第5話ー02

「 ―― !?」

 だからあのとき目覚めてすぐに、この鬼の青年は『我に喰われに来たか』などと言ったのだ。予想外に力が足りずに実行出来なかっただけで ―― 。

 そう思うと、悠音は複雑な気分だった。

「でもさ、そこまで実斐さんの力をなくしちゃうって、あなたを封じた禰宜さんってすごい人だったんだねえ」

 日向から先日聞いた、鬼を封じたという人間のことを思い出し、悠音はしみじみと息を吐きだした。

 もしその神職がもっと力が弱かったりズボラな人だったりして、実斐の妖力ちからをたくさん残したままで封じていたなら、あのとき目醒めた鬼に自分はあっさりと喰われていたかもしれないのだ。

 その禰宜のおかげで結局は食べられなかったわけだし、今はこうして楽しく鬼の青年と会うことも出来る。そのことを考えれば、その人物には感謝したいくらいだ。

「ふん。我が普通の状態であったなら、あんな奴に負けたりせぬわ」

 ぷいっと顔を背けて、実斐は軽く口を尖らせる。そうしてやおら、忌々しげに舌をならした。

 先ほど見た闇夜の夢が、ふっと鮮明に脳裏に浮かんできて、どうしようもなく不機嫌になる。

 自分にとっては思い出したくもない、封じられた夜のことだった。何ゆえ今頃になってあんな夢をみたのか。それが解せないと思った。

 しかも現実では見なかった場面までもが、夢の中には存在していたのである。

 ―― 娘の涙。一切の感情を持たぬあの娘が泣くはずはないのだ。それなのに、あれはいったいなんだったのだろうか?


「どうしたの?」

 子供のような拗ね顔から、一気に不愉快さ丸出しの表情へと変化した紅い鬼の青年に、悠音は首を傾げた。

 話が封じた人間のことに繋がると、やはり実斐は複雑な表情をするのだと悠音は思う。憎々しげなのにどこか哀しげで。傷付いたような顔をするのだ。

 その理由が知りたいと思う。けれど ―― おそらくそれは実斐自身も気が付いていないことなのではないかとも思えて、安易に訊くことも出来なかった。

「どうもせぬ。……だが、今日は気が乗らぬ。我はもう戻るゆえ、そなたもはよう帰るが良いぞ」

 言うが早いがくるりと悠音に背を向けて、実斐は拝殿よりももっと奥。神苑に帰るように歩きだす。

「え? ちょっと、待ってよ」

 躊躇なく帰ろうとする彼のうしろ姿に、悠音は慌てたように両手を伸ばしてその狩衣の袂を引っ張った。

 彼女が袂を持つ力が強かったのか。それとも去ろうとする実斐の腕の勢いが強かったのか。何やら、ぶちっと鈍い音がした。

「あっ!?」

「 ―― なっ!?」

 思わぬことに、実斐は唖然としながら振り返った。

 そうして自分の右腕から離れて少女の両手に握られた狩衣の袖を見て、呆れたように。嫌そうに。ぴんっと形のよい眉が跳ね上がる。

 狩衣のうしろ身頃と袖をつないでいた僅かな留めの飾り糸が、その勢いに切れたようだった。

「ご、ごめんなさいっ」

 ただ、帰ろうとする実斐を引きとめたかっただけなのに。まさかこんな事になろうとは思わず、悠音はしょんぼりとうつむいた。

「はああ……まったく。そなたは本当に」

 これ見よがしに大きな溜息をついて、実斐は顔だけではなく身体ごとゆっくり悠音に向きなおる。

 確かに狩衣の袖は、後ろ身頃にほんの少しの留め位置で縫い取られているだけだ。だからといって、まさか引っ張られただけで取れるとは、実斐にとっても予想外過ぎる出来事だった。

「 ―― 行動の読めぬ娘よのう」

 その表情は呆れたように悠音を見おろしてはいたけれど、漆黒の眼差しはどこか笑っているようにも見えた。

「だ、だって、実斐さんが勝手に一人で帰っちゃおうとするから悪いんじゃない!」

 その表情に彼が怒っていないことが分かって、ちょっぴり安堵しながら、悠音はぷくっと頬をふくらませて鬼の顔を見返した。

 気分が乗らないから帰るなんて言うのは勝手すぎるし、何よりも……寂しい。

「うん? 何が悪いというのだ。我は、我の気が向いたことしかせぬ。初めからそう言うておるであろうが」

 あたりまえのことだと言うように、にやりと実斐は笑う。

「だーかーら。それは、ワガママって言うんだってば」

 負けじと悠音は勢い込んでそう言った。


 本当にこの鬼は事のが分からないのか。それともわざと言っているものなのか。その我儘ぶりには溜息が出る。

「もっと相手のことを思いやりながら付き合うのが、友だちなんだからねっ」

 じっと青年の漆黒の瞳を睨み据えてやってから、そうして悠音は怒っているのだと示すように、ぷいっと顔をそむけてみせる。

 それなのに、いっこうに何の言葉も返ってこない。その視界の端で、ゆらりと実斐の肩が震えたように見えた。

 思わず視線を戻してまじまじと彼の顔を見上げると、実斐は声を殺すように肩を揺らして笑っていた。

 ぽかんとした悠音と目が合うと、実斐は耐えきれないというように、いっそう身を捩らせるようにして笑いだした。

「なっ……なによお?」

 あまりの鬼の大笑ぶりに、悠音は怒りも忘れて不思議そうに首を傾ける。この青年の笑いのは、いつも自分には理解できないのだ。

「い……いや、すまぬ。そなたがあまりにも可笑おかしいゆえ……」

「お、おかしいって、当然のことを言っただけだもん」

 笑いで言葉を途切れ途切れにさせながら応える実斐に、悠音はちょっぴり拗ねたようにそう言い返す。

 実斐はふと、大笑いをやめた。漆黒の瞳を柔らかに細めると、どこか楽しそうに少女の顔を見やった。

 鬼を『友』だと言い放つこの少女からは、少しの虚偽も感じられなかった。

「ふふ。そうか。……まあよい。気が向いた。今日もそなたに付きおうてやらぬこともない。だが……覚悟するがよいぞ? これをきちんとつくろうまでは帰さぬからな」

 くすりと笑いながら、悠音の手から"己の衣の袖もの"を軽く取り上げてみせると、どこか偉そうに鬼の青年は告げる。

「 ―― ええっ!?」

 悠音は悲鳴のような叫びを上げた。

 もちろん自分のせいなのだから、縫い直すのは当然だとは思うのだ。

 けれども。料理には自信が持てる悠音ではあったけれど、裁縫となるとまったくもって自信がない。

「……どうした? まさか、出来ぬということはあるまい?」

「ま、まさかっ。私だって裁縫くらい出来るもん」

 実斐に『裁縫が出来ない奴』などと思われるのは恥ずかしいし悔しくて、悠音はぐっと内心では引きつりながらも笑顔で返す。

「ほお? では仕上がりを楽しみにしておるよ」

 いかにも可笑しげにそう言うと、実斐はふわりと少女を抱き上げる。

「ひゃあっ、な、なに!?」

「繕うておる途中で逃げられてはかなわぬからな。それに……ここではあの邪魔が入らんとも限らぬしな」

 にやりと笑うや否や、実斐は悠音を抱きかかえたまま軽々と美しい飾り柵を跳び越えて、神苑に続く道へと舞い降りる。

「……あの綺麗な大楓の所に行くの?」

 神職以外の立ち入りが禁じられているその場所 ―― 神苑に自分が勝手に行くということには、いささか気が引けた。

 けれども。この青年と出逢ったとき以来、行かれなかったあの場所を再び訪れる事が出来るというのは嬉しい気もする。

「ああ。だがもう、とうに紅葉は終わって、美しくもないがな」

「そっかぁ。 ―― でも、実斐さんの髪の色は変わらないね」

 紅葉が終わったあとの神苑は、どこかうら寂しい。

 それなのに。この鬼の青年の艶やかな深紅の髪がそこに流れるだけで、神苑の美しさが以前とまったく変わらないような錯覚を覚えて、悠音はにこりと笑顔になる。

「ふん。我の髪の色までが、枯れるはずはなかろう」

 馬鹿なことを言う少女の顔を見やりながら、くすりと実斐は笑った。

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