438.救世主
幻想的な光と共に、不治の病で苦しむ人たちを治していくカナミの姿は、ずっとイメージしていた『
間違いなく、あれは俺の『理想』だった。
だが、その『理想』によって、俺の人生は狂わされていく。
掛け違えたボタンのように、その日から全てが壊れ始める。
まず行なわれたのは、ロミス・ネイシャによるカナミの目撃者たちの処理。
俺は『魔人化』実験の犠牲となり――しかし、『幸運』にも、それを乗り越えてしまう。一人だけ、なぜか俺は生き残り、さらに三年後。ファニアの領主ヘルミナ・ネイシャの噂を聞いて、『里帰り』を選択してしまい――
ついに念願の『魔障研究院』最下層に辿りつく。
幼い頃にヘルミナさんから言われたとおり、少しだけ大人になってから、そこに俺は足を踏み入れた。
ただ、そのときの俺は『上級職員』でも『下層職員』でもなく、数ある『魔人』の犠牲者たちの中の一人となっていた。
――いつも悲鳴が反響していた。
そこでは、本当の『魔の毒』の病の患者たちが、犠牲となり続けていた。
一秒ごとに、自分の正気が削れていく。
幼い頃の俺はずっと、この地獄の上で、のうのうと生きていて、この声を無視し続けていたと思うと、吐き気と涙が止まらなかった。特に、俺が入れられた『御神体保管室』という名の牢は酷いものだった。
石造りの暗い部屋で、いつも真っ赤。
たまに清掃員さんが来てくれるけど、その掃除が追いつくことは一度もない。
――中央にある血のプールが、定期的に溢れるからだ。
常に水面が脈打っては、そこに沈んだ肉の塊から、無限に血が生成され続ける。
憧れのヘルミナさんは、無残な姿に成り果ててしまっていた。
ただ、まだ生きてはいた。
正確には、生かされて、その『血の力』を永遠に絞り続けられていた。
新たにファニアを守護する『血神』様として――
「――ぁあっ……、あぁあぁあぁ……」
鎖に繋がれた状態で、憧れの人の苦しむ姿を見せられ続けるのは、地獄と言う他ない。
俺は嘆き、声を漏らし続けた。
しかし、ヘルミナさんに届くことは、決してない。
いくら言葉を投げかけても――
「ヘルミナさん……、また……、お願いします……。どうか……」
(ワ、私ハ――■■■■血肉■液体■■■、血液を齧■数え■場ノ――)
話せない。
返ってくるのは、人ならざる奇怪な振動がほとんどだった。
言語らしきものが聞こえても、会話は不可能。
もう昔のように、ヘルミナさんから教えてもらうことができなかった。
この愚かな後輩を導いてくれる人が、この世にいなかった。
絶望した俺は、無駄だとわかっていても、泣き続けて、縋り続けて、話しかけ続ける。
「俺は……、一体どうすれば、よかったのでしょうか……? 俺たちは、どこで何を間違えたのでしょうか……? どうすれば、俺たちは救われていたのでしょうか……――」
どうにか、ヘルミナさんの声が聞きたかった。
かつてのように、これから先どうすればいいのかを彼女から教えてもらいたかった。
(キ、君ハ■■――■■私ノ■液■■、齧■数■■■愉■■■――)
しかし、聞けない。
かつての清掃員さんのように、ヘルミナさんは『魔の毒』に侵食されて、完全に狂っている。
そうとしか思えない『声』だった。
もう二度と、ヘルミナさんと話せない。
それを受け入れたとき、俺もヘルミナさんのように狂いたいと思った。
生きているのが辛かった。このままだと、苦しいだけだった。もう考えるのも頑張るのも、嫌で嫌で仕方ない。それならば、いまのヘルミナさんと同じようになれたほうが、ずっと楽――そう思うのに、時間はかからなかった。
「あぁ……。俺も、ヘルミナさんのように――」
俺はなれると信じた。
神様たちの仲間入りをするには、何もかもに絶望して全てを棄てればいいと『竜神』様から聞いていた。
だから、俺だって『炎神』『光神』『血神』様たちのようになれるのだと、とにかく信じ続けた。
もう強さなんて要らない。
ただただ弱さが欲しい。
この辛い現実に屈してしまうだけで、俺もヘルミナさんのところに行けるのなら、いくらでも屈してやる。
このまま、俺の心にも罅が入って、砕けて、狂えてしまったら――
またヘルミナさんと話せる。
何も知らなかった幼い頃のように、また。
あの楽しい時間が取り戻せる可能性が少しでもあるのならば、俺は何だって棄てる。
振りをしていくうちに、少しずつ『本物』に近づけるというのなら、いくらだって狂ってやる。
狂ってなくても、狂ってやる。狂って狂って狂って、狂ってやって。さっさと狂ってしまったほうが、もう絶対に、楽だから――
「――ヘルミナ様は救われたいなんて、決して思っていません」
途中、返答があった。
ヘルミナさんではない。
「当たり前です。だって、いまもヘルミナ様は、とても『幸せ』ですから」
「……は? え?」
いつからか俺は、ヘルミナさんと話せなくなった代わりに、あの狂った清掃員の少女と話せるようになっていた。
清掃業務を終えて、休憩をしていた彼女が、俺の情けない姿を見かねて、声をかけた。それが聞こえて、理解できてしまった。
いまになって、なぜ少女と話せるのかはわからなかった。
しかし、『御神体保管室』に閉じ込められて、会話相手に飢えていた俺は、深く考えずに食らいついてしまう。
「す、救われたいって思っていないだって……? そんなはずがないだろう!? これが『幸せ』!? 見ろ! その血の池の中を! もうっ、ただの肉塊だ! これが! こんな結末が! みんなを救うために、ずっと頑張ってきたヘルミナさんに対する仕打ちか!? いつだってヘルミナさんは、『魔の毒』の病に苦しむ人たちを救おうと頑張ってた! 少しずつでも、地道に頑張っていたんだ! なのに、このクソみたいな『世界』はぁああぁああ゛――!!」
もしかしたら、とうとう自分も狂えたのかという喜びのほうが強かったからかもしれない。
振りを続けていれば、ちゃんと『本物』になれる。
ヘルミナさんに少しだけ近づけた気がして、普通に俺は彼女と話していた。
「はい。だから、これが『試練』というやつなのではありませんか?」
「『試練』だって……?」
「少なくとも、ヘルミナ様はそう思っています。ずっと一緒だった私ならば、ヘルミナ様のことは何でもわかります。――昔、『試練』は希望と幸運だって、言っていませんでしたか? 『試練』を乗り越えていくことで、いつか『魔法』は神様だけのものじゃなくなる。……これは、その道の途中なのでしょう」
「こ、これがか? こんなものが、道の途中だと……?」
まるでヘルミナさんのように、清掃員の少女は俺を諭していく。
なぜか俺は、それを払い除けることができなかった。
「ええ。未だ、ヘルミナ様は『試練』を乗り越えようと頑張っている途中。なのに、ファフナー・ヘルヴィルシャインは諦めるのですか? ヘルミナ様の弟子であるあなたが、こんな道半ばで『試練』に屈するのですか?」
「それは……、別に、俺は弟子だったわけじゃ……」
「そんなわけないですよね? ――だって、あなたは『強い人』です」
「いや、俺は本当は……、本当は……――ッ!?」
強くなんかない。
そう否定する前に、つんざく悲鳴が言葉を遮った。
未だ、この『第七魔障研究院』で犠牲になり続けている『魔人』たちの悲鳴だった。
悲鳴が俺が諦めるのを制止したかのように聞こえた。
『魔人化』実験の最高傑作である俺に対して、「まだおまえには役目が残っている」「強きおまえが諦めたら、何の為に弱き私たちは死んだのだ」「俺たちの無念を頼んだ。どうか、頼んだ」と、言われているような気がする悲鳴。
気のせいだ。
しかし、俺は怯えて、周囲を見渡した。
当然、この『御神体保管室』には、俺と清掃員さん以外には誰もいない。
血以外には何もない。と思いきや――
「え――」
なぜか、この部屋には『碑白教の経典』が置いてあった。
かつての俺が好み、頼り、信じていた本。
俺の手は自然と動き、その本を拾った。
身体が、その本の力を、よく知っていた。
「ご、五章十一節……」
癖のように、それを詠んだ。
途端、心が少しだけ楽になった気がした。
そして、少しだけ楽になった分、まだ俺は頑張れるような気もしたのだ。
もちろん、それはまやかし。
医学的に言えば、宗教依存症といったところ。
「〝全ての魂を敬わなければ……、自らの魂も安息できない……〟」
非常に危険な域の依存だと、ヘルミナさんの助手をしていた俺にはわかっている。
早急に『碑白教の経典』を手離すべきだ。
一度のめり込めば、もう二度と手離せなくなる。
しかし、逆に言えば、それは――
「――五章十一節〝全ての魂を敬わなければ、自らの魂も安息できない〟――」
依存できるものがある限り、まだ俺は頑張れるということでもあった。
このとき、『碑白教』の真の力を俺は知る。
『御神体保管室』で『碑白教の経典』の頁をめくっていく。
ファニアの最下層で、必死に最古の神に祈って、続きを詠んでいく。
「――五章十二節〝全ての魂を敬うことで、あなたの魂は安息した〟――」
一種の『代償』となっていた。
その『碑白教の経典』は少しずつ、俺が生きていくために必要な身体の一部となっていく。
そして、その身体の一部から、もう聞こえないはずの声が聞こえてくる。
それは、犠牲になった『魔人』たちの「おまえなら行けるさ。だって、俺たちのヘルヴィルシャインなんだからな――」という背中を押してくれる声。
憧れのヘルミナさんの「道を切り拓けるのは、積み重ねた知識のみ。私の『血の力』を受け継げば、きっとここから出られるはずです――」という進むべき道を教えてくれる声。
『
声、声、声。
こうして、俺は『代償』を払い、歪んだ『
それは、たとえ百年だろうが千年だろうが、何代先の未来だろうとも、決して心を挫けさせない強い力だった。
「は、ははっ、くはっ!」
「ふ、ふふ――、わかりましたか? あなたは『強い人』だった」
二つ、笑い声が零れる。
遠くから響く『魔人』の悲鳴に負けじと、俺は笑い続ける。
「はは! ああ、わかってる! ああ、わかっていたともさ! このくらいの『試練』、いつものこと! まだヘルミナさんは生きてる! このヘルミナさんの声が聞こえる限り、まだ俺たちは頑張れる!」
「はい。……だって、私たちは、生きています。まだ死んでません」
「ああ、絶対に死ぬものか! 絶対に生きて、ここを出て、みんなを救ってやる! 上の研究員共は全員、ぶっ殺してやる! 俺たちが『不幸』で、あのクズ共が『幸せ』なんて、絶対におかしいんだ! 救われないなんて……、みんなが救われないなんて、そんなのあってはならないんだっ!!」
『試練』は絶望ではない。むしろ、ここからが頑張りどころだと、俺は涙を流しながら悲しみ、高らかに笑って喜んだ。
――そして、その新たな『
他の研究員たちは役に立たなかったから、この『御神体保管室』で俺は自力で研究した。
限界まで鎖を伸ばして、手を中央の血のプールに伸ばして、俺は独学で『血の力』を身につけていく。
どうやって? と聞かれれば、それはとても単純な答え。どこからか聞こえる『声』に従って、俺は『血の理を盗むもの』の代行者となる方法を見つけた。それだけのこと。
…………。
これが、『血の理を盗むもの』の代行者に俺がなった経緯。
そのあと、俺は狂ったように『試練』を乗り越え続けていく。
ヘルミナさんの代行者として、その有り難い教えを広めたりもした。
頑張っていれば、いつか『本物』になれると信じたからだ。
…………。
というのは建前だ。
きっと、それが一番
少しでも自分の心を楽にしようと、本能的に俺は『神学者』を選んで、『血の理を盗むもの』代行者になって、スキル『神託』――ではなく、状態異常『幻聴』の声に従い続けた。
それが、千年前の『血の理を盗むもの』代行者ファフナーの正体。
千年後の世界で、その過去を整理していき、それを痛感していく。
そして、その痛みと共に、少しずつ意識は冴え始める。
心だけでなく、身体も覚めていく。
千年前の『御神体保管室』から、現実へと。
代行者すらまともにこなせず、未だに間違い続けている千年後のファフナー・ヘルヴィルシャインまで――
◆◆◆◆◆
――戻り、俺は瞑想から覚める。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げて、肺に溜まった空気を吐き出す。
「はぁ……」
網膜に飛び込んでくる光景は、先ほどまで思い返していた記憶と同じ。
真っ赤な石作りの部屋で、中央には血のプールが溜まっている。
けれど、もうそこに肉塊は沈んでいない。誰もいない。
千年後でも、俺は『御神体保管室』に居て、その汚い壁に背中を預けていた。
鮮血魔法と迷宮構築のシステムを利用して、千年前のファニアを『
ただ、そこにいる顔ぶれは、かつてと少し違う。
「だ、大丈夫かい? 顔色が悪いというか、ちょっと顔が透けてきてるけど」
すぐ目の前で、グレン・ウォーカーが俺を案じていた。
そして、その彼の胸の中には、あの『ヘルミナの心臓』が収まっている。
千年前に、あれだけ苦労して手にしたものを、俺は他人に譲っていた。
目覚めた俺は、よく周囲を観察する。
向かい合っている俺とグレンは上半身が裸で、その胸に大きな空洞がお揃いで開いている。ただ、俺は『空っぽ』で、グレンには『ヘルミナの心臓』。
俺の胸に収まっていた頃と比べて、その心臓の鼓動は余りに弱々しかった。
だが、それは計画通り。
その力を、限界まで弱めることに成功したようだ。グレンは『ヘルミナの心臓』を受け継ぎながらも、その身の魔力は薄いまま。これで彼の隠密行動に支障は出ない。
そして、薄くなっているのは、グレンだけでなく俺もだった。
魔力が静かで大人しいだけでなく、生身の手足が非常に薄い。
『理を盗むもの』の異常な存在感は消え失せて、完全に一人のゴーストの『魔人』に戻っていた。
これで準備は万全。
あと少しで『次元の理を盗むもの』カナミが、この『御神体保管室』までやってくる。
指先一つで海を割り、土を撫でただけで果樹を生らせ、神々しい神光を放ってあらゆる病を癒す存在が、かつて「救って欲しい」と俺が願ってしまったから……だから、救いにやってくる。
ゆえに俺は、先んじて『理を盗むもの』を捨てた。
俺は『理を盗むもの』が、『弱い人』の代名詞であると知っている。
心に罅を入れて、世界から借金をして、不相応の力を得ただけの子供たち。
カナミと対面したとき、『理を盗むもの』であることは弱点になる。
だから、最後の準備として、その弱点の継承を行なった。
ただ、その儀式は思ったよりも重労働で、心身に負担があったようだ。
軽い瞑想をしていたつもりが、軽く意識が飛んでいた。
「ああ、大丈夫だ。また俺なりに『過去視』をしていただけだぜ、グレン。……というより、顔色が悪いのは、そっちだろ。すげえ青褪めてんぜ?」
「まあ……、そりゃあ、ちょっとは悪くなるよ。……これで、もう僕は終わりなんだからね」
グレンは顔を伏せてから、そう呟いた。
その視線の先に、生々しく脈動する心臓が落ちていた。
新鮮な心臓だ。千切れた静脈と動脈の先からは、まだ血液が噴出していて、部屋の床を赤く染め続けている。
――グレンは『血の理を盗むもの』の継承の際に、自身の手で心臓を抜いた。
普通ならば、即死だ。
いまグレンが生きているのは、ひとえに『魔人化』の力のおかげだろう。
彼の混じりは、ポイズンビー。なんの捻りもなく、ただ毒を持った
おかげで、その虫モンスターの身体的構造は、かなり特殊なものになっていた。
人のように心臓で血液を廻らせるのではなく、肺脈管という器官を使って全身の体液をコントロールする。
さらに、ヘルミナさんの対魔人用医療知識と俺の遺伝子改造手術によって、半分死んだ状態を再現して……まあ、要は『魔人化』の間は、別の変な心臓が使えるから大丈夫ということだ。
ただ、それは同時に、『魔人化』を解いて人に戻れば、グレンは死ぬということでもある。
人としての心臓を、そこに捨てているのだから当然だ。
人に戻れば、グレンは死ぬ。
彼に残された未来は、長時間の『魔人化』によって、モンスターと成り果てるか。
『魔人化』の解除によって、人として死ぬか。
この二つのみ。
「グレン、これで『血の理を盗むもの』の引継ぎは成功だな……。約束通り、その力でカナミたちを分断できたなら、おまえがセルドラさんの相手で、俺がカナミの相手でいいぜ。流石に、命懸けの頼みは断れねえ」
「ありがとう……。僕にも、これから僕が死ぬってことが、すごくわかるよ。さっきから、胸の『ヘルミナの心臓』から千年前の知識が伝わってくるんだ。……すごく不思議な気分だ。魔石持ちってのは、みんなこうなのかい? 僕なんか、『親和』も何もできていないはずなのに」
「魔石から、知識や技術が伝わってくるのはポピュラーな現象だ。ただ、ヘルミナさんの魔石は、中でも別格だからな。『血の力』は誰でも使えることに意味があるから、知識の継承が起き易いように、色々と改良されてるんだ」
「へえ、千年前の技術は本当にすごいな。偉大なる科学者ヘルミナ・ネイシャには、感謝しかないよ。あと、心から尊敬もする」
「尊敬、か。ヘルミナさんなら、こう言うだろうな。私一人の手柄じゃありません。『血の力』はネイシャ家の研究者たちが代々、実験を繰り返し、多くの犠牲を重ね、辿りついた叡智ですって、どこか嬉しそうにな」
「ヘルミナ・ネイシャは、そういう人だったんだね……。僕の一族も家業で似たようなことをしていたから、その誇りは少しだけ理解できるよ」
談笑を続ける。
そして、グレンの状態の
「……家業で? 初耳だな。どんな研究してたんだ?」
「僕の一族の持つスキル『調合』は、科学と切っても切れない関係なんだよ。昔、祖父が『
「魔法学ぅ? 初めて聞いたな。この時代は『魔法学時代』って言うのか」
「え? ……あ、あぁ。たぶん、いまのは僕だけの言葉じゃないね。ヘルミナ・ネイシャの知識が混ざって、なんとなく思いついて口にしたみたい。いや、本当に不思議な気分だ、これ……」
「そういうことか……。確かに、俺から聞いても、いまのはヘルミナさんっぽい言葉のチョイスだ。俺とかカナミだと、もっともっと大仰な名をつけちまう」
「あー、確かにカナミ君って、ルビとか好きだよね。『五段千カ年計画』も、もし知られてたら、アレンジ入ってたかも」
苦笑し合い、確信する。
本当に、
過度な記憶の継承は、どちらかというと副作用のはずだ。
尋常じゃない不快感があるはずなのに、不思議な気分の一言で済んでいる。
拒否反応もなければ、幻聴が増幅されているようにも見えない。
――本当に俺は合っていなかったんだなと、思い知らされる。
俺のときと違い、グレンは何度も自分の身体を確認しては、満足げに頷く。
最後に、左手で顎の部分に触れて、奥歯が鳴っていないのを確認した。
「それに、もう君を前にしても、身体が震えない。これは『ヘルミナの心臓』だけじゃなくて、死を覚悟したおかげかな?」
「だろうな。俺相手に、もうおまえは一切怯えてない。これでおまえの担当医を、やっと辞められるぜ」
そう答えると、グレンは申し訳なさそうに頭を掻いた。
この時代の『最強』グレン・ウォーカーは、ずっとモンスター恐怖症だった。
幼少の頃、『闇の理を盗むもの』ティーダというモンスターに迷宮で襲われ、当時の憧れの人たちを惨殺されたのが原因だ。
そのとき、同じく生き残った義妹のスノウも、大きな精神的外傷を受けたらしい。
しかし、グレンは『地の理を盗むもの』ローウェンと『光の理を盗むもの』ノスフィーと交流していくうちに、その症状を少しずつ緩和させていき――最終的に、『血の理を盗むもの』の俺と出会い、完治させた。
奇妙な縁だと思う。
聖女に仕える三騎士は、基本的に出会えば死ぬ災害だ。
その全員と出会って生き残ったグレンには、何か特別な力があるのかもしれない。
だが、その俺の高い評価とは正反対に、グレンは溜息をつき、自虐し始める。
「はあ……。ただ、ここまでしないと震えを止められない自分が、本当に嫌になるね。いつも僕は、震えては竦んで、迷っては出遅れてる。パリンクロンやハイン……、あのスノウさんでさえ、もう前に進んでるのにさ」
「臆病であることは、別に悪いことじゃないと思うぜ。死を恐れないなんて、ただの蛮勇だ」
「いや、臆病は悪いことだよ。……本当に、僕は悪いやつだったんだ。だから、ここで必ず僕は、セルドラ・クイーンフィリオンと相打つ。それだけが、僕に残された唯一の贖罪の方法だから」
しかし、俺の声は届かず、グレンは苦笑しながら覚悟を口にした。
この男も、俺たちと同じように、色々な
正直なところ、延命だけなら俺やカナミが本気になれば、可能だろう。
しかし、決してグレンは受け入れない。
セルドラさんと相打つことに、自分の人生の価値を見出したからだ。
俺たち風に言うと、それを自分の『未練』としたってところか。
これが最後の会話になるかもしれない。
そう思った俺は、グレンを真似て後頭部を掻きながら、本心を話していく。
「なんというか、ままならねえな。俺が応援したやつから、いつも酷いことになる」
グレンの露出した心臓を見つめて、自嘲する。
自分の掛け違えたボタンは、少しずつ直してきたつもりだ。
しかし、未だ他人に、見当違いの『試練』を課して回っている自分がいる。
「逆に、俺が気にも留めていなかったやつが、いつもすごいことになる」
先ほど、自分の幼い頃を思い返して、よくわかった。
『試練』は他人の手から与えられるものではない。
俺の『試練』なんてなくても、人は成長していく。
それも想像を超えて、どこまでも先へ。
――それを『千年前のティアラ・フーズヤーズ』と『現代のラスティアラ・フーズヤーズ』から、俺は学んだ。
あの虹色の魔力を纏った姿を見たとき、俺よりも頑張っているやつがいたことを、一瞬で理解した。
ラスティアラ・フーズヤーズは『魔石』と『血の力』と『宗教』と『
ティアラは科学も神学もこだわらず、あらゆる技術を活かしたのだろう。
だからこそ、ラスティアラ・フーズヤーズは奇跡的なバランスが取れていて、非常に美しかった。
《ライン》で繋ぎ、《レヴァン》でみんなの力を、一つに纏める。
彼女の虹色の光には、彼女の二つ名である『現人神』に相応しい説得力を感じた。
俺から理不尽な『試練』を課された『
濃い血の繋がりを確かに感じても、血生臭さは一切ない。
苦しい『試練』なんてなくとも、誰だって『
「ああ……、見る目がないんだ。子供の頃から、俺は」
痛感する。
俺はヘルミナさんのことすら見誤っていた。
だから、自分こそ『血の理を盗むもの』の後継者と謳っていながら、本当は聖人ティアラに『五段千カ年計画』が託されていたことに気づけなかった。
ヘルミナさんの「知識を繋いでいき、遠い世代で魔法となる」という『未練』を、ラスティアラという『現人神』が果たすまで気づけなかった。
つまり……、別に俺なんていなくても、ヘルミナさんは救われていたってことだ。
『異邦人』ヒタキによって大陸が凍りついたときも同じだ。
俺がいないところで、あの最後の戦いは恙無く行われて、あっさりとティアラは世界を救ってしまった。
「……ただ、見る目はなかったけど、見届けられたとは思ってる。カナミは生き返り、過去を清算して、全ての記憶を取り戻し、誰よりも成長した。『血の理を盗むもの』代行者ファフナーとしての『未練』は、言い訳しようがない形で達成されただろう」
そして、あの『現人神』ラスティアラは、いまカナミの中にいる。
例の最後の戦いを生き残ったことで、『理を盗むもの』たちの想いと力を全て継承したからだ。
そして、『碑白教の経典』の通りに、神の力を代行するような存在となった。あの『相川渦波の成長を最後まで見届けること』という俺の『未練』は、すでに果たされている。
はっきり言って、『血の理を盗むもの』の『第七十の試練』は
「だから、もう俺は『安心』していいはずなんだ……。だって、『魔人』たちは……いや、いまは『獣人』たちか。もう『獣人』のみんなは、あの『青い空』に辿りついたんだ。そして、これからはカナミという『
しかし、まだ俺は消えない。
人工の『理を盗むもの』である俺は、他のやつらと同じく『未練』を力の源としている。
その『術式』を研究して、施術も担当した俺が言うのだから、間違いない。
それでも、まだ俺は――
「俺もカナミに想いを托せば、全て終わる。俺も、人と人を繋ぐ一員になれて、今度こそ口だけじゃなくて、世界を救う手助けができて……。それで、いいはずなんだ……。なのに、どうして、まだ俺は――」
「『血の理を盗むもの』代行者の『未練』は終わっても、君自身の
その自問自答には、俺じゃなくてグレンが答えた。
傍から見れば、明らかだったのかもしれない。
グレンは代行者継承が終わっても、まだ俺は『理を盗むもの』の一人であると言う。
ずっと『本物』になりたかった俺からすると、嬉しい答えだ。
ただ、いま『本物』と認めるのは、カナミと対面したときの隙にしかならないから、少し複雑な気分でもある。
「本当に、俺は『理を盗むもの』か? いま俺が生きているのは、本当に『未練』が原因か……?」
「それを、これから確かめるんだろう? 本当に『安心』できるかどうかを。ここで」
「ああ、俺は確かめたいんだ……。カナミが本当に『
それが俺の役目だと思った。
だから、もう一度だけ、カナミを試す。
俺の見当違いの『試練』は、あのラスティアラの虹色の魔力があれば簡単に突破できるだろう。
そのときは、『安心』だ。
俺というやつは本当に馬鹿だったけど、俺とは関係ないところで世界はきっちり救われていて、永かった物語は「めでたし、めでたし」だったと『安心』できる。
…………。
ただ、もし乗り越えられなかったなら。
まだ俺は、見間違えていたのならば、そのときは――
俺がやることになる。
あのティアラが陽滝にやったことを、俺が。
グレンがセルドラと相打つ覚悟を決めたように、俺にも覚悟が必要になる。
その俺の思いつめた表情を見て、にこりとグレンは笑った。
そういえば、この覚悟が、パーティーの斥候役で勧誘役のグレン・ウォーカーの最初の目的だったか。
「僕たちのパーティーは、
それを最後に、グレンは視線を逸らして、背中を向けた。
ここで心配し合っているだけでは何も進まないとわかっているのだろう。
床に畳んで置いていた上着を着て、背中に戦意を漲らせながら、この『御神体管理室』から出て行こうとする。
「もう行くのか? 一応、まだ距離はあるぞ」
『ヘルミナの心臓』を失っても、まだ俺は『血の力』は使える。
その理由は単純で、俺は『ヘルミナの心臓』を手に入れたから『血の力』を使えるようになったわけではなく、千年前にこの部屋で『血の力』を極めたことで『ヘルミナの心臓』を手に入れたから――と順番が逆だったから、地上の『血陸』の様子は、魔法《ブラッド》の応用で把握できている。
カナミたちが『血陸』に侵入したとはいえ、まだ時間は大分残っている。
「早めに上で、『リヴィングレジェンド号』を動かすよ。『ヘルミナの心臓』の力も、少し試したいしね。『血の魔獣』は出せるだろうけど、どのくらい命令できるのかを調べたいんだ」
「そうか。なら、もうここまでか……。最後に、幸運を祈っておこう。どうか、現代を生きる最後の守護者グレン・ウォーカーに祈らせてくれ」
「ありがとう。でも、僕は最後じゃない。どこまでも、人の想いは繋がっていくんだって、僕たちのリーダーは言ってたよ――」
そう言い残して、グレンは部屋の扉をくぐって、階段を上っていった。
その勇ましい背中を見送って、俺は『御神体保管室』に一人となる。
もはや、保管する
「――十四章一節〝浄い終わりなど誰にもない。しかし、不浄の終わりも誰にもない〟――」
かつて、主ラグネに贈った祝辞を、いまの俺の唯一の持ち物である『碑白教の経典』を捲りながら、グレンにも贈った。
この『経典』は、千年前に『御神体管理室』で囚われている間に、ヘルミナさんから学んだ知識の一つ。
ただ、これは『血の力』関係ではなく、千年前のカナミが考案した『呪術』に当たる。
千年前のカナミは初めてファニアへ訪れる前に、すでに本に『代償』を詰め込むことを成功させていた。『詠唱』を
現代では、指輪や腕輪といった形で『魔法道具』といわれているものだ。
紙ではなく魔石に書き込まれていることが多いだけで、そう珍しい技術ではない。
ただ、俺の『経典』は『代償』の詰め込み過ぎで、すでに『魔法道具』の範疇を大きく越えているだろう。
千年前、研究して実験して、ルールを突き詰めすぎたせいで、この『碑白教の経典』は、もう俺の半身だ。
「――『碑白教』。一章一節〝此処に在るあなたとは、あなたのことだ〟――」
胸が空っぽとなった俺が、こうして生きていられるのは、この本が心臓の代わりになっているからかもしれない。
かつて、俺は俺の名を捨てた。
もう俺は二度と、
俺は『ファフナー・ヘルヴィルシャイン』という偽名を、信じて、詠み続けてきた。
宗教の神聖魔法《レヴァン》ほどではないが、その行為は大きな『代償』となり、俺は『世界』から魔力の贔屓を受けている。
その魔力を少し使って、俺は地上の『血陸』に意識を傾ける。
『火の理を盗むもの』アルティが火を感覚器官としていたように、俺も血を感覚器官の一つに変えることは可能……というより、むしろ、こういう小技は『血の力』が源流だ。
いま丁度、『血陸』の端にある壁の上から、カナミたち一行が飛び降りたところだった。
血の浅瀬に着水してからは、『吸血種』クウネルを先頭にして、ゆっくりと探索を始めている。
予定通り、カナミは話し合いを目的としていて、『血陸』に沁み込んだ次元魔法を妨害する『術式』を強引に破壊しようとしない。
こちらとしては、破壊されても問題はなかった。
その場合の対応策は、たくさん用意している。
それは例えば、この部屋の中央にある血のプール。
あれは、ただの血だまりではない。
俺の知識が溜まった『血の本』だ。
神学、文学、歴史学、民俗学、生物学を中心とした知識が、あそこに保管されている。
ゴーストの『魔人』の力を最大限活かすのに必要な媒体だ。
これ以上、もう用意できるものはないと言えるほどに、俺は準備し終えている。
そう確信しているから、あとは――
「――十二章二節〝限りある時を守りなさい。あなたの怠惰が万人を害していく〟――」
詠みながら、待つ。
心を落ち着けて、記憶を整理しつつ、さらに『代償』を払う。
万全を期して、魔力を外部に溜めこむ。
もう俺という『代償』を詰め込みすぎて、『
「――十二章三節〝しかし、時の限りは理ではない。万人の自由があなたを助けてくれる〟――」
「――十二章四節〝だからこそ、限りある時を守りなさい。あなたが万人の一人なのだから〟――」
「――十二章五節〝そして、時を味方につけなさい。それがあなたの心に安らぎをくれる〟――」
ただ、無心に。
かつての自分を思い出しては、淡々と。
――詠んで、時間を紛らわせるのが、ずっと俺は得意だった。
凄惨な拷問の中で正気を保つのには、こういった気晴らしが必須だった。
大事なのは、心が限界を向かえる前に、上手く苦しみから逃げること。
無闇に苦しい現実と戦おうとするから、簡単に心に罅が入ってしまう。
それを俺は生まれながら、よく理解していた。身体が勝手に、上手くやってくれた。だから、普通の人よりも、生きるのが得意だったのだろう。他人よりも恵まれていたから、狂った振りだって、いくらでもできた。
「――十二章十七節〝時に限りなどない。私を限るものなど、世界にはない〟――」
詠み続けていくうちに、時間感覚は跳んでいく。
跳んだのは一時間か、丸一日か。
それとも、一年か。
やろうと思えば、俺は何年だって、器用に過ぎ去らせる自信があった。
そして、何度も同じところを詠んで、何週目かわからなくなったとき――
「――十二章二節〝限りある時を守りなさい。あなたの怠惰が――、……っ!!」
揺れを、感じた。
どれだけ時間が過ぎたかはわからないが、すぐに俺は視線を天井に向けた。
地上で、血の海が荒れ狂っているのが伝わる。
おそらく、『リヴィングレジェンド号』がファニアの街の上空――ならぬ、
それは千年前、何度も向かい合った懐かしい女性の魔力。
予定通り、グレンの奇襲によって、使徒シスが魔石となったようだ。
すぐに俺は魔法《ブラッド》で血の海を遠隔操作する。血の海の流れをコントロールするのは、もはや水魔法に近い。けれど、もはや純正の『血の理を盗むもの』ではない俺にとって、それは苦手なことではなかった。
数十秒後、血の海に呑まれたシスの魔石を、この『御神体保管室』の天井まで誘導し切る。
ぽちゃりと。
水面に石が落ちたかのように、天井の表面が跳ねた。
魔石が天井を突き抜けて、部屋の中に入ってきたのだ。
使徒シスの綺麗な魔石をキャッチする。
すぐに手で魔石の表面を拭いて、目を凝らしながら、中身が無事かどうかを確かめた。
使徒シスには色々と思うところがあるけれど、消滅させたいほど恨んでいるわけではない。
千年前の経験を基に、魔石を診察して、彼女が無事なことを確認して、一息つく。
「ふう――」
安堵する。
そして、顔を上げる。
視線を手元から、前方に。
向けると、そこには――
「――
すでに、『次元の理を盗むもの』カナミがいた。
真っ黒な外套を纏って、まるで
その暗闇よりも暗い瞳で、じっと俺を見つめている。
「カ、カナミ
早い。
魔石が落ちてきたのと、ほぼ同時の到着だ。
なにより、この部屋への侵入に気づけなかったことに驚く。
あの魔力お化けのカナミが、異常なまでに存在感が薄い。
おそらくだが、『闇の理を盗むもの』ティーダの力を利用した外套で、限界まで魔力を抑えているのだろう。
ゴーストの『魔人』の俺以上に、目の前のカナミは
相変わらずの鏡っぷりだ。
その感覚は、あの日を俺に思い出させる。
初めて、カナミさんと出会ったときの記憶。
当時、神学者として『第一魔障研究院』に勤めていた俺は、国賓の案内を任される。
そのときの相手が、フーズヤーズからやってきた『異邦人』カナミだった。
とても話が合った。
ファニアの歴史や宗教を語るのが俺は好きで、それをカナミは聞くのが好きだった。
すぐに仲良くなった。
生まれて初めての同好の士かもしれないと、俺は喜んだ。
最高の友人になれるとも思った。
――いや、俺たちは最高の『友人』
俺はカナミと肩を並べられる一人。
地獄の中を生き残り、狂気に陥りながらも、千年後に復活した偉人の一人。
俺は『本物』のカナミの『友人』だ。
「カナミ! ははっ、久しぶりだな! 妙に懐かしい気分だ! いつ以来だ? ラグネのやつに殺された以来か!」
だから、気楽に呼びかけた。
それができるだけの器用さが、俺にはあった。
欲しいものを手に入れて、なりたいものになれるだけの才能がある。
だが、相手は――
「
俺以上の才能を混ぜて、煮詰めて、熟成させた『理を盗むもの』だ。
いま俺とカナミの肉体的外見は同世代で、身長もほぼ同じ。
対等な『友人』に相応しい姿だろう。
しかし、カナミは自分より小さな男の子を見るような優しい目で、俺を見ていた。兄のような父のような保護者めいた視線が、俺の全身を包み込んでいく。
かつて、『第一魔障研究院』を二人で無邪気に、背丈に差はあれども仲良く歩き、気楽に宗教や魔石の話をしていた記憶を掘り起こされる。
「
当然のように、心を読まれた。
読心ではなく、未来の俺の返答を読んでの返答かもしれない。
とにかく、心を先読みされての会話だった。
カナミは『御神体保管室』を見回し、舞台の上で謳う演者のように、その両手を胸に置いて喋る。
「遅れて、ごめん。でも、ちゃんと救いに来たよ。この『魔障研究院』で苦しむみんなを救いに、僕は来たよ……」
そう言って、浮かべた。
微笑みを、カナミさんが――
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