第6話『足跡』

第6話ー01

 粛々とした雰囲気に包まれた御本殿の中で、日向はふうっと何かを思い悩んだように深い溜息を落とした。

 右手で額を押さえるように俯くと、ゆるゆると首を振りながら再び溜息をつく。

 目の前には、朱金の刺繍が荘厳な彩合いを織り成す絹布が大きく広げられ、その上に静かな光を放つ銀色の矢が置かれていた。

 神迎の神事で使われた、藤城神社に古くから伝わる鬼封じの神矢だ。

「……どうするべきかなぁ」

 普段の明るい口調ではない。どこか重苦しい空気をその声は含んでいた。そして日向の左手には、先ほど外で拾った悠音の守り袋が握られていた。

 それは、在り得べからざる場所で拾ったものだ。

 宮司として本日の務めをすべて終えて、自宅に戻る前に境内を見回っていて見つけた。拝殿と本殿とを遮るように立てられた、高い飾り柵のに ――。

 柵の内側は神職以外の立ち入りが禁じられている区域であり、本殿のもっと奥には鎮守の杜。そして藤城神社の聖域、神苑が在る。

 そんなところに悠音の守り袋が落ちているというのはどういうことなのか。日向は頭を悩ませるように、もう一度大きな溜息をついた。

 この小さな守り袋は、名入れした神木の木札を日向が祈祷し、年始に氏子たちに配布しているものだ。間違えようもなかった。

「鬼に……魅入られたんじゃなければ良いけど」

 今度は天を仰ぐように、日向はそう呟く。

 幼馴染みの一人娘であり、自分にとっても娘のように大切にしてきた悠音が、あの『神迎の神事』から少し様子がおかしいことは気が付いていた。

 神社に封じられている鬼の話に興味を持ち、今までは時々しか訪れなかった神社へのお参りを毎日欠かさなくなった。

 楽しそうに鳥居をくぐって行く少女の姿を何度か見掛けて、恋人とでも待ち合わせしているのだろうと、日向も初めはそう思っていたのだ。

 彼女ももう高校生なのだし、内緒で恋人くらい居ても不思議ではない。

 けれども、何かが違うと気付いたのはいつだったろうか? 悠音が来たのを見つけて近寄って見ると、気配はするのに誰も居なかったこともある。

 不審に思って、いろいろ彼女と話をしたり様子を見たりして、日向はひとつ確信したことがあった。

 神苑の鬼は、既に悠音の手で解き放たれているのだろうということ。

 そして ―― おそらく。彼女は鬼に会う為に、ここへ来ているのだろうと。

「お伽噺みたいなことが、本当にあるんだよなぁ」

 もともと鬼の存在を信じていた日向は苦笑するようにそう言うと、ゆったりと立ち上がって御本殿から出る。

 先ほど幼馴染の悠樹から、娘がまだ帰宅していないが心当たりはないかと電話があったばかりだった。

 今日も夕刻に彼女を見掛けていたので、おそらくまだ拝殿に居るのだろうと思い、あとで自分が送って帰すから心配するなと友にはそう言ってあった。

 予想とは違って拝殿前に悠音は居なかったけれど、この守り袋が柵の内側にあったことを考えれば、彼女は鬼と一緒に神苑へ入ったのだろうと思われた。

「時間も遅いし、やっぱり迎えにいこうかな。……悠音ちゃんが鬼にさらわれでもしたら、大変だからねえ」

 ちらりと腕にはめた時計を見やり、日向はどこか困ったように微笑んで神社の奥へと歩き出す。

 既に、時刻は夜の十時を回ろうとしているところだった。



「う……ん?」

 何か声が聞こえたような気がして、悠音はぱちりと目を開いた。

 ぼんやりとする視界を軽くこするようにして、もう一度目を開く。そうすると、周囲が暗闇につつまれていることが判った。

 だいぶ遅くなったのだろう。雲間に見える上弦の月が、既に西の空に傾いていた。

「あ……私、眠っちゃったんだ」

 悠音はぺろりと舌を出して、苦笑した。

 実斐の狩衣の袖を無事に縫い終わったあと、少し話をしたことまでは覚えていた。

 ただ、慣れない裁縫で神経を使い過ぎたせいか、どうやら自分はそのまま眠ってしまったらしい。

 しかし、この冬空の下で眠っていたというのに、何故こんなに温かいのだろう。

 そう不思議に思いながら、むくりと悠音は起き上がる。

 わずかな月明かりを頼りに視線をめぐらせてみると、自分の身体の上には、先ほど修繕が終わって返したはずの実斐の狩衣が、ゆったりと掛けられていた。

 その狩衣自体が何故かほわほわと温かい。もしかしたら実斐が、鬼の持つ不思議な力で寒さから守ってくれていたのかもしれない。

 そう考えて、悠音は嬉しそうに笑った。

「でも、これを私に掛けてるってことは……実斐さんは?」

 ふとそのことに気が付いて、慌てて隣にいるはずの鬼を見やる。

「あ……っ」

 悠音が眠ってしまって暇だったのか、実斐も大木の幹に寄り掛かるように座ったまま、静かに目を閉じていた。

 蘇芳の単衣ひとえは美しい鬼の容貌に良く似合っていたけれど、いかにも寒そうな格好だと思う。

 普段はこの上に狩衣を着ているのだから、それを悠音に与えれば薄着になるのは当然で、そっと手を伸ばして触れてみると、頬が氷のように冷たくなっていた。

「これじゃ、実斐さんが風邪ひいちゃうじゃない」

 鬼が人間と同じように風邪などひくのかどうかは分からなかったけれど、やはり心配になる。

 だから悠音は急いで自分の身体に掛けられていた墨色の狩衣を、ふさりと鬼の青年の身体に掛け直した。

 それでも実斐は目を覚ます気配はなく、静かに眠っていた。

 その寝顔はどこか子供のように無防備だ。先ほど拝殿の脇で独り眠っていた時のような、思わず心配になるような要因は見当たらない。

「眠りが浅いだなんて、嘘吐きだなぁ。やっぱり起きないもの」

 軽く頬をつつきながらくすくすと笑って、悠音は秀麗に整った鬼の顔を見つめた。

 きめ細やかな白い肌に柔らかそうな深紅の髪が流れ落ち、その美しさには思わず溜息が出てしまう。

「やっぱり、綺麗だなぁ……」

 これが、ちょっと端正なくらいの顔だったなら、傍にいることに劣等感を抱いたかもしれないけれど、ここまで綺麗と、そんな感情すら浮かんで来ないから不思議だ。

「このツノも、月光の結晶みたい」

 彼が人間ではなく鬼なのだと、明らかに証明しているその二つの角が、悠音はとても綺麗だと思う。

 今ではもうだいぶ慣れたけれども、初めてこの"鬼"としての姿を見た時には、魂が揺さぶられるように……泣きたくなるほどに感動してしまったのだから。

「本当に、鬼なのよね」

 くすりと笑って、悠音は深紅の髪に埋もれるように煌く銀色の角に、そっと手を伸ばした。

「 ―― あっ」

 それを遮るように、実斐の大きな手が少女の腕をつかんでいた。

「……物好きな娘よのう」

 ゆうるりと、鬼の青年の瞼が静かにひらき、深紅の瞳が悠音を見やる。

「寝ている鬼のツノに、そう気安く触るものではない。我でなかったなら、そなたは八つ裂きにされておるところだ」

 物騒な言葉を吐きながらも、そのまなざしはどこか楽しそうに笑んでいて、彼が拒絶しているわけではないと分かる。

 普段よりも甘やかな様子の実斐に、寝起きだからこんなにも無防備なのかと、悠音はくすりと笑った。

「起きた? 今日は実斐さん、寝てばっかりだね」

 さっきまで自分も寝ていたことは棚に上げて、日に二度も自分の前で寝姿を披露した青年をからかってみせる。

「うむ……確かに今日は眠気が強い。何故か、睡魔に逆らえぬようだ」

 困惑げに頭を振りながら、実斐は少女の腕を解放した。

 今も、先ほどの拝殿前でも然り。眠るつもりなど実斐は全くなかったというのに、気付くと眠っていたのだ。

「疲れてるのかな」

「は? 疲労などというのは、貧弱な人間だから感じるものであろう。我は疲れたことなどないわ」

 どこか勝ち誇ったように、にやりと悠音を見やってから、実斐は大きく伸びをするように手を伸ばす。

 普段の美しく不遜な鬼も良いけれど、こういう子供っぽい反応をする実斐も、悠音は好きだった。

「はいはい。鬼は優秀なんだよね」

 くすくすと笑いながら、悠音はことさら子供に接するかのように、実斐の紅い髪をくしゃくしゃと撫でてやった。

 その ―― 刹那。

 静かに輝いていた銀の角が。唐突に。風に溶けるように掻き消えていた。

「えっ?」

 何が起こったのか分からずに、きょとんと悠音は実斐を見やる。

「……なんだ?」

 異変に気付いたかのように、すっと目を細めた実斐の、さらさらと風に流れる深紅の長い髪が、静かに。ゆるやかに。辺りを覆い尽くす闇夜を映し取っていくかのように漆黒へと染まっていくのが、僅かな月明かりの下でもよく見えた。

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