212.ロード
落ちた先に待っていたのは広い空間。
最初は自室に戻るのかと思ったが、全く別の場所に《コネクション》を用意していたようだ。というより、先ほどノスフィーが敵対を表明したときより、自室の《コネクション》と五十七層の《コネクション》が消えている。前もって、何らかの細工をノスフィーにされていたのは間違いない。
逃亡先の選択肢が減ったことを確認していると、ノスフィーは骨が折れそうなまでに握っていた手を離す。そして、玉座に座る翠の少女に手を振った。
「いま帰りました。ちゃんと連れてきましたよ、ロード」
玉座がある――つまり、ここは城の中央にある広い玉座の間。
荘厳な太い支柱が並び、煤で変色した石壁には大量の蝋燭の灯火が怪しく揺らめいている。
扉は二つだけ。王が民を迎えるための大扉に、玉座裏にある王専用の扉。大扉のほうからは、豪快な刺繍の施された赤い絨毯が伸びている。
その絨毯の上に僕は立たされていた。
六十六層の裏にある『ヴィアイシア』まで戻されたのは間違いなさそうだ。
目の前の翠の少女が、それを証明している。
「――『
短い詠唱を乱雑に繰り返すのは、顔を俯けたロード。
その独特で膨大な魔力は、彼女にしか持ち得ない。
翠色に発光する魔力が玉座を彩っている。そして、背後に下がっている――おそらくこの国ヴィアイシアの紋章であろう鳥と剣の意匠の――
奇妙な光景だ。
締め切った部屋なのに、風が吹いている。
その風は
いつもと違い、ロードは翠のポニーテールを解いている。それは二日目の朝の庭で見たロード――そして、夢の中で見た高貴な『
そしていま、その俯いた顔が持ち上がる。
ゆっくりゆっくりと持ち上がり――愛嬌など微塵もなく、威厳だけで塗り固められたロードと目が合う。
その底の見えない翠の双眸に晒され、畏怖の念を抱いてしまう――と共に悲哀も感じる。
それほどまでに、そこにいるロードは
触れれば、壊れる。
下手すれば周囲のすべてを巻き添えにして。
そう思った。
余りに危うすぎて、彼女にかける言葉が見つからない。
だが隣のノスフィーは、気軽に声をかける。
「ん? あれ、おかしいですね。ライナーはどこへ行ったのでしょうか。確かにここに落としたはずなのに、姿が見えませんが……」
それを聞いたロードはびくりと肩を震わせた。
そして、目線を僕から外して、忌々しげに呟く。
「レイナンド・ヴォルスのやつに、してやられた……。ここでの戦闘に気づいたやつが参入し、ライナーを連れ去っていきおったのじゃ……」
「ああ、そういうことですか。というか、やっぱり戦闘になっちゃったんですね」
「
ロードの言葉遣いがおかしい。
姿からだけでなく、言葉遣いからも愛嬌が消えていた。
偽者かと疑いたくなるほどの激変だ。
「魂の磨耗に耐え切った唯一の国民――レイナンド・ヴォルス将軍ですか。ふむ……、どうやら『ここ』の時間軸を弄っても、あの男だけは自由に行動できるようですね。しかし、渦波様と戦っている数十分程度の時間でロードを出し抜くとは……。腐っても大戦の猛将ということですか」
「ヴォ、ヴォルスのやつ、妾をおかしいと言っておった……。壊れておるとまで言いおった……。この
ロードは自らのことを『わらわ』と言う。
言葉は変わらないが意味が以前と違うと思った。空気が、物腰が、口調が、何もかもが違う。その老婆のような言葉遣いは――
二人は僕を置いて話を続ける。
「ああ、なんてひどいことを……。すみません、ロード。結界の仕組み上、あの男だけはルールを無視できる可能性があるとはわかっていました。これはわたくしのミスです」
ノスフィーは大仰に嘆き、大仰に謝罪する。
その陳腐な演技には、常に気味悪さが付きまとう。しかし、それをロードは何の違和感もなく受け入れているようだ。
「聞いてくれ、ノスフィー。ヴォルスのやつは、この
「ああ、可愛そうなロード。ならば、このわたくしがあなたの後顧の憂いを断ってあげましょう」
ノスフィーの声は柔らかいが、残虐さが滲み出ている。荒げた言葉を繰り返していたロードは、その容赦ない言葉に震える。
「断つ……? それはつまり、どういうことじゃ……?」
「『将軍』なんて、もうあなたには必要ありませんでしょう? 『ここ』で意識あるのは『あなた』と『わたくし』、そして『渦波様』と『ライナー』、この四人だけで十分です。他はオーディエンスに徹しさせましょう。そのほうがあなたの望む世界に近づきます」
「ヴォ、ヴォルスを消すのか……? 確かに許せぬが、あやつがヴィアイシアに最期まで仕えた忠臣であるのも事実、消すまでのことは……」
「その優しさがヘルヴィルシャインを逃すことになったのです。なにより、あなたの世界に『将軍』は必要ですか? ヴォルス将軍の魂は、もう解き放ちましょう」
「……っ!」
ノスフィーの絶え間なく続く正論に押され、ロードは言葉に詰まったあと、ゆっくり頷いた。
「頑張り屋過ぎた子供同士、一緒に戻ってやり直すと約束したでしょう? 大丈夫です。すぐにわたくしが、その不安を取り返してみせますから。だから、いつものあなたに戻ってください。さあ、落ち着いて……」
「う、うむ」
ノスフィーに窘められ、ロードは怒りを消沈させる。
それを見たノスフィーは満足げに笑ったあと、部屋から出て行こうとする。
「それでは行ってきます。その間、ロードは渦波様の説得をどうぞ」
「そうだな……。ここは友ノスフィーの言うとおりにしよう……」
ノスフィーが大扉から出て行き、玉座の間には僕とロードだけが取り残される。
僕が動かなかったのはロードと話したいことがあったから――だけではなく、単に背中を見せられないほどの魔力に当てられていたからだ。
落ちてからずっと、ロードは王に相応しい圧力を、僕に向けている。
その彼女が、ようやく僕に語りかける。
「よう来たのう、我が騎士団長殿。妾は、ずっとそなたを待っておったぞ」
「ロード、なのか……?」
まず一番の疑問をぶつける。この前提が間違っているならば、ここに留まる理由はなくない。
「妾がロードだと、変か?」
ロードは優雅な動きで小首をかしげた。
やはり、ただの淡い期待でしかなかったようだ。
「……ちょっとな。その喋り方は古臭すぎる」
ロードの名残はある。
やはり、目の前の少女がロードなのは間違いない。
『表示』も彼女を、
【
と判断している。
「そうか、変か……。しかし、これが本来の妾なのじゃがな……」
「どうして……?」
「風の詠唱の『代償』を利用してな、少し昔に戻ったのじゃ」
戻った方法ではなく、戻った理由を聞きたかったのだが、ロードはつらつらと自分の語りたいことをだけ語る。
しかし、戻ったという話は信じられない。
愛嬌が消え、厳かになった。小動物のような仕草ではなく、ゆったりとした動きになった。若々しさは霧散し、目から生気は失われた。
誰が見ても僕と同じことを思うだろう。
――老いた、と。
ロードの鋭い眼光が、その感想を僕の表情から読み取ったようだ。くすりと笑って、自分の身体を刺しながら訂正する。
「ふっ、老いたのではないぞ。
こんな老人のような喋り方で子供に戻ったと言われてもわけがわからない。一周回って大人になったとでも言うのか。
「ああ、全て懐かしいのう……。そうじゃ、妾はこんな喋り方だったのじゃ。しかし、まだ足りぬ……。『理を盗むもの』の人生は余りに長すぎるゆえ、もっともっと昔へ帰らなければ、真に戻ったとは言えん。ああ、もっともっと昔へ戻らねば……」
ロードは目を虚空に彷徨わせながら、誰に語りかけるわけでもなく呟く。その姿は病的で、彼女が正常でないことを確信する。
熱にうなされる患者のようにロードは僕に語りかけてくる。
「のう、渦波。『子供』と『大人』の境とは、いつだと思う?」
おそらく、これがいまロードの抱えている一番の疑問なのだろう。
誰が『子供』なのか『大人』なのか、自分はどの位置にいるのか、わからないのだ。
しかし、それは僕も同じだ。
いま目の前のいる少女のことも、自分のことも、はっきりと言えない。境を教えられるほど、立派な人間ではない。
答えに窮する僕に、ロードは穏やかな表情で首を振った。
「よい。答えに期待はしておらん。妾すら、いまだにわからん。……だがはっきりと言えることはある。千年前、ここに座っていた大仰な物言いの王様は子供じゃった。大人であったが、誰よりも子供じゃった」
『
きっと彼女にとって、子供と大人の境は、見た目や喋り方ではないのだろう。彼女の言う子供とは、もっと内なる部分にあるということがわかる。
「本当に懐かしいのう。昔もこうやって、この玉座から渦波を迎えたものじゃ。多くの家臣たちの反対を押し切ってな」
過去話で懐かしもうとしているようだが、それに僕は全くついていけない。すぐに断りを入れる。
「……悪いけど、そのときのことを僕は覚えてない」
「覚えてなくとも答えて欲しいのじゃ。千年前、なぜ南の『
覚えていないのだから、首を振るしかない。
「いま教えよう。家臣たちには口から適当なでまかせを説明してやったが、本当のところは、渦波だけが王をやめろと言ってくれたからなのじゃ」
おそらく、これをロードは最初から言いたかったのだろう。
記憶を失った僕に伝えたかったのだろう。
「渦波は……この年より臭い喋り方を、真っ向から変だと言ってくれた。もっと子供みたいに話せとまで言ってくれた。周りの期待に応えようとするのはいいが、まったく似合っていないと言って……、くれたのじゃ……」
そして、また同じことを言って欲しかったのだろう。
その狂おしそうな表情を見ればよくわかる。
「妾は間違いなく『北の救世主』じゃった。しかし、あのときの妾にとって、渦波は『妾の救世主』じゃった。もちろん、口には出せんかったがな……」
目を細め、過去の光景を思い出すロードは、大人にしか見えない。
口でどれだけ言おうと、ここにいるのは千年の歳月をすごした老人――過去を懐かしむことで余生を過ごそうとしている老人だ。
「その口には出さんかったことを、渦波だけが理解してくれたのじゃ! 渦波だけが妾の苦しみに気づきっ、救ってやると、願いを叶えてやると、そう言ってくれたのじゃ! 渦波、もう一度、妾の欲しい言葉を言ってくれ。いま、あのときの責任を果たしてくれ。妾の『臣』となり、ライナーに妾の『弟』となるよう説得してくれ!」
今朝、「助ける」「願いを適える」とロードに言ったばかりだというのに、もう一度同じ言葉を繰り返すことはできなかった。
当然だ。
いまここに至っては、まるで意味が違ってくるからだ。
いまロードを救うと言えば、アイドを連れてくることではなく、ライナーが新しいロードの弟とすることになる。
それはできない。
そんな偽物。偽りの世界。偽りの幸せ。
その果てに待つものを、僕は誰よりも知っている。
「それはできない」
静かに首を振る僕を見て、ロードは困惑し、震えだす。
僕としては当然の否定だったが、ロードにとってはそうでなかったらしい。
「頼む、渦波。『臣』になってくれ……。この『ヴィアイシア』という国は、そなたがおらぬと成り立たぬ……。それは昔も、いまもじゃ……。もはや、妾一人では限界なのじゃ……」
ぽつぽつと弱音を吐きながら、揺らめく炎のように不安定なロードが玉座から立つ。
「ノスフィーが言っておった。渦波との共鳴魔法ならば、『ここ』の寿命を延ばせる可能性があると。ただ、その空間魔法は、渦波が『ここ』にいることが条件になるだろうとも言っておった。どうか『ここ』で、ずっと寿命を延ばし続けてくれ……」
その要求は初耳だ。僕は身構える。
危険が迫っているのはライナーだけではないようだ。
「まさか、ここに僕を閉じ込める気なのか……?」
「そうしたい。きっと、そのために妾は『ここ』でずっと渦波を待っておったのじゃ。ああ、ずっとずっと渦波を待っておったのじゃ……!」
狂おしそうな次は、愛おしそうに。
かつての
「渦波から他の
「だから、僕が『ここ』に残るのは義務だって言うのか……?」
「ああ、そうじゃ……。『ここ』で妾の心の平穏を保ってくれ……」
その身勝手すぎる要望から始まる、身に覚えのない義務――は、
それくらいならば許容はできる。
だが、ロードが自分の願いを間違えていることだけは許容できなかった。
怒りすら感じる。
「違う……! そんな平穏の保ち方は間違ってる、ロード! 『ここ』で四人で待っていても、何も変わらない! 家族に代わりなんて存在しない! おまえが大事に残していたあの絵画に描かれていた『家族』はアイドだ! ライナーじゃない! あの孤児院で過ごしていたときのおまえの『友達』たちは、僕でもノスフィーでもない! 代わりなんて用意してっ、
「もうアイドは弟と言えぬ! あれは妾を王として崇拝するだけの存在となってしまった! そんなものは要らぬ! 要らぬのじゃ!!」
「――っ!」
僕の怒気を含んだ叱責を、より大きな怒気を含んだ叱責で返される。
「もうアイドのやつもセルドラのやつも要らぬ! いまの妾には、新しき『弟』と『友』がおるのじゃから! もとより、アイドとは血が繋がっておらん! ここで新しき『弟』を迎えるのに何の問題があると言うのじゃ!? いまならば、『ライナー』と『ノスフィー』がおる! そして、妾が最も信頼する『臣』もいる! 完璧じゃ!!」
『臣』と言って、指を差す先にいるのは僕。
もはや、ロードは僕たちしか見えていない。
この
過去なんて、アイドたちなんて、最初から存在していなかったのだと――そう言わんばかりに、僕とライナーとノスフィーだけにこだわっている。
「気づいてしまったら、もう止まらぬのじゃ……。抑えがきかぬのじゃ……。
焦点の合わぬ双眸でロードは笑う。
その目を見て、真の意味で理解してしまう。
頭のてっぺんに溜まっていた怒気が
あ、あぁ……。
もうロードは……。
「だから、渦波を地上には行かせぬ! もう二度と分からず屋のアイドには会わぬ! 『ここ』には『渦波』と『ノスフィー』と『ライナー』だけで十分じゃ! いや、十分どころか、完璧じゃ! くはははっ!」
ロードの双眸は、もう見たいものだけしか見ていない。
そして、大人の如く、けれど子供のように笑う。
――もうロードは……壊れていたのだ。とっくの昔に。
本人は、いま限界を迎えようとしているなんて言っているが、それは違う。
本人の気づかぬうちに、限界なんて過ぎていたのだ。
考えれば、当たり前のことだ。
「渦波が『ここ』を維持し続けてくれたら、完璧……! この平和なヴィアイシアで、今度こそ妾は妾の幸せを手に入れる……! そう、
出会ったときのことを思い出せばわかる。
千年も生きた女の子が、あんな平気そうに話すわけないじゃないか。
まるで、普通の女の子みたいに笑うわけないじゃないか。
「
壊れた彼女は、その絶対に間違っている未練を信じて笑う。
もう彼女は、その偽物の未練を信じていないと、自分を保てないほどにボロボロなのだ。
甘かった。
レイナンドさんが教えてくれたじゃないか。ロードは最初の百年で狂ったって……。
壊れないはずがない――だから救ってくれって、頼まれたじゃないか……。
なのに僕は――……
ヴィアイシアの民の魂が磨耗していく中、一人ぼっちとなって残り、自分の未練を自問自答し続け、求めた家族どころか誰も帰ってこないと知ったロード。
そのまま――
その人に許されぬ永過ぎる時間を過ごし――孤独と悲しみに満たされたロードの気持ちを、本当に僕は理解してやろうとしていたか?
未練を果たしようがないと気づき、永遠に消えられないかもしれないと怯える少女の心を、少しでも労わろうとしていたか?
あの伝説の『
甘い。
本当に甘かった。何もかも甘すぎた。
目を覚ました直後、何が何でも地上に向かうべきだったのだ。必要とあれば、このヴィアイシアで食料を盗んでも突き進むべきだった。すぐにでもアイドを連れてこなければいけなかった。
だって、ロードは出会った時点で、手遅れだったのだから――
「
身体を後悔と絶望が満たしていく。けれど、それを僕は否定する。
諦めるわけにはいかない。そんな終わり方、もう二度とごめんだ。
腹の底――丹田に力を入れ直して、ロードの道を少しでも正そうとする。
「
しかし、返ってくるのは狂信の即答。
「違う!!」
「違わぬ! 他でもない妾自身が、そう言っておるのじゃぞ! 何が違うというのじゃ!?」
「それでも違うって言ってるんだよ!!」
「渦波ぃ! 妾を助けるって言ったじゃろう!? 今朝もっ、あのときも! 渦波が
論じ合いが、感情の押し付け合いになったせいか、ロードは過呼吸のような症状に見舞われる。
吸っているのに吐いているような呼気。吐いているのに吸っているような呼気。
そのままならぬ呼吸により、顔を歪めるロード。
そして、息苦しさに耐えかねたロードは『詠唱』の『代償』に手を伸ばす。
「ひゅ、ひゅうっ――、はっ、はぁっ! か、『加速するカソクするカソクスル』、『
切れ切れだが、それは心が軽くなって楽しくなる『詠唱』。
『代償』で心を削って削って削って、気持ちを軽くしていく。
その薬物中毒者のような表情から、ロードが『詠唱』に依存してしまっていることがわかる。快活でも荘厳でもなく、ただ乱れるだけの姿は、余りに見ていられない。
「その詠唱はやめろ! 冷静に話せなくなる!!」
「は、はは、ははは……、何を言う……。妾は冷静じゃぞ……?」
乱れた翠の髪から覗くロードの目には理性が宿っている。
確かに……。
色々と壊れてはいるが、『詠唱』の影響か、まだロードは冷静だ。
ならば、考えろ。
いつかの経験を
それを見つけられたら、きっとまだ間に合う――!
「……わかった。おまえは冷静なんだな、ロード。なら、僕の経験談を一つ聞いて欲しい。それは僕が辿った道で、いまのおまえが辿ろうとしている道だ」
「わ、妾の道……? なんだそれは……」
「一度、僕も別の女の子を
「――っ!」
それはロードにとっても驚きの話だったようだ。
目を見開いて興味を持ち、何も言わず続きを聞いてくれる。
「『闇の理を盗むもの』に敗北した僕は、記憶と自分を曖昧にされ、陽滝じゃない妹と一緒につくりものの幸福に閉じ込められたことがある……。けどっ、そんなつくりものの世界っ、壊れるのはすぐだった! 偽ものの世界で幸福を得ても、それに納得することなんて絶対にできない! 僕は誰よりもそれをよく知ってる! もしおまえが誰にも期待されない世界に逃げられたとしても、おまえが期待されていた過去は消えないんだ! 心の底から声にならない悲鳴が上がり続けて、苦しくて堪らなくなって、最後にはそこにいられなくなる……!!」
ラウラヴィアでの生活を思い出し、その後悔をロードに伝える。
「だから、いま、おまえがすべきことは都合のいい偽ものの世界に逃げることじゃない! 過去と向き合って、過去を精算することなんだ!」
「そ、そんなことできぬ! できぬから、いま『ここ』で、こうなっておる……!!」
「たとえ、『
「このっ……、正しそうなことばかり言いおってぇ……!!」
しかし、伝わってはくれない。それは僕の経験でしかない。その経験を僕は血肉としているが、ロードにとっては他人の話だ。
そう簡単に受け入れることなんて、苦しんできた時間が長いからこそ――やはり、できない。
「渦波の言っていることは、すべて大人の理論じゃ! その理論の通りに動けたら、最初から苦労などしておらん! いまの妾は大人じゃなくて子供ゆえっ、わかっておっても、やらずにはおれんのじゃ! 間違っておるとわかっておっても、間違いを犯してしまうのじゃ!」
とうとうロードは話し合いを放棄して、駄々をこね始めた。
それは昨日のロードとノスフィーの会話と同じだ。いまのロードに正しいことを言ってしまっては駄目――それがわかっていながらも、僕もやってしまったようだ。
「妾は子供になると決めた! ノスフィーと一緒に子供時代をやり直すのじゃ! ノスフィーも、共に子供に戻ってくれると言ってくれた! ああっ、渦波がおれば、『ここ』で再現できる! そのチャンスを逃すことなどできるものか!」
そのロードの自由すぎる言い分に苛立ち、僕は声を荒げて正しいことを重ねる。
「たとえ、やり直せたとしても、それはおまえの過ごした『子供時代』と同じじゃないんだぞ!」
それを聞いたロードはびくりと肩を震わせた後に、涙目となって唸り声をあげ始めた。
「う、うぅ……! う、うぅううう……!」
先ほどまであそこまで攻勢だったと言うのに、少し正論を吐かれただけで泣きそうになった。見た目と口調が威厳に溢れていたために勘違いしていたが、やはり、彼女自身が言っているように、いまのロードは誰よりも子供なのだ。
「なぜじゃ! なぜ妾は駄目なのじゃ!? ローウェンの願いは叶えてやったのじゃろう!? ノスフィーの願いも聞いてやっておるのじゃろう!? 差別するでない! 差別はよくないぞ! 妾は簡単に泣いてしまうのだぞ! 誰もいないところで一人泣いてばかりじゃぞ!?」
涙というのは、それだけで圧力がある。一度泣いてしまえば、理性的な話なんて不可能だ。
そして、これ以上問答を続ければロードは大泣きしてしまう。
「……くっ」
それを理解してしまい、言葉に詰まる。
わかっていたことだが、ロードには『言葉ではない別のもの』を用意しないと駄目なのだ。けれど、いまの僕には『正しいだけの言葉』しか用意できない。
僕はロードを諌めるのを諦る。
「それがおまえの決めた道なんだな……。ロード、ごめん。僕が間に合わなかったせいだ……」
そして、謝る。
それを聞いたロードは攻勢を取り戻し、潤んだ目を拭ってから笑う。
「は、ははっ、何を言っておる? 間に合わなかった? 渦波は間に合ってくれたぞ? 『ここ』が崩壊する一ヶ月前に、ちゃんと落ちてきてくれた。感謝しておるぞ、渦波……!」
「けど、おまえの崩壊の前には間に合わなかった……。何も思い出せないから、おまえにかける言葉が見つからない……。昔のおまえのことを忘れて、ごめん。本当にごめん……」
もはや、会話とはなっていない。
求め続けるロードと、謝り続ける僕。綺麗な平行線だ。
説得を諦めた僕は、気になっている別件を最期に問う。
「……なあ、ロード。最後に教えてくれ。ノスフィーが、これをおまえに提案したのか?」
「……それは違うぞ、渦波。むしろ、妾がノスフィーを誘ったのじゃ」
「そっか」
少しだけノスフィーのせいにしたいという気持ちがあった。
だが、やはりそれは違った。もしノスフィーがいなくとも、遠からずロードはこうなっていたのだ。
「……どうやら、これで話は終わりのようじゃな。ならば、諦めて
「それは断る。いまさら、こんな大きな身体で子供みたいに生きられるか。それに僕は行かないといけない……。この先に……」
「そうか……。ならば……――」
話は終わり、ロードの魔力がぶくぶくと膨らんでいく。
ロードを説得できない以上、僕は地上に向かうしかない。ノスフィーが去った扉から僕も出て行こうと、軸足に力をこめた。
だが、それと同時に、開戦の魔法が放たれる。
「――《ゼーアワインド》!」
聞き慣れた中級の風魔法名。感じ慣れた突風の魔法構築。
しかし、作用する結果は全くの別物。
ロードの多大な魔力を吸い込んで放たれる《ゼーアワインド》は突風でなく――爆風。余りに莫大すぎる風が玉座の間一杯に溜まり、空気を注ぎ込みすぎた風船のように部屋が破裂する。
僕の全身に襲い掛かる風。さらに爆発と共に襲ってくるのは、破壊された城の破片。
体勢を崩しながらも、その破片総ての軌跡を《ディメンション》で読み取って、剣一つで払っていく。
そして、風の魔法の跡に残るのは二人。
剣を構えた僕と翠色の粒子を背中から噴出させるロードの二人だけが、玉座の間に残った。
《ゼーアワインド》によって天井と壁を失った玉座の間は、外気に晒され、降り注ぐ雨に打たれ始める。ずっと天候の変わらなかったヴィアイシアが、なぜかいま、嵐に見舞われていた。
まるで先ほどの五十層のように、外は風が荒び、大雨一色となっている。
『クレセントペクトラズリの直剣』の雨粒伝い落ちる剣先をロードに向けながら、逃亡のために後退りする。
「諦める気はないし、負ける気もない。おまえのためにも、僕は『ここ』から出る。もちろん、ライナーは僕が連れていく」
「無駄じゃ。決して逃げられはせん。周りをよく見るといい。逃亡用の食料など、もう手に入らぬぞ」
ロードは両手と翼を広げた。
玉座の間は城の頂上にあったため、遮蔽物を失ったいま、簡単に城下を一望できるようになっている。《ディメンション》を僅かに外へ逸らし、ヴィアイシアの街をちらりと見る。
「街の造りが、変わってる……?」
嵐で《ディメンション》の魔力が乱されるために確信はできないが、僕の知っているヴィアイシアではなかった。
城下に広がっていたのは似て非なる街。まず一番の違いは広さ。比べものにならないほど領土が広がっている。あの独特な世界の端っこが見えない。もはや国ではなく、国の群――帝国と呼ぶべき広大さだ。豊富な自然の木々によって彩られているのは前と同じだが、色がまるで違う。緑ではなく、焦げ茶色が至る所に散りばめられていた。それはまるで戦火の炎に襲われた跡――いや、いまだ火種は燻っている。
平和な国ヴィアイシアは消えた。
いま『ここ』にあるのは、戦争で土地を拡大させ、未だ戦時中の『北の大帝国』。
「伊達や酔狂でこんな喋り方に戻ったわけではないぞ。これは『ここ』の時間軸を移動させるために必要なことだっただからじゃ。結界の専門家であるノスフィーの協力で、いま、『ここ』は妾の記憶を元に再現し直された」
できない話ではないかもしれない。
元より『ここ』は千年前の過ぎ去った世界を再現している。その時期をずらしただけだ。
つまり、この嵐のヴィアイシアも、過去にあった光景の一つというわけだ。
「妾が望む限り、『ここ』はそれに合わせて姿を変える。その仕組みを利用し、丁度、妾と騎士渦波がヴィアイシアを裏切ったあたりに時間軸を合わせた。ゆえに、いま『ヴィアイシア』はそなたの敵になっておる。誰もそなたを助けてはくれんぞ」
「ああ、それが狙いか」
それが事実なら、いまの僕はお尋ね者の可能性がある。暢気に店で買い物なんてできそうにない。
「――だからどうした!」
だが、もともと食料を買うつもりなんてなく、もう盗むつもりだ。何の問題もないと判断して、城から逃げようと駆け出す。
「やらせん!」
ロードは魔力の翼を羽ばたかせて、器用に風を操る。それは魔法でないというのに、まるで生き物のように動いて、僕の行く手を阻む。
「妾の盗んだ理を忘れたか?」
右手に風の
追い払うように剣を振ったが、軽々とロードはかわしながら喋る。
「妾の属性は風。逃亡は妾の分野じゃ。かの『
そして、その言葉通り、逃げる僕の動きを完全に読みきり、空いている左手で僕の腕を掴んだ。
生粋の
何より、まともに相手をしていい敵ではない。すぐに僕は切り札の一枚を切る。
「――魔法《ディスタンスミュート》!」
反則の魔法で、不意を突く。
腕を透過させて、ロードの腕から逃れた。
力一杯握っていたロードは体勢を崩してしまい、そこに全力の蹴りを叩き込む。
「ぐぅっ! な、んだ、いまの魔法は――!?」
千年前にも見たことのない次元魔法だったようだ。もちろん、『ここ』での生活でも、《ディスタンスミュート》を彼女に見せていない。悲しいことに、新しい次元魔法は当初の予定通りに機能してしまった。
顔をしかめながら驚くロードを置いて、すぐに次の次元魔法を連続使用する。
「――魔法《ディメンション・
届く限りの《ディメンション》を展開して、逃亡に最適な移動先を設定する。あとはそこへ辿りつくように空間を圧縮していくだけ。
三度唱えた《ディフォルト》によって、僕の身体は引っ張られ引っ張られ引っ張られ、消える――かのように飛ぶ。
瞬間移動に似た跳躍と同時に、僕は濡れた街道に転がっていく。
勢いをつけ過ぎて、上手く受身を取ることができなかったのだ。ぱしゃっぱしゃっと水溜りを何度も弾いて跳ねる。移動だけで『表示』のHPが減ってしまっていた。
しかし、その無茶な移動の成果は大きい。
擦り傷だらけとなった身体を起こして、残った《ディメンション》で確かめる。距離は一キロメートルほど先、瓦礫だらけとなった城の上で呆然とするロードを捉えた。
ロードは消えた僕に対して呟く。
「……そんな魔法もあるのか。……まあ、よい。長期戦を望むならば、予定通りに包囲して、確実に詰めるだけじゃ。その魔法、二度と通用すると思わんことじゃ、渦波」
一度掴んでしまえば勝ちだと思っていたのだろう。少し頬を膨らませて悔しがっている。
しかし、焦ってはいない。
長引いても、僕が弱っていくだけ。全ての状況が自分の味方であると思っているのだろう。
確かにロードの言うとおりだ。
未だに有利なのは彼女……だと言うのに、ロードは不安そうに顔を青くして、呼吸を乱し始める。
「はぁ、はぁ、はぁ……、ひゅ――、ひゅぅ……。わ、妾の銃弾は速いぞ、渦波……。なにせ『妾の弾丸は、
ロードは癖のように唱える。無意味な力の増幅を行い、あらゆるものを『カソク』させる。その『代償』によって、細くなった呼吸を強引に整えた。
もはや、それがなければ落ち着かないのかもしれない。
その慣れた様子から、それが習慣づいたものであることがわかる。
きっと彼女は、誰もいないところで泣いて、誰にも知られないように『詠唱』して、なんとかギリギリのところで笑顔を作ってきたのだろう。
その『代償』として色々なものを失うとわかっていても、それでも笑っていたかったのだろう……。この『ヴィアイシア』という心の城壁を守るために、ずっと子供のように笑い続けて……――
「ロード……」
思わず、《ディメンション》で彼女の息苦しそうな顔を見つめてしまう。
そのロードは詠唱を呟き続けながら、広げた翼を萎れさせ、ゆらりゆらりと城を歩き出した。その詠唱の言葉とは裏腹に、とてもゆっくり彼女は動く。
大雨の中、瓦礫を避けて歩き、野晒しになった城の端まで移動した。
その表情には獲物は絶対に狩ると確信させるだけの迫力があった。腕の立派な銃剣が、ロードを一流の狩人のように見せる。
そして、その銃口を一キロ先にいる僕に向けた。
「――っ!」
咄嗟に物陰に隠れる。
何をぼうっとしているんだ僕は。
ロードの心配よりも自分の心配が先だ。
足を止めている暇はない。考えている暇もない。
すぐに僕は、嵐の街の路地裏を走り出す。
頬を打つ雨粒も、水溜りが跳ねるのも厭わず、ロードから逃げるために『千年前の北』を駆け抜けた。
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