第5話ー03
大楓の根元に辿り着くと、悠音はバッグの中から携帯用の裁縫セットを取り出して、取れてしまった袖を身頃に縫い付けようと試みる。
いちおう家庭科の授業で一通りの事は習っているのだ。まったく出来ないということはない。
ただ ―― ちょっと。いや、致命的に縫い目が粗いだけで。
「そういえばね……」
ふと、散らかった縫い目から逃避するように、悠音が顔を上げた。
「日向おじさんが、実斐さんの事に気が付いているみたいなんだ」
このあいだ拝殿の
あの穏やかで優しい宮司は、注連縄を落としたのが実斐であると知っていたような口ぶりだった。
あのあと社務所に戻ってきた日向からは特にそれに対する言葉はなかったけれど、自宅に送ってくれたあと、帰り際に彼は穏やかな笑顔のまま、最後に悠音に向かってこう言ったのである。
―― 鬼は、封じられて当然だったんだよ。多くの民に不安や恐怖を与えていたわけだからね、と。
もちろんそれは『鬼の伝説』を聞きたがった悠音に向けた、締めくくりの言葉だったのかもしれない。しかし、鬼の封印をといてしまった自分を静かに諭しているようでもあり、悠音は少し不安だった。
「……ふん」
少女の説明を聞いて、実斐は不愉快そうに頬を歪めた。あの日向という宮司は、確かに勘が鋭い男だったと思い出す。
実斐の
ましてや ――
「腐っても、あの男の血筋、か」
苦々しげにそう呟く。
初めて見たときから、その気配で"あれ"と同じ人種だと感じていた。
あの男とは違い、鬼を御する
手強くはないがやっかいな相手だと、実斐は思った。
「いっそのこと、喰ろうてしまおうか……」
あの夢を見るまではすっかり忘れていたが、人間に与えられた己の屈辱を今更ながらのように思い出す。
日向を喰らうことは、自分を封じたあの男への屈辱を晴らすのには恰好の相手なのではないかと思った。
「またそんなこと言う。実斐さん。そんなことを言ってばかりだから、大昔は封じられちゃったんでしょう?」
冷たく研ぎ澄まされた鬼の青年の酷薄な微笑みを見て、悠音は呆れたように眉間に皺を寄せる。
こんな表情の実斐を見たのは久しぶりだった。自分の前では、いつも明るい笑顔でいることが多いこの鬼なのだから。
「ふん。鬼は人を喰らうものだ。仕方あるまい?」
にやりと、実斐は口唇を吊り上げる。
「でもダメなのっ。他にも食べるものはいっぱいあるでしょ? 人を食べなきゃ死ぬわけでもあるまいし」
悠音はそれ以上"鬼"の言葉を聞きたくなくて、思わず手を伸ばして青年の口許を軽く押さえてやった。
以前、実斐は『人の肝は滋養になる』と言っていた。ということは、特に主食というわけではないのだろう。
「そうだっ。いっそのこと、実斐さんベジタリアンになっちゃえば? そうしたら私も付き合うよ? ダイエットにもなりそうだし」
「……は? べじ……
「野菜を主に食べるの。まあ、もちろん完全なベジタリアンにならなくても良いんだけど、野菜だって身体にいいし滋養にもなるのよ」
「我に、ウサギの真似事でもしろと?」
訳の分からないことを真剣に提案してくる少女に、実斐の目が思わず笑う。
やはりこの娘は、本当におかしな少女だと思った。彼女と話をしていると、いろいろなことが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
すべてが、楽しくなってくる ―― 。
「まったく……そなたがまた変なことを申すゆえ、あの神職を喰らう気も失せたわ」
溜息をつきながら、実斐は苦笑するように首を振った。
さらりとまっすぐに伸びた深紅の長い髪が、青年の口許をおさえるように置かれた悠音の手を撫でるように流れるようにかすめて揺れた。
「えへへ。やっぱり実斐さんは、実斐さんなんだなぁ」
にっこりと、嬉しそうに悠音は笑った。
何だかんだと残酷そうなことを言うけれど、実行はしないのが悠音の知っている実斐という紅い鬼なのだ。
そう思えることが、何故だかとても嬉しい。
「千年前がどうだったとしても、今は……えっ!?」
「…………」
いつでも自分を良い鬼だと、優しい鬼だと言いたがる悠音に、それは大きな勘違いだと言おうと思った。
けれども ―― 自分に向けられて明るく咲いた彼女の笑顔が、あまりにも無邪気で。陽だまりのようで。心の奥がざわめいた。
見知らぬ己の心の感覚に、けれどもそれがとても愛しいと、実斐は何故だかふとそう思う。
沸き上がる感情そのままに、思わず己の腕の中に閉じ込めるように引き寄せた少女が、驚いたように。真っ赤になって身じろぎする様子がまた、言いようもなく愛らしく思えるのが不思議だった。
「え……と。実斐さん?」
いつもとは違う、まるで抱擁とでも言えるようなその状況に、悠音は問い掛けるように目を上げる。
今までにも何度かこうして実斐に抱き寄せられた事はあったけれど、触れる腕の感触が、それまでとはまったく違うように感じられた。
実斐はふと、我に返ったように小さく息を吐き出した。
己を見上げる悠音のまなざしは、恥ずかしそうではあるけれど、ゆったりとした信頼に満ちていた。
「……ふん。ところで、我の袖はどうなっておるのだ悠音?」
実斐は耳元で囁くように言いながら、やんわりとその腕を少女の細い身体からはずし、悠音から離れるようにゆったりと楓の木に寄り掛かる。
「そろそろ暗くなって、縫い目が見えなくなるぞ。我に片袖なしのままで過ごせとでも言うつもりか?」
その表情はいつものように尊大で。からかうような笑みが浮かんでいた。
「 ―― あっ!? ちょ、ちょっと待ってね。あと少しだから」
忘れていたとばかりに目を見開いて、悠音は真っ赤になっていたことも忘れるように慌てて狩衣の修繕に取り掛かる。
あと少しで終わるという悠音の言葉とは裏腹に、視界に映る身頃と袖は、粗い縫い目が散乱していて実斐は可笑しくて仕方がない。
あまり得意ではないのだろうと悟ってはいたが、これは予想以上だった。
「まあ、気長に頑張るが良いぞ。それが直るまで、そなたは家に帰れぬだけだ」
くつくつと笑って、実斐は少女の栗色の前髪を軽く弾いてみせる。
そうしてほんの一瞬。このままこの娘をさらってしまおうかなどと考えた。今ならば、造作もない。
しかし ―― すぐに苦笑してその考えは消えた。
もともと自分は欲しいものは必ず手に入れる主義ではある。それに対しての手段も選ばない。
けれどもこの少女に対しては、そういう感情がわいてこないのだ。
それは、実斐自身不思議に思う。けれども、昔のように攫って鳥籠に閉じ込めるかの如く手に入れるのではなく、ましてや喰らうでもない。
ただただ、まるで逢瀬でも重ねるかのように、毎夕あの拝殿前で会うことが楽しくなっているのは事実だった。
「ふふっ……まあ、いま我の気が向くことが、他ではなく"これ"だというだけのことよ。いつ気が向かなくなるかは、我にも分からぬがな」
針と糸に悪戦苦闘している少女の様子を眺めながら、くすりと実斐は笑った。
そうして大楓の近くを流れる細い水の流れに目を留める。
「あれはもう、昔のことよ」
さきほど夢に見た、己が封じられし闇夜のことを思い出しながら、実斐は艶やかに笑った。
過去の自分がどうあろうと、
自分はただ ―― その時その時に。己のやりたいように生きる。それだけの、鬼なのだから。
ゆるゆると陽は沈み、大楓の木の許で寄り添うように伸びる二人の影を闇に溶かすように。もうじき静かな夜が、藤城神社の神苑にも訪れようとしていた。
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