454.亡霊の夢、夢の亡霊
恐れる俺の返答を、カナミは待つ。
狭い部屋の隅では、幼馴染で姉弟子の清掃員が、かつてと同じように俺を見守っていた。
「ニール……」
小さな声で、そう俺を呼んでいる。
『過去』が俺を視ている。
いや、『現在』か。
時間を超越しかけているカナミと心を重ねたせいか、時間感覚がずれて狂って、頭の中がぐちゃぐちゃだ……。
ただ、なんにせよ「彼女を救うには、まだ遅くないぞ」と、神に背中を押されていることだけは感じられた。
「お、俺は……」
だから、俺は『契約』の返答しようとする。
そのとき、それはやってきた。
この大事なときに、突如として、タイミング
「――――っ!?」
視界が上下に揺れた。
異常事態にカナミも視線を本から外して、上を向いた。
天井の石がパラパラと崩れていく――のではなく、ドロドロと溶けて、垂れ落ちていっている。
氷が水に戻っていくかのように、部屋の石が血に戻ろうとしていた。
天井だけでなく、壁も床も同様だ。立っている石畳の硬度が失われていき、沼に嵌ったかのように両足が沈んでいく。
清掃員が見守りきれずに、声を出す。
「きょ、教祖様? これは、どういう……?」
「
カナミは短く答えて、清掃員の傍に一歩寄る。
これで彼女の安全は約束された。
俺だけが、余裕がない。
いま、俺の身体は消失寸前で、《ブラッド》といった魔法で、状況把握することができない。
なんとか事態の予測は出来る。
部屋は崩れるのではなく、溶けている。さらに、この中心部までも影響が届いているということは、『血陸』全体の魔法が解除されている可能性が高い。
生命線である『血陸』の解除はできないように、多くの保険をかけた。
『血の理を盗むもの』の力は必須だ。繊細な術式が暴走しないように、鮮血魔法のセンスと深い理解もいる。
となると、地上で戦っているグレンが説得されたか、脅しに屈して協力した……?
それとも、セルドラさんに思いの他、血属性の才能があった……?
どちらもありえない。
この状況は、俺かヘルミナさんに匹敵する血の魔法使いでなければ、起こせないはず。
「――――っ! なら、もしかして……?」
そこまで思い至ったとき、溶けて流れ行く血の流れが大きく変化した。
石造りの部屋が溶けて溶けて溶けて、足元に溜まった血が全て、この部屋の出口に向かっていた。丁度、部屋の扉は開いていたので、さらに上層に続く階段を通っているのが、ここからでも見える。
――吸い上げられていた。
ずっと俺が溜めていた大量の血が、地上に向かっていっている。
俺の想定を超えた何かが、いま地上で発生している。それがわかったときには、もはや『御神体保管室』は立方体を保てなくなっていた。
そして、部屋は限界を迎える。
まず天井全てが一斉に血と化し、滝のように落ちて、襲い掛かってきた。それを『経典』を持っていない手で防ごうとするが、すぐに足元の床も一斉に血と化す。
立っていられない。
しかし、尻餅をつくこともできない。
四方八方が真っ赤に染まったと思った瞬間には、もう俺は水中を漂う浮遊感の中にあった。
血の海に飲み込まれ、右も左もわからない。
ただ、それは決して、俺にとって悪いシチュエーションではない。
『血の力』を極めた俺にとって、これは有利な展開――という認識が覆されるのは、すぐのことだった。
恐ろしい勢いで上へ上へ上へと吸い上げられ続け、次第に血の水面が近づいてくる。
浮遊感のままに俺の身体は持ち上げられて、その水面を打ち破った。
「っはぁ――!」
血の海から脱出して、肺を空気で満たす。
急ぎ、両目の血を拭って、周囲を見回した。
そして、その光景に目を
――すでに、ごっそりと『血陸』が消えていた。
綺麗に血の海は干上がり、あるべき大地がきちんとあった。
どこにでもある薄茶色の普通の荒野が、地平線まで広がっている。
地上だ。
普通の地上だ。
あるべきはずの狂気と凄惨さが、そこにはなかった。
さらに、俺が出てきた血の海は、いま浅瀬に変わり、さらに水位を下げていっている。『血陸』の解除は薄らとわかっていたが、この速度は予想外すぎた。
千年前を再現するために、太陽の光を遮ぎっていた雲や霧が、もうない。
『血の人形』も、『血の魔獣』も。まだいくつかの血の水溜まりは残っているが、足を踏み入れれば狂気に陥ると謳われた魔境は、完全に消え去っていた。
赤い点々の散らばる荒野は、奇妙な美しさを放っていた。
長らく血の海に浸かっていた為に、草葉のほとんどが死滅して、細い枯れ木だけが立ち並んでいる。家屋といった人工物は少なく、最低限の街道が一つ錆び残っている。少し遠くには、大陸のど真ん中で座礁している『リヴィングレジェンド号』が見えた。
静かだ。
『血陸』の戦いは終わったと主張する光景に、探していた顔が交じっていた。
満身創痍の
『血陸』の名残によって、至るところが赤く変色しているが、見間違えはしない。
セルドラさんの全身の至るところに刺し傷と切り傷が刻まれ、上半身の衣服は原型を保てていなかった。激戦の果てに、生き残ったのだとわかる。
そして、俺の仲間は負けたのだともわかる。
セルドラさんのすぐ目の前で、異形の化け物が倒れていた。
セルドラさん以上に傷塗れ。
その上で、ぽっかりと胸に大きな穴が空いている。
我が友グレン・ウォーカーは、完敗したようだ。
胸の中にあったはずの『ヘルミナの心臓』を、こんなにも綺麗に抜き取られているのだ。
かなりの余力を持って倒されたか、歴戦の探索者でも対応できない奇襲攻撃に遭ったか、そのどちらかだ――と推察したとき、近くの血溜まりの一つから、ぼこりと大きな泡が弾けた。
俺と同じように、一人の少女が地上に這い上がってくる。
黒い髪を搔き上げて、赤い瞳を覗かせて、俺に向かって暢気な挨拶もする。
「はぁ、はぁ、はぁっ……! ん、んんぅ……? あぁ、お久しぶりです」
懐かしい匂いのする少女が俺を見て、とても懐かしそうに目を細めて、軽く礼をした。
驚き、見間違いかける。
「ヘ、ヘルミ――」
ヘルミナさんではないと、すぐに口を閉じた。
なにせ、その少女は匂いが同じでも、纏う空気は余りに別物だった。
「っはぁー。しかし、これで『血陸』は、ぜーんぶ終わりやね。ずれが発生しようとも、全ては我々の『計画』の通り。いやぁ、何もかも決まっているってのが、こんなにも楽だとは……。相性がいいとは思ってましたが、あてとヘルミナ・ネイシャさんの『親和』は本当にばっちしで、驚きましたよー」
大仕事を終えて、酒場で打ち上げを始めるような空気で笑うのは、俺と同じ長命種であり上位魔人であるクウネル・クロニクル・シュルス・レギア・イングリッド。
彼女は大勝利を収めたのだと、その踊り出しそうな上機嫌でわかった。
ならば、いまグレンの身体を両手で抱えて、顔を顰めながら歩き出そうとしているセルドラさんは――?
地上の本当の結末が、薄らと見えてくる。
髪の色や背格好が似ているからと、俺がヘルミナさんを見間違えることはない。
間違いなく、クウネルの中に『ヘルミナの心臓』があるせいで、俺は懐かしい匂いを感じた。
そして、馴染んでいる。
俺よりも合っていたグレンよりも、さらに合っていた。
グレンでさえ出来なかった『親和』を経て、『血の力』と『吸血種』の特性を掛け合わせ、この『血陸』全体を異常な速度で、安全地帯に変えてしまったのだ。
そう分析をし終えて、俺は三代目の『血の理を盗むもの』代行者を睨んでしまう。
クウネルは困惑しながら、後ずさった。
「あ、あれ……? えっ、もしかして、まだ地下組は終わって……ない?」
口にしながらクウネルは、歩いてきていたセルドラの後ろに隠れて、慣れた様子で盾にした。
かつてないほどの魔力を身に漲らせながら、余りに臆病な判断だ。
だが、的確な判断でもあった。
「セルドラさん……」
「ああ……、俺だ」
『無の理を盗むもの』セルドラが『血の理を盗むもの』代行者クウネルを守るように立ち塞がる。
その光景を前に、俺は軽いデジャブを覚えた。
――かつて、二人の異端の『魔人』が汚れた外套を纏い、荒野を歩いた。
大人と子供。
竜と霊。
セルドラとファフナー。
憧れの大きな背中の後ろを、いつも子供は付いて歩いていた。
二人の髪は揃って黒く、まるで兄弟か親子のように、広大な大陸を旅した記憶――
カナミとの戦いを経て、思い出の蓋が完全に開いていた。
千年前、セルドラさんは『魔人』の先輩として、俺に生きる術をたくさん与えてくれた。
生まれ持った力の扱いだけでなく、各地の歴史や文化といった知識も教えてくれた。
それは例えば、『碑白教』。
その『経典』を片手で強く握り締めていると、セルドラさんは苦笑を浮かべて話し始める。
「カナミの《リーディング・シフト》の影響は、上まで届いていた……。その顔だと、全て知ったみたいだな……」
思い出が蘇っているのは俺だけじゃないようだ。
セルドラさんもカナミとの戦いを経て、郷愁の念によって、顔つきが柔らかくなっていた。
ただ、すぐに自分を責め始める。
「そうだ……。全て、俺が悪かったんだ。おまえの不運のほとんども、俺という『
自白していく。
とにかく自分を罰して貰いたそうな声だ。
だが、それは難しい。
元々、俺はセルドラさんの悪事をよく知っていた。
さらに言えば、あのロミス・ネイシャのことすらも、俺は許しかけている。
全てが、いまさらだ。
「おまえも、もう『
憧れの人の身体が、とても小さく見えた。
俺が成長した以上に、セルドラさんから覇気が失われていた。その理由は、先ほど視たのでわかるけれども、納得はしたくない。
「カナミの『計画』通りに進めば、やっと俺たちは報われる。もうクソみたいな『試練』だって、誰も受けなくていい。苦しむのも悲しいのも、もう全て終わりだ。……くははっ、こんなに『幸せ』なことはないだろ。くははははっ!」
らしくない答えだった。
千年前、ありとあらゆる困難を、圧倒的な力で打ち払ってきたセルドラさんが、余りにらしくない。
だから、俺は思わず、『経典』を捲って説得しようとしてしまう。
「……それは、違います。セルドラさんも読んだはずです。一章七節〝試練とは希望と幸運の賜物。明日に進んだという証を必ず――」
「『
第三者の声。
旧知との会話に、口を挟まれた。
カナミのいた方向からだったが、声色は男性でなく女性。
振り向くと、見知った顔が増えていた。
堅い髪質に、フーズヤーズ騎士の団長服。
いつの間にか、死したはずの主ラグネ・カイクヲラが両膝を突いて、俺に顔を向けていた。
「ラ、ラグネ……?」
しかし、明らかに年が一回りほど大きい。背と髪が伸びて、以前よりも女性らしい体つきとなっている。物腰は落ち着き、非常に淑やか。大人となった主の顔と声で、そいつは空を手で払いながら、語る。
「その本にある言葉は、遠い昔に『翼人種』の
その俺の支え全てを根こそぎ払う手に、覚えがあった。
彼女が『碑白教』の神ノイ・エル・リーベルールであると、払われた手の痛みが訴え、教えてくれる。
そして、ラグネの姿をした女神は、何よりもまず自分の存在を否定していく。
「世界は、嘘っぱちばっかりなんだよ……。君はラグネ・カイクヲラといった死者たちの『声』が聞こえるようだが……、それも『碑白教』と同じく、幻だ。都合のいい声を求めて、勝手に頭の中で捏造しているだけ。なにせ、彼女の魂は、いまボクたちの手の内にある」
それは俺の否定でもあった。
ノイは丹念に何もかもを否定していき、最後には祝福する。
「ゆえに彼女の魂からの『声』は、このボクが代弁させて貰おうと思う。――もう挑戦する必要など誰にもない。ここにいるカナミこそが、君の求めていた真の神。君は人生の『頂上』に辿りついたのだ。おめでとう」
その宣言に、セルドラさんも頷いていた。
さらに満を持して、カナミも会話に加わっていく。
「〝ニール・ローレライ〟。……いい名前だと思う。その本当の名前を、二度と失くさないためにも、『契約』して欲しい。新しい未来を、僕と一緒に築こう」
諭され、諭され、諭され続けたあとに、希望に満ち溢れた誘い文句が待っていた。
ここまで、俺は何度諭されただろうか。
ヘルミナさんに清掃員。セルドラさんにカナミさん。
心の支えとしていた碑白教の神にまで。
『誰もが幸せになれる計画』に賛同しろと言ってくる。
これでもかと言うくらいに、逃げ場を塞いでくる。
単純な戦力で考えても、現『無の理を盗むもの』セルドラに『血の理を盗むもの』代行者クウネルに元『次元の理を盗むもの』ノイという部下が三人いて、いまや別の次元に至ろうとしているカナミが相手。
二ヶ月前、単独で『水の理を盗むもの』陽滝に挑戦したラスティアラ・フーズヤーズの気持ちが、いま少しだけわかったような気がした。
…………。
ああ、そういうことだったのか……。
こういうやり方をされると、こんな気分になるのか。だからか……。
ラスティアラ・フーズヤーズと少しだけ共感できたような気がする。
上位存在の『糸』によって導かれるのは、何もかも完璧で、本当に楽なものだ。
その盤面と流れは、本当に美しい。神の書いた脚本によって、みんなの行動が全て決まっているのだ。世界という舞台に垂れ下がった『運命の糸』によって、誰もが操られていくだけというのが、こんなにも……。
こんなにも――
「――《ブラッド》」
俺は鮮血魔法で、大地に残った血溜まりを操り、汲み上げた。
血を左手に集中させて、剣の形に変えようとする。
だが、上手くいかない。
いまの俺では、まともに血の剣を形成することもできなかった。
赤くて鋭い綺麗な剣とはならずに、ボロボロに錆びた鉄の剣となった。
だが、十分だ。
その剣を手にして、俺は前のめりに倒れるまで、カナミに戦いを挑もうと思った。
彼を倒し、魔石を奪い、俺こそが『最深部』に行くべきだと思った。
なぜなら、こんなにも――
こんなにも、『誰もが幸せになれる計画』が胡散臭いとは思わなかった。
どう見ても『計画』は、完璧じゃない。
明らかに、誰よりも報われない人がいる。のに、全員で完璧な『計画』のように振舞い合っているのは、死ぬほど胡散臭い。腹が立つ。セルドラさんだけじゃなくて、クウネルもノイもカナミも含めて、全員の情けなさ過ぎる姿に納得できず、変な笑いが出そうになる。
今日、俺は確かめた。
俺よりもずっと『不幸』な人がいるってことを、確かめた。
どうやら、俺は思ったよりも『幸せ』な人生を送っていたみたいだから――
俺は新たに生まれた『未練』を果たせず、報われないままに消えてもいい。
俺とヘルミナさんの『幸せ』が台無しになっても、構わない。
とにかく、いまは、目の前で苦しんでいる人を助けたい。
――という単純な戦意が、この場にいる全員に伝わったのだろう。
戦いなんて起きようがないと楽観していたセルドラさんが、口を開く。
「や、
なぜかと言われても、これまでと俺は何も変わっていない。
いつだって俺は『経典』のままに、行動する。
「単純なことです、セルドラさん。だって、『経典』に書いてあるんです。――五章十一節〝全ての魂を敬わなければ、自らの魂も安息できない〟と。カナミさん一人を犠牲にして、自分だけ『幸せ』にはなれません」
「き、『経典』だと? それは『作りもの』と、いま、そこにいるノイが言っただろう? 俺の里では、正しく伝わっていた。ただの『翼人種』の少女が神を騙り、大陸に邪教を広めたのだと! だから、そんな教えに何の加護も保障もない! 教えを守っていても、『幸せ』にはなれない……! なれなかったんだよ!!」
「いいえ、これは『本物』です。神はいなくとも、その教えは俺の血肉となって、力となってくれた。情けない俺は、この『経典』に何度も助けられました。今日まで、俺が騎士の真似事をやってこられたのは、『碑白教』から多くを学んだからです。……あなたの『
「…………っ!!」
口ごもったセルドラさんを放置して、俺は前に進む。
カナミの隣にいたノイが慌てて、セルドラさんの続きを担っていく。
「き、騎士だって? ならば、君の主であるラグネ・カイクヲラの『幸せ』を、よく考えるべきだ。彼女の魂は、こちらにある。主を第一に考えるならば、ボクたちとの『契約』は絶対にするべきだろう? ……ねぇ?」
「いいや、ラグネは俺の中にいる。魂はいなくとも、その言葉は俺の血肉となり、力となってくれていた。騙されやすい俺は、その言葉に何度も助けられた。いまも、何もかもが上手くいくなんて胡散臭いと、ずっと俺の中でうるさいんです」
「ぁ、え……? こ、こっちだよ? こっちにいるよ……? なのに、なんで聞こえて――」
昔から、それが俺は得意だった。
――正直、主ラグネの声は聞こえない。
しかし、自分に都合のいいラグネの『声』を捏造することはできる。
それは、ただの思い込みで、状態異常『幻聴』でしかなく、正気か狂気かと聞かれれば狂気だけれど……もし主ラグネがいれば、必ずこう言うだろう。
だって、俺の主のラグネは、こういうやつだった。
「いまも、主ラグネが、俺に進むべき道を教えてくれる。――十五章一節〝神の
「え、えぇ……? 何言ってるの、この人……?」
『碑白教の経典』の産みの親であるノイは、自分の書いていない文言を聞いて、困惑していた。
狂ったように『経典』を捲っては、ありもしないものを読み続ける俺を前に、カナミの後ろにいたクウネルの隣まで引き下がった。
歪んだ『
正直、右を見ても左を見ても、どこかおかしい人たちばかりだ。
ならば、こちらも負けじと、全力で振りをするしかないだろう。
――俺は『経典』を強く握り締めて、狂信者らしく、迫る。
『経典』の所持者には逆らえない。それが、俺の自分ルールだった。
これもまた思い込みで、ただの状態異常『混乱』でしかない――けれど、この『経典』を守り続けている限り、俺は俺だ。
誰にも操られはしない。世界の主だろうと、神だろうと、恩人だろうと。
だから、「どっちの味方?」と聞かれれば、俺は俺の味方だ。
「カナミさん、この『経典』に書いてるんです。あなたと『契約』するなと……。だから、俺は
『契約』は断った。
それを聞いたカナミは、目と口を開いて、とても驚いたような表情となる。
ショックを受けているようにも、『計画』通りに進んで喜んでいるようにも見える。
いまや遠くに行き過ぎたカナミの思いは、《ディスタンスミュート》の『繋がり』なしでは計り知れないだろう。
誰にも理解されなくなってしまったカナミは、手に持った本を捲っていく。
俺に対抗してか、鏡のように同じ動きをする。
「それでも、君は〝ニール・ローレライ〟だ。この『契約』だけが、あの日の『第七魔障研究院』を『幸せ』にしてくれる道。僕も君も、あれは『なかったこと』にするべきなんだ。絶対に――」
本を読み返し、その手をかざした。
途端に、ぞわりと悪寒が――『悪感』がする。
色々と学び、流れもわかってきたからこそ、感覚は研ぎ澄まされていた。
いま、例の『紫の糸』とやらを、カナミは伸ばした。
ずっとカナミは『誰もが幸せになれる計画』のために、格好つけて勝手に能力を制限していたのだろう。
主ラグネと同じく、そういうところが彼にはある。
しかし、カナミは先ほど宣言をした。
もし敵になるならば、容赦しないと。
その予防線を理由にして、『紫の糸』で俺の返答を丸ごと、強引に『なかったこと』にしようとする。けれど、それを――
「これ以上は、
咎める声があった。
また新たな声だ。
カナミの足元にある影が、紙に水をたらしたかのように滲み広がり、その中から一人の褐色肌の少女が這い上がってくる。
カナミの中にはどれだけいるんだと、俺は身構える。
だが、現れた黒髪黒目の褐色少女は、俺でなくカナミに向いていた。
さらに話しながら、何もない宙にも目を向けていく。
「どう見ても、ファフナーお兄ちゃんの勧誘は失敗だよ。ほら、ラスティアラお姉ちゃんだけじゃなくて世界ちゃんだって、向こうを応援し始めてる――」
釣られて、俺も目を向けると、
これが、『呪い』を『理を盗むもの』たちに与えた例の存在ならば、この先は『最深部』に繋がっている。
いや、違うか。〝――全ての魂は、いつだって繋がっていた〟。
俺は『経典』を捲り、そう心の中の十五章に書き足したところで、リーパーが視線を背にして宣言していく。
「だから、死神の審判は『ファフナー・ヘルヴィルシャイン』の退場は認めない。当然ながら、〝ニール・ローレライ〟なんて
俺を応援するように、断言してくれた。
『世界の理』のような重みが、その言葉にはあって、なんだか嬉しかった。
グリム・リム・リーパー。
俺には余り親しみのない少女だ。
だが、生まれは知っている。
千年前の『始祖カナミ』が、あの『聖人ティアラ』と『童話』を元に作り上げた少女。
人の手によって造られながら、人の理から外れている『死神の魔法』。
よく考えると、ヘルミナさんの『五段階千ヵ年計画』の集大成とは、まさしく彼女のような気がした。
いや、それどころか、今日から『碑白教』の女神様はノイじゃなくてこの子でもいいかなと思うほどに、この場の誰よりも彼女から神聖さを感じられた。
そして、リーパーの言葉の重さに心を打たれたのは、俺だけじゃないようだ。
カナミは親に叱られたかのように、一瞬だけ恥じ入る表情となり、その顔を伏せていた。
だが、一瞬だ。
次に、カナミが顔を上げたときには、もういつもの表情に戻っていた。
かつての陽滝を思い出すような冷たさで、容赦なく、最後の頁に向けて――
「〝いいや、あの日の少年は、僕の仲間だ。これから先、
本に文言を足すにしても、余りに粗雑。
だが、発するのがカナミであれば、場の空気は大きく変わった。
流れが生まれ、カナミにとって都合のいい未来が引き寄せられていく。
俺の目には見えずとも、いま無数の『紫の糸』が乱暴に、大量に、乱雑に伸びたのだろう。
もう形振り構わなくなったカナミの力が、この場全てを支配しようとするが――
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
流れを遮るように、甲高い怪音が鳴り響いた。
俺の目の前を一本の『黒い糸』が奔り、通り過ぎる。
余りに速く、一瞬過ぎて、目では捉え切れなかった。だが、俺には何が起こったのかわかった。
その声だって、ちゃんと聞こえた。
これは『幻聴』なんかじゃない。
「
声の出所に目を向けると、俺と同じく、心臓が空っぽとなっても立ち上がった男がいた。
さらに両腕から、四本全ての――いや、十を超える『黒い糸』を、四肢から伸ばして、荒野のあちこちに張っている。その内の数本が、すぐ隣のセルドラさんに絡み付いて、動きを止めていた。
『黒い糸』の数が増えている。
それが、いかに危険なことか、『黒い糸』の開発協力者である俺は知っているが――その危険な切り札のおかげで、場に満ちようとしていた『紫の糸』が全て切り裂かれた。
数本の『黒い糸』が、カナミ以上の乱雑さで振り回されている。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」
さらに、視界を揺らすほどの大音量で、怪音は鳴り響き続ける。
『竜の咆哮』に匹敵する『蟲の羽音』だ。
おかげで、いま、この瞬間。
『執筆』『未来視』といった反則全てが、打ち消された。
刹那、俺はグレンの満身創痍の姿を見る。
全力で生き抜いていた。
友は片目が潰れていたけれど、残った瞳を動かして、喉を震わせて、呼んでいた。
「
ずっと居心地が悪かった。
ニールニールニールと呼ばれ続けて、『本当の俺』を見失いかけていたが『本当の友人』に呼ばれたことで、やっと全力で答えられる。
「ああ、グレン! 俺はここだ!! 俺はヘルヴィルシャインだ!!」
叫び、手を伸ばした。
カナミの『紫の糸』にではなく、グレンの『黒い糸』に向かって。
――そのとき、誰かが嬉しそうに笑ったような気がした。
『黒い糸』を掴んだ瞬間に、新たな魔法の発動を感じ取る。
荒野を映していた視界が、一瞬で暗転する。
「――魔法《
リーパーの声と共に、夜が弾けたかのように暗闇が広がった。
真っ黒に染め上がり、他の物体を全く認識できなくなる。
それはノイの《ブラックシフト》と同じく、眼球の視覚だけでなく、魔法の感覚も埋め尽くす黒色だった。
まるでグレンと示し合わせていたかのように、『黒い糸』の擬態色だ。
闇に視覚を奪われ、怪音に聴覚を奪われ、魂切断の凶器だけが振り回される空間は、いかにセルドラさんやカナミと言えども、簡単に動けはしないだろう。
リーパーとグレンの合わせ技によって、いま、本当に僅かだけれども――刹那の有利を感じる。
正直なところ、俺は全力で生き抜くにしても、カナミとは戦いにならないと諦めかけていた。
しかし、いまならば、一矢報いれるかもしれない。
そう考えたとき、腕に絡みついた『黒い糸』が俺の身体を強く引っ張る。
「――――っ!?」
力の入らない身体が宙に浮いて、引き寄せられてしまう。
視界と聴覚がまともに働かなかったが、触覚でグレンの肩に背負われたとわかった。
さらに、『黒い糸』で俺の身体を固定した状態で、彼は跳躍する。
風を切る感覚から、跳んだ方角がわかり、俺は声を漏らす。
「と、遠ざかってる――?」
刹那の有利があった。
だが、その全てを使って、グレンは撤退を選んだ。
「……こレが、僕ノ最初の仕事ダった」
カナミとは逆方向に俺を運びながら、グレンは小さく返答する。
その声は『魔人返り』によって掠れて、人ならざる音に近づいている。
いまにも、人間の声を彼は失うだろう。その残り少ない言葉を使った質問を、俺は無視できない。
グレンが斥候役であり、勧誘役であったのは知っている。
セルドラが『血陸』にやって来るよりもずっと前から、グレンとエルミラードの二人は例のパーティーと合流していた。
陽滝と俺から解放されても、あえて『血陸』に残っていたのはファフナー・ヘルヴィルシャインを勧誘するためだった。
しかし、まだ勧誘する気があったとは思わなかった。
もしかしたら、いまのが最初で最後の隙だったかもしれないし、逃亡するにしても――
「だ、だがっ、あのカナミさんたちから、そう簡単に逃げられるわけが……」
「逃げラレると、あのリーパー君が言っタんだ。僕ハ彼女の言葉を疑ワない」
リーパーとグレンの間には、俺にはない絆があった。
以前、二人が同じパーティーで、大陸を旅していたのは知っている。俺が迷宮でノスフィーに召喚されて、大聖都の地下にある世界樹前で『火の理を盗むもの』の代行者マリアと戦ったときに聞いた話だ。
カナミが行方不明となった一年の間で、本土中心にある『
そのときに活躍したのが、グレンとリーパーの二人であると――
そこまで思い出したとき、刹那の時間は過ぎ去る。
魔法《
開けた視界に、また似たような荒野が広がる。
しかし、全く別の場所であることは明白だ。
つい先ほどまで俺たちがいたであろう空間に、国一つ覆うほどに大きな闇が広がっているのが見えた。
まるで、夜そのものが地平線から、迫り上がってきているかのようだ。
その魔法の闇を遠くから眺め続けて、実感する。
「追ってこない……」
一向にカナミたちを包む闇は晴れないし、追っ手もやって来ない。
本当に、逃げられた……。
いや、見逃されたのか?
心臓のない『魔人』二人、放っておいても野垂れ死ぬと思われた?
それとも、もっと別の理由があったのだろうか。
それは例えば、俺の「『経典』の所持者に逆らえない」というような自分ルール。
審判役を名乗るリーパーが、何かしらのルールを上手く突いたのならばわからなくもない。
色々な理由を推察していくが、結局は単純に、
カナミは色んな人の未来を『執筆』しているかもしれないが、全てがその通りに進むとは限らない。
例えば、あのクウネルは『計画』を信じ切り、『血陸』解除のタイミングを明らかに間違えていた。
誰かが全力で生き抜いて、『未来視』から外れることは
「いや……。だとしても今回、合わなくなるほどに生き抜いたのは俺じゃない……」
吹き荒ぶ風が、全身を叩く。
生き抜くグレンは、何気なく俺を背負って奔っているが、恐ろしい速度と歩幅だ。
跳躍と言うよりは、
肌を削るように風がなぞり、いまにも痛みで気絶しそうだ。
その異常な速度の理由は、グレンの『黒い糸』による加速。
彼は跳躍するたびに、遠くの大きな岩や高い枯れ木に絡み付けては、腕の力も利用している。さらに、余っている『黒い糸』を両足に巻きつけては、運動の補助をさせている。
完全に高速移動に特化していた形態で、グレンの移動速度は限界を超えて、上がっていく。
ただ、平行して、恐ろしい速度で『魔人返り』も進んでいた。
心臓のない状態で奔り、四肢の傷跡や亀裂跡から血を撒き散らし、全力で生き抜こうとする限り、その身体の
もう左半身どころではない。
ほぼ全身がモンスターと化していて――取り返しがつかない。
しかし、そのおかげでグレンの翅は増えて、その跳躍の滞空時間は延びていた。
止めたいが、俺は『黒い糸』の拘束から脱出することはできず、荷物のように運ばれるしかない。
この僅かな時間で、もう街三つ分は離れた。
ただ、相手は距離という概念を打ち崩し、世界全てを《ディメンション》で包める相手だ。
たとえ『異世界』に逃げ込んでも、カナミが追いかけてくるのはセルドラさんで確認済みだ。
どこに行っても、安全と言える場所はないのではないかと思ったが――
「ファフナー、降ろシはしナいヨ……。必ず、君ヲ連れて行ク。誰ノ『糸』も、届かナイ所まデ……」
頭の中で、奔っている方角と地図を照らし合わせる。
『血陸』から東のレギア国に入り、さらに東に行けば本土中央にある街ダリルに辿りつく。
いま俺たちは、かつてグレンとリーパーのパーティーが攻略した『第二迷宮』に向かっている。
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