442.『血の理を盗むもの』の試練
止まった世界で、清掃員だけが動く。
彼女の落ち着いた所作は、とても懐かしかった。
俺が話しているのを、後ろから見守っているのは、かつてと全く同じ光景だった。
「やっと信じてくれましたか? 私の言葉を」
千年前は美しい姿から狂気的な言語が零れていたが、いまは逆だ。
喉から『血の人形』特有の掠れた声が響き、整然とした言語を紡いでいく。
その変化に俺は困惑しつつ、なんとか疑問を搾り出す。
「き、君が……、どうして、千年後のこんなところに?」
「『里帰り』です。故郷が元に戻ったと聞いて、駆けつけました」
「違う……。君の故郷は、こんなところじゃあ……」
ないとは言い切れない。
結局、俺は彼女を地上まで連れ出せなかった。
「私もヘルミナ様の弟子の一人。この場に居合わせるくらいは許される。そうは思いませんか?」
それにも、首は振れない。
そう俺も思う。
許されるどころか相応しいとすら思うからこそ、いま彼女が登場するのは都合が良すぎるとも感じた。
だから、『次元の理を盗むもの』カナミの仕業以外にないと俺は確信する。
本を捲る手を止めたカナミの代わりに、清掃員が俺の人生を締め括っていく。
「――あなたの本当の『未練』は、大切な人の『幸せ』を理解できなかったことです」
その『答え』は、先んじてカナミから聞いた。
おかげで、十分に痛感しているのだが、さらに清掃員は意味を噛み砕いて、わかりやすく説明していく。それはヘルミナさんから授業を受けていたときと少し似ていて、また少し懐かしく感じた。
「正確には、理解したくなかったんですよね? 賢いあなたは、それを理解すれば、自分の『幸せ』が叶わないとわかっていた。なにより、憎いロミスのほうが好きな人の『幸せ』を理解しているなんて、絶対に認めたくなかった」
これも言い返せない。
あの男に対して、どこか対抗意識があったのは間違いない。
「周囲は、優秀なあなたを救おうと、何度も手を伸ばしていた。けれど、あなたは聞く耳を持たず、自ら『御神体保管室』までやって来て、勝手に地獄だ地獄だと愚痴を零した。好きな人と一緒にいたいが為に、狂った振りまで始めた」
心中が暴かれていく。
俺はカナミに追い詰められるのは覚悟していた。
だが、懐かしい『幼馴染』から言われるのは予想外だった。
正直、奇襲に近い。否定どころか、誤魔化すことすらできなくて、頭がふらふらする。
脳が茹だる。視界が淀む。地面が柔らかい。
次元魔法で色々な時代の色んな場面を行ったり来たりして、いまいつでどこで誰といるのかも、よくわからなくなってきている。
しかし、そんな俺の状態はお構いなしに、清掃員は話を続ける。
「……本当に私たちは、ずれていましたね。
あなたの『好きな人』とは、『一生一緒にいたい人』だった。
でも、ヘルミナ様の『好きな人』は、『研究を繋げてくれる人』だった。
ああ、おかしい……」
その話とは、俺がヘルミナさんと『親和』できなくて、代行者となった理由。
ファフナー・ヘルヴィルシャインの人生の清算でもあった。
「魂の好きが違えば、魂の求める『幸せ』だって違う――
あなたの『幸せ』とは、『ヘルミナさんと一緒ならそれだけでいい』だった。
でも、ヘルミナ様の『幸せ』とは、『この星全ての魂の救済』だった。
あなたの『救いたい世界』とは、『ヘルミナさんと一緒のファニアの街』だった。
でも、ヘルミナ様の『救いたい世界』とは、『魂の循環が機能しない星』だった。
――言葉は通じているのに、ずっと話は通じてなかった」
ずれていたから、最初から救いようがなかった。
そう告げられて、とうとう立っているのも辛くなる。
支えとなるものを求めて、縋りつくように清掃員へ手を伸ばした。
互いの両の手と両の手が重なって、俺の目と鼻の先で、彼女は話す。
「……そもそも、『あなたの世界の私』が救われても、私は『幸せ』になれない。私は『私の世界の私』を救って欲しかった」
「あ、あぁ……、ぁああぁぁあぁあ……」
一言も言い返せることはなく、俺は嗚咽を漏らすしかなかった。
さっきから、頭が痛い……。
もう彼女が何を言っているのかわからない……。
私は私の世界の私を救って欲しかった……?
けど、君の言う私が、どんな君なのか、もう俺にはわからない……。
何もわからない……けれど、ずっと自分が、自分本位の世界を生きてきたことだけは、わかる。それがとても後悔で、辛くて、悲しくて……。
「そんな顔をしないでください。……この程度は、よくあること。世界なんて、人それぞれ。正直なところ、ヘルミナさんとぴったし波長が合うのは、この人くらいだったことでしょう」
そう言って、清掃員は手を俺から離した。
その手には白く輝く使徒シスの魔石が握られていた。
「それは……」
いつの間にか、盗られた。
取り返そうと俺は手を伸ばすが、届かせるだけの力が湧かなかった。
清掃員は距離を取って、視線をカナミに向けた。
使徒シスの魔石を乗せた手の平を差し出して、神に仕える巫女のように恭しく頭を垂れる。
「さあ、教祖様……。彼に真の救いを。ここにいる彼こそ、あのファニアで最も『幸運』でありながら、最も『不運』だった魂。名は、『地獄明かりの悪竜』」
教祖と呼ばれたカナミは、少し不満そうに清掃員を睨んでから、ゆっくりと本を持っていない手を差し出す。
清掃員とカナミが、手を繋げて、その心を通わせていく。
「ああ、わかってる。あの日の少年を救うには、このずれを正す必要がある。たとえ、それが世界の理に反するものだとしても、もう僕は迷わない。この手が届く限り、伸ばす。――伸ばし続けると決めた」
ここで初めて、あのカナミが達観しているかのような表情を崩した。
追い詰められたかのように苦しげな顔を見せるが、その黒い瞳の奥に滲むのは、揺ぎ無い決意。
いま、『次元の理を盗むもの』は覚悟した。
さらに視線を宙に彷徨わせて、『どこか』を睨んでから、ゆっくりと優しく古書を捲るように、その湿った唇を動かしていく。
「――『未来といまは繫がれ』『いまと過去は繋がれる』――」
『詠唱』を、紡ぎ始める。
それは世界から魔力の前借りをする『呪術』。
いまや神に匹敵する魔力量であるカナミには必要ないもの――のはずだ。
しかし、カナミは決死の表情で、続きを詠む。
「――『いつしか、
魔力が増える。
神々しかった魔力が、さらに増大していくのは、見ているだけで脳を侵食される気分だった。異次元的という表現でも足りないほどに、多彩に、複雑に、多層的に、カナミの魔力の体積が増していく。
その全てが濃い。
ドロドロとした原液のような魔力は、『魔の毒』という呼称を思い出させるほどに毒々しかった。その中に立つカナミの表情は歪み、苦しんでいた。『詠唱』で何か大切なものを溶かして、支払っている。それが伝わるからこそ、俺は疑問を口にする。
「な、何を……、カナミさん……」
俺にはわからなかった。
魔力は十分過ぎるほどあったのに、さらに集める?
神をも超える魔力を集めて、これから一体何をする?
あのヒタキがいなくなった世界で、その魔力に使い道なんてあるのか?
――『次元の理を盗むもの』カナミは、
不意打ち気味に本を読む魔法《リーディング・シフト》が進んだ。
任意的で広範囲の『過去視』が、さらなる魔力を注ぎ込まれて、動き出す。
静止していた世界の空気が震えて、音が聞こえ始めて――
「〝――
響いた。
懐かしい音色だった。
耳を通り抜けた瞬間、全身が震えた。
見えざる手に背中を撫でられたかのような鳥肌が立ち、頭の中が真っ白に――いや、真っ黒に塗り潰された。頭の中に詰まっていた疑問が、たった一度の呼びかけだけで吹き飛ばされて、あらゆる思考が中断した。
――頭の中が真っ黒になって、考えられない。
けれど、これから何が起きるのかは、わかる気がした。
なにせ、それを俺は子供の頃から何度も祈って、何度も願って、何度も『夢』に見た。
俺は期待して、後ろを振り向くしかなかった。
そこには『御神体保管室』中央に沈んでいる肉塊に向かって、這いずり寄ろうとする過去の俺がいる。その後ろに立って、過去の俺と同じく、その先にいる『たった一人の運命の人』の名前を呼ぶ。
「――ヘ、ヘルミナさん?」
ずっと俺は願っていた。
――彼女の声が聞きたいと。
それさえ叶えば、他には何も要らない。
『未練』どころの話ではない。
それは後悔の先にある『夢』だ。
血のプールに沈んだ肉塊から人ならざる呻き声が聞こえる。
ヘルミナさんが何かを伝えようとしていた。
「〝(ワ、私ハ――■■■■血肉■液体■
意味が、読み取れかける。
それは、まるで宗教書に書かれた『奇跡』のようだった。
「…………っ!」
その『奇跡』を、ずっと俺は待っていた。
ずっと『血の理を盗むもの』代行者として頑張ってきたのは、この瞬間の為――だからこそ、あっさりとは受け入れられはしない。
「げ、『幻聴』です……! 俺は結局、ヘルミナさんの声は聞こえなかった。何を言ってるのか、一つもわからなかった。最後の最後まで……!!」
そう跳ね除けて、視線をヘルミナさんから逸らす。
しかし、その目の先には清掃員と手を重ねて、真っ直ぐ俺を見つめ返すカナミがいる。
「だから、
理解の難しい魔法の説明だった。
ただ、
彼女とは話せば話すほど、言葉が通じなくなった。だが、それは『狂人マニュアル』なる一定の法則に基づいた技術が原因だと、俺は俺のいない物語で知れた。
そもそも、彼女は『第七魔障研究院』で犠牲となった『魔人』や『血の魔獣』たちとのコミュニケーションを任されて、その飼育に見事成功していた。
特定の言語を学び続けた専門家の知識を得たカナミは、俺に伝え続ける。
「ここにいる彼女のおかげで、言葉のずれはなくなった。これから、僕の本当の『魔法』で、時間のずれもなくなる。……だから、君は一言だけ伝えられる」
「一言だけ、伝えられる……?」
「あの最後の戦いを乗り越えて、僕は気づいた。より
切り札であろう本当の『魔法』の詳細を、本人の口から聞かされた。
わかっていたことだが、カナミの『過去視』『未来視』は、本来の力の副次的なものでしかない。話に聞く《
「――『僕は全ての罪過を償うと誓う』『この世の終わりになろうとも必ず』――」
その本命に向かって、カナミは『詠唱』を重ねている。
宙を漂うだけだった魔力の全てが、少しずつ指向性を持ち始めた。
しっとりと、絵の具が
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
カナミは片膝を突いて、肩で息をし始めた。
清掃員が手を合わせて、支えて貰っていなければ、倒れていただろう。
恐ろしい話だった。
あの最後の戦いを乗り越えて、いまや神と見紛うカナミが、魔法の構築だけで倒れかけている。
レベルは99に届きかけて、神々しいまでの魔力を持っている、あのカナミがだ。
「ファフナー、これはそう長く持たない『魔法』だ……。だから、間違えないで欲しい。本当の君の、本当の言葉を……、決して間違えるな……!」
一言だけ。
永い物語に、たった一言だけ書き足す『魔法』が、俺に託される。
そして、栞を挟んだ本が開かれる。
万華鏡を覗くようにぼやけた視界の中で、先ほどの続きが始まる。
俺の目の前で、かつての光景が声や匂いまでも伴って、過去の俺の声が聞こえる。
〝『ファフナー・ヘルヴィルシャイン』は両手足の腱を斬られて、研究院の最下層に落ちた。彼は血の涙を流し、石畳に頭を叩きつけて、怨念を募らせる。
「――ここには、もう宗教も科学もない……! 一つもなくなった……! くそう……、くそっ、くそっ、ちくしょぉ……!!」
その呪詛を目の前で聞かされるのは、念願の犠牲者となった『ヘルミナ・ネイシャ』。
彼女は自分が『幸せ』だとわかってくれない弟子を前に、悲しんでいた。
しかし、その身体は既に肉塊となり、声は届かない。
唯一、その主の気持ちがわかる清掃員は、必死にファフナーを止めようとしていたが、その声も届かない。その地獄の底では、三つの声が交錯していても、重なることは一度もなかった――〟
カナミと戦う前に瞑想したときと、全く同じ光景だ。
ただ、その記憶には魔法《リーディング・シフト》によって質感が伴っていた。
なにより、ヘルミナさんの声が全く違った。
翻訳がなされて、とうとう聞こえ始める。
〝――血に沈む肉塊は、ファフナーの慟哭を聞いて、声を絞り出そうとする。たとえ、その声が、もはや人間のものでないとしても。どうにか声を届けようと、必死に。
(――不気ギ■血■幽■ザァ■■、■■血■ジジ血■■蛆■貪■。■か■、■■竜肉■ナー君、違■血ます。……
千年前では届かなかったものが、ついに届こうとしていた。
〝(――だって、あなたは私と違って、とても『強い人』。あのティアラ様のように、前へ前へ前へと進み続けられる人。どうか、この私の力を利用して、踏み台にして、礎にして、未来へ向かって欲しい――)
ヘルミナは自らの弟子の背中を押そうとする。
だが、それも届くことはない。
もう全てが遅い。なにせ、いまファフナーに聞こえているのは、理解不能の狂気的な声のみ。ゆえに、返ってくるのは疑問に疑問を重ねた嘆きだった。
「あ、嗚呼ぁ、ぁあぁぁ……。ど、どうして……? どうしてだ? どうして、世界は救われない? こんなにも救われないのは、どうしてなんだ……?」
通じない。
ファフナーは好きだった人が救いを求めているようにしか聞こえず、悲しんだ。
その弟子の姿を見て、ヘルミナは自分の間違いに気づかざるを得ない。ファフナーと同じように悲しみ、嘆く。
(ぁ、嗚呼ぁ……、ぁあぁぁあ……。ごめんなさい、あなたに伝えるべきことが、まだ私にはたくさんあったんですね……。なのに、私は私が救われることだけしか考えずに、『あなたの世界』のことを全く考えなかった。こんなにも、あなたには私が必要だったなんて……。こんなにも最低で最悪の
ヘルミナもまた、好きな人の気持ちがわかっていなかった自分を『後悔』し始める。
だが、これもまた遅い。いまさら、まともな感情を取り戻しても、絶望が増すだけだった。贖罪であり救いだったはずの『血の理を盗むもの』化が、本当の意味で地獄になっていくだけだった。
ヘルミナの剥がれた皮の下にある皮膚から、無尽蔵に流れ続ける血液が地上に供給されていく。それを見届けるファフナーは、同じく絶望に包まれて、宗教書に縋っていく。
「――けれど、どうか諦めないでください、ヘルミナさん……。まだ救いは、あります。いつか、あの『
ファフナーは『碑白教』の『経典』を持って、『
(ファフナー君、それだけは違います……!! あなたに出会えて、私は救われたんです。あの日、君が犠牲になった『魔人』たちの希望になると言ってくれたとき、私の人生は救われた! 間違いなく、あなたこそが『私の世界』の『救世主』となっていた! ……ああ、そうです。そうだったんです。ずっと私が求めていた『
自らの失敗にヘルミナは気づき、ファフナーに向かって(もう泣かないで……)と伝え続けるが、その声は届かない。声が届くようにと何度も、何度も、何度も、彼女は願った。しかし、決して届かないから、果てにヘルミナは祈るのだ。
視線を血のプールに髪を浸したファフナーから、少し上へ。
真っ暗で何もない宙に向かって、願うのでなく祈りを――
(ああ、神様……。もし……、本当にそこに、いらっしゃるのなら――
「――
神にヘルミナさんが祈ったとき、誰もいないはずの宙から『答え』が返ってきた〟
もちろん、答えたのは、千年後の『次元の理を盗むもの』カナミ。
千年前と千年後。
二つの次元が重なって、ヘルミナの最期の祈りは、一語一句違えることなく届いていた。それに、カナミは『詠唱』で応えていく。
「――『
いま自分の出来る限りの全力を持って。
『次元の理を盗むもの』カナミは、救われない魂たちの救済に手を伸ばす。
「――
より良い最後の頁を引き寄せるために、その本当の『魔法』が発動する。
――そして、
何もない宙に神を見ているはずの『千年前のヘルミナ・ネイシャ』。
取り返しのつかない過去を読んでいるだけの『千年後のファフナー・ヘルヴィルシャイン』。
ずれにずれているはずの二人の視線が、カナミの『魔法』によって、
「ぁ、あぁ、ぁあ……」
だが、上手く声は出ない。
『次元の理を盗むもの』の本当の『魔法』の真意はわかった。
いま、ずれは正された。たった一言だけならば、時間も運命も乗り越えて、届くと理解したからこそ、言葉が見つからない。
一言届くとして、俺はヘルミナさんと何を話せばいい?
ヘルミナさんを救いたい……?
けれど、すでに彼女は救われている。
ヘルミナさんが好き……?
しかし、すでに好きだと伝わっている。
これからもあなたと一緒にいたい……?
ただ、一緒という言葉の意味が、彼女と一緒じゃない。
俺は俺の伝えるべき一言に悩みに悩み――その果て、脳裏によぎったのは、ヘルミナさんと一緒にファニアで過ごした『日常』。
「……ああ」
すでに『答え』は出ている。
ここまでに交わしたカナミとの会話全てが、俺を映していた『鏡』だった。
カナミを通して、俺は見た。
俺とヘルミナさんの楽しかった日々を。
あの『幸せ』としか言いようのない時間を。
「ヘルミナ……、さん……」
幼かった頃、俺はヘルミナさんに憧れて、その後ろをついて歩き回った。
目指す道は違えども、いつかは隣で肩を並べてやると息を巻き、必死に勉学に勤しんだ。その未熟な俺を見て、ヘルミナさんは神学、文学、歴史学、民俗学、生物学といった様々なことを教えてくれた。同じ部屋で一緒に、たくさんの話をした。
途中、『魔人化』実験といった苦しいことも、たくさんあった。
けれど、それらの苦難を、俺は全て乗り越えた。そして、ちゃんとヘルミナさんと肩を並べることができていた。お互いの得意分野を活かして、二人で一緒に仕事をした。ときには、お互いの知識を共有する為に、寝ずに討論をしたこともあった。
その一秒一秒が、俺は楽しかった……。
本当に楽しくて、『幸せ』だった……。
そう心底思う。
だからこそ、俺は確かめたい。
そのための一言が、自然と口から零れて落ちた。
「俺の話は……、楽しかったですか……?」
『楽しい』という気持ちが、ずれていなかったのかを聞いた。
間違いなく、
ただ、ヘルミナさんは、どうだったのだろうか。
その問いかけに、彼女は――
〝(…………っ! ……楽しかったです)
ヘルミナは何もない宙に向かって、返答した。
彼女の生まれ持った信仰心が、千年前でありながら、その『奇跡』を信じさせた。
自分の声が『魔法』のように、いつか必ず届くと信じて、ヘルミナは伝えていく。
(私は研究が好きでした。だから、あなたと知識を繋ぎ合わせていくのは本当に楽しく、とても『幸せ』な時間でした――)〟
傍から見れば、どちらも独り言だろう。
誰にも理解のできない狂った会話だろう。
だとしても、いま確かに『千年前のヘルミナ・ネイシャ』と『千年後のファフナー・ヘルヴィルシャイン』が会話した。
気持ちが通い合った。
俺たち二人に多くのずれはあっても、勉強するのが楽しいという感覚は同じだったとわかった。
――研究は楽しかった。そして、俺と一緒だから、さらにとても楽しかった。
それもわかり、俺の全身の血が沸き立っていく。
歓喜の血の沸騰だった。
もちろん、それは一生一緒にいられるような『幸せ』ではないだろう。
でも、ずっとこびりついていた『不安』を掻き消すには十分すぎるほどの『幸せ』だった。
「俺も……、楽しかったです……。あなたと一緒にたくさんのことを話せて、とても楽しかった。本当にありがとうございます、ヘルミナさん……」
〝(――はい。私こそ――、あり、が――と――――)〟
合っていた時間は、一瞬。
ヘルミナさんは、すぐに俺を見失った。
そして、千年前の世界で、過去の俺の嘆きと向き合い始める。
ただ、そのときには、少しだけ状況が変わっていた。たとえ地獄の中だとしても、ヘルミナさんは『幸せ』を確かに取り戻しているように見えた。
「あぁ……」
本当に一瞬だった。
ほんの少しの僅かな希望だった。
だが、全身から力が抜けていく。
脱力と共に、膝は崩れた。
尻餅をついて、天を仰いだ。
吐く息は、暖かい。
俺とヘルミナさんは、本当に合わない二人だった。
けれど、あの楽しいって感情だけは、一緒だった。
二人一緒の共通の気持ちだった。
それがわかっただけ。
他は何も変わっていない。
けれど、俺が
俺は力の入らない体を動かして、ゆっくりと視線をヘルミナさんから外す。
途中、過去の俺が、血のプールに沈んだヘルミナさんに語りかけるのが聞こえた。
〝「まだだ。まだまだ俺には『試練』が足りない。――この経典にも書いてある。一章七節〝試練とは希望と幸運の賜物。明日に進んだという証を必ず残してくれる〟のだから……!」〟
本当に、ずれた返答だ。
『試練』なんて、とうの昔に終わっている。
希望と幸運の賜物とは、俺だった。
明日へ進んだ証とは、俺だった。
ヘルミナさんを救ってくれる『救世主』とは、俺だった。
全部、俺だったんだ……。
それを認めたとき、ゴーストの特徴である透明の手足が、さらに薄まっていく。
『魔人』に改造された日から、腹の底から湧き続けていた魔力が、とうとう停滞する。
全身を巡る血が蒸発していって、肉が
『未練』が消える。
同時に、『不老』の術式も解ける。
それは千年前だと、仮説に過ぎなかったルール。
『未練』によって繋ぎ止めている身体は、それを果たしたときに消えるしかない。そのルールが、いま自分の身体で検証されていく。
――つまり、俺が好きな人の『幸せ』を理解できたということでもある。
だから、語り手のカナミが最後の頁を読む。
「確かに、千年前の『君の世界』は救われなかったし、二度と救いようはない。この千年後の『子孫の世界』を救っても、何の意味もない。――ただ、ちゃんと救われていたんだ。『ヘルミナさんの世界』は千年前に、すでに」
俺の手で救われていた。
だから、『血の理を盗むもの』の代行者なんて必要なかった。
『
「はい……。すでに、全て、終わっていた。だから……」
そう俺の口からも語られて、『ファニアの物語』は終わりを迎える。
――『次元の理を盗むもの』カナミは本を閉じる。
本は最後の頁を過ぎた。
閉じられて、千年前の『御神体保管室』の
代わりに残ったのは、千年後の『御神体保管室』の
綺麗な部屋だ。
もう血はない。
きっちりと清算して、掃除し切って、何も残っていない。
いや、俺が血を集め切ったのだ。
合っていたモノもずれていたモノも含めて、全てを。
その贅沢の『代償』として、いま俺の血肉が魔力の粒子に換わって、世界に還ろうとしているのだろう。
とうとう俺の永い人生も終わりだと、そう覚悟を決めかけたとき――
「完璧ですね。どこかで見た手口でしたが、これで教祖様の勝利」
カナミと手を繋いだ清掃員が、そう呟いた。
そして、ずっと俺たちを見守っていた彼女が、ゆっくりと動き出す。
隣のカナミから手を離して、使徒シスの魔石を渡した代わりに『ファニアの歴史書』を受け取りつつ、話す。
「……清掃員さん、勝利も敗北もないよ。ただ、終わったんだ」
「どちらにせよ、ここからです」
ここから……?
いま、清掃員は、ここからと言った。
それはどういう意味だろうかと不思議に思ったとき、『ファニアの歴史書』を手に持った清掃員が、俺に向かって近づいてきた。
俺に向かって、皮膚のない手を伸ばしながら、呼ぶ。
「――〝
すぐには理解できなかった。
おそらく、名前。
それは、ここにいる誰のものでもない……はずの名前。
清掃員は俺に向かって〝楽しそうに〟笑いかける。
名前を口にしながら、消えようとする俺の手を掴んだ。
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