441.鏡に映った人生


 過去の俺とヘルミナさん。

 二人が『第七魔障研究院』に入ったのを見送った直後、また頁を捲る音が聞こえた。


 万華鏡カレイドスコープを覗いたように、視界が多彩な光と共にぼやけていく。

 先ほどの『連合国』と、全く同じだ。

 この『ファニア』でも、ありとあらゆる場所であらゆる時間軸が重なって、同時に過ぎ去っていく。


 目の前にファニアの街並みが広がって、ヘルミナさんが開発した『魔石線ライン』を導入する工事の様子が見えた――かと思えば、その完成を祝うファニアの人々の光景。

 ファニアの主教を『アルトフェル教』から『レヴァン教』に移す儀式が、街全体で催されている――かと思えば、ある質素な病棟で神官が、呪術《レベルアップ》を成功させている光景。

 フーズヤーズとの交易路が繋がったことで、街の活気が少しずつ増していく――かと思えば、遠国からやってきた旅の商人たちで溢れ返り、街の市場が大賑わいしている光景。


 故郷の歴史が、水のように流れていき、目が追いつかない。

 しかし、共通していることは、はっきりとしている。

 全ての光景の端っこに、必ず過去の俺がいて、口元を緩めていた。


 三年ぶりに『里帰り』した俺は、本当に楽しそうだった。

 変装で髪を黒く染めて、領主であるヘルミナさんの助手として、街の視察に付き従っている。


 ここで嬉しい誤算だったのは、大陸を放浪している間に溜めた知識が、あらゆる場所で役立ったことだろう。

 例えば、ヘルミナさんが鍛冶場で「この新技術を取り入れれば、これだけの利益が必ず出ます。もう何度も実証済みです」と、元研究職らしい厳しい意見を口にすると、すぐさま助手の俺が、各地の歴史の失敗を証拠にして、「ヘルミナさん。全ての場所で、机上の理論通りにいく訳ではありません」と間に入る。


 そのあとは、みんなで頭を捻って、科学的にも実践的にも通用する解決策を見つける。

 バランスが取れていた。

 驚くほどに、上手くいっていた。


 ――なにより、それは俺の『幸せ』だった。


 視線を同じくしたヘルミナさんと俺が協力して、みんなのために学んだ知識や研究を役立てていく。間違いなく、幼い頃から俺が憧れていた時間だった。


 仕事だけではない。

 ときには、職権乱用で手に入れた他国の本を、懐かしい地下室で静かに読書をして楽しみもした。そこには、あの清掃員の女の子もいて、三年前の三人が部屋には揃った。そして、三人で積み重ねてきた研究や勉強の成果を、この新しい時代で活かしていくのだ。


 街に凶悪な大型モンスターが近づいてきたときは、こっそりと俺が出向いて処理したりもした。あの『魔人化』実験の力さえも、この時間では無駄にならなかった。


 本当に楽しかった。

 今日までの苦難が全て実ったのだから、当たり前だ。


 この楽しさが『幸せ』でなければ、何が『幸せ』なのかわからない。

 大好きな人と一緒に過ごす時間以上に、『幸せ』なものなどこの世には存在しない。


 ――と、俺は『次元の理を盗むもの』カナミという鏡を通して、過去の『幸せ』を噛み締める。


 宗教的な文句が好きだった俺は、自然とヘルミナさんこそが俺の『たった一人の運命の人』と思うようになっていた。

 いつかお爺ちゃんとお婆ちゃんになるまで、二人揃って、この仕事を続けたい。

 このまま、彼女と一生を終えて、同じ墓に入りたい。

 できれば、そのときは家名が揃っていると嬉しい、なんて思うほどに――


「――俺は、ヘルミナさんが好きだった」

「うん。ヘルミナさんも、君が好きだった。ただ、彼女の考える『幸せ』は、君とは少し違った。『幸せ』の形は人それぞれ……。ヘルミナさん側の物語を、もう少し読み進めよう」


 つい自分の気持ちを零してしまった俺に、そう言い足したのは、本の読み手。


 ――『次元の理を盗むもの』カナミは頁を捲る。


 すると、一歩も動いていないのに、視界が切り替わった。

 『街』から『研究院』の地下の奥深くへ。実体のない建物を透き通って、奈落の底に落ちて行くかのように、舞台は移っていく。


 その先に待っているのは、ファニアの全ての負債が詰まった場所。

 『第七魔障研究院』の最下層。


 ――新暦4年の『御神体保管室』。


 このときは、まだ部屋の掃除は行き届いていて、床や壁に血糊は付着していなかった。


 そこで木の箒を持った清掃員は、黙々と清掃作業を行っていた。

 ヘルミナさんは中央の血のプールに手を浸して、ふんふんと下手な鼻歌を鳴らしている。

 一見すると狂気だが、それは『呪術』を利用した血溜まりへの『執筆』であると俺にはわかった。なにせ、その血に『執筆』された知識を、のちに俺が読み解くことになる。


「――楽しそうですね、ヘルミナ様。かつてないほど、ご機嫌です」


 木の箒を動かしつつ、清掃員は普通に世間話を投げかけた。

 薄々と気づいていたことだが、この少女はヘルミナさんと二人きりのときは狂ったような物言いはしない。それどころか、あのヘルミナさんの助手足りえるほどの深い知性を持っていた。


「ええ、楽しいですよ……。だって、五年前には考えられなかったことが、こんなにたくさん起きて、その全てが繋がっていたのですから……」

「そうですね。いまのファニアは、五年前では考えられない状況です。まさか、『炎神』様と『闇神』様以外にも、こんなにもたくさんの神様たちが現れて……。それどころか、『碑白教』の使徒様たちまで降臨なされるなんて……。何もかもが予定外で、想像を超えていて、最高に刺激的です」

「でしょうっ?」


 本当に、普通に話す。

 旧友のように笑い合う。

 まるで、姉妹のように仲がいい。


 ――そして、例の清掃員の狂気的な喋りは、『研究院』で生き残るための処世術だったのだと、俺のいないヘルミナさんの物語だからこそ確認できる。


 ただ、それは俺が彼女達にとって、家族ではなく他人だったということでもあり、少しだけ寂しく感じた。

 千年後の俺が寂寥感に包まれる中、二人の話は続く。


「……本当に、この五年間は、充実した日々を過ごせました。そして、とうとうバラバラだったネイシャ家の研究の数々が、一本の大きな線となって、深遠まで届いた。その成果を――

 使徒ディプラクラ様は、褒めてくださった。

 ネイシャ家の末裔は天才で、その『血の力』が我々には必要だと。

 使徒レガシィ様は、頼ってくださった!

 人工の『理を盗むもの』の作成は、私なしでは不可能だと。

 使徒シス様は、約束してくださった。

 私たちの命は、必ず世界を救うための礎にすると。

 まさに『碑白教』一章一節〝此処に在るあなたとは、あなたのことだ〟!

 そうっ、あなたとは、私のことだったんです! あはっ、はははは――!!」


 ヘルミナさんは頬を紅潮させては、ちゃぷちゃぷと血のプールを掻き混ぜて、喋る。


 ――その姿は、使徒に心酔する狂信者そのものだった。


 『経典』をそらんじれるのは知っていた。

 ネイシャ家にとって、『碑白教』が特別なのも知っていた。

 しかし、生粋の科学者だったヘルミナさんは、末席に名を連ねる程度の信仰心しかないと思っていた。


 だが、それは間違いだった。

 いまならばわかる。

 どうして、この『御神体保管室』の血のプールに、『碑白教』の教えまで詰まっていたのか。

 血のプールに触れているヘルミナさん本人にそのつもりがなくても、『執筆』作業中に思いを馳せすぎて、その一節一節が血液に刻まれてしまったのだ。


「きっと、ネイシャ家の今日までの全てが、あの三人の使徒様に届ける為にあったのでしょう……。そして、これでようやく、今日まで犠牲になった人たちも安心して眠れるようになる……。私も役目を終えて、偉大なご先祖様たちと同じ地獄に落ちれる……」


 ヘルミナさんは血のプールを玩びつつ、どこか遠い目をする。

 視線の先に、ファニアの研究の先人たちを思い浮かべているのだろう。

 その死者に引っ張られているかのような微笑みに、清掃員が引き止めるように声をかける。


「ヘルミナ様がいなくなると、寂しくなりますね。あなたがいなくなると、私は一人きりです」

「いいえ。寂しいことなんて、一つもありませんよ。だって、今日まで私の話を聞き続けてくれたあなたは、もはや私そのものです。いや、今日までの研究成果の全てが、私そのもの。千年後、『五段千カ年計画』によって魔法が広まっていれば――その世界こそが、私そのもの! 私が世界を救う礎となることで、みんなが私になるんです! ああ、本当に素晴らしいと思いませんか……!?」

「……そうですね。そう思えば、寂しくはないかもしれません」


 あの清掃員が会話で圧倒されて、頷くしかない様子だった。

 しかし、決して相手の理解は諦めることなく、自らの主とコミュニケーションを取り続ける。


「しかし、私かヘルミナ様ならば、私が『血の理を盗むもの』になってもいいのでは? こういうときのために、私に狂った振り・・で長生きをさせて、ずっと近くに置いていたはずです」

「それはできません……。『ヘルミナ・ネイシャが地獄に落ちること』が、人工の『血の理を盗むもの』の完成の鍵なんです。ネイシャ家の全員が地獄に落ちて、根絶やしとなって消えるのが、一番大切な『代償』。……それと単純に、ネイシャ家の犯してきた罪が、余りに多い。のうのうと私だけが生き残るなんて、許されるわけがない。私も、今日までしてきた自分の実験を、この身に受けなければ……、声が止まらない・・・・・・・


 そう重々しく呟きつつ、ヘルミナさんは視線を動かす。

 その先にあるものを、千年後の俺とカナミも読み、視る。


 ――薄らとだが、人型の靄のようなものが浮かんでいた。


 それは清掃員に見えず、ヘルミナさんには見える『亡霊ゴースト』であると〝血塗れの視界の先に、ヘルミナ・ネイシャは犠牲にしてきた死者たちを見る。その中には、懐かしき家族たちの姿もあった――〟という一文から、理解する。


 ヘルミナさんは見えるだけでなく、聞こえてもいた。

 蠢く亡霊に向かって、ときおり話しかけては、頷いて、コミュニケーションを取っている。


 『代償』なのだろうか。

 それとも、『呪い』なのだろうか。

 どちらにせよ、はっきりとわかったのは――


 ずっとヘルミナさんの世界は、真っ赤な血に沈んでいて、地獄そのものだったということ。


 ――それに俺は気づけなかった。

 だから、好きな人と一緒にいても、一緒の世界を見れていなかった。

 と、俺のいない物語で、ようやく知っていく。


「ヘルミナ様。人体実験をしている研究者の一族は、他にもたくさんあります。そこまで罪を感じる必要はないと、私は思います」


 清掃員は言葉を選んで、狂気の赤に満ちた瞳を彷徨わせる主を落ち着かせようとする。

 しかし、ヘルミナさんは両手でお椀を作って、血を掬い、じっと水面を見つめる。


「ふ、ふふっ――、お父様も、おじい様も、ひいおじい様も、ひいひいおじい様も、そのずっとずっと昔のご先祖様まで、ネイシャ家は全員がとても優秀で最悪な科学者たちでした……。だから、子供の頃、何度も私は脅されたものです」


 その掬った血には専門書の如く、ファニアの研究記録が書き込まれているのだろう。

 今日まで、このファニアで犠牲になった『魔人』たちの数字が、正確に。

 その殺害と実験を数えながら、ヘルミナさんは自らの家系図を遡っていく。


「もし研究を止めれば、この血に刻まれたご先祖様たちの死が全て無駄になる。だから、たとえ地獄に落ちてでも、必ずネイシャ家の役目を果たせ――と、私に言い聞かせるお父様とお母様の声が、ずっと私は恐ろしかった。けど、いまならわかる。あれは脅しでなく、優しさだった。――この私の耳に纏わりつく亡者たちの声は、同じ犠牲者になる・・・・・・・・ことでしか止まらない・・・・・・・・・・。地獄に落ちることだけが、ネイシャ家に生まれた研究者の救いだと、ずっとみんなが教えてくれていた!」

「…………。ずっとヘルミナ様を苛んでいた声が、とうとう消えるのですか?」

「ええ。研究の礎となることで、私は救われる。そして、それこそがネイシャ家に生まれた研究者の『幸せ』だったのです!」


 長い付き合いの清掃員は、自らの主が嘘を言っていないとわかるのだろう。

 先ほどの使徒たちへの狂信の様子から、自らの命よりも世界貢献を重視しているのもわかる。ただ、だからと言って、そう簡単に受け止めることはできない。


 困惑する清掃員を見て、僅かにヘルミナさんの瞳に正気が戻る。


「……もちろん、あなたにも『幸せ』を掴んで欲しいと願っています。できれば、もう一人の私として、最後まで楽しんで生きて欲しい」

「私も……? 最後まで、楽しんで生きる……」

「最後だからでしょうか。ちょっと柄にもないことを言っていますね。ファフナー君みたいに、家の歴史まで語ってしまいました」

「ファフナー……。そのファフナーには、何も伝えないのですか? 未だに彼は、あなたが死ぬことを知りません」


 何かを思いついたかのように、清掃員は俺の名前を出した。

 ただ、それを聞いたヘルミナさんの答えは迷いがない。


「え、伝えましたよ? 大事なことは全て」

「え? あ、あぁ……」


 清掃員の困惑は増す。

 しかし、なんとか主の言葉をよく噛み砕き、もう自分の生死に頓着していないと理解する。


「ネイシャ家の研究の基礎は、きちんとファフナー君に伝え終わってます。間違いなく、彼は全分野に通じる世界一の学者となり、ファニアの歴史に名を残す逸材です。悔しいですが、既に彼は研究者としても為政者としても、私より上。『生まれ持った違い』というのは、ああいうのを言うのでしょうね。基礎さえ知っていれば、あとは勝手にどこまでも先へ行くはずです。だからこそ、私は『理を盗むもの』化の実験を決心できたんですから」

「……きっと彼は、あなたが自分の身体で『理を盗むもの』化の実験をすると知れば、止めます。下手をすれば、その後を追いかけるくらいに、あなたのことを好いています」

「私を追いかける? もうすでに、彼は私よりも先へ行ってるのに、どうやって?」


 話が噛み合わない。


 どんな話題でも、ヘルミナさんは研究中心に答え続けるから、会話がずれ続ける。

 それはもう仕方ないと妥協して、清掃員は聞く。


「彼のことが、好きではないのですか?」

「大好きですよ。――だって、彼の帰還が、私の役目の終わりを教えてくれた。かつて可愛がっていた弟子が大人になって帰ってきた姿は、本当にドキドキしました。だって、ゴースト混じりですよ、ゴースト混じり! 上位魔人たちよりも希少な『魂の魔人』! 幾万もの『魔人』たちが犠牲となり、幾千もの『魔人』たちが適合に失敗して、ついにたった一人生まれたネイシャ家の集大成! その彼が、私をも超える知識を蓄えて、帰ってきた! 全ての『魔人』の希望になると言ってくれたとき、私は確信しました! ネイシャ家は、ティアラ様や使徒様に繋げただけじゃない! 見えないところでも、色んな人たちと繋がっていたと!」


 ヘルミナさんは嘘をついていないし、俺たちと同じ言葉を使っている。


 けれど、上手く会話ができず、清掃員の反応は徐々に鈍っていく。

 その間も、ヘルミナさんはネイシャ家の亡霊に向かって、楽しそうに報告し続ける。


「あぁ、ご先祖様……。本当にファフナー君は素晴らしいです。彼さえいれば、間違いなく、もう私は世界に必要ありません。弱い私たちと違って、強い彼なら世界を救う礎にだってなれる。彼のように賢く、逞しく、『強い人』が長命種となった運命に、深い深い感謝を……」

「ヘルミナ様、彼はあなたのあとを追います。その道が、合っていなくても・・・・・・・・好きだから・・・・・、必ず追います」

「……え? 合っていないのに……、なぜ?」


 ヘルミナさんは心の底から不思議がっていた。

 その瞳を見て、清掃員さんは次の言葉を中々見つけられず――『御神体保管室』にある唯一の扉が、乱暴に開かれる。

 そこから現れた男が、代わりの言葉を投げる。


「話し続けても、無駄だ。罅の入った器とは、そういうものだ」

「……ロ、ロミス様?」


 研究院の白衣を纏った焦げ茶の短髪の男。

 かつて領主だったロミス・ネイシャが潜伏を中断して、その姿をヘルミナ・ネイシャに見せた。


 慎重に慎重を期す性格のロミスが現れたということは、つまり、そのときが来たということだ。

 この場面ページが〝――『奇跡』の力を諦め切れなかったロミスが、ファニアに帰還する。もう一度領主に返り咲くために、彼は親族であるヘルミナを手にかける〟であるとわかり、千年前の物語を読んでいる俺の顔は歪む。


 そして、最下層の『御神体保管室』に、地響きが聞こえる。

 実験体たちの悲鳴ではない。

 階上の至るところで、多様な騒ぎが同時に多発していた。


 三年前の『一度目の領主交代事件』と同じくらいの出来事が、いま、ここで起きようとしていた。

 その騒音はヘルミナさんの耳にも届いているはずだが、何事もないかのように彼女は家族の登場を歓待していく。


「お帰りなさいませ、ロミス様。……あの裏切らせる『呪い』を、自力で振り払ったようですね。これで、あとのことは安心です。ロミス様とファフナー君が二人揃って、『血の理を盗むもの』となった私を利用すれば、この先もファニアは安泰です」


 ロミスの唐突な登場に、ヘルミナさんは一切の驚きがなかった。

 むしろ、事前に彼が潜伏してたのを知っていた清掃員が、驚愕で目を見開いている。


「ヘ、ヘルミナ様? 以前から、この『第七魔障研究院』にロミス様が潜んでいたことを、知っていたのですか?」

「前から? いえ、知りませんでしたよ? しかし、必ず帰ってきてくれると信じてはいました。ロミス様とは、「ファニアの留守を預かる」と約束したんです。いつか『呪い』を乗り越えた真の領主に、全てを譲るときが来ると思っていました」


 ヘルミナさんの本業は研究者だと、元々わかっていたことだ。

 誰もが彼女を見て、「本当は現状に納得していなくて、研究に没頭したいんだろうな」と苦笑いをしていた。


 その通りだ。

 ただ、その熱量までは、誰も見抜けていなかった。

 狂気的な偏執を覆い隠していた振り・・を突破できたのは……、おそらく、あの聖人ティアラだけだろう。


 そして、自分の後任であり先任だった領主ヘルミナ・ネイシャを見て、ロミスは顔を顰めながら予定を告知していく。


「領主交代の準備はできている。おまえたち『理を盗むもの』の思惑通りに、準備をさせられたからな。……おかげで、完璧とは言えない状況だ」

「ありがとうございます、ロミス様。これで、二度目の領主簒奪ですね」


 ヘルミナさんは笑いかけて、一度目の領主簒奪を思い出させようとする。

 ロミスは〝五年前、『炎神』の調査に向かわされた先で使徒たちと出会った。そこで、たった一人の『幼馴染』を『闇神』に変えられてしまう〟という場面を思い出させられ、僅かに敵意を滲ませる。


「おまえもティーダと同じだ。心の弱さにつけこまれ、運命の操り糸に引き摺られる木偶となった。……情けない」

「その木偶が積み重なり、いつかは天に届く道となるのです。……木偶ではない『強い人』のロミス様、私は先に地獄で待っていますね」


 そのヘルミナさんの芝居がかった返答は、明らかに碑白教の教えが交じっていた。

 ロミスは苦々しい顔となり、話が通じないと早々に諦めて、話し相手を切り替える。


「いま、上で私の手のものたちが動いている。領主の交代は『北』の協力で、すぐに済むだろう。だが、問題は人工の『血の理を盗むもの』化のほうだ。一から作る『光の理を盗むもの』と違い、ここの材料は不純物ばかり。……貴様も手伝え、失敗作」


 話があったのは、まさかの清掃員のほうだった。


 その命令に、彼女は硬直する。

 言語の問題でコミュニケーションができないわけではない。いまここには、自分の狂った振り・・を知っているネイシャ家の人間しかいないので、『狂人マニュアル』を使うことなく自由に話せる。


 しかし、長年連れ添った主の自殺幇助となると、彼女とはいえ即答できない。

 だが、容赦なくロミスは、決心させようとする。


「……急なのは、わかっている。だが、時が来てしまったのだ。あのファフナー・ヘルヴィルシャインが『里帰り』したことで、ネイシャ家の研究は終わった。『北』に通じる貴族たちが俺を領主に押し上げれば、ヘルミナは間違いなく打ち首となるだろう。その前に、誰もが納得する形に仕上げる必要がある。……誰もがという意味は、わかるな? そもそも、この結末こそが、こいつの長年の願いだったのだ」


 長年連れ添ったからこそ、清掃員も理解している。


 そもそも、五年前に地方の『炎神』の調査を願い、ティーダとロミスを使徒に引き合わせてしまったのは、ヘルミナ・ネイシャ。

 三年前、『炎神』の研究が停滞してしまったので、『闇神』となったティーダをファニアの街に引き込んだのも、ヘルミナ・ネイシャ。

 『一度目の領主交代事件』の果てに、あの『光神』や『聖人』と懇意になり、フーズヤーズ国との共同研究まで漕ぎ着けて、誰よりも得したのは、ヘルミナ・ネイシャ。


 ――今日までのファニアの全てが、ヘルミナ・ネイシャの願いから始まっている。


 『本物』の研究者になりたい。

 死者たちの声が辛いから、早く家族の待つ地獄に落ちてしまいたい。


 その彼女の願いのために、ファニアは――

 ファニアの誰も彼もが振り回されたのだ。

 いまここにいるロミスも清掃員も含めて全て、利用された。


 その真実を前に、清掃員も決心するしかなかった。

 いまヘルミナさんを逃がそうにも、匿おうにも、救おうにも、彼女自身が望んでいない。

 もう『血の理を盗むもの』にすることだけが、唯一の逃げ道で、保護で、救い。


「はい……。それが、ヘルミナ様の『幸せ』ならば」


 納得した清掃員は頷いた。

 それにロミスも頷き返して、すぐさま領主交代の準備が進められていく。


 その間も、ヘルミナさんは血のプールに手を浸し続ける。そこで見えもしないものを見て、聞こえもしない声を聞いて、話してもいない相手と話をしていた。


 ――この後、ヘルミナ・ネイシャの心臓は抜かれる。


 自殺する本人が協力的であり、ロミスの冷徹さも相まって、滞りなく施術は済んだ。

 こうして、俺の知らないところで、全ては終わってしまった。


 ファニアの街中で、ヘルミナさんの人道に背いた実験や汚職が騒がれているのを知ったときには、松明を持った『血の人形』たちに俺は包囲されていた。『北』と内通していた貴族たちを信じたせいで、あっさりと俺は捕まった。


 ただ、最初は「悪しき領主からファニアを取り返したロミス様は、優秀な俺のことを高く買っている」と勧誘された。しかし、俺は激昂して、聞く耳を一切持たなかった。

 結果、俺は手足の腱を切られて、あらゆるものを奪われ、あの部屋に辿りつく。


 一夜で血に塗れてしまった『御神体保管室』で、俺は変わり果てたヘルミナさんと再会して――


(――■■私ノ■液■■、齧■数■■■愉■■■――)

「ぁ、ぁああ……、ぁあぁあ、ああぁあああああ――」


 絶望に染まり、俺は泣き崩れた。


 これがヘルミナさん自身が望んだこととは知らずに、慟哭する。


 誰も信じられなくなった俺は、『俺の世界』だけを見るようになる。『ヘルミナさんの世界』は見ないから、大好きな人の『幸せ』は一切分からない――


 ただヘルミナさんと同じように、俺は血のプールに向かって、手を伸ばしていく。


「ヘルミナさん……、また……、お願いします……。どうか……」

(ワ、私ハ――■■■■血肉■液体■■■、血液を齧■数え■場ノ――)


 それを、救いを求めている呻き声だと、ずっと俺は信じていた。

 しかし、真実は違った。


 ヘルミナさんは自分が『幸せ』であることを、俺に伝えようとしていた。

 この『血の理を盗むもの』の犠牲を礎にして、利用して、前に進んで欲しがっていた。


 なのに、俺は誰も望んでないのに、合ってもいないのに・・・・・・・・・、代行者となる。


 何も語らずに死んでしまったヘルミナさんの気持ちを知りたくて、『血の理を盗むもの』の振り・・まで始めてしまう。


 俺はヘルミナさんにとって、最も『不幸』な選択をした。


 その結末を、誰よりも俺は知っている。

 いま、誰よりも痛感しているから――




「――カナミさん、もう大丈夫です」


 千年後の俺は、その愚かな過去の俺の背中を見ながら、認めた。

 そして、この物語の感想を呟いていく。


「『未練』は、わかりました……。俺とヘルミナさんの『幸せ』がずれていたことも、ちゃんと……」


 ――『次元の理を盗むもの』カナミの頁を捲る手が、止まる。


 ぴたりと。

 同時に、ずっと過去を映していた世界も静止した。

 『御神体保管室』の空気が止まったことで、響く声も止まる。

 血の流れも時間の流れも、過去の世界のありとあらゆるものが止まる。


 願えば、それに『次元の理を盗むもの』カナミは最大限に応える。

 決して、俺が嫌がることはしないし、無理強いすることもない。

 だが、その止まった世界で――


「――お帰りなさいませ」


 カナミでも俺でもない第三者の声が、背後から届いた。


 振り向く。

 そこには、過去の清掃員が静止していて、過去の俺を見守っている姿があった。


 ただ、その隣にもう一人。

 一体の『血の人形』が、千年後の俺を見守っていた。


 皮膚の全てを剥いだかのような恐ろしい姿。

 一目では、他の『血の人形』との差異はわからない。

 しかし、俺にはわかった。


 俺たちは同じ地獄に囚われていて、同じ悲願を抱えていた友人だった。

 だから、その『血の人形』が、あの清掃員だと理解できた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る