440.『次元の理を盗むもの』の試練


 既に。

 もう答えは返されている。

 しかし、俺は受け止めきれずに聞いてしまう。


「こ、こんなに暗くて、血生臭くて、気持ち悪い場所で……、もう居もしない亡霊共おれらの悩みを聞いていくのが本当に……、本当に楽しいですか?」


 心からの疑問だった。


 確認するように聞く俺を前に、カナミの表情は一切変わらない。


 彫像のように、ずっと同じ。

 血の繋がった弟を見守るかのように、とても穏やかな目をしている。あの日、初めて出会ったときと変わらず、口元を緩ませて、俺の話を楽しそうに聞いてくれている。


 千年前の全盛期の研究院ならば、まだわかる。

 当時のファニアは大陸でも裕福で、街の技術は最先端だった。


 しかし、もう状況が違う。

 ここにはもう誰もいない。あの全盛期のファニアは存在しない。

 亡霊から聞ける話に、文化的価値もない。全て、ただの恨み言だ。


 なのに、未だ楽しそうに聞いているカナミが、俺にはわからなかった。


「別に、あなたがやらなくてもいいことばっかりだ。――みんなを救いに来た? 連合国のみんなを救うのは、まだわかります。けど、『理を盗むもの』のみんなまで? もう居ない千年前のみんなまでも? ……頭おかしいよ、カナミさん」


 全く分からないから、そう決め付けて、俺は理解を諦めてしまった。

 『次元の理を盗むもの』カナミを前に、狂気に陥っている振りをするのは限界だった。


 その俺の弱音を聞いて、カナミは大きく頷く。

 そして、俺の繰り返した疑問に、さらに――


「それが『本当の君』の本当の気持ちだよ」

「は、ぁ……?」


 さらに会話が成立しなくなっていく。


 もう俺は完全についていけなかった。

 カナミに向かって「どうして?」と聞いたのに、なぜか俺の話にすり替わっている。

 論点をずらしているわけではないだろう。

 むしろ、論理の最後に待っている「さらに先の答え」なのだろう、いまの返答が。


 しかし、『未来視』『過去視』を駆使するカナミと違って、俺は『今』しかわからない。だから、もう少しだけ一般人の正気を持って、話して欲しい……。

 でないと、もう俺は……、あなたさえも……。


「君が確かめたいのは、僕の本心じゃない。僕という鏡を見て・・・・・・・・自分の本心を確か・・・・・・・・めたがっている・・・・・・・。――これは別に君だけじゃなくて、全ての『理を盗むもの』たちに言えることなんだけどね」


 少し冗談めかして、そう断言した。


 そして、カナミは手に持った本を、最後の頁まで捲っていく。

 そこには、この『血陸』の戦いの結末が記されているのかもしれない。

 それをカナミは先読みしているから、こうも俺の頭が痛くて堪らない。


 ――完成した『次元の理を盗むもの』は、その属性通りに、魔法だけでなく会話までずれていた・・・・・


 ただ、この会話のずれを、少しだけ懐かしくも感じる。

 話せば話すほど頭が痛くなるという状況を、過去に『魔障研究院』でも俺は何度も味わった。

 あそこには、あの清掃員の少女を始めとして、言葉の分からない人たちが多かった。


 ただ、その理由が、いまになってわかる。

 あれは、ずれ・・だったのだ。


 例えば、価値観だったり、言葉選びだったり、時間感覚だったり、理由は人それぞれだったかもしれないけれど、俺たちはずれてしまっていた。

 ちょっとした入れ違いや行き違いがあって、俺は誰とも心を通じ合わせることができなかった。きっと憧れのヘルミナさんとも、最期まで――


 パタンッと。

 目の前でカナミは、本を一旦閉じた。


「そろそろ、始めようか。――君の為の『試練』を」


 そして、すぐに開いて、その本を読み直していく。


「お、俺の為の『試練』……?」


 『次元の理を盗むもの』カナミが頁を捲る。

 合わせて、『御神体保管室』の空間が歪み始めた。

 元々、カナミの周囲では濃い魔力が満ちて歪んでいたが、その範囲が急速に広がっていく。


 先ほど展開された《ディフォルト》が、まだ維持されていたのだろう。

 部屋中を侵食して、距離という概念を少しずつ壊しては、伸び広がっていく。


 いつの間にか、部屋の壁が遠くにあった。

 四方全ての壁が地の果てまで遠ざかり、地下室ならではの息苦しさが消えた。物らしい物が置かれてなかったので、まるで広場に出たかのような開放感に包まれる。

 ただ、決して気分のいいものではない。急な清々しさに、頭が混乱して、呻く。


「あ、あぁ……」


 怪異よりも怪異めいたカナミの魔法は、精神不安定時の知覚変容アリスシンドロームのように気持ち悪く、眩暈がする。


 なにせ、変わっている概念は、距離だけではない。

 もののついでかのように、壁や床に付着した血痕や汚れも、傷を癒すかのように綺麗になっていた。


 『御神体保管室』内だけの話ではなく、部屋の外の『第七魔障研究院』全体まで及んでいると、魔法《ブラッド》の感覚で理解できる。

 俺が再現した『第七魔障研究院』が別の魔法で、あっさりと上書きされ、異界化していくのは衝撃的だった。


「ぁああ……」


 呻き、俺とグレンの考えた戦略が、いかに的外れだったのかを知る。


 あの最後の戦いにて、ティアラは『糸』の届かない地下を有効活用した。

 だから、俺たちも倣って、地下で作戦を立てて、決戦の場に俺の人生で最も奥深くにあった『御神体保管室』を選んだ。


 だが、その判断は間違いだった。

 むしろ、逆だ。

 そもそもの話として、千年前のカナミは――


「――『血水に揺れる天と地』『陽光に満ちる優しい日々』――」


 『始祖カナミ』が巨大な地下・・迷宮の作り手だったことを、俺は失念していた。


 カナミの『詠唱』に合わせて、とうとう『御神体保管室』は全く違う部屋となった。


 無機質で整然として、ただただ広いだけの部屋。

 見たことがあった。

 この時代に召喚されたばかりの頃に、三度。

 迷宮の十層と二十層と三十層で、これと同じ部屋に俺は入った。

 『理を盗むもの』が去ったあとの階層と、全く同じだった。


「ぁ、ああっ……」


 震えて、呻き続けるしかない。


 それほどまでに、圧倒的な魔力量だった。

 神の如き、圧倒的な魔法構築だった。

 これこそ、かつて『百層分の表の迷宮』や『六十六層の裏の旧ヴィアイシア国』を構築した『始祖カナミ』の力。


 ――地下空間の『迷宮化』。 


 元々あった国や建造物を塗り潰してしまうので、地上では使えない力だろう。


 つまり、カナミを相手にするならば、地上のほうが有利だったのだ。

 この存分に空間を弄れる地下こそ、『次元の理を盗むもの』カナミの得意分野とわかった――ところで、全ては遅い。

 カナミは自分の作った階層を楽しそうに見回して、満足げに頷く。


「このくらいの広さがあれば、いいかな。……それじゃあ、一緒に読み直そう。大丈夫、楽しい物語なら僕たち・・・は何度だって読めるよ。――共鳴魔法・・・・《リーディング・シフト》」


 そして、初めて聞く魔法を、唱えた。

 紫色の魔力が煙のように巻き上がり、この広い部屋に満ちては染み込んでいく。


 ――『次元の理を盗むもの』カナミは頁を捲る。


 侵食され、まず部屋の天井が、急に消えた。

 途端に、地面を焼き尽くすような強い光が、天から差し込む。


 俺は目を眩ませながらも、その光の出所を確認しようとする。

 光なんて、あるはずがない。

 『御神体保管室』の上には『第七魔障研究院』があって、そのさらに上には『血陸』が満ちて、さらに血の雲が太陽を遮っている。


 ――そのはずなのに、どこまでも突き抜けるような『青い空』が広がっていた。


 虹色の嵩のかかった太陽が、燦々と輝く。


「ぁ、ぁああ、ああぁぁぁっ……!」


 ほんの少しだけ白い雲が流れていて、空のほとんどが綺麗な青。

 文句のつけようのない快晴の下。


 呻きながら俺は、立っていた。

 とても高い場所で、その流れる雲を近くで見ていた。


「…………っ!?」


 吹き抜ける風を全身で浴びている。

 もう地の果てに、壁さえない。


 見えるのは、彩り豊かな緑に染まった山々。

 それと、空と平原を分ける綺麗な地平線。


 驚愕しつつ、足元を確認する。

 地面はあった。だが、少し傾いている。その材質と形状から、建物の屋根であるとわかった。それも、縦長い塔の屋根の上だ。その塔の下には、厳かで立派な巨大建造物がくっついているようだ。

 縦長く建築する癖から、フーズヤーズにゆかりのある場所と当たりをつける。


「こ、ここは……、まさかフーズヤーズ城……?」

「連合国のフーズヤーズだね。だから、これは城じゃなくて、大聖堂。その一番高いところまで、場面を移したんだ・・・・・・・・


 すぐ隣にカナミも立っていて、俺のつけた当たりに訂正が入り、軽く訳のわからないことを言ってくれる。


 そこまで広い屋根上ではないので、本当にすぐ近くにカナミがいる。

 手を伸ばせば、すぐ届く。

 戦いを再開させようと思えば、いますぐにでも可能だ。


 だが、それを決心するより先に、俺は目を奪われてしまった。


「なっ――、嗚呼あぁ……」


 この連合国の特等席から見える風景は、余りに魅力に満ち溢れていた。


 眼下に広がっている街が、連合国。

 話には聞いていたが、かなり特殊な構造だ。当然だが、とても活気付いていて、区画は美しく整い、非常に完成された大都市だ。


 千年前の大都市とも、現在の本土の大聖都とも、大きく異なる。

 一番の特徴は、全く異なる文化の国が隣接していること。

 いま俺がいる大聖堂を囲むように広がっている白を基調とした街が、フーズヤーズ国。その右側には探索者の国ヴァルトの街が広がって、左側には世界最大のエルトラリュー学院が広がっている。


 一体、どうすればこうなるのだろうか?


 成り立ちや歴史に、俺は興味を惹かれてしまった。


「……あそこを見て」


 カナミは指差す。

 『魅了』されたように釣られて、俺は視線を動かしてしまう。


 目を凝らして、その先に何があるのかを確認しようとして――双眼鏡を覗いたかのように、急に遠くの様子が視えるようになった。


「《リーディング・シフト》は、違う次元の本を読む魔法だから、距離なんて概念はないよ。本の中の視たいものを視れる。ある意味では、『過去視』の魔法さえも超える魔法だと僕は思ってる」


 警戒していた『過去視』を超える力。

 もう何でもありじゃないかと、心の弱った俺は自棄を起こしそうになりつつ、その指の先にあるものを、視るよむ


 工事が行なわれていた。

 街の一角にたくさんの市民が集まり、色々な資材や工具を用いて、亀裂の入った地面を修復していっている。ときには断裂した『魔石線ライン』を、魔法に長けた専門の人たちが繋ぎ合わせていく。


 ここまでの情報から、これは二ヶ月前の連合国の光景と俺は推察した。

 これは最後の戦いで破壊されたライフラインとインフラの復興作業だ。


「ヘルミナさんの『魔石線ライン』には、みんな本当に助けられている。あれのおかげで、いま世界は安定していると言っても過言じゃないよ。あのファニアの『魔障研究院』の成果が、千年後の人々に『安心』をくれたんだ。そして、その生活の余裕が、他者への優しさにも繋がってる……」


 そう説明したあと、また。


 ――『次元の理を盗むもの』カナミは頁を捲る。


 すると、一瞬の内に工事は終わった。

 大勢の人たちが街中で祝杯をあげている光景に移り変わる。 


 仕事で汗を流した『魔石人間ジュエルクルス』や『魔人』たちが、普通の人たちと肩を組み合って、楽しそうにグラスを打ち合わせている。互いに互いを讃えて、認め合って、生活を共にしていた。


 眩しかった。

 『青い空』の光もだが、連合国で生きる人々の光に当てられて、俺は目を細めて、口元を緩ませる。


「うん。……みんなが笑顔になったのを見ると、なんだか嬉しくなるよね。国の歴史や技術発展の話を読んでいるだけで楽しいのは、そういうことなんだと思う」


 続いて、カナミの視線が下に向けられた。

 見る場所を選ばない魔法によって、足元の屋根の下が透けて見える。


 真下にある建物内の神殿にて、高度な神聖魔法が発動している。

 その強大な魔力の波動には覚えがあった。


 階下では、千年後の世界で魔法の身体となってしまった使徒シスが、回復魔法を大盤振る舞いしていた。


 その相手は、かつて「世界を救うための犠牲になるのは当然」と見下していた人々。

 ずらりと並んだ行列に対して一人一人、丁寧に治療を施している。千年前ならば見捨てるような重病が、最先端の回復魔法によって次々と、とてもあっさりと治っていく。


 最初は、面倒くさそうな表情だったシスだが、周囲から感謝され続けることで少しずつ調子に乗っていた。

 頭を下げて去る人々に「ちゃんと私を敬うように!」と声をかけていく。それは自分の力の為だけが目的ではなく、ただ単純にシスは「楽しいから、そうしている」とも、その能天気な顔から読み取れた。


「感謝の言葉が嬉しくて、また誰かを助けたいと思った。少しでも多くの人を救いたいと思った。そんな単純なことが、最初は理由だったんだ……」


 またカナミの視線は動く。


 その視線の先を追っていくと、連合国で生活しているカナミの姿が見えた。

 いま隣に居るカナミとは違う。

 おそらく、『過去のカナミ』だ。

 丁度、一仕事終えて、元使徒の少女ディアと市場で買い物デートを始めるところだった。ただ、次にカナミが目を向けた先では、ラウラヴィア国のギルド『エピックシーカー』の闘技場でスノウを抱き止めるカナミも見えた。さらには、ヴァルト国の郊外にあるマリアの家で、みんな一緒に晩餐会を開いている光景も――


 時間軸は滅茶苦茶だったが、あらゆるカナミの休日の様子が一目で見られる。

 最後に、連合国の外へ温泉旅行に出ていくところまでも見えた。


 どのカナミも穏やかな表情で、とても楽しそうだった。

 充実していて、『幸せ』そうでもあった。


「――これが『ラスティアラの物語』の続き・・


 そう口にして、カナミは何もない宙を見つめて、微笑みかける。

 その仕草が余りに自然すぎて、視線の先に『誰か』がいるのを感じた。


 こうして、連合国での生活を全て曝け出したカナミは、手に持った本の表紙を撫でながら、俺の確認したかったことを答え切る。


「あの最後の戦いを終えて、僕はラスティアラに続き・・を託された。この物語が続いている限り、僕はラスティアラと一緒だって思ってる。この『血陸』を歩いている間も、いま君と話している間も、ずっと。ずっとあいつと一緒に生きていて、一緒に笑っていて、一緒に楽しんでいる。――そう信じてる」


 一緒と口にする度に、本から例の虹の魔力が漏れ出した。


 少し思いを馳せただけで、何かしらの『代償』が成立している。単純に想いを託されただけでなく、魔法的にも魂が繋がっていると確信できる反応だった。


 さらにカナミは話し続ける。

 証明をし終えたあと、カナミの指は俺に向けられた。


「ただ、それは君も同じなんだ。君の中でも、『ヘルミナの物語』は続いている」


 ぽっかりと空いた胸を指差した。


 しかし、それに俺は同意できない。なにせ、もう俺には『血の理を盗むもの』の魔石がない――という反論をする前に、カナミは話し続ける。

 『次元の理を盗むもの』の頁を捲る手を、俺は止められない。


「君も僕と同じで、ただ好きな人を救いたかっただけの少年こどもだった。しかし、救えなかった。……すでに、彼女は自分自身の力で救われていたから。救いたくても、もう二度と救えなかった」


 まるで俺の心を本にして読んでいるかのように、カナミは言い当てていく。

 この魔法《リーディング・シフト》の範囲内にいるだけで、《ディスタンスミュート》と同様の効果があるとしか思えなかった。



「――君の本当の『未練』は、大切な人の『幸せ』を理解できなかったことだ」



 そして、言い切られる。

 カナミは自分のことじゃないのに、まるで自分のことのように断言した。


 俺は自分のことなのに、全く言い返せない。

 ずっと呻き、息を呑み、畏れ続けるしかなかった。


「く、ぁ、あぁ……!」


 それは自分の人生を見直して、薄らと気づいていた『未練』。


 俺の人生の始まりは、間違いなくヘルミナさんとの出会いだった。

 あの人の背中に憧れて、目指して、追いかけ続ける人生だった。

 その原動力は『世界を救いたい』なんて綺麗なものじゃなくて、『好きな人と通じ合いたい』という少し邪で、けれど子供らしい純粋な想いだった。


 あの人のことを、俺は理解したかった。

 そして、あの人の楽しいことを、俺も一緒に楽しいと感じたかった。


 それは、好きだったから……。

 ヘルミナさんと一緒にいたかったから……。

 その愛おしい声を、ずっと俺は聞いていたかったから……。


 だから、たとえヘルミナさんが肉の塊になって、心が狂気に落ちても、その気持ちを理解しようと、同じ『理を盗むもの』の振りをし続けた……。

 声が聞こえて、その気持ちさえわかれば……、ヘルミナさんを救えるのは俺だと、そう信じていたから……。


 ――好きな人の気持ちが知りたかった。


 ただ、それだけの『未練』だった。

 得てして、『理を盗むもの』たちの『未練』は壮大なものが建前で、些細な願いが真実だった。

 それは俺も例外ではなかった。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」


 息が切れる。

 恐ろしい速度ペースで、心が読み暴かれているからだろう。


 戦っているわけではないのに、疲れ切っている。

 体力も魔力も削れていない。

 削れているのは、精神力こころ


 だが、まだ俺の動揺は最小限だ。

 他の『理を盗むもの』と違って、事前に準備をしていた。

 その『未練』には、薄々とだが気づき、覚悟していた。だが、


 ――容赦なく、『次元の理を盗むもの』カナミは頁を捲る。


 俺の心を、捲り続ける。

 微かな紙の擦れる音が聞こえてくる。

 瞬間、また周囲の光景が塗り変わった。


 連合国を一望できる頂上から、次は一気に下へ。

 明るい空の下から、暗い地下室へと移動する。


 その地下室は、元の『御神体保管室』ではない。

 さらに手狭だが、清潔。

 造りも新しく頑丈そうで、ベッドとテーブルが置かれている。何よりの違いは、部屋のほとんどを占める本棚。おそらく、連合国のどこかにある書庫か。


「書庫兼僕の自室だね。えっと、確かこのへんに……あった。ファニアの歴史書だ。一緒に読もう」


 カナミは我が家に帰ったような表情で、ゆったりと近くの本棚から一冊の本を抜き出した。


 気軽に手に取ったが、明らかに普通の本ではない。それ単体で、かなりの魔力を纏っている。


 カナミが持っている本と同じ類だ。

 俺も『経典』を持っているから、わかる。


 これも魂という筆先を血で濡らして書かれた本だ。

 その題名が『ファニアの歴史』で、読み手がカナミならば、それは正しく『真の歴史書』となるだろう。


「本は読む人によって、物語の意味が変わっていく。例えば、僕たちから見たロミス・ネイシャは、本当に憎いやつだった。けど、ヘルミナさんから見た場合はどうだろう? さあ、次は君の番だ……」


 ――さらに、『次元の理を盗むもの』カナミは頁を捲る。


 先ほどと同じように、また一瞬で場面が変わった。

 次々と変わっていく場面に、眩暈が止まらない。

 しかし、この魔法《リーディング・シフト》の反則具合にも、少しずつ慣れてきた気もする。

 俺はなんとか正気を保って、その次の場面とやらを見る。


 先ほどと違い、空が遠かった。

 そして、暗い。

 さらに、しっかりと地面に足をつけて、俺は立てていた。

 暗雲の空の下に、見知った街並みが広がっている。


「高い壁が、周りにある……。これは、千年前のファニア……?」


 空と街の特徴から、すぐに故郷であるとわかった。


 暗雲時代には慣れているので、些細な暗さの違いから夜であることもわかる。

 ただ、街に『炎神様の御石』はなく、通常の魔石が光り輝いていた。

 となると、これは旧暦のファニアでなく――


「〝――新暦三年。その終わり際、ファフナー・ヘルヴィルシャインは『里帰り』を決意した。長い戦いを経て、仲間たちを全員失い、もう自分を縛り付けていたものはなくなった。もう彼の『幸せ』を妨げるものは何もない。そのはずだった――〟」


 俺の隣にいたカナミが、本を読むことで、正確な時間を教えてくれた。


 いま、新暦三年のファニアにいると理解したとき、俺とカナミの隣を一人の男が横切った。その男は周囲に誰もいないと信じて、独り言を呟いてもいた。


「――ああ、やっと……、帰ってきた。ヘルミナさん、手紙見てくれたかな。見てくれてなかったら、どこかで色々と盗むしかなくなるけど……」


 ファニアの街を俺が――『過去のファフナー』が、歩いていた。


 長旅で汚れた外套を纏って、その亡霊のように薄い手足を隠し、闇に紛れるように街の中を進んでいる。


 こちらの姿は見えていないようだ。

 いま俺とカナミは反則的な魔法で、歴史書を通して当時の場面ページに紛れこんでいるだけで、この時代に存在しているわけではない。


 だから、いまから目の前で起こることに、俺は干渉できない。

 できるとすれば、歩く過去の俺を追いかけて、物語を読むだけ。


「あぁっ……! よく……、よくぞ帰ってきてくれました……!」


 暗い街道の先に、一通の手紙を持った白衣の女性が、涙ぐみながら現れた。

 その姿を視認した過去の俺も涙ぐみながら、挨拶を投げかける。


「はい。ただいま帰りました、ヘルミナさん……いや、領主ヘルミナ・ネイシャ様」


 嗚咽が漏れそうになる俺の前で、過去の俺は話す。

 いまやファニアの領主となったヘルミナさんに深々と礼をしながら、ゆっくりと。


「私とあなたの間に、形だけの礼なんて要りませんよ。それより、帰ってきたのは、あなただけですか? 他の方々は?」

「すみません。あの日、逃げた実験体の生き残りは、もう俺だけです。……他のみんなは、旅の途中で全員死にました」


 過去の俺は俯きながら、自分一人であることを伝える。

 それは三年越しの上司への報告でもあった。


 ただ、その結末をヘルミナさんは覚悟していたのだろう。

 悲しみの表情は、刹那。

 すぐに過去の俺に歩み寄り、抱きつこうとして――途中で止まった。抱擁の代わりに手を伸ばして、帰ってきた弟子の頭に触れた。


「大人になりました。……背を、追い越されちゃいましたね」

「それは、そうです……。あれから、もう三年です……」


 過去の俺はヘルミナさんに頭を撫でられながら、はにかむ。


 嬉しかったのだろう。

 それは『里帰り』の喜びだけではない。多くの困難を乗り越えて、憧れの人と同じ視線になれたことが嬉しかったのだ。


 そして、十分に懐かしさを噛み締めたあと、ずっと用意していた言葉が吐かれていく。


「ヘルミナさん。どうか、またあなたの下で働かせてください。必ず、役に立ちます。俺は犠牲になった『魔人』たちを、少しでも多く救いたいんです……!」


 ファニアでの就職を希望する。

 それに領主のヘルミナさんは、力強く頷いて応えた。


「歓迎します。……けど、まずはあなたの家を確認すべきではありませんか? 今日みたいに闇に紛れて入ってくるのではなく、家を通じて戻ったほうがいいと私は思いますが……」

「ヘルミナさん、もう俺は家に戻るつもりがありません。こんな変わり果てた姿で戻っても、迷惑をかけるだけです。……うちは、特に『魔人』差別の強い家だったので」


 俺の家はファニアの有力貴族だ。

 当然ながら、『魔人』を実験して、犠牲にしていた側。

 いかにファニア領が、カナミやヘルミナさんの力で変わり始めたといえども、その根っこのところは変わらない。


 いまさら、嫡男が『魔人』として戻る意味を、ヘルミナさんは一領主として理解しているようで、家に戻ることを無理強いすることはなかった。ただ悲しそうな顔を見せる。


 ――嗚呼、そんな顔は見たくない。


 だから、過去の俺は少しだけ強がって、この長い旅で手に入れたものを報告していく。失ったものばかりではないと、胸を張る。


「いま、俺は『ファフナー・ヘルヴィルシャイン』と名乗っています。この名で、ずっと各地を旅していました」


 その名を故郷に持ち帰った。


「え、ええぇ? ファ、『終末の悪竜ファフナー』? 一時いっとき噂になっていた黒竜は、あなたのことだったのですか?」


 それを聞いたとき、ヘルミナさんは心底戸惑い、驚いていた。

 このファニア近くだと『終末の悪竜ファフナー』は有名だったようだ。


「いえ、そちらの名には、少し事情がありまして……。敵が怯え竦むような称号が必要となったとき、とある方から頂いた感じで……」

「ああ、なるほど……。名を騙ったのですね。この時代を放浪しながら生きるなら、特に珍しくありませんが……、ならば、ヘルヴィルシャインのほうも?」

「こちらは俺の誇りです。この三年の旅の中で、俺は色々な『魔人』たちと出会い、看取り、色々な想いを託されました。その犠牲になった『魔人』たちの希望になると誓い、名乗った新たなる家名です」

「――犠牲になった『魔人』たちの希望?」


 一緒に旅をしていた『竜人ドラゴニュート』への義理で、全てを語ることはできなかった。けれども、その新たな信念は伝わったようで、全てを聞き終えたヘルミナさんは興奮で身体を震わせ、深い笑みを浮かべていく。



「――素晴らしい・・・・・



 そして、讃えた。

 とても『幸せ』そうに、両手で白衣が破れそうなほどに強く自分の肩を抱いて、呟く。


「私の知識を託せる若者が、また一人……。ああ、最近は本当に、いいことがたくさん重なる。こんなにも幸運なことは、初めてです……」


 生まれてきたことを喜ぶかのように、彼女は感激していた。

 過去の俺は、自らの新しい名が予想以上に受け入れられていることに一安心して、談笑を始める。


「最近、そんなにいいことがあったんですか? 俺が帰ってきた以外にも」

「ええっ、あったのです! どうか、聞いてください。フーズヤーズのティアラ様のところで厄介となって、使徒様と『光の御旗』という計画に関わったのですが……、知っていますか? いま、フーズヤーズでは人工の『理を盗むもの』を生み出すことさえ可能なんですよ?」

「人工の『理を盗むもの』を? それは、本当に素晴らしい話ですね! ……どうか、俺にも手伝わせて欲しいです! どんな雑用でも構いませんので、近くで勉強させてください!」

「もちろん、歓迎します。難しい話ですが、あなたならすぐに理解できるでしょう。いや、あなたにしか、あの真髄は理解できないかもしれない……!」

「俺にしか? いえ、それを言うならヘルミナさんしかでしょう!」


 一瞬のすれ違いと行き違い。

 ずれがあったけれど、過去の俺が気づけるはずもなく、本は続く。


「あぁ……、ふふっ。また一緒に勉強するなんて、夢のようですね。ただ、今度はあなたから教えてもらうことがたくさんありそうです。今日までの旅のお話を、私に聞かせてくれますか?」

「もちろん。今日まで旅してきた南の街の様子は、しっかりと手記に記録しています。道連れだった竜人ドラゴニュートからは、北の国についても色々と聞いたので、お楽しみを。向こうは、本当に面白いですよ。『魔人』に対する価値観が、こちらと全く違います。『統べる王ロード』の伝説なんて、本当に楽しくて楽しくて……!」

「あー……、できれば、各地の技術のお話だけを聞きたいんですけど……」

「わかっています。でも、まずは各地の歴史からですよ。それから伝統の話をして、それから偉人の話です。ここは譲れません」

「そこは相変わらずなんですね。まあ、構いません。時間ならあります。ゆっくりとお話を聞かせてもらうことにしましょう――」

「はい、ゆっくりと話しましょう。これからは、ゆっくりと――」


 楽しそうな二人が、話しながら街道を歩いていく。


 その足の向かう先は、『第七魔障研究院』だろう。

 そこを仮宿として、これから俺は新しい生活を始める。


 と、『過去のファフナー』は思っていた。

 去っていく二人の背中を、『千年後のファフナー』が追いかける。


 胸を押さえて、呻き声を漏らしながら。


「ヘルミナ……、さん……」


 今日まで、何度も彼女の声を、俺は記憶を掘り返して、思い返してきた。


 しかし、それは所詮『過去』。

 擦り切れて、冷たくて、遠い声ばかりだった。


 ただ、この魔法《リーディング・シフト》は違う。

 現実の温度があった。

 この『次元の理を盗むもの』の階層には、記憶に血と魂が通っていた。

 そこで『いま』、ヘルミナさんが生きていて、その声が確かに聞こえた。


 抗いがたい人生の充足を、味わう。


 ――もちろん、容赦なく、『次元の理を盗むもの』カナミは次の頁を捲る。


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