462.『最深部』


 一歩だけ。


 すぐに意味はわかった。

 まず高濃度の『魔の毒』による眩暈が襲う。

 さらには淀んだ水が、衣服を無視して皮膚に触れて、肉を無視して魂の表面に張り付き、侵食し始める。


 淀んだ水の正体が、魂の集合体だとわかる。

 意図せず蟻を踏み潰す人のように、その巨大な質量をもって接触した矮小な魂を呑み込もうとしてくる。


 たった一滴の水でも、ここまで成長した僕の魂よりも巨大で深淵で――中に、もう一つ新たな『世界』が在るのを感じた。


 それは『元の世界』や『異世界』と同じ規模であり、新たな『世界』。


 さらに恐ろしいことに、その新たな『世界』の中の水にも、また別の新たな『世界』があるのも感じ取れてしまう。さらには、その新たな世界の中の水の中の世界の水にも世界が――と多重構造の人形マトリョーシカのように、新たな世界が観測され続ける。


それは強制的で、知覚の拡大を僕の意思では止められず――だから、その水の中の世界の水の中の世界の水の中にも世界があったと。その水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中にも世界があったと。

 さらに、その水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中にも世界があったと。さらにさらに、その水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中にも世界があったと。その水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中にも世界があった。その水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中にも世界があった。その水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中にも世界があった。その水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中にも世界があった。その水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中の世界の水の中は白く、とても白く白く白く。白く白く白く白く白くと――


「…………っ! へえ……」


 頭の中が真っ白になっていく。

 という久しぶりの感覚に襲われる。


 かなりの情報量だ。

 いま僕はステータスの『賢さ』によって、情報処理能力が高まっている。状況によっては《魔力変換レベルアップ》で、『質量を持たない補助用の脳』を好きに増やせる。だというのに、足元から絡みつく水の情報量によって、膝を揺らされた。


 顔を上げる。

 視界だけだと、ただ広い浅瀬が広がっているのみ。

 いや、玉座の裏からは、徐々に底が深くなっていくようだ。

 なので、ここから先は浅瀬でなく、黒い大海と呼ぼう。


 だとしても、ただの大海。

 そこに一歩踏み入っただけで、足は冷たく――重く、痛く、苦しく、臭く、広く、煩く、古く、痒く、辛く、黒くと雑多で莫大な情報が伝ってきて、脳みそに叩き込まれた。


「なるほど……」


 触れる度に、僕の魂との境界をなくして、混ざり、溶け合おうとしてくる。

 要するに、よくあるスケールの大きな同化型天然トラップだ。

 無限の『魔の毒』と魂の貯蔵庫だとはわかっていたが、どうやらこういう危険性も孕んでいるようだ。


 この踝ほどまでしかない水位だけでも、非常に重層的で、ここまでの迷宮百層よりも深く、広い。ただ、《ディスタンスミュート》や『過去視』を使い、他人の人生を読むという経験があったおかげで、許容範囲内だった。陽滝の苦しみやティアラの執念の追体験もあってか、分析する余裕も少しあった。


 その様子を後ろから見ていたノイが、結界を挟んでだが、分析に補足を入れてくれる。


「ボクの最初のイメージは、果てまで続く夜の海だった。たぶん、カナミ君も同じように見えてると思う。とても危険な深淵が、どこまでも続いて、じろりと覗き返してくる。――これを、ボクは『最深部』と呼んだ」

「全く同じ『最深部』が見えてるよ。たぶん、ほとんどの人が、同じように見えると思う」

「いま、その『最深部』を無理に進むのは、お勧めしない。……まだ立っていた頃のボクでも、三歩が限界だった。四歩目でボクがボクでなくなる気がして、戻ってきてしまった」

「ノイでも、たった三歩?」

「……参考までに、千年前のティアラ・フーズヤーズは、さらに奥まで行って戻ってきたよ。ボクから見ると、五歩くらい進んだように見えたかな? こっち側から見てたから、はっきりとしなかったけど」

「ティアラも挑戦したのか。確かに、一度来たとは言っていたけど……、何というか、流石だ」


 ただ、あの陽滝を越えた『魔法ティアラ』でも、五歩。

 間違いなく、一歩目よりも五倍深いという単純な話ではないだろう。


「いや、一歩でも平然としてる君のほうが、ボクは凄いと思うけどね……。それ、数え切れないほどの悲惨な人生を、がつんとぶつけられる感じしない? そこ、本当に大丈夫?」


 一歩目のところで立ち続けて、考え込む僕を見てノイは青褪めていた。


 外部に補助脳を作ったり、『並列思考』といった思考スキルを多数使用していれば、一歩目は半自動的に処理できる。『狭窄』で『ラスティアラ』のことで頭が一杯になっているほうが、まだ大変なくらいだ。


 僕としてはここで軽く、その三歩のところまで確認しておきたいが……そう簡単に試していいようなものではないと、ノイが険しい目をして、首を振っていた。


 彼女の警戒心は信用している。

 二歩目を進むならば、最低でも身体を生身から魔法に変えてからだろう。

 そう覚悟を深めたところで、ノイのさらに後ろから陽気で大きな声が聞こえてくる。


「こ、ここが『最深部』ー? なーんか人ごみに揉まれてるような感じやねー。こういうの、あて苦手やー」


 クウネルの声だった。

 振り返ると、彼女がセルドラを盾にするように先頭に立たせて、こちらに向かってきていた。

 セルドラは周囲を警戒しながら、彼女を守護しつつ進む。


「前に来たときと、少し様子が違う? ……だが、根本は変わっていないな。クウネル、絶対に俺の前に出るな。波に、魂ごと持って行かれるぞ」

「ひょええぇ……」


 ノイの作った道と灯りのおかげで、かなり早い到着だ。


 99層の《コネクション》を通ってきたであろう配下たちを迎えるべく、僕は足を上げて、玉座の裏から移動していく。

 ただ、先に声をかけたのは僕じゃなくて、玉座の肘掛部分にもたれかかっている状態のノイだった。


「クウネルさん、ここはまだ『最深部』じゃないよ」

「…………っ!?」


 何気ない呼びかけだった。

 だが、クウネルは目線を僕たちに向けたところで、完全に硬直した。


 僕の隣にいるノイとは初対面。

 姿は大人のラグネ・カイクヲラだが、直感的に誰であるかは理解したのだろう。


「伝承上だと、ここが『最深部』だったかもしれないけど、それは間違った記述だ。いや、まあそういう風にボクが広めたんだけどね」

「あ、あなた様は……、もしや……。ははー!」


 すぐさま、クウネルは石畳の道の上で平伏した。

 見事な土下座だった。


「……く、くるしゅうないぞ」


 ここで冗談を飛ばす胆力がクウネルにあるのは驚かない。

 彼女は生き残るためなら、『元老院』でも道化師ピエロでも務める。驚いたのは、そのオーバーなリアクションに合わせる余裕がノイにあったことだった。


 先ほどマリアの太陽を相手にして、覚悟を決め直したおかげだろうか。

 自宅だと逃げ隠れせずに、そこそこ強気な様子だった。


「だから、ボクが『最深部』の到達者だという話は、嘘だね。なにせ、まだここは『最深部』の表面でしかない場所。いや、正確には手前かな? ずっとボクは『最深部の手前』で一人、打ちひしがれていたのさ……。これ以上、行けるわけがないって……。不甲斐なくも、心を折ってしまった敗北者だ……」


 先ほどまで僕が立っていた玉座の奥を見つめて、はははと乾いた笑いを浮かべる。

 そのあと、膝を突いた状態で、浅瀬の水を弄び始めた。


「だって、ここで十分だったんだ。これ以上、奥なんて必要なかった。クウネルさんなら、わかってくれると思う。このボクの作った玉座の周辺は、上手く《ディフォルト》で調整しているから、特別製だ。ここでも十分過ぎるほどに、ボクはボクの世界全ての魂に干渉できた。少なくとも、出生のコントロールは完璧だった。……昔は」


 そう言って、ちゃぷちゃぷと水を手の平で掬っては、掻き混ぜていく。

 水面に波紋がたち、揺らめき、映し出されるのは100層――ではなく、どこか遠くの光景だった。


 スクリーンのように、盛大なお祭りの様子が映し出される。『天上の七騎士セレスティアル・ナイツ』たちといった連合国の見知った顔が見えて、地上の『終譚祭』であることがクウネルに伝わる。


 さらにもう一度、ノイが水面を掻き混ぜると、また別の光景に変わった。

 今度は、その『終譚祭』の中、慌ただしく神官たちが働き回っている大聖堂の様子だ。


 水の表面の映像は、ノイの意志で自由自在のようだ。

 先ほど、僕は100層を眼球の水晶体のようだと思ったが、この玉座周辺の水面は網膜のようだと思った。


 しかし、その比喩は正確でない。

 それがノイの「干渉できる」という言葉から読み取れる。


 この『最深部の手前』の水面は、擬似的な《ディメンション》の役割を果たし、さらには疑似的な《ディフォルト》によって距離を無視して――手を伸ばそうと思えば、おそらく届く。


 ――こここそが、『世界全ての魂と繋がっている場所』。


 それを理解したのは僕だけではないようで、クウネルのさらに後ろからやってきたフェーデルトが質問を投げかけていく。


「ここにある奇妙な水が、我々の誕生と死を司っている……? つまり、死者たちの魂だけでなく、地上の生者たちとも繋がっているということでしょうか?」


 ただ、それに答えるのはノイでなく、彼と並んで歩いて来ていた使徒ディプラクラ。


「フェーデルトよ、その通りじゃ。……ただし、ここは表面のみじゃぞ。この浅瀬は魂の集合の表面であると、儂らは解釈しておる」

「ひょ、表面のみですか……。全ての魂の表面……」


 その返答にフェーデルトは困った顔になりつつ、興味深そうに周囲を見回す。

 そして、その彼以上に興味津々で興奮しきった様子のクウネルが、話の続きを拾っていく。


「表面? んー? ……いや、表面くらいで丁度いいと、あても思いますよー! というか、あて的に気になるのはー、結局のところ、そこに座れば人類の支配者になれちゃうのか? ってお話ですね。へっへっへ、いやいや決して他意はござらんよー」


 その直球過ぎて下世話な質問には、最後の一人が反応する。

 一行の最後尾を歩いていた使徒シスが、自信満々に答えていく。


「ええ、クウネル! そこに座れば、人類の支配者よ! いえ、人類どころか、モンスターたちといった全生物も含んだ真の支配者ね! さらに言えば、場所や概念さえも! とにかく感覚的に、世界全てと繋がれる玉座という感じの認識でいいわ!」


 どうやら、『計画』通りに僕の配下たちが出揃ったようだ。

 それを確認して、ここまでの話をノイが纏めていく。


「そう。そこに座るということは、万物の上に立つということだ。ただ、その力の『代償』として、『魔の毒』の循環作業の責任も生まれる。見ての通り、放っておくと際限なく濁った水が、向こう側に流れていくからね。見過ごせば、そのまま地上の暗雲となる。これの循環作業は、本当に繊細で難しく、広範囲で持続的……なのに、ちょっと間違えただけで、地上は強力なモンスターで溢れ返り、赤子たちが魔人となり、人類は死滅に近づいていく。……普通の神経では出来ない仕事だ。最低でも、《ディメンション》がないと不可能だろう」


 玉座を指差しながら、座れるものなら座ってもいいと、ノイは嗤った。

 それにクウネルは怯えつつ、自らの足元の水に再注目する。


「じゅ、循環作業……。聞いたことあります。言われてみれば、さっきから足元から、ザザザッてよくない感じの波がぁー……。どんどん強くなってるぅー」

「クウネルさん、この玉座が目印だ。こっちには余り近づかないほうがいい。セルドラ以外、この濁った水は危険だ」


 そのノイの忠告を聞き、クウネルはセルドラの服の裾を引っ張りながら、一緒に後退して行った。

 セルドラを手離すつもりがないということは、まだノイを心の底から味方とは思っていないのかもしれない。


 その様子を前にして、ノイは一息つく。

 必要な忠告は全て終わったと思ったのだろう。


 本題に入る。

 『世界の主』ノイとしての本題に。


「昔……、君たちにとっては太古の話だ。前にもボクは、こうして古い仲間たちみんなとここに来たんだ。そして、次元属性の適正のあったボクだけが、『世界の主』を務めることが出来てしまった。……いや、あのヒタキとかティアラとかなら、《ディメンション》がなくても滅茶苦茶な方法でなんとか出来そうだけど……。基本的に次元魔法使いにしか、『世界の主』は務められないように出来ているんだ」


 ぽつぽつとだが、話していく。

 ここに来て、この100層の情報を次々と公開しているのは、ここに揃った僕たちへの信頼――ではないだろう。


 もう完全に、身を流れ・・に委ねてしまっているのが、いまわかった。

 もしかしたら、先ほどのマリアとの戦いは、ノイに覚悟を決めさせたのではなく、さらなる限界を迎えさせたのかもしれない。


「様々な問題が、この100層には積み重なっていて……、この玉座の先に進めば、その問題を根本からどうにかできる……。本来、『世界の主』とは、こんな表面部分で遊ぶだけが仕事ではない。この濁った波の出所へ。この玉座よりも、さらに奥へ。『最深部』――の『その先』へと、行くべきだったんだ。本当は……」


 ノイは玉座の裏に、疲れた目を向けた。

 しかし、説明し終えたところで、彼女は乾いた微笑を配下たちに向け直す。


「ただ、もうその心配は要らなくなった。『最深部』の中には、カナミ君が行ってくれることになったからね。……ちょっと遅れたけど、シス、ディプラクラ。よくここまでカナミ君を連れてきてくれた。ボクは嬉しいよ」


 その労いには、逸早くシスが反応する。


「ノ、ノ――じゃなくて、主! 私です! 今回、カナミを連れてきたのは、この使徒シスです! 本当に色々ありましたが、とにかく頑張りました!」

「ああ、知っている。ずっと視ていたよ。使徒の役目を最も忠実に果たしてくれたのは、シスだろう……。もちろん、ディプラクラもご苦労だった。忍耐強い君の戦いも、きちんとボクは視ていたよ」


 褒められたシスは有頂天の様子で、満面の笑みを浮かべる。

 対照的に、ティプラクラは渋い顔のままだった。


「申し訳ありません、我が主。……なによりも、我らが使徒の内の一人が、いまここにいないことを恥じ入るばかりです」

「レガシィのことは残念だった。けれど、何も問題はない。元々、彼に結果は求めていない。ボクは常に、君たち二人に期待していたよ」


 千年前、ノイが一番期待していたのはレガシィだった。

 そのレガシィに裏切られて、彼女は他二人の使徒を信用できなくなった。


 居場所すらも知らせなかったノイの二枚舌に呆れながら――しかし、いまの僕はそれ以上の薄情者とわかっているから、使徒たちとの交流に口は出さない。


「では、すぐに儀式を始めようか。ちなみに、これは『世界の主』交代だけの儀式じゃない。さらなる続きが、カナミ君にはある。ボクの諦めた深淵へ向かうための力を得る儀式にもなるだろう」


 そして、そのときはやって来る。


 途中でイレギュラーは多々あったが、調整出来ている。

 凱旋が終わるのに合わせて、ここにみんなが揃い、引継ぎを見守っている。

 この瞬間の為に、僕は全てを捨てて、『計画』してきた。


「さあ、座って欲しい。カナミ君……いや、新たな『世界の主』よ」


 ノイに誘われて、僕は歩く。

 石造りの大きな玉座の前に立ち――最後に、そこから見える景色を眺めた。


 ここが、ずっと目指し続けていた100層。

 その中心にある玉座から見える景色。


 黒い浅瀬と黒い空だ。

 一直線に伸びた石畳の道が見えて、左右には似合わない家具が浮かんでいる。

 道の両端には背の高い燭台が並んでいて……他に目ぼしいものは何もない。


 ここが、今日から僕の家。

 そして、灯の道の先にある99層と繋ぐ《コネクション》が玄関であり、『計画』の最終防衛ラインとなるだろう。

 その防衛ラインを守護する主軸となるのは、ここにいる七人。


 『計画』の協力者であり、全容を把握している元『次元の理を盗むもの』ノイ。

 その忠実な配下であり、地上のレヴァン教を掌握している『使徒』シスとディプラクラ。

 99層にて最後の門番となる『無の理を盗むもの』セルドラ。

 その上に積み重なった迷宮を管理――いや、再構築する『血の理を盗むもの』代行者ネイシャ。

 地上の騎士と神官を纏める『フーズヤーズ大聖堂管理者』フェーデルト。

 最後に、連合国全体を取り仕切り、支配している『元老院』クウネル。


 それぞれの分野に特化した七人が、いま揃った。

 その七という数字に、『天上の七騎士セレスティアル・ナイツ』という言葉が、頭によぎる。しかし、すぐに首を振る。そこのベッドにマリアが眠っているし、リーパーもいる。ティアラの『予言』は関係ない。


 僕はティアラを超えた。陽滝も超えた。だから、たった一人。

 たった一人で、ここに辿りついたのだ。

 ここから先は、もう――


「ああ、ノイ。受け継ぐ。いまから『世界の主』は、この僕が務める」


 答えて、座った。


 想像通り、座り心地は良くなかった。

 ごつごつとした石の椅子だが、この場所にあるということに大きな意味がある。


 地につけた足から、さざなみを感じる。

 緩やかだが、幾億もの魂の詰まった水だ。

 さきほどの黒い大海よりは薄いが、触れた僕の肉体を侵食して、その魂の器ごと歪ませようとしてくる。


 僕は体内にある器たちに意識を向ける。


 まず自らの魔石。それと同じ形のラグネ。

 陽滝とティアラ。さらにティーダ、ローウェン、アイド、ティティー、ノスフィー。

 そして、最後にアルティ。


 本来なら、ここまでの数は必要なかったが、万全を期して十個揃えた。

 その上で、当初の『計画』を超えて、アルティまでいる。


 十分すぎるほどの器の広さと循環能力を持って、漣の『魔の毒』を全て吸収しては、伝わってくる情報を全て受け止めていく。


 玉座の奥と比べると、ここは非常に楽だった。

 水の一滴一滴が薄く、清く、狭く、静かで、丁度よく心地いい。


 いまの僕の身体に、よく馴染んだ。

 心にも十分な余裕があった。


 むしろコントロールできると、服の裾から『糸』を複数垂れ落としていく。

 水面に漣でなく、人為的な波紋を作る。


 その作業の途中、千年前の陽滝を思い出した。

 僕が国外に『冒険』へ出るたびに、いつもあいつは城の庭で帰りを待ってくれていた。そこで無数の『白い糸』を伸ばしては、『異世界』のあらゆる流れを操って――庭に巨大な白い渦を作ってしまって、帰って来るティアラを驚かせたものだ。


 あれと同じものを、僕は100層の玉座を中心に作っていく。

 足元の浅瀬が僕の『糸』に干渉されて、ゆっくりと動きを変える。

 一方向の漣ではなく、少しずつ横にも動き出す。そして、いつの間にか、浅瀬に紫色が加わって、巨大な黒紫の渦となっっていた。


 流れは早くない。

 ゆったりと、非常に遅い。

 ここに並んでいる配下たちにとっては、先ほどよりも立っているのが楽になったことであろう。


 その波に触れて、ここまで様子を見ていたディプラクラが、嗚咽を漏らし始める。

 誰もが目を見開きつつも押し黙っていたが、彼だけは涙を浮かべて、耐え切れずに言葉を漏らしていく。


「あ、あぁ……。ぁあぁああぁっ……! それじゃ。それが出来ず、儂らは千年前に地上へと出た。我が主と同じ……いや、それ以上に綺麗な渦じゃ。やはり、カナミの心身は、すでに至っておった……! あの最後の戦いの時点で、すでに……!!」


 喋りつつ膝を突き、身体を震わせて、祈り出した。

 それは地上で僕を崇める『魔石人間ジュエルクルス』たちと全く同じ姿勢。


 その震えるディプラクラの肩を、隣のノイが叩いた。

 彼女も少し震えていたが、首を振りながら励ましていく。


「ディプラクラ、気持ちはわかる。この『安心』こそ、ずっとボクらが求めていたもの……。だが、『計画』だ。まずは『計画』通りに、宣言するべきだ。ここならば、『世界』は誰よりも近くで、視てくれている。――いますぐ、シスと共に祝え」


 優しい声色だった。

 しかし、別れを含んだ命令でもあった。


 ディプラクラは涙を振り払いながら、頷き返す。

 使徒としての最後の仕事を全うすることを、力強く請け負った。


 祈りの姿勢を解き、ノイの隣に並び立つ。

 その動きに、シスも一人の使徒として続いた。

 そして、玉座にいる僕を讃えるように。

 シスとディプラクラは、声を揃える。


「「――いま、迷宮の100層に、『世界の主』が帰還した」」 


 シスは静かに深く。

 ディプラクラは高らかに謳うように。

 儀式を行っていく。


「その新たなる世界の主の名は『カナミ』。異なる世界より召喚された『異邦人』の少年――」

「兄の『カナミ』こそが、あのヒタキを、あのティアラを、先代の『世界の主』たちさえも超えて、完全なる器となった――」


 交互に。

 祝詞のりとが紡がれる。


 もちろん、これは目の前のセルドラたちに対してだけの宣言ではない。

 まず、この100層に向かって。

 満たされた視線たちに対して。

 水面に繋がる地上の魂たちにも。


 ――この『異世界』の全てに。


 宣言していく二人の使徒は、舞台の上に立っているかのようだった。

 神官が詞を諳んじるのではなく、脚本を熟読した俳優が演じるように、掛け合い続ける。


「この大陸で最も深き器は、星の底まで『魔の毒』を呑み尽くすだろう。ゆえに、この地に闇が零れることは二度とない」

「この作られた『理想』の器は、あらゆる『魔の毒』を循環するだろう。ゆえに、その手が掬う者を選ぶことは二度とない」

「全ての『理を盗むもの』の魂を受け継ぎしものとなったからだ。それを、我らは『星の理を盗むもの』と呼ぶ」

「全てを受け継ぎし者は、世界を救う者となったからだ。それを、我らは神と呼ぶ」

「神の教えに反する人形ひとがたが生まれることも、もうないだろう。我らが使徒の使命は、ここに終わった」

「そう、もうない……! 我らが使徒の悲願は、ここに叶った! ――しかし、まだだ! まだ次はあった! 頁は百を数えども、次の物語が待っていた! 我らは、神に続きを頂いたのだ! 新たな『世界の主』は『その先』に向かうと仰った!!」

「『その先』とは、『最深部』の先。歴代の『世界の主』さえも至ったことのない領域。道なき道を歩むと、そう……、……そう主は、誓われてしまった」

「ゆえに、『カナミ』は『魔法』となる! 『魔法』そのものに! 本当の『魔法』に至ることを選ぶ!」

「『カナミ』という名は捨てられる。その肉の檻も、脱ぎ捨てられる。かの魂は石でなく、『魔の法マギルール』と成るだろう」 

「『魔の法マギルール』は、あらゆる理を超える! 次元を超えて、この世で最も神聖な法と成っていく! 神が、神ゆえに!」

「それこそ、かつてより誰もが願い、望み、崇めた『奇跡』。全人類の見続けてきた『夢』そのもの……」

「『誰もが幸せとなる魔法』となる……! 『魔法』として、我らが世界を永遠に残り、永遠に守り続けて頂ける……!」

「よって、新しく世界は生まれ変わる。それを為すのが、我らが主――」

「よって、全く異なる世界が始まる。それを為すのが、我らが主――!」


 謳うように、宣言し切り、ディプラクラは膝を突いた。


「「――新たな『世界の主』を、我ら使徒は祝福する!」」


 盲信しているディプラクラは、こうべを垂れて、次の言葉を待っている。

 ただ、シスのほうには僅かな迷いがあり、顔をこちらに向けて、もう呼ぶ必要のない名前を繰り返してしまう。


「カナミ――」

「この後ろに……。『その先』に、『ラスティアラ』はいる」


 言いたいことはわかっている。

 先んじて答える僕に、シスは言葉が見つからない様子だった。


「…………。……承知したわ、我が主」

「……本当に待たせたね、シス。それと、ここにいるのが陽滝じゃなくて僕で、ごめん。でも、僕が必ず世界を救うと誓うよ。もう君は誰かに利用されることも、騙されることもなければ、急ぐ必要もない。……これを見て、まず『安心』して欲しい。余分な『魔の毒』は、最初にこうやって魔法で消費していく。地上の社会と人口を安定させないと、循環も上手くいかないだろうからね」

「じ、人口の安定……?」


 僕は座ったまま、シスから見えやすいように右手を少し上げた。

 その服の袖から、たくさんの『糸』が垂れ落ちている。


 その『糸』を伝って、水の淀みが――『魔の毒』が、ずっと僕の中に入っていっていた。


 いまのところ、僕の貯蔵庫としての余力は十分。

 蓄えた『魔の毒』を《魔力変換レベルアップ》させることも、魔法に転用することも可能。

 だが、いま見せたいのは、循環能力のほうではない。


 ――ノイの続き・・・・・


 ここで大事なのは、この水面は《ディメンション》だけでなく《ディフォルト》の力も含んでいて、距離という概念がないこと。

 これで、もう僕はセルドラの『第八十の試練』のときのように、何度も『詠唱』をする必要はない。

 莫大な魔力による遠隔魔法を駆使することなく、必要な噂を好きなだけ広められる。

 直接、神官や信者たちを相手に天啓を与えるという手段でもいい。

 これまで連合国で行ってきた復興活動は、ここならば移動することなく、各所で同時にできる。


 ――やりようは様々で、流れ・・も思いのまま。


 ただ、人によっては、この『糸』による誘導は不快で、受け入れられないだろう。

 『世界の主』の考えを押し付けられることに、不安を覚える人も多いだろう。

 だが、いまの僕ならば――


「――《リーディング・シフト》《次元決戦演算ディメンション・グラディエイト先譚リアライズ』》《次元決戦演算ディメンション・グラディエイト前日譚リコール』》。シス、よく見て欲しい」


 ここは『血陸』で『血の人形』『血の魔獣』たちを救ってきたのと、ほぼ同じ手順となる。


 いま僕は、水面に『糸』を垂らしている限り、あらゆる魂と常に《ディスタンスミュート》を繋げている状態だ。

 だから、あのときと全く同じ救済が、遠距離で同時に実行できる。

 ファフナーとセルドラの『未練』を消したことで、その魂救済の手順は、さらに洗練されている。


 僕は左手の本を開いて、あらゆる魔法とスキルを駆使していく。

 そして、水面に映し出されるのは、地上のとある山村の風景。

 同時に、その山村の少し未来・・・・の風景も、重なるように映し出される。


 その少し未来とは、山村にある全ての魂が、少しだけ『幸せ』に向かう未来。

 僕は100層の玉座に座ったまま、その未来に沿うようにと流れ・・を作っていく。


 調整だ。

 それは例えば、病気や怪我が早く治りやすいとか、

 長年の努力が実りやすいとか、ささやかな願いは叶うとか。

 ほんのちょっとの『幸せ』に繋がっていく水流。


 まだ大きな漣は立てない。

 基本的に、複数の魂の願いというのは相反しやすい。

 だから、ぐるぐると上手く、波同士がぶつからないように、緩やかな流れを作っていく。


 だが、もし途中で……。

 もしも運命に絶望し、挫折し、斃れる魂があったならば、最後に『夢』は見せてあげたいと思っている。

 魂に『未練』が残らないように、最後に一瞬の救いを『執筆』して加えてあげたい。

 あの誰よりも不幸だったファフナーを救い、あの誰よりも悪逆だったセルドラさえも救った魔法で――


 …………。

 ラグネがいれば、「死ぬほど、胡散臭い」と言うだろう。


 しかし、そのラグネに殺されて、僕はわかったのだ。

 こうして、他人の『幸せ』を決め付けられるのは、僕たちだけだ。

 僕とラグネの二人は、そういう風に出来ていた。

 自らの『表皮かわ』を鏡のように使って、他人の『幸せ』を映すことしかできない魂。

 そう願われて、僕とラグネの魂は作られたから――


「そ、それだ……」


 世界救済の見本作業中。

 感銘を受けたのはシスでなく、ノイだった。


「それが、ボクの続き……。ずっとボクには、その『鏡』が足りなかった……。だから、民衆の口にする願いを叶えても叶えても叶えても、恨まれ続けた……!」


 急にノイは興奮した声を出す。

 シスは心配そうに、その名前を呼ぶ。


「あ、主さ――リーベルール様?」


 もう使徒は主と呼ばない。

 そのシスの気遣いを無視して、ノイは説明し続ける。


「やはり、これはカナミ君にしかできないことだった。そして、ボクには絶対できないことだった。――神というのは、『作りもの』でなければ、神じゃないんだ」


 ノイの考える神について、語られていく。

 初めて出会ったときから思っていたことだが、彼女は興奮し過ぎると周囲が見えなくなり、自分の言いたいことだけを捲くし立てる。


「あの相川陽滝の『作りもの』である相川渦波は、生まれは『月』の性質――こちらの言い方をすれば、『月の理を盗むもの』だった。その性質を利用されて、あの恐ろしき妹に何度も魂を弄られ、あらゆる魂の形を経験している。全ての属性を一度学んでいるというのが、とても重要なんだろう。その上で、君は『次元の理を盗むもの』という『世界の主』に最も相応しい魂として、定着させられた。だからこそ、いま『星の理を盗むもの』として、とても自然……! ああ、ボクたちとは、全く違う……! とうとう、来た……! 本当に『契約』通り……、とうとうだ! ついに、真の『世界の主』が現れた! ボクたちとは全く違う! まさしく君が、いや、あなたこそが――」


 余り思い出したくないことを、平気で口にしてくれる。

 しかし、だからこそ思いのたけを吐き出しているとも伝わる。

 ノイの腹の底にあった本音が、いま、零れる。


「――貴方が、全ての人の『理想』の『世界の主かみさま』だ」


 以前の僕ならば、限界まで首を振っていただろう。

 しかし、もう出来ない。

 いま、ノイは僕に『理想』を見出している。まさに『ノイの考える真の幸せ』を、僕の魂が映し出している。


「ああ、神様……。やっと、このときが来ました……」


 そして、『世界の主』だったはずのノイが、ディプラクラの隣で一信者のように膝を突く。

 感極まった表情で涙ぐみ、身を委ねた少女が祈り、願う。


「どうか、ボクの届かなかった先へ……。『その先』に行ってください。そこに貴方の『たった一人の運命の人』も居るはず……。その未来だけが、『誰もが幸せになれる世界』なのでしょう」

「……ああ」


 そして、座る僕の前で、ゆっくりとノイは振り向く。

 さらに後ろにいる者たちに向かって、厳粛に話し出す。


「――いいかい? 聞いての通り、彼は神だ」


 これも儀式の一部なのは、わかっている。

 『計画』を完遂させるために頑張るノイを、僕は邪魔しないように無言で見守る。


 ただ、その見つめる方角が他者から見ると「どこを見ているのかわからない」と、何度も言われたのを思い出す。

 案の定、いまの僕はノイたちではなく、別のところを見ていた――が、もう気にせず、そのまま話を聞き続ける。


「ボクたちの神様の邪魔をするやつらは、絶対に許さない。だろう? 使徒ディプラクラさん・・、使徒シスさん・・


 けじめをつけるように、ノイは自分の生んだ『使徒』たちに敬称をつけて呼んだ。

 その行為こそが、『世界の主』の交代の証のように。


 使徒たちも元主の意を汲んで、ノイを対等に扱っていく。


「ええ……、その通りじゃ。いま、話を聞き、確信した。新たな我が主こそ、儂らに必要な神じゃったと」

「新しき主は私と『契約』して、世界の礎となると言った。その言葉を、私は信じているわ」


 さらに、僕こそを主と呼ぶようになる。


 仰々しい交代の儀式で視線・・を集めただけでなく、周囲も僕を『世界の主』として扱うことで、より見せ付ける。その作業は、本当に念入りだった。


「ああ、ボクも信じている。彼こそ、ボクたち人類が様々な『代償』を経て、次元を超えて取り寄せてまで、とうとう手に入れた『理想』の神様だ。誰にも奪われてはならない人類共通の財産であり、この暗い大海原を進む為の道標で――」


 そこで一旦、言葉を止めた。

 深く一呼吸してから、さらに見回していく。


「そう。彼こそが、我々の未来の道標。神様よりも、こちらの表現のほうが君たちにはいいのかな? 千年の血と歴史の結晶である彼は、未来の道標であり、『世界の主』でもあり、本当の『魔法』にも至る。それが君たちにとって、最も『理想』のエンディング……。だろう? セルドラ、ネイシャさん、クウネルさん、フェーデルトさん」


 その言葉を投げかけられ、全員が硬直し――ゆっくりと頷き返していく。

 言葉が重すぎるゆえに、頷くしかなかった。


 こうして、使徒たちだけでなく、地上の代表者たちも僕を『世界の主』と認めていく。

 これもまた重要な儀式。そして、『代償』だった。


 ――ここまでの全てが『代償』となり、これから完成する『魔法カナミ』を、より高める。


 その『代償』による魔力供給が、後方から波となって直接的に届けられる。

 その淀みを僕は『糸』で汲み上げては、すぐに地上の『幸せ』に変換し続ける。

 そして、その『幸せ』が『代償』となって、またすぐに波が後ろから――と、繰り返す。


 その作業こそが、次の儀式に移る合図。


「ああっ、神様……! ええ、それです! すぐに『魔法カナミ』構築の準備を!」


 その様子を見て、ノイは急ぎ、続きの祝詞のりとを紡ぎ出していった。

 儀式を次の段階に進めていく。


「どうか『計画』通りに、その肉体を捨てて、さらに上の次元へ至ってください。魔法と化して、象徴と化して、神と化して……。そして、さらに『その先』へと――」


 そう言い終えたところで、ノイは浅瀬を這いずり進み、元の位置に戻った。

 玉座の手すり部分に、しな垂れかかって、目を閉じて休み出す。


 何百年ぶりに全力で話してしまい、疲れたのだろう

 ゆっくりと安心した様子で、いまにも眠ろうとしている。


 隙だらけだ。

 少し突けば、すぐに泣きだしそうな魂。

 これが元『世界の主』であり、元『次元の理を盗むもの』であり、僕の未来の可能性の一つか……。


「ああ、僕は行く……。何があっても、『計画』は変わらない。いや、『第百十の試練』を乗り越えたことで、より『計画』は完璧なものへと変わった。僕の魔法は、全ての魂を『幸せ』にする。そう、最初に願った。湖凪ちゃんと一緒に、陽滝と一緒に……。ティアラと一緒に、『ラスティアラ』と一緒に……。ずっと、そこを僕は目指し続けていた……。この世に『呪い』なんてない。本当の『魔法』とは、みんなを『幸せ』にする魔法ものだった……と、この僕が誰よりも強く信じている」


 ノイの期待に応えて、ずっと左手に持っていた本を開き、頁を捲り始める。

 さらに、そこに書かれた文字を詠む。


「――『罪過の命数は遡る』『あの最果てに引く射影へ』――」


 拡げる。

 手の届く範囲を、さらに伸ばす。


 100層だけじゃない。

 迷宮だけじゃない。

 地上だけじゃない。


 それらの現在いまだけじゃない。

 過去だけじゃない。

 未来だけじゃない。


 もっともっと拡げる。

 足りないならば、補え。

 そのための魔法だ。


 そのために、ずっと僕は生きていた。

 これが僕の人生の意味。価値。役目。


 ――使命・・


 だから、この魔法を最初から僕は使えた。


「――次元魔法《ディメンション》」


 始まりの魔法の名を口にする。

 これが『魔法カナミ』の中心となり、基礎となる。


 そう。

 まだ基礎。

 魔法構築の一段階目に過ぎない。

 『なかったこと』にする《ブラックシフト・オーバーライト》を組み合わせるのは最終段階なので、まだまだ完成には時間がかかる。

 だから、まずは二段階目――


 《ディメンション》。

 《ディメンション・多重展開マルチプル》。

 《ディメンション・決戦演算グラディエイト》。

 《ディメンション・曲戦演算ディファレンス》。

 《ディメンション・千算相殺カウンティング》。

 《次元決戦演算ディメンション・グラディエイト先譚リアライズ』》。

 《次元決戦演算ディメンション・グラディエイト前日譚リコール』》。

 《次元決戦演算ディメンション・グラディエイト再譚リヴァイブ』》。


 ――全ての《ディメンション》の統合を行う。


 ここまでは何気なく同時展開していたが、もっと綺麗に束ねる必要がある。

 あらゆる領域の過去と未来も取り込み、距離だけでなく時間という概念も超える存在となる為に。


「――『僕は全ての罪過を償う・・と誓う』――」


 最初に口についたのは、なぜか「償い」という言葉だった。


 わかっている。

 セルドラと同じで、罪悪感があるのだ。

 ファフナーと同じで、『経典』に許しをい続けているのだ。


 時間を越えたり、死者蘇生を願ったり。

 魂の改造に、『幸せ』の偽造まで。

 ずっと僕は、人としての禁忌を破ってばかり。


 思えば、以前にも似たような場所で、この『詠唱』をしたことがあった。

 六十六層の裏。

 初めて、『呪術』という存在を思い出して、運命を変えたいと願ったときだ。

 あのときから、僕は予感していたのだろう。

 いつか、ここに、こうしてやって来て、あらゆる禁忌を犯すしかなくなることを――


「――『この世の終わりになろうとも必ず』――」


 『詠唱』していくにつれて、視線・・は過去最高に強く、濃くなっていく。

 ずっと広大で巨大過ぎると恐れてきた視線だが、いまはもうぬるい。


 思えば、この視線・・は本当に、ただの優しい子だった。

 頑張っている人には、無条件に無垢な気持ちで応援してしまう。

 悪人だろうと善人だろうと、興味を惹かれると、つい目で追いかけ続けてしまう。

 純粋で、優しい。だからこそ、とても不安になる幼子。


 『切れ目』の中に入ったことで、確信した。

 ここまで、無駄にスケールを大きくして難しい話をしていたが、結局僕のやることは単純。


 この幼子せかいを守るだけ。

 まだ小さいから、早く誰かが上から頭を撫でてやらないといけないだろう。

 ときには叱りつけてでも、色々なことを教えてやらないといけないだろう。

 この子には、たくさんの世話が必要だ。

 たくさん食べたら、背中を擦ってあげよう。

 眠そうになったら、子守唄を歌ってあげよう。

 いまは病気で弱っているから、きちんと毛布をかけてあげるのも大切だ。

 『幸せ』という名の体温が低いから、いつまでもあちこちで症状が悪化する。

 人口という免疫力が足りないから、いつまでも体の毒が抜け切らない。


 つまり、これは子育てであり、看病。

 少しずつ『魔の毒』を循環させて、健康体に近づけていく作業。

 それが新しい『世界の主』の最初の役目。


 いつも通りだと思った。

 昔、陽滝を看病していたときと、そう変わらない。

 むしろ、陽滝と比べると素直な子だからやりやすい気さえする。


「ふふっ……」


 ただ、疑問があるとすれば、この『異世界』を幼子とすると、いつ、誰が、生んだのか。

 そもそも、なぜ病に冒されていたのか。

 どうして、ずっと放置されているのか。


 それらの疑問は『世界の主』の役目を終えて、『その先』に行けばわかるかもしれない。

 が、それは正直どうでもいい。

 僕には関係ないことだ。

 大事なのは、その『その先』に行けばわかるものの中に、僕は大切な人の姿を見つけられることだけ。


「――だから、『僕にみんなを救わせてくれ』『ラスティアラ』――」


 《ディメンション》で、思考は果てまで拡がった。

 それでも、『たった一人の運命の人』だけに想いを馳せ続ける。


 そして、いまやっと『世界の主』交代の儀式を終えて、『魔法カナミ』の構築に入ったことで、『並列思考』に一つ空きが出来た。

 ただ、空いたと同時に、その『並列思考』の意識も向く。


 そういう『呪い』だった。


 僕の眼球が映し出すのは、揺り椅子に眠るマリアと隣に座るリーパー。

 そして、その二人の後ろに立ち、付き添っている『ラスティアラ』――


 ずっと『ラスティアラ』は、マリアの額を優しく撫でていた。

 こちらの『世界の主』交代の儀式に、全く興味がなかったわけではないだろう。


 ただ、直前のマリアの叫びを、より大事に噛み締めていた。

 10層から100層まで落ちていく途中、マリアから全力で叱られて、ショックを受けて項垂れて――でも、嬉しくて口元が緩んで、たくさんの感情と感想を秘めて、反芻しては撫で続ける『ラスティアラ』。


 マリアの物語の余韻を、とても大事にしていた。 

 僕や陽滝みたいに、読むのは速くない。彼女は物語を大事にして、噛み砕いて味わい、やっと次のページを捲る。


 『ラスティアラ』は物語の読み方が上手かった。

 物語を楽しむ天才だったと言ってもいい。

 だから、どんなシーンでも楽しそうで、笑顔で、明るくて、奇麗だった。


 そこが、好きだ。

 ああ、好きなんだ。

 ただただ好きだから。

 好きで好きで好きで、好きだから――!

 色々あっても、結局は好きだからという理由だけだから――!


「『だから、どうか行かせて欲しい』『ラスティアラ』――」

「『だから、どうか会わせて欲しい』『ラスティアラ』――」

「『だから、どうか生きて欲しい』『ラスティアラ』――」


 幻覚まぼろしとわかっていても、視ながら詠み続けた。


 それが僕の人生だから。

 それが最後の『詠唱』だから。

 『ラスティアラ』『ラスティアラ』『ラスティアラ』と頁を捲りながら、唱え続ける。


 口ずさみ続けた。

 見つめ続けた。

 他は何も見えなくていい。


「――『もう僕の幸せは、一つだけ』――」


 他は何も要らない。

 ティアラを真似て、僕も生と死を超えた魔法を目指す。 


 その誓いの『詠唱』が、空間に響き続ける。

 湖面のような迷宮の100層を満たしていく。


 そう。

 この何でも願いが叶うという伝説の100層に。

 やっと辿りついた僕は、



「――『おまえと一緒にいたい』『ラスティアラ』――」



 と願い続ける。

 僕の100層への願いごとは、それだけ。


 『魔法カナミ』の構築が始まった。

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