246.迷子
――魔法が『過去』の世界を映す。
映る場所は、つい先ほどまで立っていたところと同じで大穴の目の前。
鳥が天から見下ろすかのように、その場所を僕は俯瞰できている。過去視と空間把握の魔法は正常に働いているようだ。それを確認したあと、冷静に『過去』を見聞していく。
まだ大穴の周囲は焼け溶けておらず、物々しい装いの人々たちが陽気に歩いている。大穴の内周の側面には、螺旋階段のような人工の足場ができており、そこを通って底にある迷宮の出入り口に向かっているようだ。
この一年で探索者たちは何度も、この迷宮に挑戦したのだろう。
一歩踏み外せば大穴に真っ逆さまという常人ならば恐ろしい階段だったが、探索者は慣れた様子で歩く。大した緊張もなく、今日の探索の計画を仲間たちと練りながら、狭い足場を通って降りていくのは少し面白い光景だ。
しかし、そんな探索者たちの日常は、いま終わりを告げる。
その瞬間を僕は見る。
まず大穴の底から悲鳴があがった。
当然、大穴の上を歩いていた探索者たちは、怪訝そうに目を凝らして下を見る。
階下では、迷宮の出入り口となっている横穴から、屈強な探索者たちが次々と走り出てきていた。まるで『化け物』に出会ったかのように、誰もが怯え、逃げ惑っている。
モンスターを相手に生計を立てている者たちが、恥も外聞もなく背中を見せて全力で階段を上っているのだ。
見下ろす誰もが異常事態であると理解した。
そして、すぐにその異常の原因が迷宮の出入り口から、どろりと溢れてくる。
傷口から血が溢れるかのように、赤い泥が横穴から湧く。
見下ろしていた人々が、その正体不明の物体を見て困惑する。
続いて、迷宮の入り口から燃え盛る炎が噴出する。
そこで人々は、あの赤い泥が溶岩であることを察する。その光景から、まず想起するのは、火山の噴火。
人づてにしか聞いたことのない者でも、それがどういう現象であることくらいは知っていたのだろう。その災厄が、どれだけの死者と破壊を生み出すのか知っていたのだろう。
噴火の恐ろしさを知る者から順に大きな悲鳴をあげていく。
悲鳴の声が大穴の底だけでなく、大穴の周囲にも満たされた。その恐怖は地上の街にも伝播していく。迷宮に挑戦しようとしていた探索者たちが、巻き込まれまいと踵を返して走り出す。それを見た町民たちは慌てふためき、兵士たちが何事かと状況把握に努めだす。
ほどなくして、『第二迷宮都市ダリル』は混乱の渦に呑み込まれた。
そして、その渦の中心。
探索者たちが一人もいなくなったことで、嵐の目のような静けさとなった大穴の底――迷宮の出入り口から、黒髪黒服の少女が現れる。
その少女が逃げ出した探索者の見た『化け物』であることは一目瞭然だった。
まず、その身から漏れる魔力が比べようもなく巨大で、暗黒を背負っているかのように禍々しい。さらに、赤黒い炎が黒い衣服の隙間から常に噴出している。
手に持つ得物も異常だ。真っ黒な大鎌が影のように揺らめき、尋常でない方法で鍛えられた武器であることが容易に見て取れてしまう。
その両目には何らかの術式が書き込まれたであろう包帯が何重にも巻かれていて、首筋には赤字の紋様が浮かんでいた。その意味深な術式と紋様は、よからぬ何かを封印させているのではないかと推測させるには十分なものだった。さらに、その封印があってなお、その少女の身体からおどろおどろしい魔力が迸って止まらないのだから、並の探索者では悲鳴の一つや二つはあげてしまうことだろう。
間違いなく、この黒い少女こそ溶岩を生んだ犯人だ。
探索者たちだけでなく、俯瞰している僕も確信した。
そして、その少女は溶岩の上を歩き、ふと上空を見上げる。
正確には、逃げ遅れている探索者たちの最後尾を見た。
その小さな唇から魔法が紡がれる。
「――《ミドガルズ・ブレイズ》」
少女の身体から迸る炎が集まっていき、巨大な炎の竜に転身した。
すぐさま、その竜は飛翔し、大穴の内周の至る所を燃やしていく。いや、その壮絶な熱で、あらゆるものを溶かしていく。
幸い、全ての探索者が大穴の外まで逃げ出したところで、炎の竜は螺旋階段を溶かし終える。ぎりぎりのところで、人が焼け溶けるという大惨事には至っていない。
その様子を空から冷静に見ていた僕は、少女がわざと探索者たちを逃がしたとわかった。
おそらく、少女の目的は探索者たちをここから遠ざけることだったのだろう。彼女なりの優しさで、炎の竜で脅すように追い立てたのだ。
しかし、優しさとはいえ、それでも目を覆いたくなる惨状ではある。
岩肌が溶けて、溶岩が川のようになって流れている。熱気で空気が歪み、濃すぎる魔力が大穴の底を地獄の釜の底に変えている。もう二度と、人が通れないと一目でわかる。
その惨状を確認した少女は、炎の竜を掻き消し、大穴の底で溶岩を魔法で動かし始める。
溶岩が冷え固まり、迷宮の入り口と思われる横穴に綺麗な道が生まれた。
そして、一仕事終えたといった様子で少女は自らの額の汗をぬぐい、身体から炎でなく闇を溢れさせる。その闇は先の竜と同じように集まり、形を得る。
闇は幼い少女の姿となり、炎を操る少女と同じように額の汗をぬぐう振りをして、とても陽気な声を出す。
「ふいー、これでよしっ。今回の迷宮探索でアタシの魔法も色々と使い方が増えたね。けど、ちょっと疲れるなー、これー」
それに炎の少女が答える。
「私は平気ですけどね。これで誰もいません。さあ、そろそろ、シアたちも呼びましょうか。二人が燃えないように温度調節しますね。――《ヒート》《フレイム》」
もう間違いないだろう。
この惨状を引き起こした犯人――それは僕の仲間たち、マリアとリーパーだ。
マリアの服装や魔力が少し変わっていたため、少し確信するのが遅れてしまった。もしかしたら、確定するぎりぎりまで、僕の仲間が人様の敷地を溶かすような子ではないと信じていたかったからかもしれない。
その確信を僕が得た後、迷宮の出入り口からさらに二つの人影が出てくる。
こちらも僕の知っている二人だった。
茶髪の気弱そうな青年と小柄だけど快活な少女――グレン・ウォーカーとシア・レガシィだ。スノウの兄にパリンクロンの姪という奇妙な組み合わせに僕は驚く。
その二人は迷宮から出てくると同時に、周囲の凄惨な状況に大口を開けた。
「う、うわぁ……。これはひどい……」
「え、え? なんで、こんなことに!? 入ったとき、もっと普通でしたよね!?」
比較的、常識人である二人は、マリアたちの起こした惨状が信じられないようだった。
だが、そんなことはどうでもいいといった様子でマリアは答える。
「少し迷宮の出入り口を塞いだだけです。それよりも、もっとシアは『親和』に集中してください。さっき程度の情報だけでは心もとないですから」
そして、シアちゃんの胸にぶらさがっているペンダントを指差す。
「もう限界です! さっきのあれでギリギリです! もう情報なんて出てきませんよー!」
「まだです。もっともっと『親和』に挑戦してみてください。別に私のようになれとは言ってません。少しだけでいいんです」
シアちゃんの身に着けているペンダントに使われている魔石が『ティーダの魔石』であることに気づく。
次に『親和』という単語から、『火の理を盗むもの』アルティと『闇の理を盗むもの』パリンクロンの二人の最期を思い出す。あの二人も『親和』という単語を使っていた。
どういった経緯でそうなったのかはわからないが、パリンクロン・レガシィの姪であるシア・レガシィが『ティーダの魔石』と『親和』しようとしているらしい。
「はあ、仕方ありませんね……。血縁だけでは不十分だとわかっただけで、今回はよしとしましょう。それよりも、急いで南に行きますか。……早くフーズヤーズ本国にある
「や、焼く!?」
その物騒な発言にシアちゃんは身構えながら一歩後ずさり、すぐさま反論する。
「使徒様が反応っていうか、驚くよ! いや、驚くっていうか、中にいる使徒様が死んじゃうよ!」
「脅して出てきたところを捕まえて、話を聞きましょう。もし、出てこなければ……まあ、ここと同じことになるだけです」
「ここと同じって! 本土の中心で――それもっ、大聖都の中心の世界樹で! 同じことやるの!?」
シアちゃんは周囲の惨状を確認しつつ、顔を引き攣らせる。
「今回のように、ちゃんと怪我人が出ないように気をつけますから大丈夫です。それに、もしそこに使徒ディプラクラとやらがいるのであれば、そうなる前に出てきますよ。こっちは急いでるので、手段は選びません。さあ、お喋りする時間ももったいないので、すぐに出発しましょう」
「え、えぇえー……」
目の前の少女が本気で言っていることを表情から悟り、シアちゃんは言葉を失った。
マリアは反論がなくなったのを見て、最後の一人に声をかける。
「それで、グレンさんはどうしますか?」
グレンさんもシアちゃんと同様に困惑していたが、彼女より持ち直すのは少しだけ早かったようだ。すぐに真剣な表情になって、頭に手を当てながら答える。
「ああ、僕も使徒様は気になるからね……。それに最近、声が聞こえるんだ。頭に響く声が、ずっと止まらない……」
「またわけがわからないことを。それで、行くんですか? 行かないんですか?」
ただ、その迫真の台詞をマリアは、とてもどうでもよさそうに切り捨てた。グレンさんは情けない声を出して、それを嘆く。
「うぅ、ひどいなぁ……。もっと僕にも興味持ってよ。本当にマリアちゃんって、カナミ君以外のことは興味ないんだから……」
「そ、れ、で、どっちなんです?」
「そ、そう怒らないでよ……。もちろん、行くよ。僕も行く」
「はい、満場一致ですね」
マリアは溶岩の操作によって大穴の側面に自分たち用の階段を作り、誰よりも先に歩き出す。ただ、それをシアちゃんは止めようと叫ぶ。
「満場一致じゃないです! 私の意見は!?」
「数に含みません。あなた、厳密には捕虜ですので」
止まるはずがなかった。
全く意に介さないパーティーのリーダーを見て、シアちゃんは悲しげにもう一人の少女を頼ることにする。
「リ、リーパーちゃーん……。マリアちゃんがー、大聖都を燃やすって言ってますー……」
「心配しないでいいよっ。この世界でマリアちゃんより強いのは、もう北の『
「いや、捕まる捕まらないじゃなくて、もっと倫理的な話で……」
しかし、その常識的な倫理観が死神であるリーパーと合うはずもなく、シアちゃんの望みは絶たれる。
ただ、これから待つ事態に震えるシアちゃんを思ってか、先頭を進むマリアからフォローが入る。照れ屋のマリアはシアちゃんを捕虜と言ったものの、心の底では気にかけていることが、そのことからわかる。
「もちろん、穏便に済むなら、燃やさずに済ませますよ。いまのは最悪の話をしているだけです」
「そ、そうですよね。いきなり燃やすなんてしませんよね?」
「ただ、私は生まれてこの方、ずっと最悪な結末に好かれているようなので……。そうなる覚悟だけはしておいてください、シア」
「うぅ、嫌な予感がします……。すごい嫌な予感が……」
シアちゃんは肩を撫で下ろして、みんなの後ろをとぼとぼとついていく。
そして、最後に先頭のマリアから出発宣言が全員にくだされる。
「それでは南へ向かいましょう。目指すはフーズヤーズ本国にある世界樹。そこに行けば、千年前の賢者といわれる使徒ディプラクラと会えるでしょう。『
こうして、『魔女』『死神』『元最強』『パリンクロンの姪』という奇妙な構成のマリア
どうやら、この地に残った記憶はここまでのようだ。
少しずつ《
◆◆◆◆◆
――魔法の効果が終わり、元の場所に意識が返ってくる。
よかった。
仲間たちの元気な姿を見て、まず僕は一安心する。
マリアが色々とやりすぎている気はするものの、怪我人が出ないように気を使っているのでよしとしよう。僕のときなんて生死を問わずに焼こうとしてきたのだから、とても成長していると思う。
なぜか、グレンさんとシア・レガシィが同行しているのも許容範囲内だろう。むしろ、マリアにちゃんとした常識的な友人ができているのは予期せぬ幸運と言える。
ただ一つ、困ったことがあるとすれば、それは彼女たちが南に向かったということだろう。
僕は大きく一息ついたあと、魔法の終了をみんなに知らせる。
「――ふう。スノウ、やっぱり原因はマリアみたいだ。この跡地に残った魔力を《ディメンション》で読み取ったんだけど、間違いないよ」
「やっぱり。……というか、そんなことまでできるようになったんだね。流石、カナミ」
僕とスノウは惨状の理由に納得していたものの、他の二人は違った。代表してティティーが話を聞いてくる。
「むむ? まずマリアって誰じゃい?」
「ちょっと前、僕と一緒に迷宮探索をしていた女の子だよ。火炎魔法が得意で、
「ほう。これをか? なかなかのものじゃぞ」
「あのアルティの魔石を持ってるからね。たぶん、火炎魔法においてだけは誰にも負けないんじゃないかな?」
「アルティ……? 誰じゃ、それは」
「え? ああ、意外にアルティって知名度ないんだな。『火の理を盗むもの』のことだよ」
「なるほど。『火の理を盗むもの』がいるのは知っておったが、名前はアルティといったのか……」
どうやら、ティティーとアルティの間に交流はなかったようだ。
「あとリーパーとグレンさん。それにシアちゃんがいた」
「リーパー? ああ、あの魔法《グリム・リム・リーパー》ならば知っているぞ。確か、かなみんがアレイスのやつに投げつけた魔法じゃったな。あれが、いまマリアちゃんとやらにとりついておるのじゃな。ふーむ、面白いことになっておるのう」
アルティは知らずともリーパーのことは知っているようなので、千年前の縁は奇妙なものだ。
「え、グレン兄さんが……? 聞いてない……」
スノウのほうはリーパーよりもグレンさんのほうが気になったようだ。確か、『エピックシーカー』では戦争に参加していると言っていたが、途中で抜け出してしまったのだろうか。
「ああ、マリアと一緒にパーティーを組んでたよ。流石に顔は見間違えないと思う」
「兄さんならマリアちゃんの手助けをしているのは別におかしくはないけど……」
「そのパーティーはここを焼いたあと、『
僕を見つける手立ても探していたので、できれば早く無事であることを伝えてやりたい。
「別に童は構わぬぞ。先に南へ向かっても」
ティティーのほうは遅れても構わないと言ってくれる。
千年生きた彼女としては、ちょっとした寄り道程度に思えてしまうのだろう。はっきりと共に帰る人と帰る場所がわかっているので、そこまで焦ってはいない。
マリアとリーパーが仲間に加わってくれれば心強いのは確かだ。この一年で更なる力を身につけていることは見て取れた。ただ、余り関係のないシアちゃんやグレンさんまで巻き込むのは気が引ける。事情を知れば率先して協力してくれそうな優しい二人だからこそ、会いに行くことに躊躇ってしまう。
僕は合流することのメリットとデメリットを比べ、迷い――
――迷いの途中、予想外なところから反対の声があがる。
それは近くにあった――最近植林されたであろう白い花を咲かせる『木』。
木から声があがる。
(――
木が震え、音声を発した。
◆◆◆◆◆
「――な!?」
僕は驚きと共に、その木に向かって剣を抜く。ティティーも僕と同様に警戒態勢に入り、スノウはクウネルちゃんを抱きかかえて大きく距離を取った。
その僕たちの動揺に構うことなく、木は震え、喋り続ける。
(ようやく、網にかかりました。しかし、その特異過ぎる魔力だけは、間違えようがありません。お久しぶりです)
以前に見たことのある光景だと思った。いま僕の後ろにいるスノウが、これと似た魔法を使っていた。あのときスノウは魔石から声を発させていたが、こちらの媒体は『木』だ。
その低い声と『木』という情報から、声の持ち主に当たりをつける。
「も、もしかして、アイドなのか……?」
(ええ、自分です。――『木の理を盗むもの』アイドです。そう驚かないでください。これは過去に、渦波様とセルドラ様と協力して作った連絡魔法ですよ? 確か……『通話機』です。『通話機』の魔法です)
問いに答えが返り、アイドであるとわかる。そのついでに、この魔法の開発に自分が関わっていることも知る。
セルドラという名前が出てきたことから、僕がヴィアイシアで近衛騎士の団長をやっていたときかもしれない。正直、全く覚えがない。
(……ふむ。その様子からすると、失った記憶の欠片を一つ取り戻したようですね。ならば、本当の意味で久しぶりとなるのでしょうか、渦波様。そして――)
アイドは僕の反応から記憶の状態を察した。この木を経由した振動魔法は、音だけでなく映像も拾っているのかもしれない。
その後、すぐにアイドは本来の目的である人物に声をかける。
(我が『
アイドの姉であり王であるティティーに向けて、とても丁寧に挨拶する。
「アイド、久しぶりじゃな……」
ティティーは一歩前に出て、僕を手で制した。
この声の主がアイドであるとわかった以上、先に話をさせて欲しいようだ。僕は家族の間に割り込む気はなかったので、頷いて了承する。
「アイドよ、会いに来たぞ。つい数日前、かなみんに迷宮で召喚されたのじゃ」
(……お待ちしていました、『
アイドは挨拶が終わると同時に、『
「夢、か……」
そのアイドの要求――『期待』は彼女にとって重荷だ。
顔を俯けて、その言葉の一部を繰り返す。ただ、すぐに顔を上げて、ティティーは迷いのない言葉を返す。
「違うのじゃ、アイド。どれだけ似せて作ろうと、おぬしが北に用意したという国は、童たちのヴィアイシアではない。どんな代役を立てようと、もう『
ヴィアイシアの民に見送られたことで至った答えを、自らの弟に真っ直ぐ伝える。
(……『
当然だが、その答えをアイドは易々と呑みこむことは出来ない。
ティティーは、先ほどのアイド以上に丁寧に説明していく。
「童たちの育ったヴィアイシアは滅びた。そして、千年前の『
その言葉を聞いて、ようやくアイドは自らの願いが否定されていると気づいたようだ。慌てた様子で自分の用意したものの正当性を説く。
(……そ、そんなことはありません! やり直しのきかない人生なんてありません! 確かに全く同じものとまでは言えませんが、いつかとほぼ同じ国を再現する自信が自分にはあります! 大丈夫です! 何より、いまっ、『
その言葉から、アイドが過去の再現にこだわっているとわかる。
それは迷宮で自らの姉がやっていたことと同じだ。だからこそ、ティティーは強く否定し続ける。
「違うぞ、アイド。たとえ、いまから童が北の民を救ったとしても、それはかつての民とは別の民じゃ! もう虐げられた『魔人』などどこにもおらぬ! ここに来るまで、多くの国を回った! 街を見てきた! その全ての国で『獣人』たちが笑っておったぞ! 人間たちと肩を並べておったぞ! もう間違いなくっ、かつてと同じなどとは口が裂けても言えぬ!」
連合国と『コルク』で現代の街並みを見てきたティティーは、もはや世界が別物であると主張する。
その反論によって、アイドはたじろぐ。音声だけでもそれがわかった。
(…………っ! それは自分も感じていたことです。いま、この世界からは『魔人』という言葉が失われています。おそらくは生き残った聖人ティアラ様の施政によって、自分たちの死後に浸透したのでしょう。ええ、自分たちではなく、聖人ティアラ様の手によって……!!)
その言い分を認めた。
ただ、アイドは生前の悲願が叶ったことに喜びの声をあげるのではなく、苦渋に満ちた声を出した。
(ゆえに自分は、北に生きる人々を『魔人返り』させる計画を練っています。いつかと同じように、ヴィアイシアを『魔人』の生きる国にしてみせます。だから、何の問題もありません……! 問題なく、まだ続けられるのです! 『
苦渋を声に滲ませたまま、必死な様子でアイドは主張する。
まだ戦争は続けられると主張する。
「ま、『魔人返り』じゃと……?」
ティティーは愕然としながら、その主張の中で最も不吉さを含んでいた言葉を繰り返した。
僕も初めて聞く単語だ。ただ、その語感から、あまり良い予感はしない。
(『魔人返り』とは――『獣人』として安定してしまった同胞たちの血を再活性化させることです。……ええ。消えてしまったのならば、もう一度新しい『魔人』という共通認識を作ればいいだけのことです。身体を『魔の毒』に冒され、その異常ゆえに周囲から排斥される存在を、新たに生めばいいのです!)
「……ま、待て、アイド。自分で言っていて、おかしいとは思わぬのか? おそらく、聖人ティアラが『魔人』を『獣人』としたのは、おぬしの願いを知っておったからじゃ。死したおぬしの代わりに、その悲願を叶えようと努力してくれたのじゃ。世界に『魔人』という言葉が存在せぬのは、おぬしの願いが叶った結果じゃぞ? なのに、そのおぬしがまた『魔人』を生むじゃと……?」
アイドのやろうとしていることは、助けるべき差別人種がいないなら新たに差別人種を作ろうと言う話だ。
その説明からアイドの異常と矛盾を知り、ティティーは確認するように問いかける。
しかし、それに返ってきたのは心底からの不思議そうな声。
(……『獣人』が自分の願い? いいえ、『
そして、世界平和を謳う。
「アイド……。そんなことはできぬ……。できぬのじゃ……」
かつての自分を見ているようで苦しいのだろう。
もういなくなってしまった者たちのための楽園を作ろうとするアイドに、ティティーは首を振り続ける。
(ええ、『
「せ、千年じゃと……? 軽く言うでない! おぬしはわかっておらぬ! 千年生きることがどういうことか!!」
千年という時間はティティーにとってはトラウマだ。それだけは絶対に繰り返してはならないと怒声を吐くが、その姉の想いは弟に届かない。
(……確かに千年は言いすぎだったかもしれませんね。もっと短い期間で、北の全『魔人返り』は達成できるでしょう。『
自らの浅慮を恥じる臣のように、アイドは冷静に正確な数字を述べる。一国を担う『宰相』のように、王に進言し直す。
アイドは王の参入を過小評価したことだけを悔いていた。
それはティティーのトラウマをさらに深く突く。
(……嘘ではありませんよ、『
アイドが冷静になったのは束の間――その言葉のほとんどが狂気に満ちていた。
異常と矛盾だらけで、およそ一国の『宰相』が言っていい言葉ではない。
その弟の狂気を、姉は悲しそうに受け止めていく。
怒りを通りこして、呆れることすらできず、ただ悲しんでいた。
「それがおぬしの望みなのか……? 本当にそれが『未練』でよいのか?」
(
顔は見えずとも、アイドの口元が歪んでいるとわかる。
いまあいつは、ティティーが『
――その期待がティティーを苦しめる。
ちらりと僕はティティーを見る。
助け舟を出そうと一瞬だけ思ったが、その必要はなさそうだった。
ティティーは悲しみながらも、苦しみながらも、まだ顔を俯けてはいなかった。
「おぬしの望みはわかったぞ……。ならば、次は童の望みをおぬしに伝えよう……!」
(ええ、口にしてください。一言、『
ティティーは飾ることなく自らの『未練』を語る。
「童の望みは唯一つじゃ! 『
(……ロ、『
語りながら、ティティーは泣きかけていた。
目じりに涙を浮かべ、それを零さぬように耐えて言葉を紡ぐ。
その予期せぬ反応にアイドは混乱していた。
「単純な話じゃ! 聞けっ、我が弟よ!」
その混乱を――いや、千年前に狂った全てを正すために、ティティーは泣き出しそうになる自分を振り切って、叫び続ける。
「もう何もかもやめてっ、もう我らの
(姉として……? ち、違います。あなたは只の少女などではなく……、北を支配する伝説の『
「その『
迷宮で北の民たちに誓った全てを、最後の北の民に叩きつける。
ずっと張り続けていた強がりを投げ捨て、自分に王などは無理だったのだと正直に告白している。その千年分の苦しみの詰まった答えは、アイドから言葉を失わせた。
ティティーは惑う弟を優しく諭していく。
「『
ティティーは自分の想いを伝え終え、それを受け止めたアイドの声が震える。
(ご、『ごっこ遊び』……? あの平原……?)
一語一語を噛み締めるかのように繰り返した。
狂気に落ちたはずの
顔は見えないが、アイドの心が揺れているとわかった。
やはり、『木の理を盗むもの』アイドの未練を晴らすには、姉であるティティーが必要不可欠だった――それを確信させる声が、『
「ああ、そうじゃ……。姉弟に戻って、あの平原にあるお家に帰ろうぞ……」
(帰る……。姉弟に戻って……)
姉弟の声だけが木霊する。
いまここには自分を偽り続けた『
そう思える優しい会話だった。
「いまからでも遅くはないはずじゃ。二人で帰って、全てを終わりにするのじゃ。それで童たちの『未練』は晴れる。自らの生に満足して、逝くことができる。そう童は確信しておる」
本当にとても優しい会話だが――
――まだ僕は警戒を解いていない。
確かに、これで終わりならいい。
(す、全てを終わりに……?)
しかし、まだ何かが足りない気がする。
ああ、予感がするのだ。
《
アイドの声は震え続ける。
(これで、全てが、終わり……? 自分は弟に戻る……――?)
震え続け――そして、その次に出た言葉は――
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