505.本当の『詠唱』


 ラスティアラに「愛おしい」と詠んだ。

 途端に、心臓が膨らみ、肌は痺れて、産毛が逆立った。


 恥ずかしい。そして、怖い。

 仮面のない状態でラスティアラと向き合えなかった理由は、これだ。


 間違いなく、あの仮面をラスティアラは好いていた。

 仮面を外しても「愛おしい」と返してくれるかどうか、僕は恐ろしいのだ。


 それでも、僕は胸を張る。

 自信を強く持ち、この『詠唱』の続きを紡ぐ。


 ラグネに背中を押されながら、この暗雲のような黒い靄に向かって、自らの人生を放り投げこんでいく。


 いまの一節目は切っ掛けでしかない。

 『詠唱』とは、今日まで生きた全てとこれから話す全てだ。


「ラスティアラ、まだ聞いてる……? おまえが好きだった『主人公のような表皮かわ』の『中身』は、こんなにも情けなくて、臆病で、弱かった……。でも、これが本当の僕だ」


 それは奇しくも、ラスティアラの『最後の頁』と同じく、『たった一人の運命の人』に向けた独白が始まる。

 そして、それは二ヶ月前の続きでもあった。


「けど、その自分ぼくを、僕は信じるよ。おまえの言ってくれた「愛おしい」に合わせて……、自分を信じる。だから、僕の本当の『魔法』は――」


 いつか本物になれると願い、「信じる」を繰り返す。

 そして、本当の『魔法』は、おまえと二人で・・・・・・・――


 そう言いかけて、すぐに首を振った。

 思い出すのは、彼女の死の間際の願い。


「僕の本当の『魔法』は、『みんな一緒・・・・・に使う・・・。おまえの言った『本当の糸』を手繰り、仲間たちとの絆を頼り、『最後の敵ラスボス』を打ち倒すのは……、みんなの本当の『魔法』だ」


 彼女が最期に信じてと願ったものを、全て受け入れていく。

 受け入れなければならないルールだ。なぜなら――


「僕はおまえに負けた。あれだけ格好つけて挑戦しておきながら、『決闘』に負けた。おまえが僕の嫌いな僕を、打ち負かしてくれた……! ありがとう……、愛してる! おまえと同じで趣味が悪くても、そういうところを本当に愛してるっ!!」


 立ち上がれず、膝をついたままだが、僕は溢れる■■■の靄に向かって、『告白』し直した。


 前方で魔法を維持しながら聞かされたライナーとノワールの横顔は歪み、少し赤く染まっていた。


 僕の恥ずかしさは増すばかりだが、『詠唱』は止めない。

 さらに伸ばして、繋げて、増やして、前にいる二人も必ず巻き込んでやると意気込む。


 この『詠唱』も一人じゃない。みんなを頼る。

 きっと過去最高に大きく、広く、遠く、深く、濃く、共鳴するだろう。

 もちろん、その共鳴の色は、星を背負うように重く苦しい黒ではない。

 輝く白虹の色を想い描いて、この道を間違えたラグネと先んじたラスティアラの後に続いていく。


 その為に、まず僕は地面についた左手に力を込めた。

 もう握力はない。魔力もない。

 それでも、自らの血塗れの腕を目一杯、浅瀬に押し込んでいく。


 パリンクロンあいつのように大地の奥まで血肉を入れるような荒技は要らない。

 浅瀬の中でも十分だ。

 なにせ、この浅瀬は『最深部』の表面。

 『魔法陣』がある。

 術式がある。

 全ての魂の貯蔵庫の入り口がある。

 直接触れて、『詠唱』という鍵を捻りながら、アクセスしていけばいい。


「ラスティアラ。約束通り、僕はみんなを頼るよ。ただ、頼り切りじゃあ駄目なんだ。みんなの中には、自分ぼくもいないといけない。特に過去の自分ぼくも……、『始祖カナミ』が作った迷宮おまえも、最後は一緒だ――」


 世界かのじょに続いて、迷宮にも「おまえ」と呼びかけた。

 綺麗に張り巡らされた術式に僕の血を流し込んで、『最深部』の表面という門を叩く。


 迷宮おまえ作者おやが帰ってきたぞと挨拶をかけてから、これまでの労いの言葉を伝える。


「ずっと僕たちを支えてくれて、本当にありがとう。けど、ついに世界を救えるものが100層に辿り着いて、選ばれた。選ばれし者の名は、騎士ライナー・ヘルヴィルシャイン――だけじゃない。そこのノワールも、僕もだ。それと繋がった『理を盗むものみんな』も。みんなが迷宮探索者であり、『最深部』到達者となった」


 そして、迷宮に語りかけて返ってくる反応は、複雑で大量な術式たち。


 中でも代表的なのは、自動的な死者の『魔石化』だろう。

 この迷宮のルールには「ここで死せば魔石となる」というものが記されてある。

 そして、その次のルールには「残った魂は、『最深部』まで吸い込まれる」と続いている。


 つまり、『魔石化』から『魂吸収』を経て、『浄化』を行い、例の『魔の毒』の循環を始めるのだが……。


 ときには、その循環作業の中で魔力が余ったり、淀んだりすることもある。

 特に濃い魂の浄化は、繰り返しの濾過や微調整が必要となる。


 その為、迷宮には『想起収束ドロップ』が存在する。

 それは迷宮のルールの中でも、傑作の術式。

 どのような形で『想起収束ドロップ』するかは、千年前のアイテムドロップやらモンスタードロップやらと様々だ。

 10層ごとの節目には、千年前の偉人を想起して、収束させることもあった。


 その特殊召喚の術式に触れて、僕は自らの迷宮を褒める。

 千年前の仲間たちの顔を、心に思い浮かべながら。


「いまだから、はっきり言える。……迷宮は成功していたんだ。『想起収束ドロップ』を通じて、僕は千年前の『理を盗むものみんな』を救うことが出来た。これは誇りに思うことで、『なかったこと』にするべきものじゃない。間違いなく、僕は『理を盗むものみんな』を助けることができていて……だから、その代わりに・・・・・・、みんな、お願いだ。本当に格好悪い話だけど、一生のお願いをさせて欲しい」


 届くと。

 いま、みんなの絆の力に負けた僕だから、信じられる。

 ここで呼びかければ、必ず応えてくれる。


「――『理を盗むものみんな』にも、僕を救って欲しい」


 そう頼った。


 それは格好悪いだけでなく、本当に恥ずかしい台詞。

 僕の基準として、人助けに対価を求めるのは、余りに『主人公』らしくない。

 ゲームや漫画の『主人公』のように、本当は「お礼は要らない」「気にしないで、ゆっくりして」と言いたい。


 だが、僕はライナー・『ヘルヴィルシャイン』と違った。

 ずっと人助けに対価を求めていた。

 いつだって「僕が楽になる」という見返りが欲しくて、みんなを助けてきた。


 それを正直に明かしてから、『夢祝いの湖面ペルソナ・アニマムス』も脱ぎ捨てたとき、黒い靄の奥から視線・・を感じた。


 過去最高に濃い視線は束なって・・・・、『安心・・している・・・・と思った。

 その反応に僕も『安心』する。

 間違いなく、いま『理を盗むものみんな』は『切れ目』を通じて、僕の取引に応じてくれた。


「…………っ!」


 ……本当は、分かっていた。

 『理を盗むものみんな』なら、先ほどライナーを手助けしていた以上に、僕を手助けしてくれると……、最初から分かっていた。

 ただ、僕が僕のやってきたことに自信を持てなくて、こんなにも遠回りをしてしまっただけ。


 最初から『理を盗むものみんな』は揃って、別れ際に詩を詠んでくれていた。

 ライナーを始めとした地上うえの仲間たちと同じく、地下ここにいる『理を盗むものみんな』も僕を心配してくれていた。

 だから後は、その別れ際の詩たちを『詠唱』にして、繋げていくだけ。


 それは誰でも、できる。

 『ヘルヴィルシャイン』から教わった通り、ここから先は楽しく紡ごう。

 奏でるように軽やかに、十節だろうと二十節だろうと、どこまでも。

 ファフナーたちのように輪唱して、いつまでも続けて、歌ってみたい。


 ただ、その僕の悠長すぎる考えと回想は、いま100層で相対しているノイが許さない。

 遠くに引っ込みすぎて、■の濃霧に浮かぶ黒い太陽のようになった彼女だった。

 だが、しっかりと僕を視ていた。

 苛立ちげに有言実行して、魔法で咎めていく。


「さ、さっきから、何を……。いまさら迷宮なんてっ、これも『なかったこと』にするんだろう!? ――《ブラックシフト・オーバーライト》!!」


 その『上書きオーバーライト』の叫びに合わせて、黒い靄は雲のように濃くなっていった。

 さらに薄らと紫がかって、揺らめき出す。


 黒紫の暗雲だ。

 間違いなく、僕が編み出した最悪の次元魔法《ブラックシフト・オーバーライト》。

 僕と同じく、ノイは模倣が上手かった。


 ただ、その最悪な魔法を前にしても、『安心』して僕は続けられる。


 最初に思い出すのは、迷宮の10層。

 あの炎の丘の上で、『火の理を盗むもの』アルティは詠んだ。

 マリアと戦い合った記憶を想起しながら、僕も詠んでいく。



「――ああ・・、『血が・・肉が燃える・・・・・』『血油を足し・・・・・肉体が燃え盛る・・・・・・・』――」



 ずっと別れの『詠唱』と思っていた。


 だが、これは「さよなら」じゃない。「またね」と、いつかどこかで再会するために残された約束だった。


 これだけはライナーでも詠めない――僕たち『理を盗むものみんな』の『詠唱』。この約束の詩を繋げて、続けて、どこまでも、僕は行く。


「――しかし、かまわない。『人は肉体に生きるのではない、心に灯った炎に生きる』のだから。『魂に燃え盛る煉獄』が消えぬ限り、私は止まらない――」


 いま、僕の魂に灯った炎も燃え盛っている。

 『忘却』の果て、やっと心からの本音を好きな人に届けられるようになったからだ。


 ――だから、アルティと一緒だ。


 そう確信できたとき、炎が巻き起こった。

 僕の前方で《王■落土ロスト・ヴィ・アイシア》と《レヴァン》を維持するライナーとノワールの、さらに前方。

 浅瀬から小さな火柱が迸り昇って、近づく■の一部を、その『消えない炎』で払うように燃やした。


 さらに炎は周囲を照らしながら凝縮していき、固まっていく。――人型へと・・・・


「こ、この炎……!? け、消せ! 早く消せぇっ!!」


 ノイは指示して、消火用に黒紫の暗雲を増やしていく。

 炎を守護するライナーの結界を浸食させようと、焦りに焦っていた。


 僕は魔法構築すら始めておらず、まだ一人目の輪唱だ。

 だが、すでに副次効果は現れ始めていて、ノイの『なかったこと』にする暗雲が少し晴れていた。


 慌てるノイには悪いが、まだまだこれからだ。

 千年前、僕が作った迷宮の真価は、こんなものじゃない。


 それをつい先ほど、締め括るように教えてくれたのは、迷宮の20層。

 この闇深い浅瀬の上だった。


 敗北した僕が過去を振り返った末に、『闇の理を盗むもの』ティーダは詠んだ。

 覚えたばかりの彼の遺言を想起しながら、僕も詠んでいく。


「――『影は自分さえ信じない』、『宵闇に身を沈めてしまったからだ』――」


 さらに一節、足された。

 これで六節目と七節目くらいだろうか。

 この幼馴染みと再会するために残された約束も、必ず果たしてみせる。


「――だが、繋がっていた。『人は裏切らない誰かを探すのではない、心から信じられる自分を見つける』だけ。『魂を信じ合える絆』が消えぬ限り、私たちの夜は明ける――」


 いま、僕の魂の夜も明けて、繋がった絆たちを信じられている。

 『不信』の果て、やっと僕は心から僕自身を信じることができたからだ。


 ――ああ、ティーダとも一緒だ。


 そう詠み終えたとき、浅瀬に黒い泥が交じり出し、黒く濁った。

 その黒い泥は生きているように這い、蠢いて、ライナーの結界の表面に張り付いていく。


 まず泥の大盾のような形となった。

 さらに形を変えて、大きな手のひらで払うように、ライナーの維持する結界を浸食する黒紫の暗雲を吹き飛ばす。そして、役目を一つ終えたあとは、その黒い泥も人型へと、変わろうとしていた。


 100層で起こっている現象に、ノイは絶句する。


「…………っ! あ、ありえない……!」


 いまから何が起こるのか、彼女も薄ら気づいたのだろう。

 小さく首を振っていた。


 ノイの言うとおり、ありえないことだ。

 ここから先、その目で見るものは全て、幻のようなものだろう。


 それが『本物』か『作り物』か――

 しかし、僕は「ほんの少しだけでいい」と、ささやかな希望を求めて続けてきた。


 そして、まだまだ迷宮は深い。

 ノイが絶句している間に、下準備の『詠唱』は続けさせて貰う。


 必要な詩は全て、すぐに想起できる。

 その火と闇の続きを教わったのは、迷宮の30層。

 剣と剣を交える劇場船の上だった。

 僕が親友の剣を受け継いだ末に、『地の理を盗むもの』ローウェンは詠んだ。


「――『死者は夢を失い』『屍となって世界を彷徨った』――だが、それも終わる。『人は与えられた使命に生きるのではない、心に光を求めて生きる』のだから。この『魂に差し込んだ一筋の光』が消えぬ限り、私は報われる――」


 いま、僕の魂にも一筋の光が差し込んでいる。

 『相違』の果て、やっと自分が心から望んだ道を選べるようになったからだ。


 ――ローウェンと同じ剣を、心に持てた。


 だから、目の前の浅瀬の下から、地面が盛り上がるように隆起した。

 それは土塊つちくれではなく、透明な水晶。

 水晶の剣が一振り、樹木のように伸びた。


 それに合わせて、さらに別の樹木も伸ばしたい。

 続く詩は、二つ。同時に思い出せる。


 大事な帰り道を教わったのは、迷宮の40層と50層。

 懐かしき故郷の大地の上だった。

 僕が姉弟の里帰りの手助けをした末に、『木の理を盗むもの』アイドと『風の理を盗むもの』ティティーは詠んだ。


「――『この千と百十一年、童二人は生を駆け落ちた』。『道を迷い、別れ離れとなってしまったときもあった』――しかし、もう怯えなくてもいい。二人は悟ったのだ。『人は夢に生きるのではない、心の故郷に向かって生きる』のだと。その『魂に待ち続けてくれる住み家』が消えぬ限り、いつでも帰れるのだと――」


 いま、僕の魂にも帰るべき家が、見つかっている。

 『依存』と『自失』の果て、やっと長い旅路を振り返ることが出来たからだ。


 ――アイドとティティーのように、帰り道が見えた。


 だから、目の前の浅瀬の下から、急速に樹木が育って伸びる。

 それはこども二人分ほどの高さと太さの木で、たくさんの白いアイシアが咲き誇っていた。


 その花は揺れる。

 風だ。僕たちの背後から、清々しい翠の風が吹き抜けていく。

 その風と仲良しの詩を、続けて思い出す。


 その姉弟から続くように家族の愛情を教わったのは、迷宮の60層。

 黄金のように輝く空が流れる城の頂上だった。

 彼女だけは特別で、本当に僕は助けられっぱなしだった。しかし、最期は父娘として抱きしめ合った末に、『光の理を盗むもの』ノスフィーは詠んでくれた。


「――『この血肉は命なき人のかただった』。『誕生の夢を見て死ぬこともできない』――けれど、わたくしは生まれ変わった。『人は必ず生まれ、この不生と不死の闇を払うことができる』。『魂に響く愛する貴方の声』が消えぬ限り、わたくしは生きている――」


 いま、僕の魂にも愛する人たちの言葉が響いている。

 『魅了』の果て、心から愛する人たちと愛してくれる人たちと出会えたからだ。


 ――ノスフィーのように、いまなら愛する家族たちを信じ切れる。


 だから、吹き抜ける風に合わせて、極光が背後から差し込んだ。

 あの城の頂上と対極的な100層を反転させようと、広がる黒紫の暗雲に対抗している。


 その次々と紡がれていく『詠唱』と現象に、もうノイは絶句していられない。

 何か覚えがあるのか、トラウマがあるのか。

 いままでとは違った感情を持って、叫び出す。


「やらせない……! 本当に、そ、そんなこと・・・・・に使うの!? その魔法の使い方だけは絶対に間違ってる! 君の魔法は、みんなを『幸せ』にする魔法だ! その為にここまで生きてきたんだろう!? ここまで頑張ってきたんだろう!? それでは台無しだ!! ボク以上に、台無しになる!!」


 確かに、間違っているかもしれない。


 いま僕は「世界を救う」とは程遠い『魔法』に向かっている。


 効果範囲は狭く、ここだけとなるだろう。

 効果時間も短く、恒久的とは真逆だろう。


 この戦いだけで、刹那的に消えるささやかな奇跡となる。

 その上で、人の禁忌も犯して、あらゆる理を冒涜するものとなる。


 確かに、間違っている――

 ――だが、間違っていない。


 僕の人生とは、そういうものだった。

 『なかったこと』にはできない。

 その上で、ノイには勘違いしないで欲しい。


 むしろ、間違ったおかげで最高の魔法じんせいに繋がったと、僕は信じている。

 さらに言えば、たったそれだけで魔法じんせいが終わるとも、絶対に思わない。


 僕たちの本当の『魔法』は、ノイの想像の先へ行く。

 もっともっと先へ行けるんだ――とまでは、信じてくれないようで。

 彼女らしくない荒々しい表情と声で、彼女は僕の『詠唱』を妨害しようとする。


「う、うううう上書きしろ! ――《オーバーライト》!! おまえは最強の次元魔法なんだろう!? さっきから、何をやってる!? 彼の魔法は世界を救うためだけに使わせるべきだ! ボクみたいに無駄撃ちさせるな!! 死者への祈りなんて無駄なことにだけは、絶対使わせるなぁああアア!!」


 ノイは《ディフォルト》で黒紫の暗雲の奥に引っ込んでいたのだが、前のめりになっていた。


 トラウマを刺激されたことで、彼女も本気で僕を否定しようとしている。

 その否定の通り、この『魔法』構築前の『詠唱』は、ただの墓参りのようなものだ。


 そして、ずっとノイや僕やラグネは――

 墓の前で祈るのは無駄だ。むしろ、侮辱になる。

 敗者に声をかけるのは無駄だ。ただ糧にして、誇れ。

 ――そう親たちから、ずっと教わってきた。


 しかし、墓の奥にある真実を教えてくれたのは、迷宮の70層。

 ここよりも深くにある最下層だった。

 地の底で救い合った末に、『血の理を盗むもの』ファフナーは詠んだ。


「――『その亡霊は探し続けた』、『幼き日の眩い幻影を』――しかし、出合えない。『人は救いを待つのではない、いつか救える自分になる』からだ。『魂を繋ぎ合わせる血』の続く限り、俺たちが救いの神となる――」


 さらに、その詩と一緒に。

 死者との向き合い方を教えてくれたのは、迷宮の80層。


 ここよりも果て、次元さえ超えた狭間だった。

 互いの嫌いなところを存分に相殺した末に、『無の理を盗むもの』セルドラも詠んだ。


「――『その幼竜は貪り続けた』、『贖罪に飢えるまで』――しかし、気づいた。『人は何者にも赦されない、いつか許せる自分になる』だけ、だとしても。『魂を震わせる死者の声』が消えぬ限り、俺は楽に死ねない」


 いま、僕の魂にも死者の声が震えて、救ってくれている。

 『死去』と『逃避』の果て、救われた自分を心から赦すことができたからだ。


 ――ファフナーとセルドラには深く感謝する。今日二人がいなければ、いまの僕はない。


 だから、差し込む光で煌めく浅瀬から生まれた『血の人形』は、二つ。


 ノイが本気で拡大させる《ブラックシフト・オーバーライト》に向かって、まず騎士の『血の人形』が水晶の剣を持って、ローウェン・アレイスのように黒紫の暗雲を一部切り払った。

 翼のある『血の人形』は白翠の木の前で風を背に受けて、羽ばたく。そのティティーのような風を以て、黒紫の暗雲を追い返そうとする。


 ただ、ノイの本気の《ブラックシフト・オーバーライト》は凄まじく、二人の力でも拡大の速度は落ちない。

 ここまで八人分の奇跡が起きたが、まだ足りない――


 だから、100層へ。

 この100層に相応しい詩を聞いたのは、星空の見える美しい小川の上だった。

 待望の対等な相手と競い尽くした末に、『水の理を盗むもの』ヒタキは詠んだ。


「――『最後の一人は夢を見ない』、『永遠を畏れては、凍え続ける』――けれど、ついに陽は射した。『人は独りで生きるのではない、心をあなたと重ねて生きていく』。『魂を分かち合う誰か』が消えぬ限り、私たちは眠り続けられる……」


 いま、僕の魂も独りではなく、たくさんの分かち合える誰かと重なっている。

 『静止』の果て、永遠から抜け出せる新たな未来を掴み取ったからだ。


 ――やっと兄として、妹と共感できる。


 だから、僕の手を付いている浅瀬が凍っていく。

 その氷面から感じる魂は暖かく、懐かしく――そして、繋がっていた。


 立ち上がれない僕は、頁を捲るだけしかできないから、ここまで繋がった全てに向かって、呟く。


「みんな……、休んでるところ、ごめん。せっかく、みんなの物語は綺麗に終わって、静かに眠ってるのに……、本当にごめん。でも、一度だけみんなの最後の頁を読み返させて欲しいんだ。最後の頁で、言えなかったことがあるから……。ちゃんと今度は、本当のことを言うから……――!」


 みんなの『最期の頁』を読み返す度に、嬉しくて、懐かしくて、涙が出る。

 その子供のようなグチャグチャの感情のままに、本音を訴える。


「本当は、みんながいなくなって……、寂しかった・・・・・!! 本当は、みんなに生き残って貰って、次の『冒険』を助けて欲しかった……! 本当は本当は本当はっ、助けて欲しいのは、僕のほうだった!! なのに、それをひた隠しにして、嘘ついて見栄張って逃げてっ、本当にごめん! こんなにも、僕は弱かった! 本当は、みんなよりも弱かった!! ……で、でもっ、頑張った! それでも僕は頑張ったから、だからぁあっ!!」


 だから、見返りが欲しい。

 そう願おうとする僕の本音を聞いたノイは、恐怖と絶望で表情を染めて、怯えながら叫び出す。


「こ、これ以上っ、失望させることを言うなぁあっ!! 『異邦人』アイカワカナミ、君は『主人公』だった! そして、これからは『神』になるんだ! 誰よりも強く、賢く、格好良く! この世全てを『幸せ』にできる『神』なんだ!! ――《ブラックシフト・オーバーライト》ォ!!」


 それはノイの本音か。それとも、彼女が過去に言われた『呪いことば』の繰り返しか。弱い自分ぼくを『神様』で上書きしようとする《ブラックシフト・オーバーライト》を広げていく。


 僕の作った最悪の魔法が、僕自身に返ってくる。

 その自業自得の状況で、黒紫色の暗雲は過去最高に濃く深く黒くなっていった。


 ついに、僕の視界全体が■の靄で染まった。

 さらに■■■と、頭の中の思考までも暗雲で包まれていく。

 このままだと、物理的にも精神的にも、全てが■■■で塗り潰されるだろう。


 ■■■■■■■■■■■■■■■■と――

 ■で染まっていく中、あえて僕は目を瞑る。


「…………」


 不安はなく、■■■の中に自ら飛び込んだ。


 その先は、真っ暗だった。


 ただ、僕の瞼の裏は完全な闇でなく、100層よりも明るかった。

 光を闇の奥から感じられる。

 星のような煌めきも見える。

 夜空を見上げるような視界。


 その瞼の裏で、僕が信じて紡ぐのは、次の『詠唱』。



「――『これは世界みんなと存在した物語』――」



 本来なら、人生の二節目にあったのは、『世界あなたに存在さえもできない』。

 それをラグネとみんなの協力を経て、変えて、詠んだ。


 そして、ゆっくりと、目を開いていく。

 その先は、瞼の裏よりも真っ暗な100層が待っている――はずだった。


「…………っ!!」


 違った。

 僕の目の前では、赤く綺麗な眩しい炎が燃え盛っていた。


 火柱が天を衝くまで立ち昇って、■■■を切り裂くように灯っている。

 そして、その火柱の中には、人が立っていた。膝を突いているライナーとノワールの間だ。


 ここまでの時間稼ぎで消耗した二人の代わりに、赤い髪をなびかせる少女がノイと相対して、黒紫の暗雲を火炎で防いでいた。


 その少女は『呪符』をぐるぐると全身に巻いて衣服の代わりとしていて、足首から先は完全に炎そのもの。


 燃え盛るのは『消えない炎』――しかし、ライナーとノワールを『守る炎』を纏った赤き少女は、ゆっくりと振り向く。僕の名前を呼ぶ。


「《カナミ様・・・・……、いつか・・・は来ましたね。そして、そのいつかは、まだ続いています。どんなときでも、いつまでも、どこまでも》」


 そう言った少女は、10層で別れたはずの『火の理を盗むもの』アルティ。


 ――アルティだ。


 彼女が優雅にお辞儀していた。

 ただ、その顔を上げたときには、優雅さの全てを失っていた。

 二年前の別れ間際の不遜な表情に戻って、自らの半身の『幸せ』を祈る。


「《とはいえ、マリアのことは別だからな、カナミ・・・。これが終わったら、ちゃんと一杯甘やかすように》」


 アルティが笑って、僕が作った《ブラックシフト・オーバーライト》から僕を守ってくれていた。


 ただ、いまの僕への挨拶によって、アルティは対面するノイに背を向けてしまった。

 その余所見の隙と緩みを狙って、火柱の奥で浮かぶ黒い太陽のようなノイは容赦なく《ブラックシフト・オーバーライト》の暗雲で、100層の四方八方から蝗害のように襲わせる。


 ただ、開いた瞳が捉えたのは、アルティ一人じゃない。

 僕が想起して、収束したのは――


 九人・・

 まだ『詠唱』は終わっておらず、仲間たちは九人を超えて、さらに駆け付けてくれるだろう。


 だから、先陣を切ったアルティを守ろうと、僕の隣から躍り出たのは――

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