439.次元の再上昇


 地中に再現した『御神体保管室』で、『次元の理を盗むもの』カナミと向かい合う。


 これから、俺は戦いを挑む。

 その狙いは一つ。

 敗北した主ラグネと同じく、カナミに《ディスタンスミュート》を叩き込む。


 ――大事なのは、カナミからされる・・・のではなく、こちらから仕掛ける・・・・ことだ。


 魔石を抜くつもりはない。

 というより、次元魔法の専門家相手に『繋がり』を作っただけでは、逆に辿られて抜かれるだろう。

 死体相手でもラグネは、カナミに色々と持っていかれそうになっていた。いまの状況でカナミと《ディスタンスミュート》で接触すれば、俺も必ず敗北する。


 しかし、一瞬。

 虚を突いて、一瞬だけでも《ディスタンスミュート》の主導権を得たならば、確かめられるはずだ。

 敗北の代わりに、カナミの本心を確認できる。


 対するカナミの狙いは、とてもわかりやすい。

 身体を揺らめかせながら、部屋にへばりついた血の跡を見つめて話す。


「ずっと言いたかったんだ。救いに来たよって、ここのみんなに……」


 言葉通り、救いに来たのは間違いない。

 戦いや捕縛が狙いならば、一度俺に圧勝しているマリアやディアたちを連れてくるだろう。


 カナミは何が起こっても無抵抗のまま、話し続ける。

 これまでの実績と、その優しげな表情から、それが伝わってくる。

 黒い瞳は見つめ過ぎないように注意して、カナミと会話する。


「救いに来た……? くははっ、流石カナミだな。俺が何を欲しがってるのか、よーくわかってる。ただ、そんなに先を、もう見据えてるのか? そこまでしなくても、俺は『未練』解消で消えるって、最初に説明したろ?」

「もちろん、『未練』も大事だと思う。――でも、それが全てとは、もう思わない。最近、少し思うんだ。『理を盗むもの』たちの最期は、どれも刹那的過ぎた。みんな最期に一抹の救いを手にして、とても満足して、消えていった。けど、本当は……、もっともっと報われてもよかったんじゃないかって……、ほんの少しだけど、思い始めてる」


 不思議な感覚だった。


 本当に俺とカナミは、色々と立場が移り変わった。

 けれども、まだ『友人』のように話せているのは、俺が器用だからだろうか。

 それとも、カナミ側が合わせてくれているからだろうか。


 俺は少しだけ怪しんでいる。

 いま、この状況は俺たちの予定通りではなく、カナミの予定通りかもしれないと。


 そんな不安を払うように、俺は『経典』に目を落として、詠む。


「だから、『未練』だけじゃなくて、魂も救うって? はっ、贅沢な話だ。――十四章一節〝浄い終わりなど誰にもない。しかし、不浄の終わりも誰にもない〟。俺たち『理を盗むもの』は、どいつもこいつも大量虐殺に加担した狂人たちだ。果たして、救うだけの価値があるか?」

「価値は、わからない……。でも、僕の目と手の届く範囲は、できるだけ救っていきたいんだ」


 カナミは軽く笑って話すが、その一言一言に鉛のような重さを感じた。

 視線は合っているし、会話も合っている。けれど、どこか大切な何かが合っていない気がする。


「そんな心構えで、本当に俺の『未練』を果たせるのか? 知ってのとおり、俺の『未練』は『相川渦波おまえの成長を最後まで見届けること』だ。……言っとくが、俺は年季が入ってる上に、拗らせに拗らせた元神学者。俺の『大いなる救世主マグナ・メサイア』の『理想』は高いぞ? 少なくとも、この『血陸』を止められないようじゃ、任せ切れないな」

「大丈夫、ちゃんと止めるよ。いま、ここにはファニアの『炎神』様も、『闇神』様も、『光神』様もいる。本当に君が見たい神様の力だってある」


 しっかりと、カナミは理解していた。

 俺の見たい力で『血陸』を止めると、自信満々の様子だ。


 この『血陸』を止めるのは、簡単なことではない。

 まず当然ながら、『血の理を盗むもの』の力は必要だ。ただ、それだけで止まるほど、ぬるい『術式』ではない。あくまで『血の力』は補助でしかなく、重要なのは開発者であり術者である俺だ。


 しかも、ただ俺を倒しただけでは『血陸』は暴走するだけ。

 かつての『世界奉還陣』と同じく、そのくらいの保険はかけている。

 つまり、魔石だけでなく、『経典』も無傷で奪取して、主を裏切りがちな俺を説き伏せて、丁寧に解除させる必要がある。


 だが、あの陽滝との戦いを経たカナミにとっては、そこまで難しくないことなのだろう。


 千年前も含めれば、この男は歴戦も歴戦だ。

 身体が強張らないように、俺は『経典』の文字を目で追いながら、なんとか今回の戦いの条件を決めていく。


「もし、カナミが俺を止めることができなかったら、そのときは魔石を全て貰うぜ。『最深部』にも、この俺が行く。止められなかった『血陸』は、世界を血で浸し、沈め、何もかもが、俺のものとなるだろう。俺は『世界の主』の……代行者・・・になる」


 本当に『最悪』の場合は、そうなるだろう。


 勝利できるとは思わないが、建前として自らの勝利条件を定めた。

 それをカナミは軽く受け入れて、頷く。


「構わないよ。……それが本当に、君に残った『夢』ならね」

「俺たちの『夢』だ。……悪いが、まだ俺の主はラグネ・カイクヲラだぜ? だから、主の『夢』の続きを、俺は追う。たとえ、一人になってもな」


 騎士として、主の『夢』を叶える。

 これも、ある種の建前だ。


 上手く仕掛ける・・・・ための言い訳だが、いま、俺の主がラグネなのは本当だ。

 憧れのカナミが目の前にいても――いや、いるからこそ、心のどこかで、ずっと彼女の後姿が引っかかっている。


 ラグネ・カイクヲラは美しかった……。

 そして、彼女の見る『夢』は、とても俺と似ていた。


 俺と同じく、ただの人でありながら、『理を盗むもの』の力を得て、とても先へ行ってしまった少女。

 いま俺がカナミに不安を抱いているのは、彼女の影響が大きい。


「んー。流石に、『血陸』で埋め尽くすのは受け入れられないかな。陽滝の《冬の異世界ウィントリ・ディメンション》のとき以上に、反対者は多いと思う」

「だろうな。……まあ、そう思うなら、全力で止めればいいさ。俺にカナミを『大いなる救世主マグナ・メサイア』と認めさせれば、それで全部終わりだ。その力が、本当に神と遜色ないかを見せるだけでいい。いつだって、俺が頭を垂れるのは、神に対してのみだ――」


 そう強気に突っぱねて、戦意を漲らせる。


 反応して俺の足元から、どろどろと血が浸み出した。

 床の僅かな亀裂から湧き出した血は、細長い蛭のように動く。

 俺のゴースト混じりの透明な足を伝って、胴体まで纏わり付いていた。さらに胴体から腕に、腕から透明な手を通って、『経典』を包みこむ。


 圧縮に圧縮を重ねた血で、俺の身体から『経典』が離れないように繋ぎ止めたのだ。

 血に困らない『御神体保管室』だからこそ出来る贅沢な使い方だ。この圧縮された血を刃で断つには、海一つを斬るだけの力が必要となるだろう。


 普通に考えれば無敵の鎧だが、気休め程度だ。

 目の前では、つい先ほど海を割ってやってきたと思われるカナミが、黒い外套を揺らめかせながら俺を見つめている。


 その力を、間近で見せて貰う。

 そして、確かめる――という俺の意気込みを読んだかのように、カナミは宣言する。


「〝これから君は、君の探していた神を見つける。そして、あの日の少年は『安心』する。やっと『幸せ』になれる。みんなの魂は救われる〟」


 『友人』のような気軽さだけでなく、『救世主』のような厳粛さがあった。


 口語ではなく、どこかの『経典』に書かれているかのような詩は、ずっと俺が望んでいた声そのもの。


 ゾッとして、ホッとする。

 このカナミの声に従えば、何もかも上手くいって、楽になれる気がする。

 カナミに手を伸ばせば、過去最高の安心感を得て、やっと俺の人生は報われる気がする。


 自ら『経典』を差し出しそうになる。

 カナミこそを『主』と認めそうになる。

 カナミは物語の主人公だから、必ず最後には全部上手くいく。

 託せば、ハッピーエンドは約束されていると、安心感に呑み込まれかけたとき――



ああ・・胡散臭い・・・・……)



 我が主。

 ラグネ・カイクヲラの声を思い出した。


「いいぜ、カナミッ!! いま、みんなの魂と言ったな! ならば、まずはこの『試練』を受けてみろ! ――鮮血魔法《旧暦四年魔ロストファニア・障研究院下層ラボトラリージェイル》!」


 まずは、小手調べ。

 この血の浸みた部屋から、例の『血の人形』を湧き出させる。


 その数は、狭い『御神体保管室』を簡単に満たした。

 かつての職員たちから始まり、研究の犠牲となった『魔人』たちに形を与えていき、その怨念を吐き出させようとする。


「――魔法《ディフォルト》」


 俺の小手調べに対して、カナミも小手調べで応えた。


 その基礎魔法は、攻撃魔法ですらない。

 距離をずらすだけの魔法だ。

 しかし、カナミが使えば、その魔法の意味は大きく変わる。


 三百六十度全方位から襲い掛かってくる『血の人形』たちが、変質させた刃の腕をカナミに振り下ろした。

 しかし、その鋭い切っ先がカナミを切り裂こうとする瞬間に、ずれる。

 カナミの髪先や皮膚まで、ぎりぎりのところで届かない。


 すぐに『血の人形』たちは、さらに一歩踏み込んで、今度こそ真っ二つにしてやろうとする。だが、また届かない。


 『血の人形』たちが近づけども近づけども、ある一定の距離から、ずっと止まっていた。

 次元のずれが、奇妙な光景を生む。

 カナミに向かって歩き続ける『血の人形』たちが懸命に刃を伸ばすが、見えない格子に阻まれているかのように前へ進めない。


 おそらく、《ディフォルト》によって、カナミと『血の人形』たちの間には、無限にも近い距離が発生している。

 そして、この魔法の恐ろしいところは、その次元のずれの完璧な制御。

 『血の人形』の手は永遠に届かないというのに、カナミのほうから伸ばされた手は――


 一方的にカナミの両手だけが、一体の『血の人形』の頭部と思われる場所を撫でた。

 両の頬をさすられた瞬間に、その動きをぴたりと止める。


 濃い魔力の奔流を感じて、《ディスタンスミュート》による『過去視』が行なわれているとわかったときには、その『血の人形』の形は崩れていた。そこにあった魂が抜けて、ただの血に還る。そして、すぐさまカナミは、次の相手に手を伸ばして、また形を崩していく。次々と手軽に、傍目にはあっさりと――けれど、実際には重苦しい救済が、淡々と行なわれていく。


「カナミ……」


 ないはずの心臓が、幻肢痛で熱くなる。

 神を題材にした絵画を見ている気分になった。


 間違いなく、カナミは意図的に、そういう気分にさせる戦い方を演じている。

 亡き妹と同じ戦法が、俺に『神の力』を見せるのに適していた。


 ただ、手を抜いているとも言えるだろう。

 なにせ、カナミは未だ得意の《ディメンション》を使っていない。こちらが使って欲しくないと思った魔法は、最後まで使わないつもりかもしれない。


 小手調べで敵の戦いの方針がわかったところで、カナミは戦いながら世間話を俺に投げかける。


「ここには、あの日の人たちが多いね……。僕が来たせいで、『魔人化』実験をされた人たちだ。建前は実験だったけど、ロミスの命令は処理。みんな、最後には切り刻まれた。指から少しずつ上に、甲、踵、脹脛、腿と、順番に……。麻酔どころか、最低限の道徳すらなかったから、痛かった……。とても痛かった……」


 戦いながら追憶して、追憶しながら喋るせいで、他人の感想が混ざっていた。

 『魔障研究院』の地下に落ちた人間にしか持ち得ない言葉と表情と共に、カナミは一歩前に出る。


 そのカナミの足元から、『血の人形』の影に隠れて《ディフォルト》を床下から潜り抜けた『血の魔獣』が、木が伸び育つように現れる。

 不気味な形状の化け物が、鼓膜を破るような咆哮と共に襲い掛かろうとする。


「――――――――――ッ!!」

「その部位を組み合わせて、生まれたのが『血の魔獣』……。僕も陽滝にされたから、少しわかる。魂を弄られるっていうのは、辛い。本当に辛い」


 しかし、待ち構えていたようにカナミの手が、その出てくる頭に触れた。

 結果は『血の人形』と全く変わらない。いかに外道な実験で、魂が複雑に結び付けられていようとも、カナミならば個別に『過去視』して、血に還せる。


 ただ、俺の本命は『血の人形』の影に隠れた『血の魔獣』でなく、さらにその影に隠れた『別の血』だ。


「……え?」


 カナミは驚きの声をあげて、膝を突いた。

 そして、その足に纏わりついたものを見る。

 真っ赤な床から、白い手が何本もえて、カナミの服の裾を引っ張っていた。


 ――それを、俺は便宜上、『血の怪異・・』と呼んでいる。


 ゴーストの『魔人』である俺だけにしか使えない呪術だ。

 実戦で使われたのは、これが歴史上で初だろう。


 普通ならば、その特殊過ぎる力に、誰も対抗策を見つけられずに死ぬしかない――はずだが、カナミの理解と対処は、とても早い。


「へえ。でも、どうやって、足に――? いや、触れられてはいない。けど、届かれた。リーパーと同じで、地方の口承こうしょう文学が『代償』になっている特殊な魔法?」


 いまカナミが口にしたとおり、この『血の怪異』は『地の理を盗むもの』ローウェンに取り憑いた魔法《グリム・リム・リーパー》と酷似している。


 もちろん、『始祖カナミ』が時間をかけて作った魔法生命体と比べると、その白い手の完成度は低い。けれども、死神と同じく、特殊なルールに則って動く『呪い』の一種であるのは間違いない。


 あの童話に出てくる死神は『振り向いた者に取り憑く』『見られている間は実体がない』という魔法さえも超えたルールで動いていた。この俺が再現した怪異は『血を踏んだ者の足を引っ張る』というルールを持っている。

 その特殊なルールは、魔法的な干渉も物理的な干渉も無視する。


「こっちからは、《ディスタンスミュート》でも触れられない。これも、条件を満たすと理に干渉するタイプ――」


 ゆえに、あのカナミでさえも、対処には遅れる。


 無敵の『理を盗むもの』となったカナミだが、未だに唯一苛まされている攻撃ものがある。


 ――『呪い』だ。


 カナミといえども『呪い』という世界のルールは避けられなかったと知っているからこそ、俺は用意した。


「――鮮血魔法《旧人類史》」


 部屋中央にある血のプールまで後退して、そこから特別な血を汲み上げていく。

 手の『経典』に纏わせることで、一時的にだが『碑白教の経典』から、別の本に変わった。そして、その本に記された数々の『血の怪異』たちを、この『御神体保管室』に俺は呼び起こしていく。


 例えば、それは千年前に大陸で流行った『黒吊り男ブラック・ハングド』という名の伝承の怪異。『暗所で迷った者を逆さにする』という噂に従い、『御神体保管室』に迷い込んだカナミに襲い掛かる。独自ルールで《ディフォルト》の壁を越えて、いつの間にか黒い泥が、カナミの頬に付着した。


 他にも、地方に伝わる童話の悪魔だったり、冒険者達に伝わる怪談だったり、様々だ。

 それらに『術式』なんて、真っ当な道理はない。

 科学的な再現が不可能な噂たちは、ただ『人々にそうだと信じられている』から、『世界にも「そうだ」と許されている』。それを俺の『魔人』の能力が増幅させて、この部屋限定で発現させた。


 『理を盗むもの』たちの『呪い』と比べると、そこまで重いものではない。

 だが、カナミにとっては初見で、かつ苦手なタイプの攻撃だろう。


 カナミは平衡感覚を失い、足だけでなく手も地面に突いて、泥に塗れた頭部を地面に打ちつけかけた。


 その倒れたカナミに容赦なく、ありとあらゆる『血の怪異』たちが襲い掛かる。

 それは『血に濡れた者の色彩を奪う怪異』『名を知られた者の口を回らなくする怪異』『密閉された部屋から出られなくなる怪異』『陽に当たるまで思考が鈍る怪異』『地表から離れると魔力が乱れる怪異』など――


 膝を突いたカナミの身体に、どこからかいつからか現れた怪異たちが、青い霧となって両目を覆い、錆びた鎖となって舌に絡まり、透明な杭となって衣服を縫いつけ、薄いカーテンとなって頭部にかかり、輝く小蝿となって肌に纏わりつく。


 この『血の怪異』は、世界で最も希少と言っていい力だろう。


 ゴースト混じりの『魔人』が偶々学者で、民俗学も好きだったから発生した能力だ。

 人類が信じているのは、いものばかりではない。

 こういった悪いものだって、人々は恐れ、怯え、信じてしまっている。


「――呪術《旧暦百年百怪妖異談ロストレヴァンシズ・ハイスペクターズ》――」


 これは、人類史で俺だけの『呪術』。

 その効果を強めようと、予め用意していた名称を口にした。


 途端に、カナミに纏わり付く『血の怪異』たちの色が濃くなる。

 本来、人の心にだけ存在する怪異たちが、はっきりと名前を呼ばれたことで活き活きとし始めたのだ。


 憑かれに憑かれたカナミは、とうとう雁字搦めとなる。

 防御のために維持していた《ディフォルト》も、ついに解除された。


 だが、長くは続かないだろう。

 この『血の怪異』たちのほとんどが、『状態異常』の一種だからだ。

 簡単に言ってしまうと、これは目に見える『状態異常』で、スキル『最深部の誓約者ディ・カヴェナンター』が有効だ。


 しかし、虚は突いた。

 気づかれて、スキル『最深部の誓約者ディ・カヴェナンター』が発動しても、一瞬は隙ができる。

 そこに俺は《ディスタンスミュート》を叩き込む。


 二ヶ月の間に、魔法の準備は終えている。

 これだけは、『血陸』ならばいつでもどこでも使えるようにしてきた。


 ――この敗北ときの為に。


 俺の右腕に紫色の魔力が集まっていき、その次元がずれ始める。


 この手が届いたとき、俺は敗北する。

 カナミ相手に『繋がり』を作るのは、投了サレンダーに等しい行為だからだ。


 だが、それでも、俺は知りたい。

 知らなければならない。

 死した『魔人みんな』の代わりに知っていくことが、ずっと『ヘルヴィルシャイン』の役目だった。だから――


 俺は血のプールから駆け出して、静止したカナミに近付いていく。

 ゴースト特有の透明の腕に、《ディスタンスミュート》が展開されている。

 触れれば、あらゆる領域を突き抜けて、その物体の本質に接触ができる。


 あとは自信を持って、魔法名を世界に向かって全力で叫べば――


「――次元魔法《ディスタンス、ミュ――ッ!!」


 手を止める。


 『血の怪異』によって拘束されているはずのカナミの手が、動いていたからだ。

 いまカナミは、ろくに目は見えず、耳は聞こえず、口は動かず、魔力も使えない『状態異常』の中。

 しかし、確かに、俺に向かって手を伸ばそうとしていた。


 そのカナミの手に、俺の《ディスタンスミュート》に対する何かしらの対抗手段があったならば、俺は止まらなかっただろう。

 どんな防御魔法だろうと、一瞬の主導権のために、無理やり突き抜く覚悟をしていた。


 ただ、その手は余りに無防備だった。

 まるで、俺の《ディスタンスミュート》を素手で迎え入れようと、ゆったりと、隙だらけで、握手を・・・試みていた。


「――っ!!」


 俺は止まり、魔法構築を解いて、後退する。


 その動きを、カナミは感じ取っていたようだ。

 伸ばした手が俺に届かないと知って、少しだけ残念そうに微笑んでから、その向かう先を変えた。


 ――手を口の中に突っ込み、鎖の形をした『血の怪異』を掴む。


 『存在しない怪異だから触れられない』のは、たった数秒のルールだった。

 カナミは掴んだ手に一瞬だけ、《ディスタンスミュート》とは違う高次元の魔法を発動させて――とてもあっさりと、干渉できるはずのない『血の怪異』の次元とずらし合わせて・・・・・・・、引き摺り出した。


 途端に、鎖の形をした『血の怪異』は光の粒子となって、宙に消える。

 その後、なぜかカナミの手には見たことのない紙切れが一枚握られていた。


 迷宮のモンスターが消えて、地下に還り、魔石が残されるのに似ていた。

 その紙切れには、びっしりと文字が書き込まれていたが、それを遠目で読む前にカナミから話しかけられる。


「――確かめたい・・・・・、のはわかってる。二ヶ月前に似たような攻撃で、同じことをセルドラも聞いてきたからね」

「……セ、セルドラさんが、二ヶ月前に聞いた?」


 狙いは、読まれていた。

 カナミは自由となった舌を動かして、その理由を喋る。


「本当に、ファフナーはセルドラと似てきてる。……だから、セルドラに返した言葉と同じものを、君にも返すよ」


 こうなる覚悟はしていた。

 『糸』を警戒して地下に篭り、『未来視』対策に未知の力を用意して、『血陸』という複雑な魔力が渦巻く場所で生活しても――最終的に、予定通りとなるのはカナミ側。


 ただ、実際に体感すると、本当に理不尽だとも思わざるを得ない。


「――ア、《注視鑑定アナライズ》」


 得意ではないが、古い呪術の一つを使って、カナミを視る。



【ステータス】

 状態:不老不死1.00 狭窄1.00 混乱1.00 泥酔5.48 暗闇2.12 麻痺1.07 

    恐怖1.09 高揚1.02 睡眠1.00 幻覚1.01 魅了1.34 暴走1.01

    記憶阻害1.11 認識阻害1.01 魔力阻害1.78 移動阻害1.34 精神汚染2.00――



 効いている。

 『沈黙』以外は、全て通じている。

 まだスキル『最深部の誓約者ディ・カヴェナンター』は使っていない。


 それでも、カナミは何事もないかのように、普通に話す。

 連合国で日常生活を送っているときと変わらない態度で、笑う。



「――楽しいよ・・・・。いま、僕はとても楽しい」



 だから先んじて・・・・・・・、俺の聞きたい『答え』を教えられた。


 そして、その言葉通りに、カナミは楽しげに手を動かす。

 身体に纏わりつく白い手を、黒い泥を、青い霧を、錆びた鎖を、透明な杭を、薄いカーテンを、輝く小蝿を――全てを、一つずつ優しく触れて、光の粒子にした。


 ただ、他と違って、『血の怪異』たちは血に還らない。

 それぞれが、びっしりと文字の書き込まれた一枚の紙切れとなっていく。


 三十枚ほどの紙束がカナミの手に溜まったときには、もう完全に拘束から抜け出されていた。そして、いつの間にか、その逆の手に装丁された『本』を持っている。


 ――その『本』の題名には、『ラスティアラ』という六文字が交じっていた。


 カナミは一枚ずつ面白そうに紙切れを眺めてから、その『本』に挟み込む。


 そのとき、新作小説を『読書』しているかのような顔をしていた。同時に、心安らぐ自室で、暖かな紅茶を誰かと一緒に嗜んでいるかのようにも見えた。


 動揺が隠せない。

 ほんの数十秒で、理解させられてしまった。


「い、一章……、七節……」


 結局、カナミは『血の怪異』を強引に消すことはなかった。

 『血の人形』『血の魔獣』たちのときと同じで、拒否せずに受け入れ切った。

 そのあと、とても大事そうに次元をずらして、この大陸の文化の一頁として、本に保存した。


 その嬉しそうなカナミを見ると、こう思わざるを得ない。


 ――た、戦いになっていない……。


 俺が戦いと思っていたものは、戦いではなかった。

 いまカナミは、勝ちとか負けとか、そういう苦しくて煩わしいのとは程遠い表情をしている。


 千年前のあの日と同じように、俺と世界の文化について談笑しているだけ。

 いまの渾身の『血の怪異』だって、聞き上手のカナミが上手く話を合わせて、俺から薀蓄を引き出してくれただけ。

 小さい俺がはしゃぎながら歴史や神学の知識を披露するのを、大きいカナミが隣で嬉しそうに頷きながら聞いているだけ――


 ――そして、今回はラスティアラも一緒・・・・・・・・・だから・・・さらにとても楽しい・・・・・・・・・


「〝試練とは、希望と幸運の賜物……、明日に進んだという、あか、しを――」


 負けじと俺は、手の『経典』を捲る。

 いまのカナミに負けない態度で、毅然とした台詞を吐きたい。


 けど、上手く口が回らない。

 先の錆びた鎖の怪異以上に、向こうが『本物』の怪異過ぎた。


 頼りの『経典』も、もう限界が近い。だから――



「――カ、カナミさん……。俺の話は、本当に楽しいですか?」



 聞いてしまう。

 まだ俺は『本物』の『理を盗むもの』の気持ちがわからない。

 だから、もう一度。

 『第七魔障研究院』以来、千年の時を経て、それを聞いてしまう。


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