461.そして100層へ


 『試練』は終わった。

 純白の太陽は、迷宮から跡形もなく消え去った。


 ――落下が止まったのは、名実共に最後の砦だった99層。


 ただ、その迷宮最大の難関であろう階層も焼き溶かされて、本来の姿から変わり果ててしまっている。

 ここまでの階層と同じく、強制的に溶岩エリアに塗り替えられて、天井が消失した。


 だが、地面は残っている。

 その上で、僕たちが向かい合っていた。


 すぐ目の前。

 手の届く距離で、力を使い果たしたマリアが膝を突き、顔を俯けている。


 僕も同じく、膝を突いている。

 だが、顔をあげるだけの余裕は残っていた。さらに言えば、太陽は消えども、まだ《ブラックシフト・オーバーライト》の紫黒の暗雲は周囲に漂っている。


 太陽と暗雲の掻き消し合い。

 勝利したのは、暗雲だった。

 決め手は、迷宮90層の次元属性の補助――ではない。


 視線・・

 最初から、ずっと感じている視線だ。


 この視線が『世界』そのものであり、『最深部』でもあることは、すでにわかっている。

 基本的に『詠唱』というのは、これと取引をして、魔力を贔屓して貰う。だが、その贔屓して貰った魔力を使って、取引先を消し去ろうとすれば、いかに優しい『世界』でも慌てて止めに入る。


 結果、太陽が『最深部』へ届く直前に、マリアの『詠唱』は崩れて、急激に魔力が減衰したのだ。

 対して、僕とノイの《ブラックシフト・オーバーライト》は90層を通過して、魔力と勢いは最高潮に達していた。


 他にも色々な理由は混在していたが、視線が一番の決め手となり、勝負がついたのは間違いないだろう。


 つまり、この勝負。

 どうあっても、99層ここで必ずマリアは魔力切れを起こして、止まる運命だったのだ。


 それを伝えようと、僕は喉を震わせる。


「マリア……、いま僕と真正面から戦って、勝てるわけがなかった……。やるとしても、僕が『最深部』で動けなくなったときにするべきだって……、みんなそう言ってただろう? どうして……」


 問いかけられるマリアの呼吸は、本当に浅い。

 疲れ切っている。いまにも倒れそうだ。


 けれど、その僕の言葉を聞いて、呼吸以上に浅くだが笑みを浮かべていた。


 マリアから返ってくるのは、笑顔のみ。

 代わりに僕の背後から、返答が聞こえてくる。

 この『第百十の試練』の前に、一人だけ安全圏に抜け出した死神の声だった。


「あの『使徒』の言葉は、余り好きじゃないんだけど……、アタシが代わりに言うしかないね。お兄ちゃんは、誰よりも知ってるはずだよ。――勝ち負けは重要じゃないんだよ。負けて叶うものもある」


 振り返ると、そこには帰宅するかのように、いそいそと僕の影に入ろうとしているリーパーがいた。

 そのさらに後方では、魔石二つを預けた清掃員が、ぽつんと立っている。


 僕たちの魔法の激突を観戦しながら、10層から99層までの吹き抜けを悠々と落ちてきたのだろう。

 それができる能力と魔法を、いま二人は持っている。


 そう。

 二人共、観ているだけじゃないという選択肢も、取れたはずだった。


「リーパー……。どうして、マリアを止めなかったんだ?」

「アタシは誰の味方もしない。最初から、そう言ってるよね?」

「だが、『審判役』だったはずだ。僕たちの『決闘』に相応しくないことは、止めてくれるとも言った……。もう『ラスティアラ』しか見えない僕の代わりに、おまえが判断してくれると……!」


 即答するリーパーに、僕は食い下がる。


 いま僕は『糸』も『執筆』も途切れて、例の『計画』からも外れて、余りに無様な八つ当たりをしている。自分でわかっていても、そう言うしかなかった。


「うん、約束したよ。……だから、これは『ラスティアラ』お姉ちゃんに関わる『決闘』じゃないって、そうアタシは思ってる」

「そんなわけ……、ない、だろ……」


 この日、このタイミングで、この場所で、こんな戦いをしておきながら、『計画』にも『ラスティアラ』にも関わっていないなんて、ありえない。


 押し出されるように話す僕に、リーパーは説明を続ける。


「この『第百十の試練』は、この世界の行く末にも、『最深部』にも一切関わりがなかった。ほんと、いつも通りの『試練』らしい『試練』だったと思うよ。ただのマリアお姉ちゃんの個人的な応援に、アタシから口出すことは一つもなし!」

「こ、これが個人的な応援……? これがか……?」

「お兄ちゃん。その右手が掴んだものが、『答え』なんじゃないの?」


 当然のように話され、最後に僕の手を指差される。


 左手には、本を持っている。

 右手には、新たに握られたものがあった。

 手を開き、その赤く輝く魔石を見る。


「『火の理を盗むもの』アルティの魔石たましい……」


 抜かざるを得なかった。

 《ディスタンスミュート》によるアルティの抜き取りだけが、魔力を失ってもなお突き進もうとするマリアを止められる唯一の方法だったからだ。


 ――『計画』になかった魔石が、いま僕の手の中に収まっている。


 『計画』を超えられたという驚き以上に、叱られている感覚が強い。

 どれだけ僕が「アルティは他のみんなと違って、マリアと一緒に『幸せ』になれるんだ」と主張しても、そんなことは「余計なお節介だ」と跳ね除けられたような感覚。


「お、お祭りが……、始まります……」


 そのとき、マリアの声が響いた。


 僅かな休憩で少しだけ体力を取り戻したのだろう。

 振り向くと、その最後の体力を振り絞って、ゆっくりと俯いていた顔をあげようとしていた。


 しっかりと表情が見える。

 薄らと笑みを浮かべたまま、どこか遠い目。

 地上の喧騒に、耳を澄ませているような顔をしていた。

 祭りの歌と花火の音を懐かしんでいるようにも見えた。


「とうとう『終譚祭』ですね……。千年前も、一年前も……、最後まで一緒じゃありませんでしたから……。だから、どうか今度は誘ってあげてください。そっち側に……、…………、……あなたが・・・・


 言い終わると同時に、腰を地面に下ろした。

 もう身体に全く力が入らないのがわかる。


「…………っ!」


 そして、マリアは僕のことを「あなた」と呼んだ。

 丁寧な彼女は、相手のことを名前とさん付けで呼ぶ。

 僕を相手には、しつこいほどに「カナミさん」と呼び続けた彼女が、いま、「あなた」と口にしたという事実。


 ――僕の名前を『忘却』している。


 いかに『呪い』をコントロールし切っていたとはいえ、あの激戦だ。

 さらに言えば、ぶつかり合ったのは《ブラックシフト・オーバーライト》。

 色んな記憶や想いを『忘却』した上で、人生の至るところが『なかったこと』になったはずだ。


 ――おそらく、いまのマリアは記憶のバランスが大きく崩れ、魂まで慢心創痍。


 しかし、嬉しそうな顔をしていた。

 あれだけ『忘却』を恐れていた彼女が、これこそが本意というように笑っている。


 そう。

 この『第百十の試練』が始まってからずっと、微笑んでいる。

 お祭りの雑踏の中、景色を見回して楽しみながら歩くかのように。


「私と一緒で、ちっとも素直な人じゃないんです……。だから、もう仲間外れにはしないであげてください……」


 『狭窄』に侵された僕に、マリアは笑いかけ続ける。

 そして、仕方なく最後は、真っ直ぐにお願いした。


 マリアと一緒で、素直じゃない人。


 つまり、誘ってあげて、とは……。

 千年前からずっと仲間外れにされていた『火の理を盗むもの』アルティのこと……?


「だって、あんな千年前の終わりです……。最後に一度くらいは、『理を盗むものたち』みんな一緒に――、揃って……、お祭りに……、行き――、ましょう……――」


 途切れつつ、マリアの身体が前方に倒れそうになる。


 明らかに両腕が脱力していて、手を突くことすらできそうにない。

 慌てて僕は、左手の本を『持ち物』に戻してから、両手を前に伸ばした。

 マリアの両脇に腕を入れて、深く抱き止める。


 そして、今日初めて、触れた。

 彼女の身体から伝わる熱は丁度よく、暖かく心地良い。


 ここで、やっと気づく。

 これまでの『理を盗むもの』たちと同じように遅く――いや、それ以上に遅く、鈍く、遠回りに、僕は気づく。


 ――今日、マリアは本当に「アルティを届けに来ただけ」だった。


 わざわざ『第百十の試練』なんて、慣れていないことを言い出したのは。

 アルティの『第十の試練』を、自分マリアがクリアしてしまったことを気にしていたから。


 おそらく、千年前の事情が明らかになっていくにつれて、マリアは色々なことを物語の『行間』に一人で考えていたはずだ。

 次々と『理を盗むもの』たちの魔石たちが、『相川渦波』の手に入っていく中、『火の理を盗むもの』アルティだけが自分と共にいる。そのことに申し訳なさを感じたこともあったかもしれない。


 ――自分だけが、余りに『幸せ』過ぎると。


 そうマリアは思ってしまったから、この『第百十の試練』を始めた。

 このあと、マリア自身がどうなろうとも。

 僕を『忘却』してでも。

 大切な思い出が『なかったこと』になってでも。


 アルティという親友の為だけに――

 いや、違う。

 マリアは素直じゃないんだ。

 そして、応援しに来たと言ったのは嘘じゃない。

 その言葉通りに、《ブラックシフト・オーバーライト》は当初の『計画』を超えて、彼女の炎によって限界まで鍛え上げられた。


 この『第百十の試練』は、『狭窄』で弱った僕の為でもあった。

 もちろん、『ラスティアラ』の為でもあるだろう。しっかりと好きという気持ちを伝え合うことで、恋を成就させた彼女の応援もしていて――


 マリアはきっと……。

 一人で考えに考え抜いて、みんなの為に・・・・・・、この『第百十の試練』という選択をしたのだ。


 その意志を読み取り、僕は喉を震わせる。

 この『第百十の試練』に対する一つの『答え』を出していく。


「マ、マリア……。いま、揃えた……。こっち側に、『理を盗むもの』たちが……。千年前の懐かしいみんなが、一緒になった……」


 右手の魔石を強く握り、マリアを抱き締める。


 そのとき、耳元でマリアは、安堵の大きな吐息を漏らす。

 そして、最後まで伝えようとする。自分の気持ちを嘘偽りなく、真っ直ぐと。


「私は……、…………あなたの、『幸せ』を、願っています……」


 願われる。

 が、僕の名前は出てこない。


 僕が想い人だったことだけは、記憶の燃え滓から察しているのだろう。

 アルティと一緒だ。

 察した上で、ただ祈る。

 それが『マリア』の最後の言葉となる。


貴方が・・・……、どうか『幸せ』に、なって、くだ、さ……――」


 ここまで、僕はマリアの思惑を長々と考えた。

 しかし、一言に凝縮していた。


 勝ち負けじゃない。

 ただ、僕を『幸せ』にしたい。


 そう言い残して、マリアの身体から全ての力が抜ける。


「…………」


 気絶した。

 身体は無事だ。

 浅いけれど、呼吸は続いている。


 しかし、精神こころのほうは、決して無事ではないだろう。

 いまの一言の為に、マリアは自分の大切なものを薪にして、燃やしてしまった。


 僕とマリアの出会いから、今日までの思い出を全て。

 いま『忘却』したのだと思ったとき、横から「別の手」が伸びる。


 たくさんの『呪布』を巻きつけた腕だった。

 その布の一つを、もう片方の腕でゆるめて、外して――


「……え?」


 『呪布』をマリアの頭部に――失った瞳を守るように、巻きつけていく。

 それは同郷のよしみか。それとも、同じ研究院の犠牲者『炎神』様への共感か、謝罪か。

 その清掃員さんの姿が、なぜか。

 黒い仮面のせいだろうか。

 一瞬、『闇の理を盗むもの』ティーダにも見えたような気がした。


 ――空目そらめと共に、千年前のある一頁を思い出す。


 千年前、僕は『闇の理を盗むもの』ティーダと協力して、『火の理を盗むもの』アルティを領主ロミス・ネイシャの手から救出した。


〝――その別れ際に『闇の理を盗むもの』ティーダは、助かった『火の理を盗むもの』アルティを責任を持って預かった。

 故郷ファニアの犠牲となった母娘を、今度こそと。

 次はフーズヤーズの騎士として守り抜きたいと、そうティーダは心に誓っていた――〟


 思えば、ティーダは千年後でも、消失の間際までアルティを気にしていた。

 『忘却』しても、感情だけは――気持ちだけは、残っていたのだろう。

 続いて、連想する記憶があった。


〝――俺は知った。

 大事なのは、『の気持ち・・・・

 『世界』を救うのは、確かに大切かもしれない。

 けど、『人』あっての『世界』だ――〟


 先ほど、リーパーが真似た使徒レガシィの言葉。


 いま、様々な文章が、『持ち物』の中の本に書き足されている気がした。

 僕の『執筆』じゃない。

 千年前にリタイアした使徒の言葉まで、ここまで『本物の糸』によって繋がっていて――、この僕の不完全で初心者な『執筆』を、どうにかフォローしてくれているかのようで――


 背中を押されるように僕は、ぽつぽつと。

 『計画』になかった台詞を紡いでいく。


「アルティ……。これから、『終譚祭』が始まる。お祭りだ。だから、一緒に行こう……」


 本当に下手な台詞だけど、誘う。

 千年前から、ずっと一人で取り残されていた『理を盗むもの』に、手を伸ばす。


「ただ、このお祭りの裏で、僕は最後の魔法開発をするよ……。もう妹の治療のための『呪術』じゃなくて、もっと難しい『魔法』の開発で……。本当に難しいから、君の手助けが欲しい。お祭りの日に何をやってるんだって思うかもしれないけど……、どうか僕と一緒に来て欲しい。お願いだ……」


 台詞を言い終わり、少しだけ間があった。


 ほんのちょっとの静寂。

 手に持った魔石が静かに、ゆっくりと、確かに、沈みこんでいく。

 他の『理を盗むもの』たちと同じく、僕の中に入っていった。


「あ、ああ……。ああっ!」


 これで、完全に終わり。

 『マリア』の『第百十の試練』は終わり。

 それを僕は理解し、噛み締め、叫ぶように宣言する。


「これで……、総べてが揃った……! 真の意味で、揃った!! 『火の理を盗むもの』アルティの魔石をもって、みんなが僕のほうに揃ったぞ!!」


 その宣言を見守っているのは、リーパーと清掃員だけじゃない。

 何よりも僕は視線・・に向かって、アルティは僕の味方であることを伝える。


「これから始まる儀式は! 千年前に始まった『呪術』が全ての理を越えて、本当の『魔法』となる瞬間は! ――『火の理を盗むもの』アルティの力によって、僕の当初の『計画』すらも超えるだろう!! 『魔法カナミ』の構築は、彼女のおかげで更なる高みに昇華する!! 彼女が千年前からずっと! 一人でも、ずっと準備してくれていたおかげだ!!」


 そう言いつつ、僕は立ち上がる。

 マリアの身体を抱きかかえたまま、振り返り、力強く歩み出す。


 少し乱暴だったのは、思うところがあったからだ。

 これで僕は有利となった。

 『マリア』が応援をしてくれたおかげだが――ただ、それはつまり、あの『炯眼』を以って、僕に応援の必要があると思われたということでもある。


 アルティがいないと、相川渦波のほうが不利。

 いまのところ、シア・レガシィのパーティーのほうが有利。

 その流れ・・を『炯眼』が視たという事実。


「…………っ!!」


 悔しい。

 まるで、僕が『ラスティアラ』の為に本気で生き抜いていないと、言われているような気がした。


 本気で生き抜くことだけが唯一、この残酷な理を乗り超える方法だというのに。

 『ラスティアラ』との『幸せ』に辿りつくための道だというのに……!

 いまマリアに、『幸せ』になって欲しいと願われたのに……!!


 激励された僕は歩きながら、容赦なく最大の反則である『紫の糸』を袖口から伸ばす。

 いまの周囲の状況は、『糸』の維持に向いていない。

 しかし、『第百十の試練』の炎を乗り越えたことで『糸』は鍛え上げられ、あっさりと腕の中のマリアに繋げることができた。


「――炎よ、伝え」


 炎を纏わせた『糸』を繋いで、調整を始める。


 いまマリアの記憶は焦げ付き、穴だらけとなっている。

 このまま目を覚ませば、その不安定な記憶に困惑して、ただでさえボロボロとなった精神こころが崩壊する危険がある。


 そうならないように、受け継いだ『忘却』の炎で、より完璧な『なかったこと』としていく。目を覚ましても、気持ちのいい朝を迎えられるように、綺麗に記憶の形を焼き整えていく。


「……いま、僕は『なかったこと』になる一歩目を踏み出した。真の一歩目だ」


 ずっと躊躇っていた一歩目。


 それを最大の敵となりえたマリアの記憶から始めた。

 これで、もうなあなあ・・・・ではない。


「唯一、僕に痛みを与えられる『炯眼』が、舞台の外に落ちた。『終譚祭』が終わるまで、目覚めることはない。魔石がない以上、どう足掻いても戦力にはならない」


 しかし、まだ念入りに何十本もの『糸』で彼女を包みこみ、『忘却』を駆使し続けて、歩く。


 決め付けはしない。少し前、マリア自身が「忘れてしまっても、思い出せばいいだけの話ですね」と言っていた。「最悪、気合いで思い出しましょう。気合いで」とまで。


 いま、マリアに『糸』を繋いでわかったことが一つある。

 本当に恐ろしい記憶であり、いまの僕に足りない覚悟。それは『計画』が終わったあと、マリアは全てを『忘却』した上で、僕を『その先』まで追いかけて捕まえる自信があったということ――


 もう一切の油断はできない。

 僕は急ぎ歩きながら、一つの魔法を唱える。


「――《コネクション》」


 それは次元の扉の魔法。

 しかし、覚えたての頃とは違い、いまは強固な門が生成される。


 色は変わらず紫。だが、大きさは城門のようで、馬車一つは軽く通れる。

 『計画』通りに、大聖堂の『最下層』と繋げた。


 僕は振り返り、後ろをついてきている清掃員さんに近づく。

 もう彼女には必要のなくなったティーダの仮面を取り、すぐにアルティと同じように僕の中に吸収していく。


「清掃員さん――いや、『血の理を盗むもの』代行者ネイシャ・・・・


 そして、呼んだ。

 ネイシャ家の最後の一人である彼女は名前を呼ばれて、ぴたりと静止する。


 僕はネイシャに指示する。

 彼女の命綱と想い人を掴んでいる者として、上から高圧的に。


「暢気に十層分も散歩してしまった。すでに英雄たちの凱旋は終わっているだろう。その扉から、もう一つの『最下層』に行き、すぐに地上の仲間たちを――いや、僕の配下たちを呼んでくるんだ。僕は先に100層へ向かう」


 それを聞き、こくりと彼女は頷いた。


 命令され慣れている様子で、いま僕が作った《コネクション》の扉を開いて、中に入っていく。

 それを見送ってから、さらに僕は歩き進む。


「迷宮を包め、《ディメンション》。過去を貪り、未来を奪い、現在いまを支配しろ。この僕の操る『糸』のままに」


 それは独り言のようだったが、決して違う。

 二度と視線・・を奪われないように、僕は大仰に物語を紡いでいく必要があった。

 そして、悠々と十数歩進んだところで、立ち止まり、呟く。


「ここだ」


 周囲は変わらず、溶岩地帯だ。

 他には何もない。


 けれど、わかる。

 ここに扉がある。


 じっと、目と《ディメンション》を凝らす。

 何もなかったはずの目の前に、透明の門が聳え立っているのが視えた。


 いましがた僕が作った《コネクション》と、ほぼ同じ質と形。

 その扉を僕は迷いなく、マリアを抱えたまま――、くぐる。

 これが、次の層に続く階段でもあるとわかっていたからだ。


 99層の次に進む。

 ただ、その先は下ではない。

 横でもなければ、奥でもない。

 次元を超えて、『向こう側』へと進む。


 ――それだけが、100層への到達方法。


 透明の門をくぐった先。

 真っ暗で広大な空間。


 それは「本当に何もない」ところだった。

 直前の99層の「何もない」という表現が誇張だったと思えるほどに、あらゆるものが存在していない。


 星のない暗黒の宇宙そらを漂っている感覚。

 どこまでも暗い。

 どこまでも広い。

 どこまでも何もない。

 足場すらなく、いま自分が立っているのかも浮いているのかも、分からない。

 空間という実感すらなくて、無という一文字だけが思い浮かぶ。


 その無の中、僕は迷わず突き進む。

 ただ、歩いているはずなのに、どこを歩いているのかが定かではない。呼吸をしているはずなのに、何を吸っているのかが定かではない。あるゆるものがないというのは物質的な話だけでなく、概念の話も含んでいる。距離や時間が進んでいる気が全くせず、重力や明暗といった自然の摂理さえもあやふや。


 予想していたが、いつかの『次元の狭間』や『行間』と似ていて、六十六層の『裏側』とほぼ同じ。


 が正直、こういう空間には慣れてしまっている。しかし、全く同じというわけではないようで、ここにしかない現象があった。


「ああ、やっとだ……」


 あらゆる方向から、視線・・を感じる。

 まるで眼球の水晶体を進んでいるかのように不気味で、不安で、おどろおどろしい。


 例の『切れ目』の中に、いま僕は入っているのだろう。

 初めて視線が合ったときは余りに広大過ぎて、原初の恐怖しか感じなかった空間だ。

 だが、もう恐怖は一切なく、ただ感慨深く、見回していく。


「やっと、辿りついた……。ここが……」


 こここそが、迷宮の100層。


 だが、まだだ。

 僕好みのラストダンジョンのラストフロアらしい階層だが、まだまだ浅い。そして、『魔の毒』も薄い。

 この程度のところで止まれるものかと、景色を楽しむよりも歩くことに集中する。


 進めば進むほど、足元に抵抗を感じ始めた。

 次第に、ぱちゃぱちゃという音が聞こえ始めて――いつの間にか、真っ黒な浅瀬を歩いていた。


「これは……?」


 何もないところを歩いているはずなのに、黒く淀んだ水の浅瀬が存在しているように見える。

 《ディメンション》で違う角度から見ると、厚さ三センチほどの水の層のようなものが浮いていた。


 この100層は、『水の理を盗むもの』ヒタキの階層でもある。

 湖や海が広がっていても、確かに不思議ではないが……もう妹の『試練』は終えて、守護者ガーディアンは存在しない。だというのに、水気が多い。


 さらに、浅瀬から緩やかな波も感じた。

 その漣に逆らうように、僕は真っ直ぐ歩き続けていく。


 浅瀬を踏むたびに、次元魔法《フォーム》のような泡が浮かび上がる。

 ビーズからシャボン玉まで大小様々、色彩豊かで仄かに発光した泡だ。


 現実味のない不思議な空間だ。

 その奇妙な泡を足跡に浮かばせながら、どれほど歩いただろうか。

 ありもしない時間感覚を確認しようとしたとき、それは唐突に現れる。


 歩く先、そう遠くない距離だった。

 何もないはずだった浅瀬の上に、古びた石造りの大きな座具いすがあった。


 高さは僕の背の二倍ほど、横幅は大人三人が座れるほど。

 石の背もたれには、それらしい紋様が描かれている。形状から、玉座であることが窺えるけれど、さほど芸術性は感じない。あと単純に、硬くて座り心地が悪そうだ。


 すぐに近づいて、触れようとする。

 だが、その前に、また別の座具いすが現れる。


 右方向に、今度は大きな揺り椅子ロッキングチェアが、ぽつんと一つ。

 こちらは玉座と違って、形状と材質がいい。しなりのある木製の骨組みに、純度の高い魔石による補強が施されている。ふかふかの毛布まで敷かれていて、かなり座り心地が良さそうだ。


 この場所の非常識具合を分析しつつ、二つの座具いすを注意深く眺めていると、腹部から声が聞こえてくる。


「そっちは、ボクのやつ……。寝具を見られるのって、なんだか、ちょっと照れるかも」


 そう言ったノイが、ずるりと僕の腹から這い出て、黒い浅瀬に倒れ落ちた。


 しかし、身体は濡れていない。

 見た目どおりの水ではなく、特殊な法則の――いや、捻じ曲がった法則の水なのだろう。だが危険はないようで、ノイは自宅に帰ったようなリラックス状態で、ずりずりと浅瀬を這いずって移動し始める。


 あの臆病なノイが緊張を解いている。

 それを見て、本当に安全なのだなと確信した。


 すぐに這いずるノイを追い越して、座り心地の良さそうな揺り椅子に抱えていたマリアを降ろして、寝かせた。

 僕の影に入っていたリーパーもマリアを抱えて続いて、そのすぐ隣に座って、看病の態勢を取る。かなり大きめな揺り椅子なので、あと子供一人くらいは座れそうだった。


 ただ、後ろで「ボ、ボクの……」という小さな非難の声が聞こえてくる。しかし、すぐに「この大きい身体だと、もう一つ作ろっか……」と言っていたので、気にせずに感想を口にしていく。


「ここが100層。……思ったよりも、水が多い」

「……うん、『水の理を盗むもの』ヒタキの影響だよ。でも、彼女が来る前から大体こんな感じだったとも思う。ここは、あらゆる魂のイメージが反映されるから……。もちろん、ここにいるボクたちのイメージは、さらに色濃く反映される。もっとラストフロアに相応しいように変えようと思えば変えられるけど……、変える?」


 ここまで歩いてきた道に、ノイは顔を向けた。

 すると、道が出来る。

 魔法のように。


 玉座と同じ材質の石畳が、浅瀬より少し高めに敷き詰められて、闇の果てまで伸びた。

 その道の両端には、高めの燭台が一定間隔毎に並んでいて、明かりが灯っていく。

 揺り椅子といい、慣れれば融通が利く空間のようだ。


「いや、いまはいいよ。それよりも、見ておきたいところがある」

「わかってる。一応、結界っぽい膜は張ってるから、《ディスタンスミュート》で入って。あと、いまは一歩だけ・・・・にして」


 ノイから忠告を受けつつ、一番の目的である場所に僕は向かう。

 それは石造りの大きな玉座――ではなく、その奥。


 揺り椅子から離れて、玉座を無視して、その横を通り越そうとする。


 忠告どおり、そこには次元の壁のような結界が張られていたので、無詠唱の《ディスタンスミュート》で全身を透過させて、通り抜ける。


 そして、その裏にあるはずのものを、確認しに行こうとして、


「――――っ!?」 


 一歩目のことだった。

 玉座の裏側に踏み入っただけで、ノイの「一歩だけ」という意味を理解する。

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