64.虚無を焦がすものマリア


 結局、ご主人様はラスティアラさんを助けると言わなかった。

 いや、言えなかった。

 ラスティアラさんの不安定な精神を捉えきれず、答えを出す前に去られてしまった。


 私は少しばかりの安堵感に包まれる。

 しかし、安心していられないと思い、意を決して扉を開く。

 扉の先には、この世の終わりのような表情をしたご主人様がいた。


「聞こえてた……?」

「はい」


 私は嘘偽りなく肯定し、ご主人様の意思を確認していく。


「ラスティアラさんは……」

「行ったよ。聞いての通りさ」


 ご主人様は弱々しく窓の外を指差した。


「これでいいんですか、ご主人様……」

「どうもしない。問題が大き過ぎる……」


 その言葉を聞いたとき、荒れていた心が落ちついていくのを感じた。

 それを決して表に出さず、この後のことについても確認する。


「では、新しいティアラさんが来たら、それをラスティアラさんだと思って、いままで通り……?」

「……そいつはラスティアラじゃない、別人だ。いままで通りなんていくわけない」


 落ち着いた心が、次は歓喜していくのがわかった。

 私が醜く喜んでいるのをご主人様に悟られぬように、必死で表情を固める。


 そして、ご主人様は吐き出すように続ける。


「少なくとも、仲間だなんて、無理だ……」


 ラスティアラさんが仲間からいなくなると言い切られ、私の抑えは限界を迎えた。


「よかった……。本当によかったです……」


 心の底からの安堵が零れ出し、言葉に変わった。


「え……?」


 私の微笑を見たご主人様は不思議そうな顔をする。


 私は「しまった」と思いながら……しかし、逆にいい機会だと判断する。ラスティアラさんに取り残されて、弱りきっているご主人様なら、私の聞きたかった言葉を引き出せるかもしれない。状況を磐石のものに変える好機だ。


 『目』も、いまならばいけると言っている。

 私の人生を台無しにした『目』だが、いまだけは頼りになる。


 ラスティアラさんも似たようなことをした。

 なら、私だって――


「ご主人様はラスティアラさんのことを好きかと思っていましたから」


 それを聞いたご主人様は目を丸くする。

 唐突な言葉に思考が追いついていないのが、手に取るようにわかる。


 いまのご主人様の焦った思考で、これに答えられる言葉は一つだけだろう。


 ラスティアラさんの「助けて」を無視し、引き止めることのできなかったご主人様は、口が裂けても「好き」とは言えない。たとえ、そうだとしても言えない。言わないのではなく、その論理的な性格のせいで、言えない。


 もし「好き」だったら「助けて」を無視するはずがない。「助けて」を無視したのは「好きじゃない」からと、理屈で考える。それがご主人様だ。


 そして、それを言葉にしてしまえば、ご主人様は動けなくなる。自分で自分を騙すのが上手いご主人様のことだ。「好きじゃない」と言った自分の言葉を信じて、全てを諦めてくれるに違いない。


 私の知っているご主人様なら、国という強大な力を前に諦める。

 リスクを恐れ、消極的な選択をする。


 それがわかっていて、私は言葉を続ける。


「そりゃ、ラスティアラさんは変なところもありますけど……。あんなに美人で、あんなに強くて、明るくて。悪戯好きだけど、根っこのところは仲間想いで。夢見がちだけど、迷宮探索者としては理想的で。ご主人様とよく似てるから、とても気が合ってて――」


 言葉に合わせて、ご主人様の顔が歪んでいく。


 けれど、これは必要なこと。

 決別のためにすべきこと。

 だから、私はご主人様のためにも問う。


「そんなラスティアラさんのことが好きかと思っていました。でも、違うんですよね? そうなんですよね?」


 脅迫するように、答えを促した。


 ご主人様は言葉を失いながらも、目まぐるしく思考していく。いまと過去を想起し、必死に答えを探しているのが、表情からわかる。


 正直、答えは聞かなくても『目』でわかる。

 ご主人様は間違いなく、いつも通りに感情を理屈で考え、果てには妥協する。

 必死に必死に考えて、最後には絶対に諦め――


「は、はは、はははは……」


 ――視界が反転し、世界が歪んだ・・・・・・


 急にご主人様は笑い出した。

 それと同時に、『目』から強い痛みを感じた。


「……っ!」


 ご主人様は憑かれたように、表情を急変させ、迷いなく清々しく笑い続ける。


 そして、笑いながら、怒っている・・・・・……?


 私は思いもしなかった反応に戸惑う。

 こんな反応、『目』は予見していなかった。

 どうして、笑って、怒っているのかわからない。


 その疑問に『目』は何も答えてくれない。

 正確には、ご主人様という存在を捉えきれないと、『目』が悲鳴をあげている。


 そんな……。

 確かに、ご主人様は『目』に捉えにくい人だった……。

 けど、ここまでじゃなかった……。ここまで、ぐちゃぐちゃでは――


「ど、どうしました……? ご主人様?」


 別人のように笑う理由を、恐る恐ると聞く。


 そんな私を見て、ご主人様は笑みを抑えて答える。

 しかし、まだ完全に笑いは消えていない。


「ははっ……。いや、少しおかしくて……。そうだね、マリア。僕はラスティアラを好きじゃない。間違いないみたいだ」

「ぇ、え? そうですか……」


 望んでいた「好きじゃない」という言葉が聞けた。

 ただ、それをあっさりと答えてくれたことが、いまの私には逆に不安だった。


 予想では、もっと苦々しく、妥協する形で答えるはずだった。しかし、目の前にあるのは清々しい笑顔。その理由が私にはわからない。


「それよりも、面白いこと言ってたね。僕とラスティアラが似てるって……。よくわかったね」


 そんな私の動揺など関係なく、ご主人様は話す。

 それに対し、私は飾りなく答える。言葉を選ぶ余裕はなかった。


「それよりも? ……う、上手く言えないんですけど、根っこは似てるなって思って。私から見れば、お二人とも、『作りもの』のように無駄がなくて完成された存在です」


 私の正直な感想を聞いたご主人様は、また笑う。

 今度は乾いた笑いだ。


「そっか……。根っこは似てるんだ」

「はい……」


 確かに、ご主人様はわかり難い性格をしている。優柔不断な上に、価値観も思考方法も独特で、一般人には追いつけない感性の人だ。


 ――けれど、これは異常が過ぎる。


 そう私がうろたえている内に、ご主人様は答えを得たように、きびきびと動き出す。


「マリア、ちょっと出かけてくる。昼には戻るよ」

「え、え……? ご主人様、どこへ――!」


 私が制止をかけようとしたときには、もうご主人様は家から出ようとしていた。

 そのまま、確信をもった動きで、ラスティアラさんのように家の窓から出て行ってしまう。


 それを私は見送ることしか出来なかった。

 思考が追いつかず、何も対応できなかった。


 伸ばした手をゆっくりと下ろし、居間にある椅子の一つに座る。


「い、一体何がどうなって……」


 私はご主人様の気持ちを全く理解できなかったという事実を受け止め、身体が震えていた。


 人の気持ちが――それも大好きな人の気持ちが全くわからないのが、こんなにも、心細く、恐ろしいものとは思わなかった。


 いままでの人生で一度もなかったことだ。

 私には『目』がある以上、一度もそんな状態になったことはない。自分を騙すのが上手いご主人様でも、あのラスティアラさんでも、何一つわからないということはなかった。少しは心を読めた。


「も、もしかして、また……? また『目』のせいで……?」


 かつての記憶が蘇る。

 村が、■■が、私の『目』の判断のせいで燃えていくのを思い出す。


 ……ぇ、え?


 あれ、■■って? 

 言葉が出てこない。思い出せない?

 私は以前、何を失ったんだっけ? 


「い、いや、落ち着け……。まずは落ち着こう……」


 私は経験から、冷静さを取り戻そうとする。

 故郷のときも、戦争のときも、奴隷のときも、冷静さを失って良かったことなど一度もない。


 深い呼吸を繰り返し、混濁した思考を整えていく。


 ご主人様の気持ちが全くわからないのは初めてだ。

 しかし、元々人間関係とはそういうものだ。


 いつでも、何でもわかってしまう『目』のほうがおかしい。

 そう、『目』がおかしい。けど、いまは『目』に対する怒りは置いておく。


 まずは冷静さが必要だ。

 何より先に、ご主人様の行動を予測しないといけない。


 ご主人様はラスティアラさんを「好きじゃない」と言った。しかし、そこから全て狂い始めた。

 本当ならば、苦渋の末言うはずだった台詞を、笑いながら言った。


 自暴自棄というわけではなかった。

 私や自分自身に、怒っているわけでもなかった。


 明確な『何か』を笑い、明確な『何か』に怒っていた。

 しかし、その『何か』がわからない。


 私は冷静に、いままでの情報のかけらを拾い集めていく。

 今日のご主人様とラスティアラさんの話だけでなく、もっと広い視野で情報を統合させ、要因を探す。


 そして、思い至る。

 アルティさんは言っていた。「あの二人は変わろうとしていない」「周囲がそれを許さない」。


 それがこれなのか? 


 ご主人様の急変の心当たりは他にない。

 つまり、周囲の手によって、ご主人様は変えられたということになる。

 思い当たるのは、フーズヤーズの騎士たち。大国の最先端の魔法、魔法道具、薬品ならば、決して不可能ではない。


 非道な手段でご主人様は変えられて――それに気づき、それを笑い、怒り、ラスティアラさんを助けに行った?


 その可能性は高い。

 いや、そうでないと、このタイミングで出かけた意味がわからない。


 このタイミングで一人となったのは、ラスティアラさんを助けるため以外に理由がない。もし迷宮へ行くのならば、魔法の扉を使う。


 つまり、答えは……。

 ご主人様は私に何の話もせず、私を置いて、ラスティアラさんのところへ……?


「だ、駄目……。それだけは……」


 私は辿りついた答えに体の震えが止まらない。


 蘇る記憶の情景が、かつてと同じ流れを表している。

 『目』を過信して言った余計な一言が、全てを激変させた。


 全く同じ……。

 また『目』のせいで失う……。


 堪らず、椅子を倒して、乱暴に家の扉を開いて、外に飛び出す。


 ――家の外には、一人の男が立っていた。


 出会うのは三度目。

 奴隷市場で出会い、アルティさんと酒場で再会し――そして、いま。


 『目』が警鐘を鳴らす。

 目の前の男は危険だと叫ぶ。

 けど、いまとなっては『目』を全く信用できない。

 もう何を信用していいかわからない。


 背の高い精悍な顔つきの男は口の端を吊り上げ、近づいてくる。


「やあ、また会ったな」


 男は笑みを張り付けたまま、私に声をかけた。


「な、何の用ですか……? 私、急いでいるんです……」


 この男に近づいてはならないと思い、素っ気無く対応する。

 しかし、男は気にした様子もなく、言葉を返す。


「そろそろだと思ってな。様子を見にきたんだ」

「そろそろ……?」


 私は男の言っていることがわからない。

 しかし、ろくでもないことを考えているのだけはわかった。私は相手にしないと決めて、その横を通り抜けようと、足を前に出す。


 しかし、その歩みは、男の言葉によって止められる。


「フーズヤーズの人間に聞きたいことがあるんじゃないのか? これでも、俺はフーズヤーズの偉いえらーい騎士様だ。主ラスティアラとキリストの兄さんとも関係は深い。なんなら、俺が相談に乗るぜ?」

「あなた……。フーズヤーズの騎士なんですか……?」


 フーズヤーズの騎士。

 目下、ご主人様を惑わした疑いの濃い明確な敵――!


「ああ、そうだぜ」


 頭に血が上っていくのを感じた。

 どこにもぶつけようのなかった感情が、フーズヤーズの騎士という対象を見つけ、溢れ出していく。


「あなたたちはっ!! ご主人様に一体何をしたんですか!? ご主人様の様子がおかしい! あなたたちフーズヤーズに関わったせいで、おかしくなっていく!!」


 私は力の限り手を横に振り、目の前の騎士に当たる。

 それを男は涼しい顔で受け止めて、冷静に言葉を返す。


「いいや。俺たちがしたのは主――『ラスティアラ』・フーズヤーズに対してだけだな。キリストの兄さんには、何もしていない」

「嘘ですっ!! あなたたちがご主人様を利用しようとしているのは知っているんです! そのために、ご主人様に魔法をかけたんでしょう!? 操ろうとして!!」


 何の動揺もしない男を前に、私は冷静さを保てず糾弾する。


「いいや、本当にしていない。俺が嘘をついていないと、お嬢ちゃんならわかるはずだぜ」


 そう言って、男は自分の目を指差す。

 男は私と似たスキルで、私の『目』の正体を看破しているようだ。


 自分を『目』で見て真偽を判断しろと言っている。


 しかし、もう判断は終えている。男が嘘をついていないのはよくわかっていた。


 わかってはいても、もう何を信用していいかの自信がないのだ。

 私は唇を噛みながら、ご主人様の状態の理由を聞く。


「だったら!! なんでご主人様は、あんな状態に……!」

「俺はその状態を直に見ていないから、何とも言えないが……。それでも、わかっていることはあるぜ」

「わかっていること……?」

「キリストの兄さんは、なんだかんだで誰も見捨てられないやつだ。苦しんで、迷って、間違えたとしても……それでも結局、情の移った相手を見捨てることができない。それが『キリスト・ユーラシア』だ」


 目の前の男は、あっさりと答えを出す。

 ご主人様は優しいから助けに行く。

 たったそれだけだと言い切る。


 認めたくなかった。

 それは、その優しさを独り占めにしたいからか……。

 それとも、別の理由か……。


「そうかもしれません……。ご主人様にそういうところもあるのは確かだけど……。だけど、それ以上に! ご主人様は臆病で、優柔不断で、情けない人なんです! だから、本来ならっ、ラスティアラさんを助けに行けるはずがないんです!!」

「そうだろうな。確かにそうだ。俺も、よく知っているよ」


 私のご主人様の評価を聞いて、男は頷く。

 否定しなかった。私の言葉に同調して、話を続ける。


「臆病だから迷宮に怯え、優柔不断のせいで仲間を傷つけ、言いたいことも言わない。ただ迷宮に潜るだけの存在。それがキリストの兄さんだ。最初なんて・・・・・、もっと酷かった」

「で、でしょう? だから――」


 同調する男の言葉を利用して、私は自分の意見を通そうとする。

 しかし、それは男の嫌らしい笑みに遮られる。そして、男は怪しく笑いながら、私の反対を言う。


「ははっ。だから、キリストの兄さんは変わろうとしているんじゃないのか? 強くなろうと、より良い結果を引き寄せようと、努力しているんじゃないのか? 勇気をもって迷宮に挑もうと、仲間を傷つけないように決断しようと、自分の気持ちに正直になろうと――いま、変わろうとしているのかもしれないぜ・・・・・・・?」

「……っ!!」


 そんなご主人様は私は知らない。

 私の知っているご主人様は違う。

 あの人は自分さえも見失っている迷子のような人だ。

 そんな前へ前へと進むような人じゃない。


 けど、その情報は『目』によるもの。

 決して、自分の力で得たものじゃない。


 男の言葉を否定するための自信が湧かない。

 否定できない。


 もし、男の言うとおりだったとしたら……?

 ご主人様は逃げず迷わず、前に進もうとしているとしたら……?


 そんなことされたら、すぐに私は置いていかれる。

 いや、もう私は置いていかれている……?


 現に、私は家に一人。

 たった一人だ。


「そ、そんな……。そんなこと知らない……。そんなの見えたことない……」

「そうだろうな。あれは特別だ。色々な事情が絡まって、特に見え辛い。だから、あんたはキリストの兄さんの何も理解できなかったんだ。『スキル』に頼り切ってきたお嬢ちゃんの限界だ」


 ご主人様は変わろうとしていた?

 私は『目』に頼り切っていたから、それに気付けなかった?

 『目』のせいで、また間違えた?


 いつの間にか、ご主人様は強くなってしまい、フーズヤーズという強大な壁に抗う意思を手に入れたのかもしれない。

 だから、ご主人様は『何か』に――『フーズヤーズ』に怒り、ラスティアラさんを助けようとしているかもしれない。


「お嬢ちゃん、もう時間はないぜ。明日になれば、キリストの兄さんは主を助けに行ってしまう。そして、成長した彼は、見事主を助けてしまうかもしれない・・・・・・


 あ、ああ……。

 助けてしまう……。


 ご主人様は強い。

 精神は年相応だが、能力だけなら晩年の英雄のような人だ。


 きっとラスティアラさんを劇的に助け、さらに前に進んでしまうことだろう。


「そうなれば、『ラスティアラ』と『キリスト』は運命的な絆で結ばれてしまう。そう、運命的な絆でだ……」


 運命的な絆に結ばれた二人は、物語のヒーローヒロインとして、次の舞台に進む。

 果たして、そこに私はいるのだろうか。

 前章の端役でしかない私は、次の舞台でも出番はあるのだろうか。


 ない。

 きっとない。

 何の役目も持たない登場人物は、削れて消えるのが常だ。


 私は置いていかれる。

 ここに置き去りにされる。


「しかし、お嬢ちゃんには何もない。解り合えもせず、絆もなく、運命も、力も、何もない」


 私には何もない。


 ラスティアラさんのような完璧さはない。美しさもない。性格も良くない。お嬢様でもなければ、国が関わるような過去もない。才能もなければ、力もない。


 何もない私が、ご主人様の隣にいられるはずがない。


「お嬢ちゃんに残ったのは、一方的に取り付けた主従の約束だけ。それも、キリストの兄さんが意識しているかも怪しい約束だ。お嬢ちゃん自身には、何もない」


 言われなくてもわかっている。

 わかっているからこそ、代わりの繋がりを求めた。

 力を求めた。

 ご主人様が最も欲しがっているであろうものを、何を犠牲にしても――


 私は浅い呼吸を繰り返しながら、目の前の男に言い返す。


「ま、まだ……。まだ大丈夫です。魔法さえ、私の魔法さえ強くなれば……」


 自分の持つ可能性を示す。

 言葉に押し潰されない為にも、私は言い返す。

 しかし、男は無慈悲に言葉を続けていく。


「君より有能な魔法使いが、今後現れないとでも?」


 男は私の可能性を潰そうとする。

 楽しそうに現実を突きつけてくる。


 それを私は否定できなかった。

 時間が経てば経つほど、ご主人様の知り合いは増えていく。そして、その中に、私を上回る魔法使いが現れないとも限らない。そうなれば、私はきっと――


 私は首を振り、私の居場所を必死に探す。


「私は……! 私は、ここにいていいって言われました……!! ここで、料理を作ってくれればそれでいいって――」

「わかっているだろう? それは憐れみだ。同情で居ていいと言われただけだ。料理は、彼にとって重要ではない。彼自身得意だし、代替などいくらでもきく」


 わかっていた。

 あれは、私に気を遣って与えた役目だということはわかっていた。


 料理なんて、本当は必要とされていない。

 私はご主人様に、本当は――

 本当は、もう――!


 ――う、うぅ……。


 続く言葉は恐ろしすぎた。

 私は心の中で涙をこぼす。


「ま、まだ……! まだ行くなんて、言ってません……! ラスティアラさんのところへ行くなんて、まだ私は聞いてない……!!」


 並んだ現実を認めたくなかった。

 一縷の望みを賭けて、否定し続ける。


「そんなに楽観してていいのかな?」

「聞いてません聞いてません聞いてません!! ご主人様はラスティアラさんのところへなんか行ってません! 明日からは、また二人きりです! またこの家で、二人で迷宮探索を――」


 私が頑として繰り返すのを見て、男は呆れたように肩を竦め、背中を向けながら最後の言葉を残す。


「信じるのもいい。しかし、下手をすれば、この家ごと置いていかれるかもしれないぜ? よく考えるんだな」


 そう言い残し、この場を男は離れていった。


 その最後の言葉に、私は何も言い返せなかった。

 この数日、ずっと私は蚊帳の外だった。今日も私は家で一人。

 ついていけず、「家ごと置いていかれる」。それが全て。


 つまり、また一人。

 かつて奴隷に落ちたときの恐怖が蘇る。


 また■■がいなくなる。


 失う。

 かつて、■を、■を、■を失ったように、ご主人様を失ってしまう。


 その恐怖が四肢全体に行き渡り、私は膝を地面に突く。


 そして、朦朧とした意識のまま立ち上がり、亡霊のように私は歩き出す。


 ご主人様を探して、私はヴァルトの街を歩き回る。ご主人様が向かいそうなところを確認する。酒場、教会、迷宮に必要なものを揃える店、しらみ潰しにした。


 けれど、どこにもいない。

 つまり、ご主人様はヴァルトではないところに向かったということ。


 私は認めたくなかった現実と向かい合い、ふらふらとフーズヤーズに向かって歩く。

 フーズヤーズに行きたくないという気持ちを必死に押さえ、吐き気を抑えながらも足を動かす。


 会いたい。

 とにかく、会いたい。

 会いたい会いたい会いたい。

 会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい。

 もう一人は嫌だ。


 そう頭の中で繰り返していると、見知った顔と出会った。

 赤い髪の少女、アルティさんだった。


「ア、アルティさん……?」


 私は縋りつける相手を見つけ、目じりに涙を溜めながら近寄る。

 それをアルティさんは慈愛の目で迎えてくれた。


「……マリアちゃん、大丈夫かい?」

「アルティさん……! このままだと、ご主人様が……! ご主人様がっ!!」


 私は伝えたい気持ちを上手く言葉にできず、ただただ「ご主人様が」と繰り返した。


「わかってる。わかってるよ、マリアちゃん。落ち着くんだ。大丈夫だから、落ち着いて……」


 アルティさんは混乱している私の頭を抱えて撫でる。

 それを繰り返していく内に、私は少しずつ落ちついてくる。


「アルティさん……。ご主人様がラスティアラさんと二人でどこかに行ってしまいそうで、それで私――」

「まだ大丈夫だ。マリアちゃん。さっき、私はキリストと会った」

「ご、ご主人様と……?」


 信頼できる人が想い人の名前を出して、私は少しの安心を得ていく。


「まだ、どこにも行っていない。すぐに家へ帰ってくる。心配しなくていいよ、マリアちゃん」

「帰ってくる……?」


 その少しの安心が、心の中で体積を増やしていっていく。


「しかし、見たところ、キリストがラスティアラを助けに行くかどうかは、すまないが・・・・・私にもわからない・・・・・・・・。明日にならなければ……」

「……明日、ですか?」


 私は違和感を覚える。

 『目』が矛盾を見つけたときの感覚だ。

 しかし、私は信頼するアルティさんを疑いたくなくて、それを追求しない。なにより、いまとなっては『目』なんて信用できないというのもある。


 信用できるのは、今日まで私のために動いてくれたアルティさんだけだ。


「ああ。ラスティアラを助けるのならば、明日の早朝だ。儀式の途中こそが、一番の狙い目だからね。助けるなら、そのときしかない。いいかい、マリアちゃん。明日の早朝、必ずキリストの傍にいるんだ。そして、確かめよう。全てを」


 アルティさんはご主人様の気持ちを理解するための方法を、真剣に教えてくれる。いつも、彼女は私のために全力だ。その想いを疑うことなんて、私にはできない。


「わかりました……。明日ですね……」

「ああ、明日だよ……。全てはそのあとだ」


 それを最後に、私はアルティさんと一緒に家へ帰った。

 そして、アルティさんは、また明日来ることを約束し、去って行く。


 私は僅かな希望を抱いて、誰もいない家でご主人様を待った。


 フーズヤーズの騎士は偉そうに、ご主人様は必ずラスティアラさんを助けるとのたまっていたが、それはまだわからないことだ。あのアルティさんだってわからないと言ったのだから、まだ希望はあるに決まっている。


 私は家で一人、悶々と魔法修練と料理を繰り返し――ご主人様が帰ってくる。


 それを私は笑顔で迎える。


 帰ってきた……。

 帰ってきた……!!


 やっぱり、そんなことはなかった。

 私たちはまた二人の生活に戻れる。

 そう確信して、ご主人様に笑いかける。


 何もおかしいところはなかった。

 二人で食事を取り、少しだけ話をした。

 その後、ご主人様は自室に戻った。


 ラスティアラさんのことは話題に上がらなかった。

 私はこのまま元通りになると信じて、自室に戻っていった。


 ――異常があったのは夜中だった。


 ご主人様の様子が気になり、部屋の近くを通ったとき、部屋の隙間から冷気が漏れているのを見つける。


 私は意識を部屋の内部に集中させる。


 その魔力の流れには覚えがあった。

 それは私が火炎魔法を修練しているときと同じだった。

 ご主人様は部屋の中で、氷結魔法を修練している。それも、いままでにないレベルのものを創造しようとしている。私も同じことをしていたから、それがわかった。 


 それが迷宮のための魔法ならばいい。

 しかし、まだわからない。


 明日、ご主人様は迷宮へ行くのか。

 それとも、大聖堂へ行くのか。


 その夜、私は一睡もできなかった。

 しかし、時間を無駄にできないと思い、自室で火炎魔法を弄り続けた。氷結魔法を修練するご主人様の部屋の隣で、私は火炎魔法を修練し続ける。


 何度も、何度も、何度も。

 何度も詠唱した。


 なぜだか、それが落ち着くのだ。

 感情が削れ、溢れ、偏っていくのが、とても落ち着く。


 何か大事なものが変質している予感はあった。それでも、それを止めることはできなかった。でなければ不安で押し潰されそうで、堪らなかったからだ。


 私は呟く。


「『おこれ断炎』――」


 願うように、私は詠み続ける。


「『芽吹け誕炎』――」


 詠みつづけ、朝を待った。


「『どうか』、『行かないで』『見捨てないで』『置いていかないで』。『私は』、『私は――」


 朦朧とした意識の中、私は『代償』を払い、願い続けた。

 だが、その願いは虚しく、翌日の朝。


 全ては壊れる。



◆◆◆◆◆



「やっぱり、行くんですね。ご主人様……」


 翌朝、ご主人様は私に声をかけることなく出かけようとした。


 つまりは、そういうこと。

 置いていこうとしたということだ……。


「……すぐにラスティアラと一緒に戻ってくる。だから、マリアはここで待っていてくれ」


 取り繕うように、ご主人様は言葉を返した。

 その真偽を『目』で確認する。しかし、わからない。


 戻ってくる? 

 本当に?


「その後は違う国へ逃げることになっているんだ。マリアは――」


 違う国へ逃げると聞いて、ラスティアラさんの「どこか遠く違うところで、私と二人で旅してくれるの?」という台詞を思い出す。


 ここで私がご主人様を止めなければ、二人で違う国へ行こうとしたのかもしれない。

 私を置いて、二人だけで――


「――マリアも一緒に行こう。三人で逃げよう」


 二人のつもりだったのか。

 三人のつもりだったのか。

 もう私にはわからない。


 わからない私は、わかることだけ聞き返す。


「逃げる……? なら、この家は……?」


 この家はどうなるのだろうか。

 まるで、二度と戻ってこないような物言いだ。


 この家は、ご主人様が私に任せ、毎日料理を作ってと言った家なのに。


「残念だけど、この家は捨てるしかない……。もったいないけどね……」


 しかし、ご主人様は「捨てる」と断言した。


 この家で慎ましく幸せに暮らす私の夢。

 いま、その夢が綺麗に砕かれた。

 砕かれたそれは、すぐに黒い炎へ転換されていく。


「……い、嫌です」


 この一夜で私の中は、黒い炎で一杯になっていた。

 だから、新たな黒い炎は、口から零れていく。


「え?」

「行かないでください、ご主人様……。お願いします。お願いだから、行かないでください……」


 私は零れだした炎を止めることができず、心の底の全てを吐き出していく。


「マリア……? 一体、どうしたんだ……?」

「行けば、二度と届かなくなる……。置いていかれる……」

「いや、だから一緒に行こうって言っているじゃないか。絶対に置いていかない。約束する。僕がマリアを置いていくわけがないだろう?」

「嘘です。三人で逃げても、きっと、私はそこにいない……。いてもいなくても変わらない……。そんなのは嫌ですっ!」


 しかし、その優しさの全てが、私には信じられない。


 何一つ信用できない。

 キリスト・ユーラシアを信頼できない。

 だって、ご主人様は嘘をついた。

 黙って、ラスティアラさんを助けに行こうとした。


 好きだけど……好きだからこそ! 信じられるわけがない!!


「なんで……? なんで、ラスティアラさんを助けるんです? 好きでも何でもないんでしょう?」

「なんでって……。ラスティアラは仲間だろ? あいつは、これからの迷宮探索に必要な仲間なんだ」


 これからの? 


 嫌だ。

 これからの話なんて聞きたくない。

 私は戻りたいのだ。■■のところへ戻りたい。


 ■■のところ? 


 違う!!

 私はご主人様と二人きりの時間に戻りたい!!

 私たち二人以外、誰もいない世界ところへ!!


「これからの迷宮探索に……? これからのって、どこまでのですか!? 行けば、きっと、ラスティアラさんは助かってしまいます! そうなれば、また……! また同じ! 私は迷宮の奥になんか行きたくない! 行かなくていいじゃないですか! この家で穏やかに暮らせれば、それだけでいいのに!!」


 私は自分本位の意見を振り回す。

 腹の底にある黒い炎の熱気が、とめどなく吐き出され、止まらない。


「マリア、落ち着いてくれ……! 僕が迷宮の奥に行くのだけは変えられない……」

「欲をかいてます! 奥になんか行かなくても、10層くらいで安全にお金を稼いでいれば、普通に! 幸せに暮らせます! 私はそれがいい! それにはラスティアラさんはいなくてもいいじゃないですか!!」


 その叫びに対し、ご主人様は私に近づき、その肩を両の手で握る。

 しっかりと握り、目と目を合わせた。


 意中の人であるご主人様との距離が近づき、私は怯む。


「いま、そういう話はしていないだろ? いまは、このままだとラスティアラが死んでしまうから、助けるって話をしてるんだ。マリアは、ラスティアラが死んでもいいのか……?」


 そして、ラスティアラさんの死について問われる。

 私の恋を応援してくれた優しいラスティアラさんを思い出し、少しだけ我に返る。


「……ラスティアラさんは、いい人です。……死んで欲しくありません」

「そうだろ。マリア、落ち着くんだ……。ラスティアラは助けないと……。あいつは仲間だ」


 一瞬だけ、身体から力が抜けていった。

 それはラスティアラさんが私に優しくしてくれた分だけの時間。


 ただ、すぐに昨日のラスティアラさんの言葉を思い出し、抜けていった力が膨れ上がって戻ってくる。


 彼女は仲間だ。けど、昨日、私のご主人様を奪おうとした。卑怯な手段で、仲間以上のことをしようとした。


 ご主人様とラスティアラさんは仲間?

 信じられるわけがない……!


仲間・・……? 仲間だから・・・・・? ご主人様はそれだけのために、命を懸けて助けに行くんですか?」

「あ、ああ……」


 嘘に決まっている。

 仲間で済まないから、昨日みたいなことになった。


「仲間だなんて、そんなの……。そんなの、嘘です。それだけの理由で命を懸けてだなんて、おかしい。……そうです。おかしいです。ご主人様はいいところを見せたいんでしょう? あの人にっ! ご主人様は、私じゃなくてラスティアラさんの前で見栄を張りたいんだ! あの人がいないときは、私のために格好つけてくれていたのに!!」


 嘘。

 嘘嘘嘘。

 また嘘だ。


 嘘をつかれている事実が、私の黒い炎を燃え盛らせる。


 そして、ついには現実の炎として私の身体から漏れ出した。


 もはや、確信した。

 ご主人様は嘘つきだ。

 全てを隠して、私を置いていこうとしている。

 私じゃなくて、ラスティアラさんを選んだ。


 なら、私にできるのは一つだけ。

 もう一つしかない。


 鍛錬に鍛錬を重ねた炎の剣を構築しつつ、ゆっくりとご主人様に近づく。


「…………っ!! ――魔法《ディメンション・決戦演算グラディエイト》、魔法《フリーズ》!」


 冷気が部屋の中に広がる。

 煩わしい冷気が、私の炎を消そうとしている。


 消させない。

 この炎は、ご主人様を手に入れるために必要な炎だ。

 私を置いていこうとするご主人様の足を斬るための炎だ。


 私は大きく振りかぶって炎剣を振るう。


 それをご主人様は、その異常な動体視力で紙一重でかわし、私の手を掴もうとする。ありふれた対応だ。私のスキルではご主人様の内情は捉えられない。けれど、ありふれた戦術くらいならば、予測できる。


 私の手を掴もうとする手を、逆に私が掴む。

 その手を炎で焼く。


「――ぅっ!!」


 熱によってご主人様の身体が硬直した。

 その隙をついて、炎の剣を振るう。


 しかし、それはあっけなく宙を斬った。

 ご主人様の魔力が膨れ上がる。そして、目が合う。本気の目をしていた。


 背筋が凍ると同時に、全ては決していた。 


 両腕を取られ、後ろに手を回される。

 そのまま、床に押し付けられる。


「マリア、良く聞け!! 最近、パリンクロンとかいう騎士と会ったか!?」

「パ、パリンクロン――?」


 聞いたことのない名前だ。


「いつかの奴隷市場でおまえを落札した騎士だ。人を観察するような目で見てくる、背は僕より少し高くて、商人のような格好をした怪しいやつだ!」

「そんな……! そんなことより……!」


 そんなことはどうでもいい。

 いまはご主人様を捕らえるほうが先決だ。


「マリア、何かの魔法にかからなかったか!? ありえないほど混乱しているぞ!」

「魔法……!? 混乱……!?」


 それはご主人様のほうだ。

 魔法で洗脳されたのはご主人様で、私は――


 言い返そうとして、背中から伝わる魔力の冷気に止められる。

 私が身体から炎を噴出するのと同じく、ご主人様も身体から冷気を噴出させている。その冷気が、私の炎を――黒い炎を冷ましていく。


 全身が凍るように冷たい。

 ここ最近、感じたことのなかった寒気だ。 


 それは私の力の源である炎を根元から封じていく。


「そうだ、落ち着け……。ゆっくりと、深呼吸して、落ち着くんだ……」


 ご主人様の声が耳元から聞こえる。

 言われるがままに深呼吸をして、心を落ち着かせる。


 徐々に冷静さを取り戻していく。

 身体を支配していたドロドロとした感情が冷めていく。


「え……? え、あれ……?」

「大丈夫か、マリア……。落ち着いたか?」


 冷めていくと同時に、状況も理解していく。

 家の至る所が焦げ、ご主人様に取り押さえられている。


 どうして……?

 私がご主人様に炎剣を向けた……? 

 な、なんで……?


 一対一で勝てるはずもないのに。

 こんなことをしてもご主人様が好いてくれるはずないのに。

 何の意味もないのに。むしろ、嫌われるのに……! どうして……!?

 

「す、すみません……! 私なんてことを……!」

「いいよ。わかってる。混乱のせいで心にもないことを言ったのはわかってる。謝らなくてもいい……」


 言葉は優しい。

 しかし、ご主人様は疲れた様子で私の傍を離れ、外を気にしている。


 あ、あぁあ……。

 駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ……。


 冷めた頭が、取り返しのつかないことをしたと理解する。

 ずっとご主人様の前では秘めていた炎を、吐き出してしまった。


 わけがわからない。

 頭の中が真っ白になっていき、私は謝罪の言葉を重ねることしかできない。


「すみませ、すみませんすみませんすみません……。ご主人様……」


 私は謝り続ける。


 許して欲しい。

 嫌いにならないで欲しい。

 行かないで欲しい。

 一緒にいて欲しい。


 様々な想いが混ざり、謝り続けることしかできない。


「謝らなくていい。それよりも、大丈夫か? 見た感じ、混乱はかなり収まったけど」

「はい、もう全然……。本当にすみません、私……」


 ご主人様は私の頭を撫でながら様子を窺ってくる。


 その手のひらが気持ちいい……。

 けれど、駄目だ。

 その快楽に身を任せてはいけない。

 私は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。


 なぜそうなったのかわからない。

 けど、ご主人様に謝らないといけないことだけはわかる。


「――マリア、いまから僕はラスティアラを連れてくる。すぐだ。すぐ帰ってくる」

「は、はい……。ご主人様がそう決めたなら、もちろん……」


 ご主人様の機嫌を損なってはいけないと思い、私は深く考えず答えた。


「それまで、マリアはこの家で待つんだ。鍵を閉めて、絶対に誰も入れるな」

「誰も、ですか?」

「ああ、僕でもだ。僕は窓を破って入る。玄関からは誰も入れるな」

「わかりました。何があっても、誰も入れません!!」


 言うことを聞かないと嫌われる。

 それだけが私の頭の中を渦巻いていた。


 嫌われたら、一緒にいられない。

 それだけは、駄目。

 そうなったら、私は、もう――


「じゃあ、行ってくる……。マリア」

「……はい、いってらっしゃいです。ご主人様」


 でも、このまま見送ってしまうと――


 本当は行かないで欲しい。

 もう少し傍にいて欲しい。

 何がどうなっているのか教えて欲しい。

 助けて欲しい。


 助けて。

 私を助けて、ご主人様。


 どうか、どこにも行かないで――


 ――しかし、ご主人様は行ってしまった。


 私を一人、家に置いて……。

 行ってしまったのだ……。



◆◆◆◆◆



 私は放心状態で座り込む。


 感情に振り回されるがまま、暴れに暴れてしまった。

 その末、ご主人様は行ってしまった。

 最悪の結果と言ってもいい。


 原因はわからない。

 久しぶりの癇癪だった。あんなにも心を乱したのは思い出せないくらい昔のことだ。

 しかも、癇癪は癇癪で終わらなかった。


 心の底から真っ黒な感情が溢れ出し、歯止めが利かなくなった。

 自分が自分でなくなるような悪夢だった。

 あのときの私は恐ろしいことを考えていた。


 ――炎で焼いて、ご主人様を動けなくすれば、私だけのものになる。


 確かに、そう思っていた。


 心の底から湧いた自分の気持ちに、怖気が走る。 

 私の本心とは、こうもおぞましかったのか。


 ああ、わからない。

 ご主人様がわからないどころか、もう自分自身さえもわからない。


 私は座り込んで、ただただ宙を見つめる。


「……マリア・・・


 いつの間にか、私の隣に誰かが立っていて、私の名前を呼んだ。

 ご主人様に言われた通り、戸締りはした。しかし、それなのにアルティさんは当然のように、そこにいて、ゆっくりと私の隣に座った。


 私は吐き出すように、唯一信頼できる人に縋りつく。


「ぁ、ぁああ……。アルティさん、もう何が何だかわからないんです……。助けてください。私を、助けて……」

「大丈夫、私がいる。マリアちゃんには私がいるよ」


 アルティさんは私を抱き寄せ、優しく囁く。 


「でも、私! ご主人様を自分のものにしようと、焼こうとして……! それで……!!」

「わかるよ、マリアちゃん。私にはその気持ちがよくわかる」


 私の全てを肯定してくれる。


「え……?」

「好きな人を自分のものにしたい。力づくでも引き止めたい。手に入らないのなら燃やして自分のものにしたい。よくわかる。それは当然の感情だよ」


 肯定し、「それが当然」とまで言った。

 けど、そこまで言って欲しいわけじゃない。


「と、当然……? そんな、こんなのが当然なわけない。そうじゃなくて――」


 慰めて欲しいわけじゃない。

 私はこの訳のわからない状態の理由を教えて欲しいのだ。


 どうしてこうなったのか、何が悪くて、誰を恨めばいいのか――それを知りたいだけなのだ。


 だって、もう何がおかしいのかもわからない。

 むしろ、もう――


もう私がおかしい・・・・・・・・としか思えません・・・・・・・・!! 嫌だ……! 何かおかしいのかもわからない! 助けて……! 誰かっ、誰か私を助けて……!!」


 狂いそうだ。

 いや、もう狂っているのかもしれない。


 いつからかもわからない。

 どこから狂っていたのかもわからない。


 何も信じられない。

 『目』なんて、何の役にも立たなかった。

 それどころか、大切なものを壊していって、もう私には何も残っていない。


「ごめんね。マリアちゃん」


 遠くから声が聞こえる。

 けど、もう何を言われているのかわからない。


 意識が沈んでいく。

 深い深い、ヘドロのような黒い世界へ沈んでいく。


 どこまでもどこまでも、底に落ちていく。

 黒い炎の火種がある底まで、ゆっくりと――


「できれば、マリアちゃんの最も望む形で終わらせたかった。もっとゆっくり進めてもよかった。けど、駄目だった。本当に、ごめん……」


 落ちていくけれど、一人じゃない。

 私と一緒に落ちてくれる人がいる。

 アルティさんが、どこまでも私と一緒にいてくれる。


「タイミングが良すぎた。もう、収まりがつかない。今日なら、ラスティアラは動けない。あらゆる意味で、互角のキリストと一対一になれるのは今日しかない」


 互いの熱を確かめ合いながら、混ざり合いながら、黒い火種に向かう。


 ああ……。

 やっぱりアルティさんは安心できる……。


 アルティさんだけは、私を置いていかない。

 嘘つきじゃないって、信頼できる。


「『マリアちゃんを得た私アルティ』と、『満身創痍のキリストカナミ』が、二人きりになるのは今日しかないから……」


 やっとわかった。

 これがアルティさんの言っていた親和性。


 人生が近い。

 近すぎるという意味。


 同化していく。

 意識と意識が交じり合い、炎と炎が互いを燃やす。

 私がアルティさんで、アルティさんが私になる。


「やっと、悲願が叶う。私の『悲恋の成就』が、今日――」


 こうして、私はアルティさんがずっと悲しそうだった意味を理解した。



◆◆◆◆◆



 燃える。

 ああ、何もかもが燃えていく。


 私を縛っていた全てのしがらみが燃えていく。

 邪魔だった倫理も、打算も、後先も、何もかも、もう要らないから、燃料に変えてしまおう。


 アルティさんと混ざり合った私は、明快な答えを手に入れた。


 これから成すべきことを理解した

 アルティさんの悲願の全てを理解した。


 結局、アルティさんも私と一緒だったのだ。

 一緒だから、彼女はあんなにも親身になってくれた。

 自分のことのように、真剣に考えてくれた。


「『悲恋』を成就させる……」


 届かない恋の成就。

 それだけが、アルティさんの望み。

 そして、いまとなっては、私の望みでもある。


 アルティさんと同化し、全てのしがらみを失ったことで、いま私はその望みに正直となれる。


 もう嫌なのだ。


 一人は嫌だ。

 不幸は嫌だ。

 苦しいのは嫌だ。


 何も失いたくない。

 ずっと得ていたい。

 愛しい人と一緒にいたい。


 ご主人様。

 ご主人様。ご主人様。ご主人様。

 ご主人様が欲しい。


 どこにも行かないで欲しい。

 置いて行かないで欲しい。

 一人にしないで欲しい。


 私を見て。

 私だけを見て。

 私だけを見て生きて。

 私はご主人様のためだけに生きるのだから、ご主人様も私だけのために生きて欲しい。


 ――そんな単純明快な望み。


 感情の錯綜の果てに。

 ようやく、私は真の夢を得た。 


 その夢のためならば、全てを失う覚悟もできた。

 かつてのアルティさんのように、全てを燃やすことに躊躇はない。


 ――そして、私が燃え上がる炎を見つめている内に、時が来る。


 『火の理を盗むもの』が悲しそうに、「さあ、確かめよう」と私に囁く。

 『キリスト・ユーラシア』という嘘をつくご主人様が、丘の下から姿を現す。


 私の■■の代わりとなるべくして、『目』に選ばれた優しい人。

 もう『目』では捉えきれないほど尊い人。

 英雄の中の英雄。


 ――私の愛しい人が来た。


 しかし、愛しい人は一人で迎えに来てはくれなかった。

 当たり前のように、その後ろには邪魔者がいる。


 ラスティアラさんがいる。彼女が私を応援してくれていることは知っている。

 けれど、妬ましい人。いなければよかった人。


 そこにラスティアラさんがいるだけで、ご主人様はその光に引き寄せられてしまう。どれだけ彼女が私を応援していると口で言っても、そこにいるだけで邪魔なのが現実だったのだ。


 忌まわしい。

 何もかもが忌まわしい。

 優しくて眩しいラスティアラさん。ちょっかいをかけるフーズヤーズの騎士たち。間に割り込もうとする新たな仲間。誰も彼も、全てが、邪魔で仕方がない……!!


 私とご主人様、二人だけでいいのに。

 二人だけで、慎ましく、幸せに暮らしていければ、それだけで私はいいのに。

 そんなささやかな私の幸せを奪おうとしているやつらが一杯いる。


 ――燃やさないといけない。


 アルティさんも「そうだ」と同意してくれる。


 今日私は、ラスティアラさんのせいで置いていかれた。

 だから、奪い返さないといけない。


 ラスティアラさんから、ご主人様を奪い返す……!

 だって、ご主人様を先に見つけたのは、私だ……!

 私だったんだ……!!


「――ご主人様を、返し、て……。カ、エシテ……――」


 業炎の一部が、口から零れ出た。


 一度外に流れてしまえば、二度と留まることはできない。

 身体の中の炎全てが出口に向かって、奔り出す。

 業炎という名の私の想いが漏れていく。


 この業炎で、何もかも燃やしてしまおう。

 そうすることでしか、私の悲恋は成就できない。


 その果て、全てが■■のように灰となって消えると、『目』が教えていても。

 全ての結末を知るアルティさんが悲しそうに笑っていても。


 私にはもう、燃やすことしかできないのだから――





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