502.『敗北』


 キリストの口から漏れる濃い魔力が、100層の上空に溜まっていく。


 赤光を遮るほどの暗雲が曇っていく光景は、千年前を思わせる。同時に、この量が一人の身体に詰まっていた事実が恐ろしく、僕は先を急ぐ。


「……千年前の迷宮のときと一緒だ。まず僕とキリストの身体を入れ換える。それから、長い時間をかけて、あんたの身体の病を治していく」


 提案内容も暗雲と同じく、千年前を想起させる。 

 ただ、その古過ぎる計画にキリストは困惑を増している様子だが、構わず僕は続きを話す。


「さらに、あんたとご先祖様のアイディアも足して……、その名前も貰い受ける。『アイカワカナミ・キリスト・ユーラシア・ヴァルトフーズヤーズ・フォン・ウォーカー』は、今日から僕が使う」

「い、いや、ありえない……。ライナー……、そんな馬鹿な方法で解決するわけがない……」


 口を押さえたキリストが、信じられない馬鹿を見るような目を僕に向けた。

 かつて僕がキリストに向けた目と同じで、少しだけ懐かしく感じる。


「馬鹿みたいだが、これもあんたから教わったことだ。この『世界』では名前が大事だから、ルビを付けて全力で叫べって、あんたが言ったんだろ? この由緒正しい魔法運用で、これからは僕がキリストあんたになる」


 狂ったような話をしている自覚はある。


 しかし、それでも。

 信じ続ければ、いつか『本物』になれる。

 そう願い続けて、本当になれた人たちがいた。


 その血の道を、ご先祖様たちが先に示してくれているから、僕は迷いなく本気で提案することができて、譲る気も全くない。


「あんたに残っている『呪い』は、全て僕が受け継ぐ。名前と身体も含めて、この僕が代わりに、『最深部』の先へ行かせて貰う」


 十の魔石の力で『星の理を盗むもの』を名乗ったキリストの道は、十の魔石を集めた僕が受け継いで行く。


 それは『世界の主』となって、『魔の毒』の管理者となるということ。

 『魔法』の身体に至れば、定命の理を乗り越える――と言えば聞こえはいいが、死して魂だけとなるということでもある。


 その僕の死を予感した瞬間に、キリストの表情は強張った。

 口から吐き出されていく魔力が増えても、強引に叫び話す。


「――っ!! そ、それだけは駄目だ……! そんなことはさせない! 今日まで頑張ったライナーは、『幸せ』になるべきだっ!!」


 往生際が悪いことに、ここにきて戦意を膨らませていく。

 仲間ぼくが死ぬような未来は決して許さないと、こちらを本気で睨みつけている。だが、勝利者の僕は強気に言い返す。


「さっき言っただろ。その人助けの毎日こそが、僕の『幸せ』なんだ。正直、今日までの騎士生活と大して変わらない」

「変わらないわけあるか! そもそもっ、そんなに都合よく『呪い』が移るわけがない! それはバカバカし過ぎて、最初から消していた選択肢だ! そんな未来、この『世界』のどこにもない!!」


 僕はそう思わない。


 その最初から消してしまった選択肢は、本当に間違いで存在すらしないものか?

 それは『狭窄』で自ら、『紫の糸』の力を狭めているだけではないのか。

 『未来視』の乱用で、『最後の頁』しか視えていないだけではないのか。


 いかに反則的な魔法やスキルを持っていても、その真価は術者次第だ。

 もし扱う術者が優し過ぎた場合、簡単に力は持ち腐れになる――どころか、マイナスに働くこともあるのは、『理を盗むもの』たちで何度も僕は見てきた。


「本当にバカバカしいと思うか? そうあんたは思い込んでるかもしれないが、それを判断するのは『世界』だ」


 宙に浮かぶ『切れ目』も見て、そう答えた。


 いまならば、その先にいる存在をとても身近に感じられる。

 提案している相手はキリストだけでなく、世界あなたもだ。


「……聞きましたか? だから、ここから先は世界あなた次第になります。『呪い』も含めて、一体誰を『世界の主』とするのかを……いますぐ、ここで決めてください。キリストと僕たち、どちらのほうが世界あなたは安心しますか?」

「…………っ!?」


 戦いの決着がついたあとで、厭らしい聞き方だと思う。

 その僕の狙いをキリストは察して、負けじと『切れ目』を見つめて、アピールし始める。


「……ぼ、僕だ! ずっと『世界』は僕を選んで、僕を観て、僕と共に在った! 僕の強い姿を一番近くで見てきた! ずっと『僕の世界』だっ!!」

「そうかもしれない。しかし、だからと言って、ずっとキリストを選び続けるとは限らないだろ。なぜなら……、『世界・・だって成長する・・・・・・・。変わる。いつまでも子供じゃない。ここまでの戦いを経て、自分で考えることも増えたはずだ。それは例えば、本当に正当な『取引』なのかどうか。本当に『取引』の相手は約束を守るのかどうか。あの極悪なティアラや陽滝あたりのおかげで、特にな」

「『世界』が、成長するだって……?」


 いまの僕の話の真偽を確認するように、キリストは『切れ目』に向かって「本当に?」という目を向けた。


 その目は、驚くほど優しい。

 『切れ目』の奥にある無限の力に向かってさえ、赤子を見るような目で心配をしていた。


 本当に、正気じゃない話だ。

 キリストは狂っているわけでなく、これを正気の本気でやっているのだから困りものだ。


 そして、それこそ一番文句が言いたいところでもある。


その視線それが、あんたの一番の悪癖だ。無意識に、あんたは『世界』すらも下に見ていた。だから、全人類どころか、その舞台まで助けて救おうと、頑張ってしまう……。はっきり言うが、それはどれだけ手が大きくても、人一人が出来ていいことじゃない」

「…………っ!」


 その文句を聞いたキリストは、心当たりがあるような苦い表情をして、押し黙った。


 『狭窄』が緩んだおかげだろう。

 目と目を合わせて、さらに力という力を削がれて。

 ようやく、まともに忠告が届いていた。


「出来ないことでもやろうとするあんたは、このままだと永遠に苦しみ続ける。……あんたが『世界の主』に向いてないってのは、そういうことだ」

「だ、だから、自分ライナーのほうが向いてるって……? 人助けが生き甲斐だから? は、ははっ、そんな理由だけで、この100層の先まで押し通るなんて……、ありえない! 絶対に出来るわけがない!」


 もうほとんど認めているだろうに、まだ震えながら足掻き続ける。


 本当に主らしいが、容赦なく、詰ませてもらう。

 いや、正確には、もう既にみんなが詰んでくれている。

 戦いどころか話し合いの言葉すらも、僕はみんなから借りて、繋げていく。


「向いているのは、自分ぼく一人の話じゃない。兄様やグレンさんたちも一緒だ。ついでに言えば、パリンクロンの奴にも犯した罪の分だけ協力させる。いま『理を盗むもの』たちを頼ったように、僕は全力でみんなを頼りまくる。……伝手つての広さは、さっき見ただろう? この『みんな一緒』なら、あんたのふざけた力だって乗り超えられる」


 100層の戦いの結果も含めて、自慢するように説き伏せた。

 敗北して言い返せないキリストに向かって、僕は一方的に説明していく。


「あんたの【最も愛する者が死ぬ】の『呪い』も心配しなくていい。あれも一途過ぎて歪んでるあんたに向いていないだけで……、僕の場合は『たった一人の運命の人』を見つけられる『祝福』だ。将来の伴侶捜しで、ありがたく使わせて貰う」

「た、たとえ……! たとえ上手く移せて、利用できても! それは、ただの先延ばしだ! いつか、ライナーが【最も愛する者が死ぬ】で苦しむ未来が来る! なら、ここで僕が払い切るのが道理だ! 不相応の力を得た者が、その『代償』を払うと【世界の理】で決まっている!!」

「先延ばしだとしても、その間にみんなで解決策を考えることができる。……そして、その『みんな一緒』とは、世界あなたも一緒ってことです。世界あなたはこの世界せかいの物語に、どんな結末が紡がれて欲しいですか? 僕は世界あなたの読みたい最後の頁が、まず僕は聞きたい」

「…………っ!!」


 『切れ目』も会話に入れ続ける僕に、キリストは驚き続けていた。

 『世界』も同じく驚いて、例の視線・・を強め続ける。


 悪いが、僕は『人』だけでなく、『世界』にも全力で頼る。


 それは『世界』のせいで何度も酷い目に遭ったキリストにとって――いや、『理を盗むもの』たちにとっては信じられない道なのだろう。

 『世界』というのは未熟ゆえに残酷で、いつも理不尽だった。

 その辛い人生のトラウマゆえに、『世界』は厄介な存在だと最初から決めつけているが――


 僕はそう思わない。


 悪いが、『僕の世界』はそうではなかった。

 いつだって『僕の世界』は厳しくも、フェアだった。


 『詠唱』をする度に心強く、とても頼りになった。

 正直、『世界』は敵だという考え方は時代遅れだと思っている。

 さらに言えば、全ての始まりとなった『世界との取引』さえも古い。


 いまなら、『世界との対話・・』だってできる。

 世界あなたとなら、もっといい流れを作って、さらに新しい道を選べる。

 そう信じる僕に、キリストは首を振り続ける。


「舵取りを『世界』自身に任せるのは危険だ! ティアラのような悪い奴らに利用されてしまう! ヒタキのようなイレギュラーが生まれるだけで大変なことになる! この『世界』には、まだまだ守り続ける『世界の主そだてのおや』が必要なんだ!!」

「だが、そのティアラもヒタキも、ここまで『世界』は乗り越えてきた。……別に、舵取り全てを任せ切るわけじゃない。その貴重な経験を頼りにして協力し合おうって提案すら、あんたは駄目だって言うのか?」

「そ、それは……」


 僕が質問すると、キリストは言い返す言葉を失った。


 頭の中で違う答えを出そうと、目まぐるしく思考しているのだろう。

 ただ、その答えを待つ前に、後ろから業を煮やした仲間ノワールが口を出す。


「……英雄様、そうやってまたあなたは決め付ける。なぜあなた以外は成長せずに、いつまでも変わらない前提なんですか? ……ライっち、この単純な向き不向きの話に、時間をかけすぎです。さっさと、次の話に進んでください」


 次の話と口にしたノワールは、手に魔石四つを強く握り締めている。

 事前に立てた作戦では、その内の魔石一つの行き先はノワールの身体の中だ。


「ノワール……、本当にいいのか?」


 確認する。

 この次の話だけは、まだ僕にも迷いがある。


 単純に『世界を救う』だけならば、ここまでの提案だけでも成立する。

 しかし、『キリストの世界も救う』となれば、どうしても次の提案が必要になってしまう。

 そして、その提案だと、僕だけでなくノワールの命も使うことに――


「何をいまさら。私も一緒に行けると聞いて、ここまで協力したんです」


 捻じ曲げるのは絶対許さないと、ノワールは僕を睨みつけた。

 そして、声高に自らの要望を口にしていく。


「この先は……、私も行きます。行けるなら、行くに決まっています! 私の望みは、英雄様もティアラ様も超えて、本当の『聖人』となること! だから、もっと先へ! 英雄様もティアラ様も行ったことのない! 他の誰も見たことないところまで! 行きたいに決まっている!!」


 ノワールは同行を叫び終えた。


 それはつまり、その身体を誰かに譲って、同じく『魔法』の身体となり、『最深部』の先へ進むということだ。


 その瞳は希望の光に溢れて、やる気に満ち満ちていた。

 一切の陰りはなかった。

 先ほどまで相対していたキリストとは正反対。

 目は虚ろでもなければ、嫌々でもない。


 初めて出会った頃のノワールは、どちらかと言えばキリストに性質は近く、暗いイメージの少女だった。

 しかし、強くなった。なにより、前向きになった。


 同じ感想を、キリストも抱いたのだろう。

 先ほどまでの自分と比べて、とても眩しそうに目を細めてノワールを見ている。


 ここまで何度も繰り返された「向いている」という言葉の意味を正しく理解して、キリストも確認するように名前を呼ぶ。


「ノワールも……?」


 その怨敵からの視線に、ノワールは少し居心地悪そうな顔で理由を続けていく。


「……英雄様に身体を譲るのは絶対に嫌ですが、ラスティアラ・フーズヤーズ様なら構いません。だって、彼女は血の繋がった『魔石人間かぞく』で、私の妹みたいなものらしいので」


 同じ生まれで悲惨な最期を遂げたラスティアラに同情して、強い家族意識を持っていた。


 その付け加えられた理由を聞いて、キリストは複雑そうな表情で、さらに反論の言葉を取り上げられていく。


「家族……、だから……。譲っても、いい……だって?」


 言いたいことは沢山あるだろう。

 器の移し替えだけで為せるほど、死者の蘇生は簡単なものではない。


 ハイリさんという前例もあるからこそ、血や魔石を用いた蘇生は慎重になるべきで、もっと他の手を模索したほうがいい――という全ての言い分を放置して、キリストは口に手を当てたまま、よろけながらも動き出した。


 言葉を取り上げられてしまったからこそ、力づくでノワールを止める気だ。

 ただ、もう敗北を認めたくないからではないだろう。自分とラスティアラのせいで、僕とノワールが犠牲になることを嫌がっているのだ。

 その優し過ぎる表情から、すぐに分かった。


 こんな状態になってでも、キリストは僕たち二人の命を助けようと頑張ろうとしている。


 ただ、その追い詰められてもいる表情から、もう一つ分かる。

 それは、いま僕たちを助けようと動いている一番の理由は、自らの『安心』の為であること――


 まだキリストは追い立てられるように、人助けしようとしている。

 その往生際の悪さに、ノワールは怒りを滲ませて、戦意を膨らませ直す。


「だから、勘違いしないでください! これは、私の延命も兼ねているんです! ただ、私は生き抜く為に、あなたたちの全てを利用するだけだ!!」


 ノワールは四つの魔石を握り締めた手を、空を見上げながら地面に突いた。

 途端に100層の魔力の流れが変わって、ノワールを中心にして渦巻き始める。


「《レヴァンこれ》は私のほうが、絶対に上手く扱える……。私ならばラスティアラさんやティアラ様よりも、もっともっと……! 上手く世界を救える! いつかは英雄カナミさえも超えられるって……、そう信じて、ここまで私は来た!!」

「くっ……、《レヴァン》が、また……!」


 最初にノワールが奇襲したときのように、また『終譚祭』から送られる魔力を奪われていると気づき、キリストは対抗を始めた。


 口から魔力を吐きながら、魔力の流れを取り戻そうと隻腕を掲げる。


 その奪い合いを、僕は見守る。

 この二人の違いを世界あなたと一緒に、しっかりと目に収める。


「本当に多くて、危険な『魔力・・』です。けど、私は一人じゃない。――共鳴魔法・・・・《グラヴィティ・グリード》」

「『魔の毒・・・』は一つの器に収めて、管理するのが『理想』だ! 選ばれし者の手によって! ――《グラヴィティ・グリード》!」


 複数の魔力を混ぜた星属性の魔法が、同時に放たれた。


 二つの重力の塊が、周囲の魔力を凄まじい勢いで吸い込んで、駆け出す。

 それは先ほどと全く同質の戦いで――ただ、力関係は、もはや逆だった。


 《グラヴィティ・グリード》の比べ合いで押していたのは、『魔力・・』と呼んだノワール。


「ど、どうして……!?」

「魔力の質が変わったと、そう言ったでしょう! 地上うえのみんなのおかげで、この『魔力』にはみんなの願いが乗っている! あなたを救いたいって……、その想いの重さに押し潰されろぉおっ! カナミィイイイイイッ!!」


 魔力に意思はない。


 しかし、確かに周囲の『魔力』はノワールの《グラヴィティ・グリード》を選び、助けようと向かっていた。


 地上から続く《レヴァン》と《ライン》も。

 あらゆる流れ・・が、ノワールの《グラヴィティ・グリード》に集って、収束していく。


 そして、その無限の重力増加をノワールは、完璧にコントロールし切っていた。

 千年前の名高い魔法使いや『理を盗むもの』たちを差し置いて、星属性の扱いに最も長けていると思わせる笑みを浮かべている。


 ――生まれたときから、星属性これに向いていた。


 そうとしか説明できない先天的な才能ものが発揮されている。


 それを最も実感しているのは、いま対面で比べ合っているキリストだろう。

 同時に、自らの生まれながらに向いていない才能ものも感じているはずだ。

 《レヴァン》と《ライン》の主導権を完全に奪われたキリストは、ノワールの笑みとは真逆の表情を浮かべていた。


 ――その二人の様子を、誰よりも近くで世界あなたは観ている。


 いまこそ冷静に観直して欲しい。

 これがキリストだ。

 どれだけ世界あなたが愛着ある『主人公』を贔屓しようとも、もはや差は歴然。


 なにより、キリスト自身も、いま認めかけている。

 目の前で活き活きと戦うノワールに希望を感じて、新たな可能性を見い出しかけている。


 世界あなたも。

 いま自然に、ノワールの『魔力』という言葉を聞いて、贔屓して、応援して、魔力を贈った。


 『終譚祭』が始まってから何度も、世界あなたは視線をキリストから外している。

 その度重なる視線・・流れ・・変化ずれが、いま彼女ここに収束しているのだ。


「必ず、勝つ!! 今度こそっ、この最後の最後こそ! 私の勝ちだぁああああああアアア! カナミィイイイイイイイ――!!」


 術者の絶叫と共に、ノワールの《グラヴィティ・グリード》が相手を食らい尽くした。


 さらに、その勢いは失われることなく、前へと突き進んでいき――直前で、少しだけ逸れる。

 何もかも呑み込む重力の塊は、弱ったキリストの横を通り抜けて行ったあと、遠くで弾けるように魔力と重力を霧散させた。


 とどめを刺そうと思えば、簡単に刺せただろう。

 だが、ノワールは勝者として、敵に情けをかけた。


 キリストは心底ショックだろう。

 呆然と立ち尽くして、独り言を呟く。


「ま、負けた……? 完全に、真っ向から……僕が、ノワールちゃんに……?」


 いかなる状況でどれだけハンデがあっても、ノワールにだけは負けないと思っていたのだろう。

 その無意識に彼女を下に見ていた驕りの分だけ、ショックは深まる。


 逆に、その驕りの分だけノワールは嬉しくて堪らない様子だった。

 シアを抱えたまま、この戦いの結果を存分に自慢していく。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……。ほ、ほーら……、私のほうが星魔法これの扱いが上手いでしょう……? さあ、英雄様ぁ。それでも、まだやりますか……? ふっふっふ……」


 とはいえ、へとへとだ。

 いま追撃すれば簡単に倒せそうだが、それをキリストは実行しようとしない。


 正確には、その隻腕を上げようとして、途中で止まって――視線を少し逸らし、僕と『世界』が観ているのを視ていた。


 格好付けのキリストらしい躊躇の仕方だ。

 ここまで明確に情けをかけられてなお敗北を認めないという恥ずかしい真似を、僕たちの前だと出来ないのだろう。


 他にも、このへとへとの状態からでもノワールが魔力を絞り出す可能性もあると思考しているはずだ。


 なにせ、そういう流れが、もう『世界』にできている。

 完全に流れがノワールの勝利に向かって、一向に戻ってこない。


 その事実を、あえて僕がキリストに向かって、口に出す。


「あんたよりも僕たちのほうが相応しいと、『世界』が判断してるんだ。だから、早く認めてくれ。頼む。どうか、僕たちに……、あんたを助けさせてくれ」


 口に出して、伝えることは大切だ。


 なにせ、僕たちはキリストに勝ちたいわけではなく、もう『安心』して欲しいだけなのだから。


 途中まで左手を上げかけていたキリストが、瞳を震えさせて僕を見つめる。

 ずっと常人では考えられない速度で思考しているのだろう。

 そして、何度も何度も、もう自分が詰んでいるという答えを出し続けているのだろう。


 まずノワールと戦うとしても、その身体を娘のノスフィーが守っている。

 そんな状態で、どうやって父親が勝てばいいというのか?


 さらに僕の双剣には、未だみんなの本当の『魔法』が残っている。

 力の差は、『理を盗むもの』の魔石の所持数にも出ている。

 いま僕は、闇と地と木と風と血と水と月で、七つ。

 ノワールは、光と火と無で、三つ。

 どの魔石たちも、しっかりと所持者を応援している。


 対して、キリストは――


「あ……、ぁああ……」


 いま、自らの魔石一つひとりだけ。


 往生際悪く足掻き続けた果て、その現実にキリストは気づいて、ついに漏れる独り言が言葉ではなくなった。


 単純な嗚咽と共に、上げかけていた左腕を、ゆっくりと降ろしていく。


 下へ、下へ、下へ。

 ついには左手と両膝を、地面に突いてしまった。


 爪を立てるようにして浅瀬を掻きながら、その胸中にあるものを全て吐き出していく。


「ぁ、ぁあああぁっ……、ぁあああああぁあああっ……!!」


 悲しみ続ける。


 キリストはラスティアラに会いたい――しかし、ここで勝てば、むしろラスティアラから遠ざかるだけ。

 その現実と『矛盾』しながらでも戦い続ける力は、もうない。


 だから、慟哭するしかない。

 唸り続けるしかない。


 ボロボロと涙を浅瀬に落としながら、子供のように泣き叫び続ける。


「あああぁぁあっ、ぁあああああぁあっ……!! ぁあああぁああああっっ、ぁあああぁあああああああああああああああっ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――!!!!」


 精も根も尽き果てるまで、泣き続ける。


 そのあと、キリストは地面に突き立てた手の力を緩めた。

 さらには腕からも肩からも強張りがなくなり、首と頭部の震えが止まる。


 ゆっくりと顔が上げられて、目の前の少女が待っている言葉を答える。


「…………。………………ああ。ノワール、君の勝ちだ……」


 敗北を認めた。


 その間も、涙は止め処なく零れ続けて、止まることはない。

 ただ、その涙と一緒に全身から力と魔力が抜けていっていた。


 口を当てて押さえようとしていた全てが、いま開放されている。


 キリスト自身が力を失って、弱くなっていくことを許していた。

 それは強い自分を捨てて、ようやく弱い自分を赦しているということでもあった。


 100層に抜け出た濃い魔力が満ちていき、それをノワールの《レヴァン》によって奪われていく。

 それにキリストは、もう一切抗おうとしない。

 自らの身体に必要とされる魔力だけを残して、ただ敗北を受け入れていく。

 その姿を前に、僕は双剣を鞘に戻した。


 ただ、キリストとの付き合いが短いノワールは、目の前の光景が少し信じられない様子だった。

 この男ならばまだまだれるはずだと、誰よりもキリストを過大評価していたが――、その彼女さえも認めるほどに、いまのキリストは気と言う気が抜けていた。


「はっ……、はははは、ははは……! み、見ましたか? いまの、聞きましたか?」


 ノワールは少しずつ、自らの勝利という現実を噛み締める。

 そして、彼女らしい笑顔と共に、自らの偉業を自慢し始める。


「ティアラ様……。『契約』通り、私はあなたを超えました! 私はあなたができなかったことを成し遂げた……い、いや、おまえのような邪神! も、もももう畏れるものか! もはや、私のほうが『聖人』と呼ばれるに相応しい! 誰よりも『聖人』らしいのは、私! ノワールだった! 本当の『神聖なる祈りレヴァン』の継承者は、英雄様でもラスティアラ様でもなく、この私ぃ! ノワールだぁあああああ!! ありがとぉおおおおぉ、『世界』さぁああああああん!!」


 いつの間にか、しっかりと『切れ目』を認識できているようで、『世界』に向かって最大の感謝を述べた。


 その直球のお礼に、『世界』は少しだけ照れているような視線を送り返す。

 かなり好意的だ。

 少し口と頭は悪いが、確かにノワールは『聖人』だからだろう。


 世界を救う為ならば、その身さえ犠牲にする『魔石人間ジュエルクルス』。

 あのティアラたちさえも出来なかったキリストへの勝利と救済を果たした上で、これから『世界』も救うと意気込む少女――


 『聖人』ノワールを前にして、キリストは悔しそうに続ける。


「ああ、これはノワールの勝ちで……。僕の負けだ……」


 ただ、苦笑もしていた。


 やっと僕のよく知っているキリストの表情と感情に近づいている。

 それを確認して、僕からも声をかける。


「キリスト……」

「ライナー……」


 名前を呼び合った。


 そのキリストの涙まみれの顔を見ていると、本当に毒が抜けていると思った。

 『魔の毒』が抜けたという話ではない。『神の力』から解放されたという話でもない。例の『狭窄』も含めて、あらゆる重荷が消えて、精神の余裕が戻ろうとしている。


 そのキリストの心の内が、なぜだか簡単に読み取れる気がした。

 そして、その僕の心の内も、いまのキリストならば分かってくれる気がした。

 言葉はなくとも、通じ合っている。


 だからだろうか、ふいにキリストは、その目をノワールとシアに向けた。

 どうやら、僕よりも二人のほうが心配のようだ。

 そのさがは死んでも変わらないと呆れつつ、苦笑し返して頷く。


「ああ、分かってる。あのノワールは、僕が道を間違えないように見張る。そして、その僕を――」

「ハインさんたちが見守るんだね……。いや、みんなでみんなを守り合って行く。それがライナーの考えてきた別の未来」

「僕じゃない。『みんな一緒』に生き抜いて、ついさっき辿りついた新しい道だ。あんたが思っている以上に、こっちは行き当たりばったりなんだ」


 通じ合っていても、しっかりと口にするべきだと、キリストも学んでいるのだろう。

 かつてのキリストらしい口調で、新たな道を答えてくれた。


 ただ、その会話は長く続かない。

 『みんな一緒』という言葉を聞いたとき、キリストは全てに納得したからだ。


「そう、みたいだね……。そっか……」


 おかげで・・・・、それ以上の言葉がキリストから出てこない。


 誰のおかげかと言われれば、それは僕やノワール。シアにハイリさん。もちろん、グレンさんやファフナーたちがいて、『理を盗むもの』たちのみんなも――


 いま思い浮かんでいる顔は多くあるだろう。

 だから、あとはただただ頷いて、了承して、噛み締めていくだけ。


「そういうことなら……、いいんだ。それでも、いい……」


 そして、最後にキリストは僕から視線を逸らした。

 大粒の涙を流しながら、愛しの『たった一人の運命の人』にも報告していく。


「『ラスティアラ』……。もう喧嘩は……、終わりみたいだ……」


 本当は『次の迷宮計画』について、もう少し細かい話を僕はしたい。


 だが、流石に主二人の間には割り込もうとは思えなかった。

 なにより、キリストは次の世代の僕とノワールを信じて、全て任せると決めた表情をしていた。


 キリストは『たった一人の運命の人』に向かって嬉しそうに報告して、さらにノワールのときと同じく――


「僕が負けて、みんなの勝ち……。確かに、これは『決闘』だった。おまえとの……」


 ラスティアラにも敗北を認めた。

 続いて、ゆっくりとキリストの目が閉じられていく。


 一段と流れる涙が増した。さらには口元の緩みも増して、喉奥から声が漏れる。


「ははは、あははははっ……、ふふっ」


 涙のおかげか、笑い声はもう乾いていなかった。


 そして、その眠っているように穏やかな泣き顔から、いまキリストは過去を懐かしんでいると僕には分かった。


 迷宮100層に待っていた大敗から、自らの人生を見直して、『想起』していく。

 そのカナミの反省を、僕は隣で見守った。

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