行動しようというところで邪魔される。
最初はその原因が分からなかったが、最近なんとなく分かってきた。
きっと灰澤このか、もしくはその保護者が僕のことを嫌っているのだ。
その事を知っている上層部の教師が、僕の行動をやんわりと規制している、ということだと思う。
もういっそ、不登校の原因も僕なのかもしれないと思い始めている。
「あぁ…別にいいと思いますけどねぇ、放ったらかしでも。…何もさせてもらえないのなら、何もする必要ないと思いますよ」
木下先生はそう言うけれど、僕は誰かに嫌われるのが苦手だ。教師なんてただの汚れ仕事と大学の先輩は言っていたが、僕は生徒にもあまり嫌われたくない。だから、なるべく嫌われないような教師を目指している。もちろん、誰にも嫌われないなんて不可能だけど。
灰澤このか、もしくはその保護者は、僕の何が気に食わないのだろう?できることなら改善したいと思っているし、僕が原因で不登校になっているのだとしたら気が重い。
灰澤このかと最後に会ったのは一学期の終業式の日だ。どんな顔をしていたか、どんな声だったか、はっきりとは思い出せない。
「でも、嫌われるっていいもんじゃないし…本当はちゃんと向き合って話がしたいんです、僕は」
「いやはや、小野先生は素晴らしい方ですな。教師の鑑だ」
木下先生は僕に小さい拍手を送ってきた。
絶対思ってないだろ、そんなこと。
「木下先生、ちょっといいですか」
職員室の遠くの方で誰かが木下先生は軽く僕に会釈すると、すぐ声の聞こえた方に歩き出してしまった。
教師の鑑か…
僕はそんなんじゃない。
ただ、弱虫なだけだ。
僕はカップに入ったホットコーヒーを一口飲んだ。
「ほう、教師の鑑ですか」
木下先生の席から聞き覚えのある声が聞こえた。
「木下先生もいいこと言いますねぇ」
「…なっ」
変な声が出かけたところで咄嗟に口を手で押えた。
大きな声を出すところだった…!
木下先生の机の上には、空を飛んでいる天使(仮)がいた。
「お仕事大変ですね、先生。お疲れ様です」
…君のせいでもっとお疲れな目に合ってるよ。
僕は声を出さずに彼女をじっと見つめて無言の疲労アピをした。彼女はそんな僕を見ながら相変わらずニコニコと笑っている。
ふっと磯の香りの風が通った。
「ただいま…」
「先生!おかえりなさい」
天使(仮)の花子と会った夜から三日が経つ。彼女は相変わらずで、職員室に現れては校長の頭を上から見て大笑いしていたり、(コーヒーを吹きそうになったので後でちゃんと叱った)授業中に現れてはまるで授業参観の保護者のように教室の後ろにいつの間にか立っていたり、誰にも聞こえないのに僕の授業のポイントをまとめて生徒たちに説明したり…
正直、手のかかる生徒よりタチが悪い。
「あぁ、先に帰ってたんだ…」
僕はそう言うとスーツのジャケットを脱いでやかんに入れた水を沸かした。夕食のカップ麺を食べるためだ。
「先生、ずっとカップ麺じゃない?…良くないですよ、ちゃんとしたご飯食べなきゃ」
彼女はいつの間にかコンロ前に移動していた。
「お昼は購買の弁当食べてるし大丈夫だよ」
「でも、朝はコーヒーだけでしょ?あーあ、私が作ってあげられたらなぁ…物に触れないってほんとに不便」
彼女はそう言うと、コンロの五徳に手を伸ばした。が、まるでアニメのように彼女の手は五徳を通り抜けてしまう。生で見るとなかなか気持ち悪いものだ。
…あれ?
「でも、浜辺で会った時に僕の顔に触れてたじゃない?あれはどうして?」
「あぁ…あれは先生だからです。私は先生にしか触れないし、先生にしか見えない。そういうもんなんです、天使って」
「ふーん…」
僕の借りているマンションの部屋は、決して広くない。まぁ、男一人生活するには十分な広さだし、近所トラブルもないしそれなりに気に入っている。ただ、しょっちゅう頭文字がゴの虫が出るので何とかして欲しい。自分で言うのもなんだが僕は綺麗好きな方だから、こいつが出るのは絶対に僕のせいじゃない。断言出来る。やかんが怒り始めた。僕はコンロの上の戸棚からカップ麺を取り出すと、包装を雑に剥いで中身の袋を取りだしお湯を注いだ。すぐそこのちゃぶ台まで持っていき、箸を重石代わりに乗せる。
「…ねぇ、先生」
彼女は僕の横でちょこんと正座をした。ロリータの裾が畳の上にふわっと広がる。
「ん?どうした?」
「今日、私が見てないところで何かありました?」
天使(仮)の花子が僕の顔を覗いていった。睫毛が一瞬るんっと揺れた気がした。
…悩みが、顔に現れていたのだろうか。
「…よく分かるね」
「天使ですから」
「実はさ…」
それは今日の夕方の事だった。
職員室でいつも通り仕事をしていた時、教頭から無言で机に付箋が貼られた。
達筆な字で『今すぐ校長室にお願いします。校長が話があるそうです』と書かれた付箋が。
話は簡潔だった。
灰澤このかは先日引越し、今日付けで転校した、と。
また、この話はとてもデリケートな為、生徒たちにはスクールカウンセラーの方から明日話す、と。
それだけだった。
灰澤このかは、何も言わずにいつの間にかいなくなってしまった。
もしその原因が僕にあるなら、僕は何とかしなきゃいけない。そう思っているのに、灰澤このかの家も転校先も知らない。
そもそも、なんとかしたいという気持ちはもしかしたらただのエゴなのかもしれない。もしかしたら灰澤このか本人は僕の顔も見たくないのかもしれないのに。
僕は、どうするべきなんだろうか。
「…って感じで」
「……」
こんなこと、自分の見ている幻想かもしれないものに話すことじゃないけれど。
「…ねぇ、花子…さん」
「花子。花子でいいです」
「じゃあ、花子…はどう思う?…僕はちゃんと謝りたいと思ってる。けど、それがかえって傷つけることになったら…」
「そんな事ないと思いますよ」
突然花子が僕の言葉を遮った。
「先生は優しい方です。だからその気持ちは伝わってます。きっとその灰澤このかさんにも事情があるんですよ。悩まなくても大丈夫です」
彼女は微笑みながらこっちを見てそう言った。
「そうかな…」
「そうです。だって、こんな素晴らしい先生を嫌う理由がありません」
「もう、からかうなよ」
「本当ですよ。天使は嘘をつかないんですから。…あ、ほら、もう三分過ぎたんじゃないですか?伸びちゃいますよ〜」
「あ!忘れてた!」
熱い熱いと言いながらカップ麺の蓋を開ける僕を、彼女はあははと笑いながら見ていた。
「んー。久しぶりにテレビでも見るか」
そう思ってリモコンを手に取り電源のボタンを押したが、テレビはつかなかった。
「あれ、おかしいな…」
テレビの本体からも電源を付けようとしたが電源つかない。
「最近忙しくてずっとつけてなかったから故障かな…?」
テレビって使わなきゃ壊れるのか?と花子に聞こうとして振り向いたら、そこにはもう花子はいなかった。
「あれ?花子?…花子ー?」
その日、花子が現れることは無かった。
「生徒達には全て話したので」
カウンセラーの先生は教室の扉を閉めた後、軽く会釈しながら僕にこう言った。朝のホームルーム、スクールカウンセラーが一年五組の教室に来たのだ。話の内容は灰澤このかの転校について。担任の僕はというと、廊下で話が終わるのを待たされていた。
…いやいや、何でだよ。
僕はなんで話を聞けないんだよ。
最近、何かおかしい。
あぁ、そうだ。
灰澤このかが学校に来なくなってからだ。
風邪は拗らせるし、木下先生はよく絡んでくるし、花子とかいう天使は現れるし、テレビは壊れるし。灰澤このかは転校するし、僕だけ話を聞かせて貰えないし。
何か変だ。ずっと気持ち悪い違和感を抱えている。
結局、昨日の夜から今まで、ずっと花子は現れなかった。最初の朝以外はずっと僕を起こしてくれていたのに。
花子が帰ってきたら、この違和感のことも相談してみよう。
そんなことを朝から考えながら教室のドアを開けた。
「おはようございます」
「…はよざいまーす」
僕の後に生徒たちのブツブツした挨拶が続く。
「…もう聞いたと思いますが、灰澤このかさんが転校することになりました。…個人的な話なので聞き流してもらって構いませんが…実は、先生は灰澤さんが学校に来れなくなってから一度も灰澤さんと話が出来ていません。話ができないまま、灰澤さんは転校していきました。ホント、恥ずかしい話ですよね。…先生より皆さんの方が」
「先生」
話の途中で1人の生徒が話を遮った。
西岡冴の声だった。
「…西岡さん、どうかしましたか?」
「先生は…先生、は」
西岡冴は、震えた声でそれだけ言うと今にも泣き出しそうな顔をして黙ってしまった。周りの生徒は、何も言わないでただ俯いている。
嫌な予感がする。
「西岡さん?どうかしましたか?」
「…先生は、いつまで夢を見ているんですか?」
「………え?」
胸がギュインとねじ曲げられた気がした。
夢?
夢?
何の話だ?
これが夢?
僕はちゃんと現実を見て生きている。現実で、現実に向き合って生きているはずだ。
それを夢だなんて、ねぇ?
「…西岡さん、貴方何言ってるんですか?」
「だって!」
「冴!やめなよ!」
他の生徒が口を開いた。
「…だって、…だって私、こんな先生見るの辛くて…」
西岡冴が席を立って言った。よく見ると、その瞳からは涙がこぼれていた。
意味が、
意味が分からない。
何が言いたいのか?何を知ってるのか?僕に何を、何を隠してた?
「どういう事ですか?…皆さんも、僕が嫌いなんですか?そうやって、僕のことバカにして。…意味が、意味がわかりませんよ」
思わず口に出してしまった。
だってそうだ、意味が分からない。どうしたらいいんだ?夢ってなんだ?なんなんだよ、何なんだよ!
「…灰澤このかは!」
「冴ってば!」
「…はい、ざわ?」
灰澤が、灰澤このかがどうしたんだよ。
勝手に休んで勝手に転校した灰澤が何なんだよ。
なぁ、何なんだよ。何なんだよ!
胸がバクバクする。緊張のあまり気を張っていないと倒れそうだ。
「…あなたの恋人だった、灰澤は!灰澤このかは!誘拐されて殺されちゃったんです!!」
もう、この世にはいないんです…とクッシャクシャになった顔で呟いた瞬間、西岡冴は、糸が切れたマリオネットのようにガシャンと派手な音を立てて倒れてしまった。
クラス中からどよめきが起きた。
僕は正直、それどころじゃなかった。
…灰澤このかが、僕の恋人?
誘拐?殺された?
…意味が、意味が分からない。
だって、だって灰澤このかはずっと不登校で、僕のことが嫌いで、だから黙って引っ越して転校して!
なのに、本当は、違うだって?
意味が、
意味がわからない、
「…っ」
頭がズキズキしてきた。目がチカチカして何が何だか、分からない。頭の中に電話の保留音が流れている気がした。
「…ごめんなさい、自習に、します」
僕はその一言だけ残して逃げるように教室を出た。
『九月二十四日、都内某所で起こった誘拐事件。被害者は灰澤このか、高校一年生。父親が銀行員で、容疑者は父親に融資を断られた腹いせにその娘である被害者を在籍の高校近くで誘拐、身代金の五千万を要求し父親は払い終わるも娘は殺害され、翌日の未明に遺体で見つかった、か。なんとも悲しい事件だね』
『金も要求して誘拐した娘も殺すなんて、よっぽど憎んでたんだろうな』
『銀行員って恨み買うんだな、親が将来銀行員になれってうるさいけどなるのやめるわ』
『>>3 諦めんな』
『被害者の顔報道出たね』
『美人で草』
『モテてただろうなぁ』
『人生勝ち組だったはずなのに(´・ω・`)』
『噂によると彼氏いたらしいw』
『まじか|д゚)』
『相手誰?』
掲示板の『相手誰?』という文字がスマホの画面を頭から離れない。何度も、何度も頭の中でその言葉がチカチカと光る。そのまま僕はトイレの便器に戻してしまった。生理的な涙が毀れる。
もう、全部思い出してしまった。
忘れていたんだ、あまりにも現実を認めるのが辛くて。
自分に嘘をつかなきゃ生きていけないほど、僕は弱い人間だった。
全部、嘘だった。
灰澤このかは。
このかは、
不登校なんかじゃなかった。
毎日学校に来ていた。
校長や教頭にだって、電話や家庭訪問を止められていたのは学校へ復活した先週だけだった。
このかは、
明るくて、優しくて。まるで…
僕達は幸せだった。
『ねぇ、先生』
『なぁに?』
『…私…実は…その』
『何、どうしたの?』
『…赤ちゃん、出来ちゃったんです』
『…え』
『…はぁ、言っちゃった…!先生はこのお仕事もあるのに、迷惑ですよね。どうしよう、やっぱり…』
『本当?』
『…ええ、本当ですけど』
『僕と、このかの子供?ほんとに?』
『あはは、ええ。そうですよ。私と、小野先生の子供です』
『迷惑なんて!…こんな、こんな嬉しいことは無いよ!』
『本当?…嬉しい。てっきり先生は喜んでくれないかと』
『…すぐに両親に挨拶しに行こう。…そして、早く籍を入れよう』
『でも、そんな事したら先生、お父さんに殺されますよ』
『大丈夫だよ。僕は何発殴られても構わない。僕はキミと…そのお腹の子供と一緒にいられるならなんでもいいんだからね』
『…ふふ、嬉しい』
『僕もだよ』
そんな話をした三日後だった。
二十四日の夕方、確かに僕は彼女に会ったのだ。
それが最後だった。
次の日の二十五日は学校に来なかった。保護者からは『風邪をひいた』としか連絡はなかった。誘拐されていたこと、もうその時には死んでいたこと、何も知らなかった。
夕方、職員室で一報を知った。
最初は信じられなかった。当たり前だ、だってこのかはついこないだまで僕の目の前にいたんだから。
それが、なぜ、急に。
心にぽっかりと穴が空くとはこのことなんだなと苦笑したりもした。不思議と、涙は流れなかった。
報道が出たのはそれから少しした頃だった。
このかは、身勝手に未来を消された。
このかだけじゃない。
お腹の子の未来まで消されたんだ。
許せなかった。
許せなかったよ、犯人が。
辛くて、苦しくて、悲しくて。
どうしたらいいか分からなかった。何をするのが正解なのか。犯人を殺したくても法に守られているのが、どうしても許せなかった。だから何度でも何度でも脳内で殺した。何度も、何度も。ぐっちゃぐちゃのボロボロにしてやった。何度も何度も。
二十六日は何とか学校に行った。深い喪失感で何も考えられなかったけれど。全校集会で校長から事件のことの大まかな説明があった。もうテレビで詳しい事件の詳細が出ているのに、こんなの無駄だなぁなんて考えながらパイプ椅子に座って話を聞いていると、気がついた時には職員室の奥にあるソファーで横になっていた。
あぁ、馬鹿だな、俺。
そんなことを考えて誰もいない職員室を黙って出た。
二十七日は学校を休んだんだ。体全体に気持ち悪い倦怠感がまとわりついて、事務員さんに欠勤の連絡を横になりながらした。ベッドから出たくても出られなくて、マットレスを掴みながらゆっくりベッドから落ちるのがやっとだった。それでもできることは無く、食欲もなければ怒りも憎悪も無かった。そのまま床で死んだように天井を見つめていた。
二十八日は彼女が夢に出てきた。
赤子を抱っこしながら、鼻歌を歌っているこのか。
その顔は、とても…!
……顔?
顔。
顔。
思い出せない。
………。
分からない。
……………。
夢を見て、とてつもない憎悪に襲われたは覚えている。
27日のあの気持ち悪い倦怠感がウソのように、体が動いた。
どこに当たればいいか分からない怒りが、涙が溢れてきて、苦しくて苦しくて堪らなかった。何度も自分の頭を殴って。苦しかった。辛かった。痛かった。
でも、それ以上にこのかは苦しくて辛くて痛かったんだよな。
あ、思い出した。
あの時にテレビを壊したんだ。
テレビをつければ彼女の顔が流れる。何十回、何百回。可哀想、若いのにってコメンテーターに上っ面の言葉を述べられるのが許せなかったんだ。だから蹴り倒したんだった。思い出した。
じゃあなんでテレビが元の位置に戻ってたんだ?
…あぁ、なんだ。
友人が戻してくれたのか。
数日後に友人は来てくれた。どこかで僕の状況を聞いて駆けつけてくれたらしい。
グチャグチャになった部屋の中で、何も出来ずにただ抜け殻のように呆然としている僕にお粥を作ってくれた。『自分で食えよ』って笑いながら食べさせてくれた。美味しかったなぁ。部屋の片付けしてくれて、洗濯機も回してくれた。何も反応出来なかったけど、嬉しかったよ。
それから一週間ほど経ったあと。
いつのまにか何で僕はこんなに体がだるいのか。
何で仕事を休んでいるのか忘れてしまっていた。
何が悲しかったっけ?
何か悲しかった気がする。
何が辛かったっけ?
何か辛かった気がする。
でも何が?何のこと?
まぁ、いいか。
そういえば、熱あるんだっけ。
だからこんなに体がだるいのか。
早く熱下げて出勤しないとな。
生徒たちや職員の方々に申し訳ない。
……。
何も思い出せなかった。
そしていつの間にか、このかの事件のことも忘れてしまっていた。
自分は風邪をこじらせてずっと休んでいると思っていたし、
灰澤このかは不登校の生徒だと思っていた。彼女の友人に不登校の理由を聞き回ったのも僕の思い込み。もちろん、僕の恋人だったことも忘れていた。
そう、自分に嘘をいつの間にか嘘をついてしまっていた。そうやって元気になるしか、無かったんだ。
自分がこれ以上壊れるのを、なんとか防いでいたんだ。
あぁ、今なら納得がいく。
事件から二週間後、学校に出、「風邪をこじらせてご迷惑をかけてしまいすみませんでした」と職員に謝罪した時に皆が薄ら笑いをしていた事が。
きっと、僕がこのかと交際してたって知ってたんだろうな。
知ってて、何も言わなかった。
今なら納得がいく。
休んだ後からむやみに木下先生が絡んできた理由が。
頭のおかしくなった僕を憐れんでいたんだろう。同情するふりをして、カスみたいな僕をバカにしていたんだ。
まぁ、それが普通だよな。
今なら納得がいく。
灰澤このかが不登校だと信じきっていて何度も接触を取ろうとする僕を校長と教頭が止めていた理由。
だって、もう本人死んでるんだもんね。
でも僕、頭おかしくなってそのこと忘れてたんだから、そんなこと言えないもんね。
申し訳ないこと、しちゃってたなぁ。
生徒達はきっと、僕と彼女の関係を知っても事件のことを黙っててくれたんだな。なんて優しいんだろう。
今思い出した。西岡冴はこのかの幼なじみだったんだ。…確か、幼稚園からの親友って言っていたはず。なら、黙っているのは辛かったよね。申し訳ないなぁ、ごめんね。
僕はゆっくり立ち上がりトイレの個室を出た。
僕の頭にひとつの仮説が浮かんだ。
化学教師の考えることとは思えない、馬鹿らしい仮説が。
「小野先生!」
廊下を早歩きで歩いていると、後ろから声をかけられた。
時刻は九時五分。一限がはじまって五分が経っていた。
「…木下先生」
後ろを振り向くと、肩で息をしている木下先生がいた。今日はジャケットの上に黒のジャージを着ている。
ダサいよ、それ。
「…はぁ、はぁ…。…生徒が心配してましたよ、先生がどっか行ったって。どこ行ったかと、思いました…。大丈夫です、西岡は保健室へ連れていったんで…今日は一限、どのクラスも入ってないでしょ?戻りましょうよ、職員室。今なら何も無かったことにできる」
相変わらず胡散臭い顔だ。
「…そうですね。…でも、僕には行かなきゃいけない場所があるので。じゃ」
そう言って前を向いて歩こうとした瞬間、後ろから手首を掴まれた。
「…何言ってるんですか。もう、冗談はよしてくださいよ。さ、早く…」
「あんただってバカにしてたろ!」
手首を掴んでいた手が離れた。
目の前の男の顔が一瞬強ばったように見えた。
「…小野先生、あなた…」
「…そうですよ。全部、ぜーんぶ思い出しましたよ。…憐れんでただろ?俺の事。…もう、そういうのいいから。…ほっといてくれよ」
そこまで言うと、木下先生はひとつため息をついた。
「そうですか。…そこまで言うなら、私は止めません。…ただ、後追いなんて真似はやめてくださいよ」
かっこつけてんじゃねーよ。
「…言われなくても、そんなことしません」
僕は後ろを振り向かずそう答えた。
向かう場所は、ひとつしか無かった。
職員室から見える海。
僕はその景色が好きだ。
海というのは、時間によって、天候によって顔を変える。時には人間の癒しになり、時には人間の脅威になる。
今の海は、穏やかな太陽に照らされて静かに微笑んでいた。僕がここへ来たのを祝福してくれたのかもしれない。
「だーれだ」
突然、よく聞くセリフとともに視界が奪われる。温かくも、冷たくもない小さな手。
そして、その声を、その手を、僕は知っている。
本当に、人違いなんかじゃなかったんだな。
「…花子。…本当は、灰澤、灰澤このか」
「…せいかーい」
その手が離された瞬間、目の前の海の上に見えたのは、宙に浮かんでいる天使の花子、いや、灰澤このかだった。
僕自身が頭髪登録を四と五の間で登録した、綺麗な黒髪。内巻きにカールされたボブ。
今まで花子として現れた時は純白のヘッドドレスにロリータを着ていたけれど、今は違う。
白と黒が混ざった、灰色のセーラー服。うちの高校の制服だ。
あぁ、やっぱり。
「先生ってば、気づくの遅いよ」
「…ごめん」
「私のことも忘れちゃうなんて。…花子として最初ここであった時、めちゃくちゃ冷たくてショックだったなぁ」
このかが後ろで手を組みながら口を尖らせて言う。
「ごめんって」
「…でも良かった。先生に会えて。…ちゃんと先生に、お別れを告げることが出来て。ふふ」
その時、彼女の制服の腹の部分が何ヶ所か破れていることに気づいた。破れているというより、
切れている。
…その意味を、今この瞬間何となく理解してしまった。
「…これ?…あぁ、先生が私のことを思い出したら、私は元の姿に戻っちゃって。死んだ時のままなんです、今の状態。…でも良かった、顔は殴られてなくて」
「…痛かったよね、辛かったよね。苦しかったよね、怖かったよね。ごめん。…ごめん。守ってあげられなくて、ごめん」
頬に一粒の水滴が伝った気がした。
「…謝らないでくださいよ、先生は何一つ悪くないんですから。…それに、自分が死んだ時なんてあまり覚えてませんし。痛かったことも苦しかったことも、何も。…気がついたら、空の上にいました」
彼女はあはは、と笑いながら口元を手で押えていた。
「聞いてくださいよ先生。…私は死んだあと、最初はお空の上の神様のところに行ったんです。そしたら、神様が『大切なみんなの様子を見に行きなさい』っておっしゃるから幽霊のまま、先生のところに向かったんですけど、先生ったら死んだような顔で床で寝ていて。…その日、葬儀だったから身内の人間は忙しなく動いていたのに」
…きっと二十六日の事だ。
「それから少しして、先生が私のことを忘れていることを知りました。私、先生の中で不登校ってことになってたんですね。ずっと皆勤賞だったのに。酷いですよ、ほんとに…先生が私のことを忘れたことを知った神様は、ショックを受けていた私をとてもとても慰めてくれました」
「それは…本当に申し訳ないと思ってる」
「…まぁ、別に怒ってませんよ。…それで、神様が私にあのロリータをくれたんです。『これを着て天使となり恋人の所へ行きなさい。そして、君のことを思い出させるんだ。それが天使としての使命。ただし、自分から身分を明かしてはならないよ。彼が君のことを思い出すのを待つんだよ』って。『君は可愛いのに悲惨な事件でお腹の赤子と共に命を失った可哀想な子羊だからね、特別に霊から天使にしてあげるよ。天使なら霊感の強い人間に見られることもないから』って。…ふふ。神様って、先生に似てロリコンなんですよ」
彼女は声色を変えながら言った。
…否定ができないのが困る。
「それからこの海で会って…後は先生も知っての通り。…でも、こんな早く先生が私のことを思い出してくれると思わなかった。ふふ、冴ちゃんのおかげだなぁ。…なんだか、嬉しいような寂しいような」
「…?」
「…花子としてなら、先生が私のことを思い出すまでずっと傍にいられるんです。…けれど、先生が私のことを思い出してしまったら、天使としての使命を終えたら、もう私は挨拶を告げて天に帰るしかない。そういう決まりなんですよ」
彼女は下を向いて寂しそうに話した。
「そっか…」
…神様は優しいばかりじゃない。
「とりあえず…ハグ、しましょ」
彼女はそう言うとゆっくり浜辺へと降りた。
僕はいてもたってもいられず、彼女を急いで抱きしめた。
この感触。この制服。この頭。
間違いなくこのかだ。
このかが、帰ってきたんだ。
「このか…おかえり。おかえり。…ごめんね。…何も出来なくて、本当にごめん」
「もう、苦しい」
「…嫌だ、最後なんて、死んだなんて。もう会えないなんて、そんな、そんなこと嫌だ。…これからもっと幸せになれたはずなのに。僕ら三人で幸せになれたはずなのに…!」
僕が思い出さなければ花子としてのこのかとずっといれたかもしれない。
…けれど、彼女のことを忘れたまま生きていることを考えると、少しゾッとする。
何より、そばにいるこのかがいちばん辛かったはずだ。
これしか無かったんだ。
こうなるしか無かったんだ。何で、何で。
僕がゆっくり手を離すと、彼女の顔はほんのり赤かった。
「…先生、キスはしないの?」
「…天使にキスするなんて、そんな罰当たりなことしたら神様に怒られちゃうんじゃないかな…って」
「ふふふ、それもそうですね」
彼女はスカートの裾を持って言った。
「この制服も久しぶり。今まで着てたロリータも好きだったけど、やっぱりこれがしっくり来ますね」
「…ロリータ似合ってた。可愛かったよ」
「ああいう服って一度着てみたかったんです。生きてる間に」
彼女は悲しそうに静かに笑った。
胸がちくんとした。
神様はきっと、このかが叶えられなかった夢を叶えてくれたのだ。
「…私ね、自分自身が死んだことよりも、お腹の子が死んだことが悲しかったんです。…まだ光を知らないお腹の子が、私のお腹にいたせいで、死んじゃった。もし私じゃない人のお腹にいたら死ぬことは無かったのに。その事が、すごく申し訳なくて」
「…このかは、優しいね」
「ふふ、そうですかね?妊娠が分かってからの数日間、私…ほんとに嬉しくて。この体は私だけのものじゃなくて、今、私の中には私以外の生命が存在してるんだな、って考えるとすっごく神秘的だし、素晴らしいことだなって。…だから、すごく悲しかったんです」
このかが波打ち際をゆっくりと歩き出す。
「ねぇ先生、覚えてますか?」
「何を?」
「私たちが付き合った日のこと」
「…確か、三階の相談室で…キミのお父さんの話を聞いてたんだよね」
あれは、七月の十五日のことだった。
前々から、僕は担任として何度かこのかの相談を受けていた。内容は、酒に酔うと母親や自分に暴力を振るう父親について。
銀行員というストレスのたまる職業だからか、このかの父親は日常的にこのかとその母親に暴力をふるっていたらしい。
「うん。…その前の日、お父さんに酷いことされて」
「キミが初めて僕の前で泣いたんだ。今まで相談中一度もも泣かなかったキミが、相談室に着いた途端にワッと泣き出した」
「そうそう。…それで先生が『痛かったよね、辛かったよね』って、慰めてくれて…きゃっ!?」
急に大きな白波が僕たちを襲った。彼女が驚いて短い悲鳴をあげる。
「え、ちょ、冷た!?」
波打ち際のギリギリに立っていたものだから、波を避けられずに履いていた革靴を塩水が容赦なく濡らす。そのまま波は僕の脛まで上がってきた。
「うわ…」
横から声が聞こえた。
声の方を向くと、波は彼女の足をすり抜けてまるで最初から何も無いかのように浜辺へ向かっていった。
あぁ、そうだった。
そのまま僕だけを濡らした波は海へ戻っていった。
「…あはは、濡れちゃいました」
…嘘だ。
さっきしっかり通り抜けていたのに。僕以外には触れないって言ってたのに。
僕の為に嘘をついている。
自分が死んでいることを、今この時だけでも僕に忘れさせるために。
「…天使は嘘つかないんじゃなかったの?」
そう聞くと、笑っていた彼女の顔から一瞬ふっと笑みが消えた。かと思ったらすぐに微笑み始め、
「…そうですね。…天使失格ですよ」
と答えた。
横にいる彼女は、僕の愛するこのかは、もう死んでいるということを自分自身で再確認してしまった。
「…この波…そっか…分かりました」
このかは空を軽く見上げながら呟いた。
「もうすぐ、お別れみたいです」
お別れ。
きっとそれは、永遠のお別れだ。
「嫌だなぁ…」
「何が?」
「キミのいない、現実。…『私のことは忘れて幸せになって』とか『私の分まで生きて』とか、映画でよくあるけど、無理に決まってるだろ。所詮それほどの愛なんだよ」
そう呟くと、彼女はあははと笑いながら言った。
「何ひねくれた事言ってるんですか、先生若いんですし、人生これからですよ」
キミの方が七つも若いくせに。
若かった、くせに。
「…うーん、まぁ…私のことは…ふふ、私だって寂しいので忘れてとは言いませんが、半年に一度ぐらい思い出して、他の三百六十三日は、先生のための先生自身の人生を歩んでください」
あ、あと…と彼女が付け足す。
「次の彼女は生徒以外にしてくださいよ。あと、黒髪ボブもダメで。私に似てる女の子だと嫉妬します。あとは…」
…。
こんな注文の多いヒロイン、少なくとも僕は映画で見た事ない。
「…まぁ、当分恋愛はしない」
このかが小さく「やった!」と呟く。
「ねぇ、このかは、これからどうなるの?」
「…私?私は、『先生の記憶を取り戻す』という天使としての使命を終えたので、天使から幽霊に戻されます。その後は、私にも分かりません。…天使になったことのある幽霊は生まれ変われない規則です。けれど、私は神様のお気に入りなので、もしかしたら生まれ変われるかもしれません」
パワーワードだな。
「…そっか。生まれ変われたらいいね」
「そうですね。先生とまた出会えたらどんなにいいか」
「そう簡単にはいかないでしょ」
「あら、先生が私を見つけるんですよ?」
「J-popの歌詞じゃないんだから…」
ふふふ、あはは、と笑う目の前の彼女につられて、僕も笑う。
やっぱり僕の彼女は可愛い。
ずっとこんな時間が流れればよかったのに。ずっとずっと、こうしていられたらよかったのに。
彼女の体がふわりと宙に浮いた。
花子として初めて会った時も、こうだったな。
「最後に一つだけ、いいですか?」
「…何?」
「…過去を悔やむのは、もうやめてください」
彼女は、微笑みながらそう呟いた。
一瞬、体が強ばった気がした。
「フィクションじゃないんだから、タイムリープなんて出来ないんです。現実ではね、過去は変えられないんですよ。…過去を変えられないのなら、過去を悔やむだけ無駄です。誰かを恨むだけ無駄です。自分自身を苦しめるだけ、無駄なんですよ。命ある先生は、今を…今を生きてください」
驚いた。
彼女がそんなことを言うなんて。
だって、彼女は…このかはまだ十六だ。そんな大人びたことを言うだなんて。
これじゃあ天使というより、聖母だ。
…分かったよ。
「…キミがそう言うなら…約束する」
そう言うと、彼女は手を後ろに組んであはっと笑った。
「…じゃあ。…何だか、照れくさいですね」
「本当の本当に、お別れ?」
「はい。…やり残したこと、言い残したことないですか?」
そんなの、あるに決まってるじゃないか。
沢山あるよ、そんなの。
「うん…平気だよ」
それでも。
ここでまた彼女に甘えてしまうと、本当にお別れが出来なくなる気がした。
これからを生きる自分の為にも、
もう死んでいる彼女のためにも、
ここでキッパリと別れなきゃ行けない。
「じゃあね、このか」
「またね、先生」
彼女はそう言うと、
パッと消えてしまった。
まるで最初からそこには何も無かったかのように。誰もいなかったかのように。
ただ静かに海だけが微笑んでいた。
…いや、
このかは確かにいたんだ。
ここにいたんだ、絶対に。
誰にも見えてなかったけれど。
なんにも触れられなかったけれど。
けれど僕には見えていた。
僕には触れることが出来ていた。
過去は悔やまない。
誰も恨まない。
自分自身も、苦しめない。
…守るよ。
「ありがとう、このか」
これからのことなんて、なんにも思いつかないけど。
キミより七つ上の僕は、キミの分まで今を生きるから。
「じゃあ、授業終わるので誰か号令お願いします」
「きりーつ、気をつけ、礼」
「ありがとうございましたー」
あれから、半年が経った。
もちろんだがあれから花子もといこのかは一度も僕のもと現れることはなかった。ただ、僕の夢になら何度も現れてくれる。ニコニコしながら西岡冴と並んで歩くセーラー服姿のこのかがすれ違った僕に手を振ってくれる夢。何度も何度も何度も何度も見ている。その時は大抵、朝起きたら枕が濡れているのだ。
結論から言うと、僕はあれからすぐに高校教師を辞めた。クビでも無ければ懲戒免職でもない。自主退職だ。彼女との関係がバレたら学校に居づらくなる、もしくは居られなくなるのは前々から分かっていた事だったし、このかが居なくなった今、色んな意味でこの高校で教師として無理に働く必要無いと思ったのだ(我ながら本当に自己中心的な考え方だと思うが、僕は傍から見ればただのロリコンなので、学校的にもやめてもらって良かっただろう)。
この女子高生誘拐殺人事件は、幸か不幸かはさておき、あまり大きな騒ぎにならなかった。というのも、この事件のわずか三日後、首都圏の山奥で白骨死体が複数発見されるという大事件が起こったためである(当時の僕は知らなかったが、後々のニュース記事で知った)。マスコミは連日その話題で持ちきりで、この事件は陰に隠れた…というわけである。全てを思い出した後の数日間、僕はこのかの両親やマスコミに大バッシングを食らって一生ネットのおもちゃになるんじゃないかと怯えていたが、両親からの連絡も、マスコミによる突撃も無かった。まぁその…言い方は悪いが、僕はお咎めなしということになったのだ。どうやら灰澤家がどこかへ引っ越したというのは本当で、事件で娘を亡くした彼女の両親がどこで何をしているのか知るべくもないのだった。
高校を辞めた今は、友人の薦めのおかげで理科を教える塾講師として働いている。高校に勤めていた頃より幅広い年代の子を相手にする為また色々勝手は違うが、割と楽しく働かせてもらっている。
「ねぇねぇ、先生」
教卓で次の授業の準備をしていたら、先程まで授業をしていた小六のクラスの女の子に声をかけられた。教卓に身を乗り出している。
「はーい、どうした?」
「先生ってさー、彼女いるの?」
思わず持っていたホワイトボード用マーカーを落とした。
…??
「…逆ナン?」
動揺で思わずかけてもいない眼鏡を持ち上げる動作をしてしまった。転職してからコンタクトに変えたのに。
「先生、何言ってんの?」
「あー…あ、そう」
脳の中にチラついているのは、もちろんあの顔だった。
人一倍優しくて、面白くて、実はイタズラ好きで、天使で、聖母で、普通の女子高生だった、彼女の顔が。
「ねぇねぇ、いるの?」
生徒は僕の顔を覗き込みながら聞いた。
僕はひとつ息を吸ってから答えた。
「…いないよ、今は」
これが今を生きる、僕の答えだから。
天使の消え方 膿 @IamMya_san
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