63.マリア・ディストラス



 燃える。

 ああ、何もかもが燃えていく。


 ご主人様に任された大切な家が、私の居場所だったところが、燃えていく。


 いつの間に……。本当に、いつの間に……。

 こんなにも溜まっていたのだろうか……。


 それはボコボコと泡をたてながら、ここから出せと絶叫する赤黒い感情。

 ヘドロのように粘着性があって、心の底で煮え滾り、抑えつけて抑えつけて密度の高まりすぎた燃料。


 ――狂愛と嫉妬。


 始まりは一つの火種だった。

 火の理を盗むものによる新たな世界を生む魔法の火種。


 その火種は心に溜まった全てを燃やし、心を満たす業炎へと変えた。

 業炎が感情を燃やし、照らし、曝け出す。

 私が本当に求めているモノの影を、くっきりと心に映す。


 とある■■の日常を、影絵のように映し出した。


 そう。

 私はそこに帰りたいはず・・だった。 


 戻りたいだけ。

 あの幸せだった場所へ。

 故郷へ。

 過去へ。

 あの素晴らしき日々へ。


 あの日々を、平穏を取り戻したかった。


 だって、あそこでは誰もが幸せだった。

 ■がいて、■がいて、■がいて、友人がいて、一族がいた。


 ファニアの辺境。

 面白いものなんて一つもない。

 田舎の中の田舎。


 畑仕事をして、狩りをして、家事を手伝って、忙しい毎日だった。

 けれど、みんな笑っていた。

 みんな、確かに笑っていたんだ……。


 そして、その場所は、私の『目』が壊した……。


 この『目』は物事の本質を見てしまう。

 見つけるとか、見抜くとか、見えるとかじゃなくて――見てしまう。


 だから、野良仕事をしていても、すぐ根本的な改善に目がいってしまって手が止まる。狩りをすると、伝統的な手法なんて使っていられなくなる。家事をしていれば、私のすることではないと思ってしまう。


 その度に怒られた。

 少し懐かしい。


 ■■はそんな私を見て、優しく諭してくれた気がする・・・・。「おまえは、他の子より見る目がある」って褒めてくれた。「その『目』は天から与えられた贈り物だよ」ってスキルについて教えてくれて、「その力で、村のためになることを見つけてくれ」、と頼まれた記憶が薄らとだけある。


 薄らと。

 いまとなっては、その■■の顔も思い出せない。


 どこから、間違っていたのだろうか?

 村に不穏な噂が流れ始めたときから? 戦争になったときから? いや、決定的だったのは、軍が村に駐留し始めたときから? 軍の指揮官に、私が口を出したときから? 私が戦いに勝てると言い出したときから? 私が戦いを――


 違う。

 そうじゃない。

 そんな過程は重要じゃない。

 そういう問題じゃないことが、『目』のせいでわかってしまう。


 結局、何があっても私の村は滅んでいた。軍が来るずっと前から、全ての運命は定まっていた。つまるところ、あの村は『立地』が悪かった。そんな単純なこと。


 それが私にはわかってしまう。

 村の滅びは運命だった。私の『目』がそれを加速させたのは確かだ。しかし、真因はそうでないと、私には見える。


 もし私の願いどおり、あの素晴らしき日々に戻れたとしても、また同じ運命を辿るだけだろう。

 あんな小さな村に住む――珍しい黒髪黒目の一族は、この時代で必ず滅びる運命にあった。それだけのことだ……。


「――だから、私は過去に戻りたいわけじゃない」


 その声に、火の理を盗むものは悲しそうに返す。


「そうだろうね……」


 なら、私はどうしたいのだ?

 私の望みは?

 私の欲しいものは?


 心の中、炎で生まれた影絵を見る。

 私の心を映し出した世界を、もう一度見る。


 そこには故郷なんて――そんな懐かしいものは一つもない。

 そんなもの、とうに燃えてカスとなっていた。 


 ■、■、■、滓となって思い出せない……。


 そうだ。

 『代償』で……。

 代償で燃え尽きた・・・・・・・・


 それは覚えている。

 とても大切なものだったのに、犠牲にした。


 だから、あとは人影が一つ残っているだけ。

 私の一族と同じ黒髪黒目を持つ人。

 残ったのは、あの人だけ。

 出会ったときから、ずっと私の心の底に澱みを生み続けた人。


 ――そして、いまやっと、その人が現れる。


 火の理を盗むものが悲しそうに、「さあ、確かめよう」と私に囁く。


 キリスト・ユーラシアという嘘をつくご主人様が、丘の下から姿を現す。


 ■■の代わりとなるべくして、『目』に選ばれた優しい人。

 そして、『目』では捉えきれないほど尊い人。

 英雄の中の英雄――


 ――私の愛しい人。


 燃える炎の行き着く先。

 私のご主人様が、やっと帰ってきてくれた。



◆◆◆◆◆



 火の理を盗むものは、ただの恋に興味はない・・・・・・・・・・


 私の恋心が歪なものに変質しかけ、その条件を満たし――火の理を盗むものと真の意味で出会ったのは聖誕祭三日前だった。


 そして、ご主人様とラスティアラさんにお祭りへ誘われ、代わり映えしない催しを回っているとき、再会してしまった。

 その帰り、私たちは二人きりとなった。

 それが真の始まり――


「――素晴らしい! 君は素晴らしいよ! ああ、なんていじらしいんだ! マリアちゃん!」


 火の理を盗むものアルティさんは、私の恋を「素晴らしい」と評した。


「いじらしい? 愚かしいの間違いでは?」

「いやいや、君はいじらしく、可愛らしいよ。決して、愚かではない。君は普通の女の子として、普通の想いを抱いている。惜しむは、相手の悪さだね。相手があのラスティアラとなると、誰だって分は悪い」

「そうですね。誰だって、分は悪いでしょう。それくらい、完璧な人です。まるで、『作りもの』みたいに綺麗で、完璧で……」


 私は深い溜息をつきながら、現状の戦力差に絶望する。


「ふふっ、『作りもの』か。言い得て妙だね。確かに、彼女は反則的な『作りもの』だよ」

「私は神を恨みます。どうして、もう少し私の背を大きくしてくれなかったのか……。ラスティアラさんのようにスタイルがよくて、髪だってサラサラで、目つきも良ければ、少しはご主人様も振り向いてくれるかもしれないのに……」

「私はマリアちゃんにもマリアちゃんの魅力があると思うけどね」

「ははっ、私のどこに魅力が? ちっこくて、胸はぺたんこで、子供みたい。さらに、髪はボサボサで、目つきも悪い。女性としての魅力は全くありませんよ」


 自分の特徴を挙げながら、私は気分が泥沼に沈んでいくような気がした。

 自然と家路に進む足も重たくなる。


「そんなことないと私は思うけどね」

「そんなことないとしても……何より、私にはご主人様の隣に立つ資格がありません。ご主人様が望んでいるのは迷宮探索の役に立つ強さです。私には力が足りません……。力が……」

「ふむ……。力かい……」


 数日前の出来事を思い出す。

 迷宮で役に立つどころか、足を引っ張ることしかできなかった。私は二度と、迷宮で居場所を見つけることは出来ないだろう。


 ただ、あのとき、ラスティアラさんは遠回しにだが「端から、死なないように、破綻しないように」と、私の恋を応援してくれると言ってくれたのが救いだ。

 『目』と『目』が合ったから、間違いない。


 しかし、幸先は良くない。

 ご主人様に近づく口実が一つもないのだ。「この家で、毎日料理を作って欲しい」と言われて、なんとか絶望から帰ってこれたものの、まだまだ先は暗い。


「はあ……」

「そんなに落ち込まないでくれ。こっちまで悲しくなる」

「す、すみません……」


 アルティさんは本当に悲しそうな顔でこちらを窺っている。

 申し訳なくなり、暗くなった表情を無理矢理にでも立て直す。


「いや、謝らないでいいさ。それよりも、力だったね。君に足りないのは」

「あ、はい。力がないと、ご主人様の役には立てませんので」

「それに関しては、私に手がある。君を強くする方法がね」

「え? ほ、ほんとですか!?」


 大声を出して、私はアルティさんに詰め寄ってしまう。


「ああ、もちろんだとも。私はいつでも、報われない恋をする少女の味方だからね」

「それって、どんな方法なんですか!?」

「君に魔法を教えてあげよう。火炎魔法の専門家プロフェッショナルである私が、君の火炎魔法を最高のものに昇華してみせる」

「魔法を、教える……?」


 アルティさんが火炎魔法のプロであることは、ご主人様からも聞いている。

 その言葉に嘘はないように見える。


「手段は少しばかり、強引だがね」

「強引?」

「ああ、強引も強引。なにせ、私の魔法術式の詰まった血を、直接飲むのだからね」

「血って。あの血を飲むんですか……?」


 聞いたことのない話だ。

 術式の刻まれた魔石を飲むというのならばわかるが、血を飲むなんて話は聞いたことがない。そんなことをしても、魔法が身につくとは思えない。


「君が疑問に思うのも無理はない。この手法は、この時代にない・・・・・・・手法らしいからね。けれど、保証するよ。最高峰の火炎魔法使いとして保証する。これで君は、最高峰の火炎魔法使いに近づける」


 アルティさんは真剣な眼で私を見つめる。


「けど、血を飲んでも術式なんて、受け継げるはずが……」

「余り知られていない話だがね。血を飲むのと魔石を飲むのは、結局同じことなのさ。魔石のほうが、覚えやすく改良されているのは確かだよ。あれならば、属性さえ合えば、誰でも覚えられる。けど、仕組みは同じさ。もちろん、血で魔法を覚える条件はとても狭い。本当に、とてもとても狭い。だから、この手法は浸透してなくて、誰も知らない」


 アルティさんは魔法について詳しい。少々奇抜なことを言うものの、学院に通うフランリューレさんより見識が深いのは確かだ。


「その条件を私はクリアしているんですか……?」

「ああ、している。幸か不幸か、完璧だ。完璧な親和性と言っていい」

「一体、どんな条件を……?」

「うーん、本当は秘密なんだが……。他ならぬマリアちゃんだから、少しだけ教えよう。要は、血を与える側と飲む側の共通性さ。私とマリアちゃんは同じ悩みを持ち、似たような性格をしている。あと人生も近い。ほんと近いね。これが重要だ」

「え、えっと……。それはつまり、アルティさんも叶わない恋を……?」

「ふふっ、そうだよ。私も君と同じさ」


 それは私に衝撃を与える。

 どこかで、こんな悩みを持っているのは私だけと思っていた。しかし、思わぬ仲間を見つけて、驚く。


「だから、こんなにも気をかけてくれるんですね」


 そして、頭の片隅にあった疑問も解消される。

 異様なまでに私へ肩入れするのを、以前から怪しく思っていた。しかし、そんな仲間意識があったのならば、それにも納得できる。


 『目』もアルティさんが私に好意的であることを認めている。


「そういうことさ。とにかく、私の血を飲めば、全てがわかるよ。どうだい、飲むかい?」


 アルティさんは笑顔で頷く。


 そして、そのまま腕を出して、血を飲むかどうかを聞く。


 私は悩む。

 別に、虚偽の可能性やリスクに悩んでいるわけではない。


 アルティさんに迷惑をかけないかと悩んだ。

 彼女はいつも急いでいる様子だったし、対価もなくここまでしてもらうのは気が引ける。


「ほ、本当に構わないのですか? 魔法って魔法使いにとって、とても大切なもので、そう簡単に人へ分け与えていいものじゃないのでは?」

「構わないよ。私はマリアちゃんの力になりたい」


 即答だった。

 アルティさんは迷いなく、私の力になりたいと言った。


「な、なら、飲みます……。それで、力を手に入れられるのなら、私は飲みます」


 それに私は応える。

 迷いなく答えた私を見て、アルティさんは薄く笑う。


「ふふっ。いい答えだ」


 アルティさんは手首を引っ掻き切り、血を垂らした。


 容赦のない自傷行為に驚いたものの、熟練の魔法使いならば、このくらい問題ないようだ。私は意を決して、アルティさんの手首に口を近づける。


 血が零れ落ち、私の舌に落ちる。

 舌に絡みつき、喉を通り、体内に染み込んでいく。鉄の味が口内に広がり、他人の血を飲んだという実感が湧く。


 それと同時に腹の底から熱い何かが込みあがってくるような気がした。

 体内の魔力が驚いたような、血が騒ぐような、新しい何かを手に入れた感覚だ。


 同時に、気分が高揚してくる。


「これで私の持つ火炎魔法の全てが、君の血に記憶された」


 私の様子を見てアルティさんは頷く。


「こ、これだけで、全てが……?」


 あっけなかった。

 魔石を飲んだときよりも楽な気がする。


「と言っても、すぐには使えないけどね。馴染むのに時間はかかるし。いきなり高位の魔法を使えば、負担も恐ろしいことになる。まずは手軽な戦闘用のをいくつか練習しようか……」


 驚く私を見て、アルティさんは薄く笑って、手のひらから小さな炎を出す。

 無詠唱の炎だ。

 しかし、それが迷宮で通用する炎だとは思えない。


 私は少しばかり焦る。


 火炎魔法の選択肢が増えても、20層以降の化け物たちに通用しなければ意味がない。

 私が力を欲するのは、全てご主人様についていくためなのだ。


「す、すみませんっ! できればですが、強力な攻撃魔法の練習をさせてください……。迷宮深層の巨大モンスターにも通用するものを!」


 声を荒げて、強い魔法を望む。

 しかし、それをアルティさんは柔らかく受け止める。


「ふふっ。やはり急ぐのかい?」

「急がないと、何もかもが間に合わなくなる。そんな気がするんです」


 漠然とだが、そう私は思っている。

 単純に、ご主人様との親密度において、ラスティアラさんと差が開いている一方というのもあるが……なにより『目』が、「時間がない」と私に訴えかけていた。


「しかし、無茶な魔法運用には、それ相応の『代償』がいる。魔法は精神で成り立つ技術だ。その魔法で無茶をするということは、精神を酷使することに他ならない」

「……大丈夫です。お願いします」


 アルティさんは脅すように、真剣な目で私の決意を問う。もちろん、私に躊躇はない。何かを犠牲に力を手に入れるなんて、都合のいい話が目の前にあるのだ。飛び込まないわけがない。


 いままでの私は、何を犠牲にしても、力を手に入れられなかったのだから……。


「……ああ、やっぱり」


 それに対し、アルティさんは小さく呟いた。私にかけた言葉ではない。

 アルティさんが自分自身にかけた言葉のようだ。


 どういう意味なのか聞こうとして、それはアルティさんの力強い返答に遮られる。


「いい覚悟だ、マリアちゃんっ。では、少しばかり負担がかかるが、30層でも通用する火炎魔法を教えようか。火力特化の火炎《ミドガルズブレイズ》、近接専用の火炎《フレイムフランベルジュ》。どちらも威力は凄まじいが、コントロールの難しい魔法だ。心して、修練して欲しい」


 そう言いながら、アルティさんは無詠唱で片手から炎の蛇を出した。

 その禍々しい炎を見て、私は息を飲んで頷く。


 ――こうして、私たちは家路を逸れ、町外れの空き地に移動していく。


 まず魔法の基本、火炎魔法のコツをアルティさんに教えて貰う。

 その途中、自然とアルティさんを師匠と呼ぶようになっていた。アルティさんが二人きりのときは、そう呼ばれたがっていったのだ。私も師匠と呼ぶことはやぶさかではなかった。事実、彼女は師匠そのものだ。


 数時間もしないうちに、私は《ミドガルズブレイズ》《フレイムフランベルジュ》の両方を修得していた。アルティさんとは違い、長い詠唱を必要としていたが、この短期間で高位の魔法を修得したのは、普通ならば考えられないスピードだった。


「――こんなすごい魔法を、もう使えるように……」


 私は自分の生み出した炎の蛇が信じられなかった。

 恐ろしい殺傷力を持った炎の蛇が、自由自在に私の周囲を泳ぐ。


「私とマリアちゃんの相性の良さのおかげだね。あとは、そうだね……。君の得意な《ファイアフライ》もアレンジしてみよう。あれは使い方次第で化ける魔法だ」


 夜も遅くなってきたので、あとは流す程度の練習だった。

 しかし、達人であるアルティさんの指導のおかげで、さらに私の魔法の選択肢は増えていく。


 アルティさんが帰るとき、私は大きく頭を下げてお礼を言った。


「――ありがとうございました! アルティ師匠!!」

「いや、お礼はいらないさ。好きでやってることだからね」

「いえ、絶対にいつか恩はお返しします! おかげで、私もご主人様の力になれそうです。これで諦めなくても――」

「ふふっ、本当にマリアちゃんはキリストが好きなんだね。けど、無理だけはしないように。私の教えた火炎魔法用の詠唱は、どれも特殊だ。多用すれば感情の熱が増す。マリアちゃん用に、『過去を燃料に、いまの恋心を燃やす』類のものばかりにしたが、それでも推奨はしない」

「大丈夫です。恋の熱が増すくらいなら、むしろ大歓迎です」

「それでも火傷しないよう、気をつけてくれよ」

「はい!」


 私は確かな力の手応えを胸に、笑顔でアルティさんに返事をする。


 それをアルティさんは、なぜか悲しそうに見つめ、最後には笑って去っていった。


 私も家に帰る。

 その日、私の足取りは、かつてないほど軽かった。 


 

◆◆◆◆◆



 翌日。


 結果から言うと、それでも私は迷宮での探索についていけなかった。

 当然だった。私が強くなっても、それ以上のスピードで二人は強くなっていく。


 しかし、手応えはあった。以前ほどの絶望は感じなかった。

 応援してくれているラスティアラさんも「また」と言ってくれた。


 私は一人残された家の中で、自分に足りないものを分析する。

 まずラスティアラさんに言われた継戦能力。これが足りないのは間違いない。そして、ご主人様が気にしている自衛力のなさも問題だ。


 この二つを解決しなければ、私に未来はない。


「もっと力を……。魔法を練習しないと……――」


 私は汗を拭いながら、家の外に出て魔法の修練を再開する。

 先の迷宮探索で倒れそうになったが、弱音は吐いていられない。


 魔法のコントロールが上手くなれば、火力の調節ができ、魔力の節約が出来る。魔法の発動速度が上がれば、隙がなくなる。練習すればするほど、課題は解消できるのだ。


 気絶の直前まで魔法の練習をして、身体を休める代わりに家事をする。

 それを私は繰り返し続けた。


 朦朧とする意識の中、様々なものが失われていく気がした。しかし、それに反比例して、魔法の錬度が増しているのも確かだった。


 ご主人様のためならば、少しも苦しくはなかった。


 私は火炎魔法を延々と繰り返し、取り返しのつかない代償を払っていく。それが、どこか心地よくもあった。


 ――そして、途中。料理をしながら休憩しているとき、二人が帰ってきた。


 なにやら、迷宮の奥で問題があったようだ。

 炎と熱に関わる問題だったので、アルティさんを頼るという話になる。本当ならば、私もついていきたいところだ。


 けれど、それを我慢して、家での魔法の修練に時間を費やす。


 ただ、その後、帰ってきたご主人様の様子がおかしかった気がする。

 私が目を合わせようとすると、絶妙なタイミングで目を逸らすのだ。


 どこか顔が紅潮している気がする。アルティさんに会ってきてから、ずっとこの調子だ。もしかしたら、アルティさんがいらぬ気を利かせたのかもしれない。


 私は『目』でご主人様が照れているのを確認する。久しぶりにご主人様の人間らしい感情を見つけた気がする。


 それが嬉しくて、私はご主人様に深く問い詰めるような真似はしなかった。

 それを見つめるだけで私は満足だった。


 その夜、私は布団の中で、アルティさんのおかげで色々な希望が見えてきたと笑う。

 明日は早起きして、また魔法の修練をしようと心に決めた。


 妙に風が騒がしかった・・・・・・・・気はするが、穏やかな気持ちで眠ることが出来た日だった。


 さらに翌日。

 朝早くから起きて、魔法に磨きをかける。

 二人が起きる頃には朝食の準備を始める。


 料理をしている際も、魔法の練習は怠らない。

 自前の炎を使って料理をする。

 火力の調整を誤れば、簡単にフライパンが溶けてしまうので、ちょっとした緊張感の中で集中力と平常心も同時に養っていく。


 そうしていると、自分の意思に反して炎が変形していった。私は焦って、魔力を込めて、炎を抑えようとするが――その炎は口を模って、喋り出した。


「マリアちゃん、待って。私だ。アルティだ」

「へ? ア、アルティさん?」


 いつか、見たことがある光景だ。

 ご主人様と二人で迷宮の10層に行ったとき、炎が喋っていたのと同じだった。


「驚かせてすまない。けど、こうしたほうが早くてね。ちょっとマリアちゃんと話したいことがあるんだ」

「なるほど。これ便利ですね、師匠。それでどんなお話が?」

「そのうち、これも教えるよ。けど、今回は別の魔法を教えようと思ってね」

「え、また教えてくれるんですか?」


 自然と私の声が大きくなった。

 アルティさんは忙しそうな人だ。次に会えるまでは長いと覚悟していた。けれど、思いがけず、こんなにも早く次の魔法を教えてくれるみたいだ。


「ああ、キリストたちに頼まれてね。迷宮の溶岩を取り除く魔法を教えることになった」

「溶岩をですか……?」


 ご主人様に頼まれたというのも気になるが、溶岩を取り除かなければならない状況というのも気になる。


「24層が溶岩地帯でね。そこを通るのに、この魔法があったら便利なんだ。君が覚えていれば、迷宮で役に立てる」

「なるほど……」


 本当は新しい攻撃魔法が欲しかったところだ。

 ここで溶岩を取り除く魔法を覚えても、私の出番はその24層だけだ。普遍的に通用する魔法がなければ、ついていくことはできない。


「ふふっ。心配しなくても、他の魔法も色々と教えるよ。そうだね……今日のお昼、初めて出会ったときの酒場で待ち合わせにしよう」

「あ、はい、わかりました」


 私の本音を察して、アルティは笑いながら他の魔法の伝授を約束してくれた。


 会話が終わるのに合わせて、炎の形状が元に戻る。

 私は頬を綻ばせて、調理を再開していく。この調子で魔法が増えていけば、私にも迷宮での役割を確立できるかもしれない。そんな希望を抱いて、私は料理を作る。


 その日、朝食を摂ったご主人様とラスティアラさんは迷宮探索に向かい――しかし、すぐに探索を切り上げて帰ってきた。


 ラスティアラさんは言葉少なく、フーズヤーズの実家のほうに帰っていった。

 そして、気を落としているご主人様だけが家に残る。


 二人きりで色々とできるチャンスだった。しかし、ここでアルティさんとの約束を破るわけにはいかない。魔法の修練は長期的な目で見て、絶対に必要だ。ここで一時の快楽に流されては駄目だ。


 私はご主人様を置いて、アルティさんに合流した。


 いつかのときと同じ席にアルティさんは座っていた。そして、そこには見知らぬ男も一人座っている。


「やあ、マリアちゃん。こっちだよ」

「あ、はい」


 私はアルティさんに導かれるまま、席に着く。


 そして、背の高い精悍な顔立ちの男に礼をする。

 アルティさんの知り合いだろうか。

 私が目でいぶかししんでいると、アルティさんが男について教えてくれる。


「ああ、こいつは気にしなくていい。すぐにいなくなる。ま、古い友人ってところだよ」

「ははっ、古い友人・・・・ね。確かに、そんなところだ。お嬢ちゃん、気にするな。すぐに俺は退散する」


 そう言って男は言葉通りに、席を立って去っていった。


 男が去ってから気付く。

 私はあの男と会ったことがある。『目』の力で、いまの短い間で、過去に会った男との特徴を一致させた。


 確か、私がご主人様に奴隷として身請けしてもらったときに、あの男も同じ場所にいた。

 詳しい話は知らないが、ご主人様の知り合いでもあるはずだ。


 もう少しきちんと挨拶したほうがよかったかと後悔する。けれど、『目』がそれを否定する。あの男とは、極力関わり合いにならないほうがいいと助言してくれている。


「それじゃあ、まずは何か食べようか。お昼だからね」


 そう言って、アルティさんはメニューを私に渡す。

 そして、何事もなかったかのように、私たちはお昼をとり始めた。


 お昼をとりながら、アルティさんは世間話のように私のことを聞いてくる。


「最近はどうだい? 進展しそうかい?」

「いえ、余り変わりません……。けど、教えてもらった魔法のおかげで、強いモンスターを倒せるようにはなりました」

「それはよかった」

「私の魔力量だと、すぐに息切れしてしまいます。結局、迷宮はご主人様とラスティアラさんの二人っきりです。ままなりません」


 私はテーブルに置かれたスープを掻き混ぜながら、いまの自分の欠点を報告する。


「そうかい……。私はマリアちゃんを応援しているから、それは悲しい限りだ……」

「……けど、いつかは、私だってラスティアラさんのようになってみせます。今は無理でも、いつかは……!!」


 私は前向きに意気込みを語る。

 しかし、それを聞くアルティさんの顔は沈んだままだ。


いつかは・・・・、か……」


 アルティさんは何かを思い返すように、悲しい表情を浮かべた。


「ど、どうしました?」

「いや、その「いつか」が問題なんだ。さっき聞いたところによると、キリストとラスティアラの関係が急変しそうだとわかってね……」

「急変?」


 確かに、今日の二人は変なところがあった。しかし、ご主人様があたふたしているのはいつものことだし……かと言って、ラスティアラさんも精神を乱している様子はなかった。『目』での確認だから間違いない。


「ふふっ。マリアちゃんの思っている通り、あの二人は変わろうとしていない。あのままでいいと思っている。あの二人はそうだ。けれど、周囲がそれを許さないみたいでね……。少しばかり、色々と急がないといけないみたいだ」


 周囲。

 私の知っている限りでは、ご主人様の周囲といえば、働き先である酒場の人間たちくらいだ。

 私は酒場の店員に『目』をやって確認する。アルティが言っているのは、ここの人たちのことではないようだ。


 残るは、ラスティアラさんの周囲ということになる。つまり、迷宮で遭遇した騎士たち。確かに、あの人たちは二人の仲を進展させそうな厄介さを秘めている。


「あの騎士たちが……? ――い、急ぎましょう! 私に魔法を教えてください!」

「ふふっ、迷いがないね。さらなる高位の魔法の修得は、身体に障る。それでもかい?」

「もちろんです」

「それじゃあ、場所を移そうか」


 私たちは酒場での食事を終えて、人の少ない空き地に移動する。

 街から遠いところにある草原だ。ヴァルトには開拓されきっていない土地が多い。こういったところならば、人の目も少ない。


 そこでアルティさんは表情を真剣なものに変えて、鋭い第一声をあげる。


「さて、見たところ……マリアちゃん、君は無茶を繰り返してるね。実戦での魔法の連発。それに独自の修練で、身体がぼろぼろだ」


 しかし、責めるような雰囲気ではない。

 確認しているといった感じだ。

 アルティさんほどの魔法使いになれば、一目で看破できてしまうのだろう。私は正直に頷く。


「はい……」

「ふむ……。予想通りというかなんというか。私そっくりと言わざるを得ないね」


 そう言って、アルティさんは表情を緩ませ、懐かしむように笑う。


「アルティさんとそっくりですか?」

「ああ、そっくりだ。だから、いまの君の症状のことも、よくわかる」

「症状? 私、何か病気でも患ってしまったのですか?」


 症状と聞いて、ぎょっとする。

 もし感染の可能性のある病気ならば、ご主人様と一緒にいられなくなるからだ。


「いや、病気じゃあない。前に言っただろう? 魔法で精神を酷使すれば、相応の『代償』がいるって。いま君は、君の思っている以上に、精神こころにダメージを受けている」

「え、そうなんですか……?」


 精神にダメージと聞いても実感はない。

 むしろ、以前より希望を持てている分、心は楽だ。


「私のときは、酷使し過ぎて記憶障害まで発生した。どうだい? 何か思い当たることはあるかい? 思い出せないものとかあれば、早めに言ってほしい」


 記憶障害?

 特にはない……はずだ。


「い、いえ、いまのところは……」

「高位の火炎魔法の運用は、いつのまにか古い記憶を燃焼していることがある。身の丈に合わない魔法を使っている君は、常にその危険が付きまとう」

「古い記憶を、燃やす……」

「過去を燃やして、いまを燃え盛る。それが火炎魔法の真髄だからね。私が教えた詠唱は、そういった術式が含まれている」


 記憶なんて、どうせいつかは失われるものだ。

 それを燃やすことを私は忌避しない。「精神を酷使する」と聞いた時から、その程度のことは覚悟し終わっている。


「構いません。力を手に入れるためなら、過去なんていりません……!!」


 それを聞いたアルティさんは、また悲しそうに笑った。


「ふふっ、だろうね……。そう、だろうね……」


 笑いながら、アルティさんは以前と同じように、手首を掻き切る。

 私は彼女の意図を汲み取り、手首に唇を近づけた。


 ――そして、その日、私は魔法だけでなく、詠唱の成り立ちについても学んだ。


 詠唱と魔法の関係性は深く、詠む言葉によって魔法の効果は代わっていく。

 一般的に、魔法を使用するにはMPが消費されると思われている。しかし、魔法の造詣に深いアルティさんは、それ以外の方法も教えてくれた。


 MPがなくとも魔法を撃つ方法。

 記憶を代償とする詠唱。感情を代償とする詠唱。命を代償とする詠唱。

 様々な『詠唱』を、私は身につける。

 これを上手く利用すれば、連発しても息切れしなくなる。


 私は魔法への理解が増し、強くなっていくのを実感する。


 ただ、詠んでいくうちに、心から大切なものが剥がれて落ちていくのも感じた。

 それを承知でアルティさんは私に教えている。

 私も覚悟している。


 ご主人様から離れるくらいなら、死んだほうがマシだ。


 死んだ方がマシ……。

 そう思って私は――


 頭に熱がこもって、眩暈がする。


 いつのまにか、想いのカサが増しているようだ。

 そして、その正体が火炎魔法であることも理解する。


 数ある詠みの内の一つ、感情を『代償』とする『詠唱』。

 それが想いを水増ししているのだろう。

 『代償』とは、失うだけではない。増幅させることも、その内に含む。


 自分という存在が、魔法によって改変されている事実に寒気がする。

 生理的な嫌悪感が支配し、身体が悲鳴をあげているのがわかる。


 けれど、構わない。

 想いが失われるのならともかく、増えるのならば歓迎だ。


 アルティさんは、そういう詠唱を選択して私に教えている。

 彼女は私の恋を全力で応援してくれている。そのための『詠唱』であり、『代償』だ。私は何の不安もなく、魔法を練習し続ける。


 熱がこもる。

 熱は身の内の感情を沸騰させる。


 感情はドロドロとしたものに変わり、果てには――


「今日は、このくらいにしておこう」


 アルティさんが私を見下ろしていた。

 修練を繰り返していくうちに、いつの間にか倒れてしまっていたようだ。


 私は汗を拭いながら、立ち上がる。


「ま、まだ、やれます……」

「うん、わかってるよ。けど、そろそろキリストが家に戻るからね。家で出迎えて上げなよ」


 アルティさんはご主人様の動向を把握できているようだ。

 確か、炎があるところならば、どこでも感覚器官を拡げられると聞いた。何とも羨ましい能力だ。それが魔法でなく能力だというのだから、アルティさんの正体の気になるところだ。


 深くは詮索しない。何者であれ、アルティさんはアルティさんで、私の味方だ。

 『目』からも、それがわかる。

 

「わかりました。今日はありがとうございました」

「いや、いいよ。全ては私のためでもあるんだ」

「アルティさんのため?」

「私は届かなかったけど、君が届くことで気が晴れるんだ。そう、気が晴れる……。そのために、私はマリアちゃんを利用しているんだよ……」


 アルティさんは自嘲しながら、そう答えた。

 どこか自虐しているような様子が窺える。

 私は恩人にそんな顔をさせたくないと思い、励まそうとする。


「私はアルティさんのことをよく知りません。事情も詳しくはわかりません。……けど、それは悪いことじゃないと思います。普通は、自分で成しえなかったことを成しえようとする人を見たら、邪魔すると思います。汚い感情で邪魔すると思います。だから、それをせずに、応援できるアルティさんは素晴らしい人です」


 私は明確に伝える。

 アルティさんとラスティアラさんは素晴らしい人で、自分が汚い人間であることを、はっきりと言葉にする。


 そう。

 汚いのは私だけだ……。


「ふふっ、そうか……。ありがとう、マリアちゃん……」


 それを聞いたアルティさんは目を見開き、頬を綻ばせ――どこか遠くを見て、お礼を言った。


 アルティさんの胸中を、様々な感情が錯綜していることが見て取れてしまう。

 しかし、その全様は『目』でも把握しきれない。複雑に絡み合った底の深い感情だ。


「アルティさん……?」


 その感情に戸惑い、名前を呼ぶ。


「本当にありがとう、マリアちゃん。それじゃあね」


 それを振り切り、アルティさんは場を去る。

 着ている服を燃やし炎となって、ふっと消えた。


 それは蝋燭の最後の炎のように、どこか物悲しさを漂わせていた。


 それを見送った私は、アルティさんの心を察しきれず、もやもやとした気持ちになる。


 しかし、アルティさんの教えてくれたご主人様が家に戻るという情報を無駄にしないため、私は急ぎ足で家に戻るしかなかった。


 それが本当ならば、先に帰って、食事を用意してあげないといけない。


 料理は私に残された意義であり、居場所でもあるのだ。

 私は私の居場所である家まで帰る。 


 そして、アルティさんの情報通り、料理の準備を行っているとご主人様は一人で帰ってきた。


 けれど、その様子がおかしい。

 ご主人様の様子が、いつかのときに戻っている。


 初めて出会ったときの雰囲気。

 私を奴隷市場で見つけたときの表情と全く同じだ。

 たった一人で彷徨う迷子のような……そんな顔。


 何かが崩れ始めているのを感じた。

 私は心配になって、早足でご主人様に近づく。


「ご主人様、どうしたんですか……?」


 ご主人様は視線を彷徨わせ、迷ったように言葉を紡ぐ。


「いや……、ラスティアラが明後日……」

「明後日? ラスティアラさんが何か?」

「聖誕祭の日に……」

「はい」


 どうやら、ラスティアラさんのことでご主人様は心を乱しているようだ。

 その事実に心が泡立つ。

 しかし、それを悟られぬように心を抑え、ご主人様の言葉を待つ。


 ご主人様は迷った様子の末、搾り出すように声を出す。


「聖誕祭の日に、また遊ぼうってさ」


 搾り出すように、嘘をつかれた。

 それが『目』でわかってしまう。


 いま、ご主人様は、私に説明する必要はないと判断した。

 泡立つ心が、嵐のように荒れ狂っていくのを感じる。

 奥歯を噛み締め、私は感情を必死に落ち着かせた。


「……はい。いいですよ」


 私は頷く。

 嘘をつかれたのはわかっている。

 それも、いつもと違い、私を慮っての嘘でないこともわかる。けれど、憔悴しきったご主人様を見ていると、それ以上のことは言えなかった。


 いまのご主人様に必要なのは休息だ。


 ご主人様はゆっくりと自室に向かって歩いていく。

 その背中を睨むように、見届けて、一人呟く。


「――私には、悩みを明かすほどの価値もないってことですよね」


 いつもの取り残されている感覚が強まっていく。


 いま、ご主人様はラスティアラさんのことで頭が一杯だ。

 そこに私はいない。


 私はどこにもいない。

 それがわかってしまう。

 『目』で確認するまでもない。


 私は拳を握り締め、台所に戻る。

 火炎の魔法で火力を強めて、早々に料理を終わらせる。


 居間に戻ってこないご主人様のために料理を保存し、私は一人で屋外に出る。

 

 人の少ない丘から、さらに人の少ないほうへ歩く。

 そして、誰もいないのを確認してから、魔法を練習する。


 私の心を映し出したかのような荒れ狂う炎が、空を舞った。


 何度も、何度も、何度も、『詠唱』を重ねる。

 アルティさんに多用してはいけないと言われたものを、何度も詠む。


 詠めば詠むほど力が沸いてくるのは確かだった。

 なにより、感情を吐き出しているようで楽だった。心地良すぎた。


 身体が悲鳴をあげ、心が壊れていく。

 それがとても、とても、とても楽で――


 炎のコントロールが、恐ろしいスピードで上手くなっていく。


 『詠唱』の速度もどんどん上がり、もはや口に出さなくても『詠唱』の効果を得られるようになってきた。これが、アルティさんの言っていた無詠唱という技術だろうか。修得には何年もかかると言われたが、そんなこともない。コツを掴めば簡単だ。


 私は無詠唱で炎を産み、それを少ない魔力で操る。


 少ない魔力。

 これが重要だ。

 いかにして、少ない魔力で火炎魔法を運用するか。それが私の課題だった。


 しかし、それもほぼ解消されてきたと言ってもいい。


 足りない魔力の代替方法はわかった。

 無駄な感情を燃料にすればいい。不出来な身体を燃料にすればいい。

 アルティさんのように記憶や思い出を犠牲にすれば、いくらでも魔法は練れる。


 私は《ミドガルズブレイズ》の炎を、何匹も躍らせ、その全てをコントロールする。そして、体内の魔力が大して失っていないことを確認する。最小限の魔力で最大の魔法を発動できたことに笑みを零しながら、魔法を解除する。


 力を得ている確かな感触があった。

 それが私の修練に拍車をかける。


 力さえ……。

 力さえあれば、今日のようなこともない……。

 ご主人様に嘘をつかれることはなくなる……。


 頼りにならない……。

 悩み一つ吐き出す価値もない……。

 そんな弱い私でなくなる……!

 ラスティアラさんのように、ご主人様の隣を歩いていける……!!


 そのためならば、何だって犠牲にできる。

 記憶障害なんて、なんてことはない。

 大事なのは過去でなく、いまだ。

 ない故郷を求めるな。

 いない■■は、もう忘れろ。


 この力と想いさえ残ればいい。

 この二つさえあれば、私は置いていかれない。

 幸せになれる。

 いまとなっては、それだけが大事――


「ふ、ふふっ。ふふふ、あはははっ――」


 私は笑う。

 笑い続ける。


 魔法の修練が楽しくて仕方がない。

 幸せに近づいているのが実感できる。

 ラスティアラさんにも引けをとらない力が、身につき始めている。


 いまならば、あの恐ろしい暴力の塊が相手でも、竦むことなく相対できる自信があった。


 あと少し……。

 あと少しで……。

 もう、ご主人様にあんな顔はさせない……。

 ご主人様を困らせるラスティアラさんじゃなく、私が……。

 私だけが、隣に……――


「――え?」


 私は自分の中に生まれた黒い感情に、自分で驚く。


 いままでは、ご主人様への赤く熱い感情だけだったのに、唐突に黒く熱い感情が湧いてきた。


 すぐに首を振る。

 別に私はラスティアラさんを引き摺り下ろしたいわけじゃない。

 あの人は考え方が突飛なのは確かだが、悪い人じゃない。むしろ、私を助けてくれる良い人だ。なのに、まるで、ラスティアラさんに消えて欲しいようなことを私は考えてしまった。


 私は火炎魔法の全てを沈下させ、再度首を振って、夜風で頭を冷やす。


 『代償』の払いすぎで、冷静さが失われているようだ。

 いつの間にか、変なことばかり考えていた。


 まだ時間はあるが、そろそろ休もうと決める。

 私はふらつきながら、家に戻り、自室のベッドへ倒れこむ。

 

 天井を見上げながら、先ほどの黒い感情を思い出す。 

 落ち着いた今、先ほどの自分が信じられない。


 魔法のせいかと思ったが、アルティさんはこんな黒い感情が生まれるとは言っていない。


 原因は自分自身にあると思う。

 おそらく、底の底にあった感情が、何かのきっかけで浮かび上がったのだろう。


 私は振り払うように、目を強く瞑る。


 眠りに落ちるのは一瞬だった。

 身体は疲れ果てている。気を抜けば簡単に意識を失ってくれる。


 私は何かから逃げるように眠った。


 明日になれば、いつも通りだと信じて眠る。

 いつも通りだと信じて……。

 眠って……。



 ――けれど・・・



「――……なら、キリストは助けてくれるの? ハインの言うとおり、どこか遠く違うところで、私と二人で旅してくれるの?」


 翌日の朝。

 ご主人様とラスティアラさんが話しているのを聞いてしまう。


 それは、まるでどこかの恋物語の一幕のようで、私は引き攣った笑いを浮かべることしかできなかった。


 ラスティアラさんが、ご主人様に訴えかける。

 それは、どこかの物語のヒロインのように美しく、悲劇的で、卑怯な話だった。


 卑怯。

 そう、卑怯だ。


「応援してくれるって……。見てるだけって言ったのに……。なんで……」


 部屋の外の廊下で、そう言葉を漏らした。


 ご主人様とラスティアラさんの二人の世界。そして、私の世界。

 その二つの世界を遮る扉に持たれかかり、私は一滴の涙を流した。


 一滴の涙は頬から零れ、床へ落ちる前に、炎となって消えた。


 その炎の色は、赤く――そして、黒く燃えた。



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