454.亡霊の夢、夢の亡霊

 恐れる俺の返答を、カナミは待つ。

 狭い部屋の隅では、幼馴染で姉弟子の清掃員が、かつてと同じように俺を見守っていた。


「ニール……」


 小さな声で、そう俺を呼んでいる。 


 『過去』が俺を視ている。

 いや、『現在』か。

 時間を超越しかけているカナミと心を重ねたせいか、時間感覚がずれて狂って、頭の中がぐちゃぐちゃだ……。


 ただ、なんにせよ「彼女を救うには、まだ遅くないぞ」と、神に背中を押されていることだけは感じられた。


「お、俺は……」


 だから、俺は『契約』の返答しようとする。


 そのとき、それはやってきた。

 この大事なときに、突如として、タイミング良く・・――


「――――っ!?」


 視界が上下に揺れた。

 異常事態にカナミも視線を本から外して、上を向いた。


 天井の石がパラパラと崩れていく――のではなく、ドロドロと溶けて、垂れ落ちていっている。

 氷が水に戻っていくかのように、部屋の石が血に戻ろうとしていた。

 天井だけでなく、壁も床も同様だ。立っている石畳の硬度が失われていき、沼に嵌ったかのように両足が沈んでいく。


 清掃員が見守りきれずに、声を出す。


「きょ、教祖様? これは、どういう……?」

合わなかった・・・・・・、みたいだ……」


 カナミは短く答えて、清掃員の傍に一歩寄る。

 これで彼女の安全は約束された。


 俺だけが、余裕がない。

 いま、俺の身体は消失寸前で、《ブラッド》といった魔法で、状況把握することができない。


 なんとか事態の予測は出来る。

 部屋は崩れるのではなく、溶けている。さらに、この中心部までも影響が届いているということは、『血陸』全体の魔法が解除されている可能性が高い。


 生命線である『血陸』の解除はできないように、多くの保険をかけた。

 『血の理を盗むもの』の力は必須だ。繊細な術式が暴走しないように、鮮血魔法のセンスと深い理解もいる。


 となると、地上で戦っているグレンが説得されたか、脅しに屈して協力した……?

 それとも、セルドラさんに思いの他、血属性の才能があった……?


 どちらもありえない。

 この状況は、俺かヘルミナさんに匹敵する血の魔法使いでなければ、起こせないはず。


「――――っ! なら、もしかして……?」


 そこまで思い至ったとき、溶けて流れ行く血の流れが大きく変化した。


 石造りの部屋が溶けて溶けて溶けて、足元に溜まった血が全て、この部屋の出口に向かっていた。丁度、部屋の扉は開いていたので、さらに上層に続く階段を通っているのが、ここからでも見える。


 ――吸い上げられていた。


 ずっと俺が溜めていた大量の血が、地上に向かっていっている。


 俺の想定を超えた何かが、いま地上で発生している。それがわかったときには、もはや『御神体保管室』は立方体を保てなくなっていた。


 そして、部屋は限界を迎える。

 まず天井全てが一斉に血と化し、滝のように落ちて、襲い掛かってきた。それを『経典』を持っていない手で防ごうとするが、すぐに足元の床も一斉に血と化す。


 立っていられない。

 しかし、尻餅をつくこともできない。

 四方八方が真っ赤に染まったと思った瞬間には、もう俺は水中を漂う浮遊感の中にあった。


 血の海に飲み込まれ、右も左もわからない。

 ただ、それは決して、俺にとって悪いシチュエーションではない。

 『血の力』を極めた俺にとって、これは有利な展開――という認識が覆されるのは、すぐのことだった。


 恐ろしい勢いで上へ上へ上へと吸い上げられ続け、次第に血の水面が近づいてくる。

 浮遊感のままに俺の身体は持ち上げられて、その水面を打ち破った。


「っはぁ――!」


 血の海から脱出して、肺を空気で満たす。

 急ぎ、両目の血を拭って、周囲を見回した。

 そして、その光景に目をく。


 ――すでに、ごっそりと『血陸』が消えていた。


 綺麗に血の海は干上がり、あるべき大地がきちんとあった。

 どこにでもある薄茶色の普通の荒野が、地平線まで広がっている。


 地上だ。

 普通の地上だ。

 あるべきはずの狂気と凄惨さが、そこにはなかった。

 さらに、俺が出てきた血の海は、いま浅瀬に変わり、さらに水位を下げていっている。『血陸』の解除は薄らとわかっていたが、この速度は予想外すぎた。


 千年前を再現するために、太陽の光を遮ぎっていた雲や霧が、もうない。

 『血の人形』も、『血の魔獣』も。まだいくつかの血の水溜まりは残っているが、足を踏み入れれば狂気に陥ると謳われた魔境は、完全に消え去っていた。


 赤い点々の散らばる荒野は、奇妙な美しさを放っていた。

 長らく血の海に浸かっていた為に、草葉のほとんどが死滅して、細い枯れ木だけが立ち並んでいる。家屋といった人工物は少なく、最低限の街道が一つ錆び残っている。少し遠くには、大陸のど真ん中で座礁している『リヴィングレジェンド号』が見えた。


 静かだ。

 『血陸』の戦いは終わったと主張する光景に、探していた顔が交じっていた。


 満身創痍の竜人ドラゴニュートが、ほんの数十歩先の距離で膝を突いている。

 『血陸』の名残によって、至るところが赤く変色しているが、見間違えはしない。

 セルドラさんの全身の至るところに刺し傷と切り傷が刻まれ、上半身の衣服は原型を保てていなかった。激戦の果てに、生き残ったのだとわかる。


 そして、俺の仲間は負けたのだともわかる。

 セルドラさんのすぐ目の前で、異形の化け物が倒れていた。

 ビーの混じりの彼は、左半身が虫特有の姿をしているが、こちらも激しい負傷だ。


 セルドラさん以上に傷塗れ。

 その上で、ぽっかりと胸に大きな穴が空いている。


 我が友グレン・ウォーカーは、完敗したようだ。

 胸の中にあったはずの『ヘルミナの心臓』を、こんなにも綺麗に抜き取られているのだ。

 かなりの余力を持って倒されたか、歴戦の探索者でも対応できない奇襲攻撃に遭ったか、そのどちらかだ――と推察したとき、近くの血溜まりの一つから、ぼこりと大きな泡が弾けた。


 俺と同じように、一人の少女が地上に這い上がってくる。

 黒い髪を搔き上げて、赤い瞳を覗かせて、俺に向かって暢気な挨拶もする。


「はぁ、はぁ、はぁっ……! ん、んんぅ……? あぁ、お久しぶりです」


 懐かしい匂いのする少女が俺を見て、とても懐かしそうに目を細めて、軽く礼をした。

 驚き、見間違いかける。


「ヘ、ヘルミ――」


 ヘルミナさんではないと、すぐに口を閉じた。

 なにせ、その少女は匂いが同じでも、纏う空気は余りに別物だった。


「っはぁー。しかし、これで『血陸』は、ぜーんぶ終わりやね。ずれが発生しようとも、全ては我々の『計画』の通り。いやぁ、何もかも決まっているってのが、こんなにも楽だとは……。相性がいいとは思ってましたが、あてとヘルミナ・ネイシャさんの『親和』は本当にばっちしで、驚きましたよー」


 大仕事を終えて、酒場で打ち上げを始めるような空気で笑うのは、俺と同じ長命種であり上位魔人であるクウネル・クロニクル・シュルス・レギア・イングリッド。


 彼女は大勝利を収めたのだと、その踊り出しそうな上機嫌でわかった。

 ならば、いまグレンの身体を両手で抱えて、顔を顰めながら歩き出そうとしているセルドラさんは――?


 地上の本当の結末が、薄らと見えてくる。

 髪の色や背格好が似ているからと、俺がヘルミナさんを見間違えることはない。

 間違いなく、クウネルの中に『ヘルミナの心臓』があるせいで、俺は懐かしい匂いを感じた。


 そして、馴染んでいる。

 俺よりも合っていたグレンよりも、さらに合っていた。


 グレンでさえ出来なかった『親和』を経て、『血の力』と『吸血種』の特性を掛け合わせ、この『血陸』全体を異常な速度で、安全地帯に変えてしまったのだ。


 そう分析をし終えて、俺は三代目の『血の理を盗むもの』代行者を睨んでしまう。

 クウネルは困惑しながら、後ずさった。


「あ、あれ……? えっ、もしかして、まだ地下組は終わって……ない?」


 口にしながらクウネルは、歩いてきていたセルドラの後ろに隠れて、慣れた様子で盾にした。

 かつてないほどの魔力を身に漲らせながら、余りに臆病な判断だ。

 だが、的確な判断でもあった。


「セルドラさん……」

「ああ……、俺だ」


 『無の理を盗むもの』セルドラが『血の理を盗むもの』代行者クウネルを守るように立ち塞がる。

 その光景を前に、俺は軽いデジャブを覚えた。


 ――かつて、二人の異端の『魔人』が汚れた外套を纏い、荒野を歩いた。

 大人と子供。

 竜と霊。

 セルドラとファフナー。

 憧れの大きな背中の後ろを、いつも子供は付いて歩いていた。

 二人の髪は揃って黒く、まるで兄弟か親子のように、広大な大陸を旅した記憶――


 カナミとの戦いを経て、思い出の蓋が完全に開いていた。


 千年前、セルドラさんは『魔人』の先輩として、俺に生きる術をたくさん与えてくれた。

 生まれ持った力の扱いだけでなく、各地の歴史や文化といった知識も教えてくれた。

 それは例えば、『碑白教』。

 その『経典』を片手で強く握り締めていると、セルドラさんは苦笑を浮かべて話し始める。


「カナミの《リーディング・シフト》の影響は、上まで届いていた……。その顔だと、全て知ったみたいだな……」


 思い出が蘇っているのは俺だけじゃないようだ。


 セルドラさんもカナミとの戦いを経て、郷愁の念によって、顔つきが柔らかくなっていた。

 ただ、すぐに自分を責め始める。


「そうだ……。全て、俺が悪かったんだ。おまえの不運のほとんども、俺という『悪竜ファフナー』が原因だった……」


 自白していく。

 とにかく自分を罰して貰いたそうな声だ。


 だが、それは難しい。

 元々、俺はセルドラさんの悪事をよく知っていた。

 さらに言えば、あのロミス・ネイシャのことすらも、俺は許しかけている。

 全てが、いまさらだ。


「おまえも、もう『悪竜ファフナー』なんて捨てろ……。あんなもの、誰もならなくていい。『地獄の明かりヘルヴィルシャイン』だって、そうだ。必要ない。もうおまえはどこにでもいる『魔人』の一人として、『幸せ』を掴んでいいんだ。あとのことは全て、カナミに任ようぜ……。なあ……?」


 憧れの人の身体が、とても小さく見えた。

 俺が成長した以上に、セルドラさんから覇気が失われていた。その理由は、先ほど視たのでわかるけれども、納得はしたくない。


「カナミの『計画』通りに進めば、やっと俺たちは報われる。もうクソみたいな『試練』だって、誰も受けなくていい。苦しむのも悲しいのも、もう全て終わりだ。……くははっ、こんなに『幸せ』なことはないだろ。くははははっ!」


 らしくない答えだった。

 千年前、ありとあらゆる困難を、圧倒的な力で打ち払ってきたセルドラさんが、余りにらしくない。


 だから、俺は思わず、『経典』を捲って説得しようとしてしまう。


「……それは、違います。セルドラさんも読んだはずです。一章七節〝試練とは希望と幸運の賜物。明日に進んだという証を必ず――」

「『経典それ』も捨てるんだ。もう」


 第三者の声。

 旧知との会話に、口を挟まれた。


 カナミのいた方向からだったが、声色は男性でなく女性。


 振り向くと、見知った顔が増えていた。

 堅い髪質に、フーズヤーズ騎士の団長服。

 いつの間にか、死したはずの主ラグネ・カイクヲラが両膝を突いて、俺に顔を向けていた。


「ラ、ラグネ……?」


 しかし、明らかに年が一回りほど大きい。背と髪が伸びて、以前よりも女性らしい体つきとなっている。物腰は落ち着き、非常に淑やか。大人となった主の顔と声で、そいつは空を手で払いながら、語る。


「その本にある言葉は、遠い昔に『翼人種』の子供ボクが、それっぽく書いただけの落書きだ……。優秀な『神学者』だった君は、もう理解しているはずだ。『碑白教』の神など、嘘っぱちだったと……。ごめんよ」


 その俺の支え全てを根こそぎ払う手に、覚えがあった。

 彼女が『碑白教』の神ノイ・エル・リーベルールであると、払われた手の痛みが訴え、教えてくれる。


 そして、ラグネの姿をした女神は、何よりもまず自分の存在を否定していく。


「世界は、嘘っぱちばっかりなんだよ……。君はラグネ・カイクヲラといった死者たちの『声』が聞こえるようだが……、それも『碑白教』と同じく、幻だ。都合のいい声を求めて、勝手に頭の中で捏造しているだけ。なにせ、彼女の魂は、いまボクたちの手の内にある」


 それは俺の否定でもあった。

 ノイは丹念に何もかもを否定していき、最後には祝福する。


「ゆえに彼女の魂からの『声』は、このボクが代弁させて貰おうと思う。――もう挑戦する必要など誰にもない。ここにいるカナミこそが、君の求めていた真の神。君は人生の『頂上』に辿りついたのだ。おめでとう」


 その宣言に、セルドラさんも頷いていた。

 さらに満を持して、カナミも会話に加わっていく。


「〝ニール・ローレライ〟。……いい名前だと思う。その本当の名前を、二度と失くさないためにも、『契約』して欲しい。新しい未来を、僕と一緒に築こう」


 諭され、諭され、諭され続けたあとに、希望に満ち溢れた誘い文句が待っていた。


 ここまで、俺は何度諭されただろうか。

 ヘルミナさんに清掃員。セルドラさんにカナミさん。

 心の支えとしていた碑白教の神にまで。

 『誰もが幸せになれる計画』に賛同しろと言ってくる。

 これでもかと言うくらいに、逃げ場を塞いでくる。


 単純な戦力で考えても、現『無の理を盗むもの』セルドラに『血の理を盗むもの』代行者クウネルに元『次元の理を盗むもの』ノイという部下が三人いて、いまや別の次元に至ろうとしているカナミが相手。


 二ヶ月前、単独で『水の理を盗むもの』陽滝に挑戦したラスティアラ・フーズヤーズの気持ちが、いま少しだけわかったような気がした。


 …………。

 ああ、そういうことだったのか……。

 こういうやり方をされると、こんな気分になるのか。だからか……。


 ラスティアラ・フーズヤーズと少しだけ共感できたような気がする。


 上位存在の『糸』によって導かれるのは、何もかも完璧で、本当に楽なものだ。

 その盤面と流れは、本当に美しい。神の書いた脚本によって、みんなの行動が全て決まっているのだ。世界という舞台に垂れ下がった『運命の糸』によって、誰もが操られていくだけというのが、こんなにも……。

 こんなにも――


「――《ブラッド》」


 俺は鮮血魔法で、大地に残った血溜まりを操り、汲み上げた。


 血を左手に集中させて、剣の形に変えようとする。

 だが、上手くいかない。


 いまの俺では、まともに血の剣を形成することもできなかった。

 赤くて鋭い綺麗な剣とはならずに、ボロボロに錆びた鉄の剣となった。


 だが、十分だ。

 その剣を手にして、俺は前のめりに倒れるまで、カナミに戦いを挑もうと思った。

 彼を倒し、魔石を奪い、俺こそが『最深部』に行くべきだと思った。


 なぜなら、こんなにも――

 こんなにも、『誰もが幸せになれる計画』が胡散臭いとは思わなかった。

 どう見ても『計画』は、完璧じゃない。

 明らかに、誰よりも報われない人がいる。のに、全員で完璧な『計画』のように振舞い合っているのは、死ぬほど胡散臭い。腹が立つ。セルドラさんだけじゃなくて、クウネルもノイもカナミも含めて、全員の情けなさ過ぎる姿に納得できず、変な笑いが出そうになる。


 今日、俺は確かめた。

 俺よりもずっと『不幸』な人がいるってことを、確かめた。


 どうやら、俺は思ったよりも『幸せ』な人生を送っていたみたいだから――

 俺は新たに生まれた『未練』を果たせず、報われないままに消えてもいい。

 俺とヘルミナさんの『幸せ』が台無しになっても、構わない。

 とにかく、いまは、目の前で苦しんでいる人を助けたい。

 ――という単純な戦意が、この場にいる全員に伝わったのだろう。


 戦いなんて起きようがないと楽観していたセルドラさんが、口を開く。


「や、るのか……? なぜ、まだ……?」


 なぜかと言われても、これまでと俺は何も変わっていない。

 いつだって俺は『経典』のままに、行動する。


「単純なことです、セルドラさん。だって、『経典』に書いてあるんです。――五章十一節〝全ての魂を敬わなければ、自らの魂も安息できない〟と。カナミさん一人を犠牲にして、自分だけ『幸せ』にはなれません」

「き、『経典』だと? それは『作りもの』と、いま、そこにいるノイが言っただろう? 俺の里では、正しく伝わっていた。ただの『翼人種』の少女が神を騙り、大陸に邪教を広めたのだと! だから、そんな教えに何の加護も保障もない! 教えを守っていても、『幸せ』にはなれない……! なれなかったんだよ!!」

「いいえ、これは『本物』です。神はいなくとも、その教えは俺の血肉となって、力となってくれた。情けない俺は、この『経典』に何度も助けられました。今日まで、俺が騎士の真似事をやってこられたのは、『碑白教』から多くを学んだからです。……あなたの『悪竜ファフナー』は、違うんですか?」

「…………っ!!」


 口ごもったセルドラさんを放置して、俺は前に進む。

 カナミの隣にいたノイが慌てて、セルドラさんの続きを担っていく。


「き、騎士だって? ならば、君の主であるラグネ・カイクヲラの『幸せ』を、よく考えるべきだ。彼女の魂は、こちらにある。主を第一に考えるならば、ボクたちとの『契約』は絶対にするべきだろう? ……ねぇ?」

「いいや、ラグネは俺の中にいる。魂はいなくとも、その言葉は俺の血肉となり、力となってくれていた。騙されやすい俺は、その言葉に何度も助けられた。いまも、何もかもが上手くいくなんて胡散臭いと、ずっと俺の中でうるさいんです」

「ぁ、え……? こ、こっちだよ? こっちにいるよ……? なのに、なんで聞こえて――」


 振り・・をする。

 昔から、それが俺は得意だった。


 ――正直、主ラグネの声は聞こえない。


 しかし、自分に都合のいいラグネの『声』を捏造することはできる。

 それは、ただの思い込みで、状態異常『幻聴』でしかなく、正気か狂気かと聞かれれば狂気だけれど……もし主ラグネがいれば、必ずこう言うだろう。

 だって、俺の主のラグネは、こういうやつだった。


「いまも、主ラグネが、俺に進むべき道を教えてくれる。――十五章一節〝神の表皮かわは鏡で出来ている。人の願いを映すだけ故に、中身は無い〟。つまりは、そういうことだった。主のおかげで、『碑白教』の続き・・だって、ついに俺は読める。――十五章二節〝中身とは、あなただった。願いを叶えるのもまた、あなただ〟。そう、カナミさんという鏡は、いつだって俺自身を映していた! あの日、始めて出会ったときも同じく、カナミさんは俺だった! ずっと俺だったんだ! ――十五章三節〝そう、神とはあなたのこと。あなたの中に、ずっと神は在った。……つまり、何はともあれ、あれっすよ。そこの胡散臭いやつとだけは、絶対に契約するなっす!〟と! 俺の中の神が言っている!! その福音を、俺は信じ抜く!!」

「え、えぇ……? 何言ってるの、この人……?」


 『碑白教の経典』の産みの親であるノイは、自分の書いていない文言を聞いて、困惑していた。


 狂ったように『経典』を捲っては、ありもしないものを読み続ける俺を前に、カナミの後ろにいたクウネルの隣まで引き下がった。


 歪んだ『スキル』でも、役に立つものだ。

 正直、右を見ても左を見ても、どこかおかしい人たちばかりだ。

 ならば、こちらも負けじと、全力で振りをするしかないだろう。


 ――俺は『経典』を強く握り締めて、狂信者らしく、迫る。


 『経典』の所持者には逆らえない。それが、俺の自分ルールだった。

 これもまた思い込みで、ただの状態異常『混乱』でしかない――けれど、この『経典』を守り続けている限り、俺は俺だ。

 誰にも操られはしない。世界の主だろうと、神だろうと、恩人だろうと。


 だから、「どっちの味方?」と聞かれれば、俺は俺の味方だ。


「カナミさん、この『経典』に書いてるんです。あなたと『契約』するなと……。だから、俺は振り・・をし続けます。『ファフナー・ヘルヴィルシャイン』として、最後まで生き抜きます。もし、あなたが助けて欲しいと願っているのなら、『最深部』も『その先』も、俺が代わりに行く」


 『契約』は断った。

 それを聞いたカナミは、目と口を開いて、とても驚いたような表情となる。


 ショックを受けているようにも、『計画』通りに進んで喜んでいるようにも見える。

 いまや遠くに行き過ぎたカナミの思いは、《ディスタンスミュート》の『繋がり』なしでは計り知れないだろう。


 誰にも理解されなくなってしまったカナミは、手に持った本を捲っていく。

 俺に対抗してか、鏡のように同じ動きをする。


「それでも、君は〝ニール・ローレライ〟だ。この『契約』だけが、あの日の『第七魔障研究院』を『幸せ』にしてくれる道。僕も君も、あれは『なかったこと』にするべきなんだ。絶対に――」


 本を読み返し、その手をかざした。


 途端に、ぞわりと悪寒が――『悪感』がする。

 色々と学び、流れもわかってきたからこそ、感覚は研ぎ澄まされていた。


 いま、例の『紫の糸』とやらを、カナミは伸ばした。

 ずっとカナミは『誰もが幸せになれる計画』のために、格好つけて勝手に能力を制限していたのだろう。

 主ラグネと同じく、そういうところが彼にはある。


 しかし、カナミは先ほど宣言をした。

 もし敵になるならば、容赦しないと。


 その予防線を理由にして、『紫の糸』で俺の返答を丸ごと、強引に『なかったこと』にしようとする。けれど、それを――


「これ以上は、見苦しいよ・・・・・。お兄ちゃん」


 咎める声があった。


 また新たな声だ。

 カナミの足元にある影が、紙に水をたらしたかのように滲み広がり、その中から一人の褐色肌の少女が這い上がってくる。


 カナミの中にはどれだけいるんだと、俺は身構える。

 だが、現れた黒髪黒目の褐色少女は、俺でなくカナミに向いていた。

 さらに話しながら、何もない宙にも目を向けていく。


「どう見ても、ファフナーお兄ちゃんの勧誘は失敗だよ。ほら、ラスティアラお姉ちゃんだけじゃなくて世界ちゃんだって、向こうを応援し始めてる――」


 釣られて、俺も目を向けると、視線・・を感じた。


 これが、『呪い』を『理を盗むもの』たちに与えた例の存在ならば、この先は『最深部』に繋がっている。


 いや、違うか。〝――全ての魂は、いつだって繋がっていた〟。

 俺は『経典』を捲り、そう心の中の十五章に書き足したところで、リーパーが視線を背にして宣言していく。


「だから、死神の審判は『ファフナー・ヘルヴィルシャイン』の退場は認めない。当然ながら、〝ニール・ローレライ〟なんて捏造・・も認められない。さっきからニールニールニールって、誰に言ってるの? そこのお兄ちゃんは『ファフナー・ヘルヴィルシャイン』以外、名乗ったことがない」


 俺を応援するように、断言してくれた。

 『世界の理』のような重みが、その言葉にはあって、なんだか嬉しかった。


 グリム・リム・リーパー。

 俺には余り親しみのない少女だ。


 だが、生まれは知っている。

 千年前の『始祖カナミ』が、あの『聖人ティアラ』と『童話』を元に作り上げた少女。

 人の手によって造られながら、人の理から外れている『死神の魔法』。


 よく考えると、ヘルミナさんの『五段階千ヵ年計画』の集大成とは、まさしく彼女のような気がした。

 いや、それどころか、今日から『碑白教』の女神様はノイじゃなくてこの子でもいいかなと思うほどに、この場の誰よりも彼女から神聖さを感じられた。


 そして、リーパーの言葉の重さに心を打たれたのは、俺だけじゃないようだ。

 カナミは親に叱られたかのように、一瞬だけ恥じ入る表情となり、その顔を伏せていた。


 だが、一瞬だ。

 次に、カナミが顔を上げたときには、もういつもの表情に戻っていた。

 かつての陽滝を思い出すような冷たさで、容赦なく、最後の頁に向けて――


「〝いいや、あの日の少年は、僕の仲間だ。これから先、相川渦波ぼくと永遠を一緒に、戦ってくれる仲間だ。少年はニール・ローレライ。綺麗で格好いい名前だ。僕には仲間がいる。たくさんの仲間がいる。絶対に、いるんだ――〟」


 本に文言を足すにしても、余りに粗雑。


 だが、発するのがカナミであれば、場の空気は大きく変わった。

 流れが生まれ、カナミにとって都合のいい未来が引き寄せられていく。


 俺の目には見えずとも、いま無数の『紫の糸』が乱暴に、大量に、乱雑に伸びたのだろう。

 もう形振り構わなくなったカナミの力が、この場全てを支配しようとするが――


「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」


 流れを遮るように、甲高い怪音が鳴り響いた。


 俺の目の前を一本の『黒い糸』が奔り、通り過ぎる。

 余りに速く、一瞬過ぎて、目では捉え切れなかった。だが、俺には何が起こったのかわかった。


 その声だって、ちゃんと聞こえた。

 これは『幻聴』なんかじゃない。


ファフ・・・――、ナー・・……」


 声の出所に目を向けると、俺と同じく、心臓が空っぽとなっても立ち上がった男がいた。

 さらに両腕から、四本全ての――いや、十を超える『黒い糸』を、四肢から伸ばして、荒野のあちこちに張っている。その内の数本が、すぐ隣のセルドラさんに絡み付いて、動きを止めていた。


 『黒い糸』の数が増えている。

 それが、いかに危険なことか、『黒い糸』の開発協力者である俺は知っているが――その危険な切り札のおかげで、場に満ちようとしていた『紫の糸』が全て切り裂かれた。

 数本の『黒い糸』が、カナミ以上の乱雑さで振り回されている。


「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」


 さらに、視界を揺らすほどの大音量で、怪音は鳴り響き続ける。

 『竜の咆哮』に匹敵する『蟲の羽音』だ。


 おかげで、いま、この瞬間。

 『執筆』『未来視』といった反則全てが、打ち消された。


 刹那、俺はグレンの満身創痍の姿を見る。

 全力で生き抜いていた。

 友は片目が潰れていたけれど、残った瞳を動かして、喉を震わせて、呼んでいた。


ヘル・・――、ヴィル・・・シャイン・・・・――」


 ずっと居心地が悪かった。

 ニールニールニールと呼ばれ続けて、『本当の俺』を見失いかけていたが『本当の友人』に呼ばれたことで、やっと全力で答えられる。


「ああ、グレン! 俺はここだ!! 俺はヘルヴィルシャインだ!!」


 叫び、手を伸ばした。

 カナミの『紫の糸』にではなく、グレンの『黒い糸』に向かって。


 ――そのとき、誰かが嬉しそうに笑ったような気がした。


 『黒い糸』を掴んだ瞬間に、新たな魔法の発動を感じ取る。

 荒野を映していた視界が、一瞬で暗転する。


「――魔法《深淵次元の真夜ディ・リヴェリントナイト》」


 リーパーの声と共に、夜が弾けたかのように暗闇が広がった。


 真っ黒に染め上がり、他の物体を全く認識できなくなる。

 それはノイの《ブラックシフト》と同じく、眼球の視覚だけでなく、魔法の感覚も埋め尽くす黒色だった。


 まるでグレンと示し合わせていたかのように、『黒い糸』の擬態色だ。

 闇に視覚を奪われ、怪音に聴覚を奪われ、魂切断の凶器だけが振り回される空間は、いかにセルドラさんやカナミと言えども、簡単に動けはしないだろう。


 リーパーとグレンの合わせ技によって、いま、本当に僅かだけれども――刹那の有利を感じる。


 正直なところ、俺は全力で生き抜くにしても、カナミとは戦いにならないと諦めかけていた。

 しかし、いまならば、一矢報いれるかもしれない。


 そう考えたとき、腕に絡みついた『黒い糸』が俺の身体を強く引っ張る。


「――――っ!?」


 力の入らない身体が宙に浮いて、引き寄せられてしまう。

 視界と聴覚がまともに働かなかったが、触覚でグレンの肩に背負われたとわかった。


 さらに、『黒い糸』で俺の身体を固定した状態で、彼は跳躍する。

 風を切る感覚から、跳んだ方角がわかり、俺は声を漏らす。


「と、遠ざかってる――?」


 刹那の有利があった。

 だが、その全てを使って、グレンは撤退を選んだ。


「……こレが、僕ノ最初の仕事ダった」


 カナミとは逆方向に俺を運びながら、グレンは小さく返答する。

 その声は『魔人返り』によって掠れて、人ならざる音に近づいている。

 いまにも、人間の声を彼は失うだろう。その残り少ない言葉を使った質問を、俺は無視できない。


 グレンが斥候役であり、勧誘役であったのは知っている。

 セルドラが『血陸』にやって来るよりもずっと前から、グレンとエルミラードの二人は例のパーティーと合流していた。

 陽滝と俺から解放されても、あえて『血陸』に残っていたのはファフナー・ヘルヴィルシャインを勧誘するためだった。


 しかし、まだ勧誘する気があったとは思わなかった。

 もしかしたら、いまのが最初で最後の隙だったかもしれないし、逃亡するにしても――


「だ、だがっ、あのカナミさんたちから、そう簡単に逃げられるわけが……」

「逃げラレると、あのリーパー君が言っタんだ。僕ハ彼女の言葉を疑ワない」


 リーパーとグレンの間には、俺にはない絆があった。


 以前、二人が同じパーティーで、大陸を旅していたのは知っている。俺が迷宮でノスフィーに召喚されて、大聖都の地下にある世界樹前で『火の理を盗むもの』の代行者マリアと戦ったときに聞いた話だ。


 カナミが行方不明となった一年の間で、本土中心にある『第二迷宮・・・・』を制覇した。

 そのときに活躍したのが、グレンとリーパーの二人であると――


 そこまで思い出したとき、刹那の時間は過ぎ去る。

 魔法《深淵次元の真夜ディ・リヴェリントナイト》の範囲内を抜けて、視界を奪っていた闇がなくなった。


 開けた視界に、また似たような荒野が広がる。

 しかし、全く別の場所であることは明白だ。

 つい先ほどまで俺たちがいたであろう空間に、国一つ覆うほどに大きな闇が広がっているのが見えた。


 まるで、夜そのものが地平線から、迫り上がってきているかのようだ。

 その魔法の闇を遠くから眺め続けて、実感する。


「追ってこない……」


 一向にカナミたちを包む闇は晴れないし、追っ手もやって来ない。


 本当に、逃げられた……。

 いや、見逃されたのか?

 心臓のない『魔人』二人、放っておいても野垂れ死ぬと思われた?


 それとも、もっと別の理由があったのだろうか。

 それは例えば、俺の「『経典』の所持者に逆らえない」というような自分ルール。

 審判役を名乗るリーパーが、何かしらのルールを上手く突いたのならばわからなくもない。


 色々な理由を推察していくが、結局は単純に、合わなかった・・・・・・のだとも思った。


 カナミは色んな人の未来を『執筆』しているかもしれないが、全てがその通りに進むとは限らない。

 例えば、あのクウネルは『計画』を信じ切り、『血陸』解除のタイミングを明らかに間違えていた。

 誰かが全力で生き抜いて、『未来視』から外れることは当然・・という素振りがカナミにはあった。


「いや……。だとしても今回、合わなくなるほどに生き抜いたのは俺じゃない……」


 吹き荒ぶ風が、全身を叩く。


 生き抜くグレンは、何気なく俺を背負って奔っているが、恐ろしい速度と歩幅だ。

 跳躍と言うよりは、滑翔かっしょう

 肌を削るように風がなぞり、いまにも痛みで気絶しそうだ。


 その異常な速度の理由は、グレンの『黒い糸』による加速。

 彼は跳躍するたびに、遠くの大きな岩や高い枯れ木に絡み付けては、腕の力も利用している。さらに、余っている『黒い糸』を両足に巻きつけては、運動の補助をさせている。


 完全に高速移動に特化していた形態で、グレンの移動速度は限界を超えて、上がっていく。

 ただ、平行して、恐ろしい速度で『魔人返り』も進んでいた。

 心臓のない状態で奔り、四肢の傷跡や亀裂跡から血を撒き散らし、全力で生き抜こうとする限り、その身体のビーの部分は拡大していく。


 もう左半身どころではない。

 ほぼ全身がモンスターと化していて――取り返しがつかない。

 しかし、そのおかげでグレンの翅は増えて、その跳躍の滞空時間は延びていた。


 止めたいが、俺は『黒い糸』の拘束から脱出することはできず、荷物のように運ばれるしかない。


 この僅かな時間で、もう街三つ分は離れた。

 ただ、相手は距離という概念を打ち崩し、世界全てを《ディメンション》で包める相手だ。

 たとえ『異世界』に逃げ込んでも、カナミが追いかけてくるのはセルドラさんで確認済みだ。

 どこに行っても、安全と言える場所はないのではないかと思ったが――


「ファフナー、降ろシはしナいヨ……。必ず、君ヲ連れて行ク。誰ノ『糸』も、届かナイ所まデ……」


 頭の中で、奔っている方角と地図を照らし合わせる。

 『血陸』から東のレギア国に入り、さらに東に行けば本土中央にある街ダリルに辿りつく。


 いま俺たちは、かつてグレンとリーパーのパーティーが攻略した『第二迷宮』に向かっている。

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