第5話『闇の夢』

第5話ー01

 暗闇の中で、誰かの苦しげな息づかいが聞こえた。

 がさがさと草や葉の擦れる音と共に、絶え絶えに乱れる呼吸。重しでもつけているかのように両の足を引き摺りながら、青年は闇に包まれた森の中を歩いていた。

「……我としたことが……愚かなことよ……」

 ひどく自嘲的な呻きが、闇夜の中に溶けて消える。辺りをおおいつくす闇を振り払うような深紅の長い髪が、乱れるように風になびいていた。

 雲が途切れて淡い月の灯りに照らされたその青年の頭上には、美しい銀色の角が輝くように見える。

 そして ―― 乱れた狩衣の胸元が裂けたような深い傷跡も、その僅かな月の光のもとで見て取れた。

 その傷口からは止め処なく、おさえた指の間から赤い液体があふれるように流れだしていた。

「止まらぬ……これでは里までもたぬ……か……?」

 呼吸を乱しながら、青年は忌々しげに頬を歪めた。

 己の持つ妖力ちからで治すことの出来る傷の限界を超えているということか。それとも己を傷つけたあの刃に、鬼の力を封じるしゅが込められていたか……。

 気まぐれとはいえ本当に愚かなことをしてしまったものだと、青年は唇を噛んだ。自分をこんな目に遭わせた人間への怒りもさることながら、やすやすと罠にかかってしまった己の愚かさが情けなくもある。

「あまり気は向かぬが……止むを得ぬか。こんなところで滅びるのは……もっと気が進まぬ」

 溜息が出るほどに美しい青年のその容貌からはすっかり血の気が失われ、ひどく蒼褪めて見えた。

 多量の失血にふらつく足元を堪えるように近くの大木に手を伸ばして身体を支え、やや自嘲気味にそう呟くと、青年はゆっくりと瞼を閉じる。

 ふわりと夜の闇の中に異質な深紅の闇が生まれ、さらさらとゆるやかな風が彼をおおうように流れた。

 その風になびくように宙を舞う長い深紅の髪が、夜の闇に染まるように漆黒のそれへと変化する。髪に埋もれるように輝いていた月光のような銀の角も、風に溶けるように消え失せた。

「なんとか、傷はふさがったか……」

 その妖力ちからの大半を己の傷を癒すために使ってしまった鬼は、美しい異形の姿を失い、人となんら変わりのない艶やかな青年の姿へと変化していた。

 再び真の姿に戻るにはしばらく時がかかるだろうが、その間は里に戻ればいいだろう。そう、青年は苦笑する。

 無論、力を取り戻した暁には、今日のこの日の屈辱は晴らすつもりだったが、今はまだ己の身体を休めることが先決だった。

 傷をふさいだとはいえ、体力はかなり落ちている。今はまだ、歩くのさえも辛いほどなのだから ―― 。

「そこにいらっしゃいましたか」

 ふと、男の声がした。

 その聞き知った声に、鬼の青年の眉が不愉快そうに跳ね上がる。その内心が周囲に触れたかのように、ざわざわと風が木々の葉を揺らした。

「鬼封じのしゅを込めた刃を受けてなお、その傷を癒すとはさすがですね。……まあ、貴方のような鬼をあれしきの呪刃まじないばで退治できるなどと、もとより思うておりませんでしたが」

 男の声が、どこか楽しげに闇夜に響く。このあたり一帯の人々からの信仰を集める神のやしろに仕える禰宜ねぎであり、今宵、この鬼の青年をめた張本人でもあった。

「でも……滅ぼすことは出来なくとも、いまの貴方なら封じることは出来る」

 微かな月明かりに照らされた紅葉の下で、神職の男はにこりと笑った。

 鬼としての姿を保てないほどに消耗している今のこの相手ならば。その身を封じることは簡単だろうと思われた。

「…………」

 その言葉に応えることをせず、鬼の青年はただじっと、漆黒の瞳を禰宜に向けていた。

 力の大半を失っているとはいえ、非力な人間の一人や二人を打ち倒すだけの余力はまだある。再びこの神職の罠にはまることがないように、反撃の機会を狙うつもりだった。

 けれども ―― びゅっと。くうを切る鋭い音が耳に届くや否や、重く鈍い衝撃が己の胸を襲っていた。

 灼けるような感覚が、そこからじわじわと広がってくる。

「 ―― っ!?」

 慌てて視線を下げて見ると、先ほど癒したばかりの傷の上に銀色に輝く矢が深々と突き立っていた。

 目の前の禰宜が放ったものではない。それは、分かる。

 では ―― いったいどこから? 鬼の青年は唇を噛み締め、周囲を見回した。放たれた矢からは、殺気も敵意も怖れも気負いも。何の気配も感じなかった。

 もし矢を放った人間にそれらの心がほんの僅かにでもあれば、自分がその気配を見逃すはずはない。

「あの……娘か……」

 ゆうるりと見回したその先に、木の蔭に隠れるようにぼんやりとこちらを眺める小柄な娘の姿が見える。弓を抱くように佇むその娘が……己が気まぐれを起こした相手だと知って、鬼は苦い笑みを浮かべた。

 あの娘ならば、相手に殺気も敵意も悟らせず、呼吸をするかのように自然のまま弓を引くことが出来るだろう。先に受けた胸の刃傷も彼女につけられたものだった。

 あの娘は ―― 感情というものを一切持たずに生まれたという、弓月神社の美しき巫女姫。

 二度も同じ人間から傷を受けるとは愚かなことよと、鬼は己自身の甘さを嘲笑った。

「その矢は我らが弓月神社に伝わる神矢でしてね。矢尻が"鬼のツノ"で出来ています。毒をもって毒を制す……ですね」

 にこりと、弓月神社の禰宜は笑う。そうして狩衣の袂より静かに玉串を取り出すと、すべての力を失い崩れるように地に膝をついた鬼の青年に、その榊の葉先をそっと触れさせた。

『 ―― 掛けまくもかしこ伊邪那岐いざなぎ大神おおかみ、筑紫の日向ひむかの橘の小戸おど檍原あわぎはらみそはらえ給いし時に、りませる祓戸はらえどの大神たち、諸々の禍事・罪穢まがごと つみけがれ有らむをば、祓え給い清め給えと申すことを聞こしめせとかしこかしこもうす ―― 』

 己が身を縛めるかのように降りそそぐ祓詞はらえことばが、闇に溶けるように響く。それに抗うための力さえも、胸に突き立てられた鋭い矢……己の物ではない『鬼のツノ』が奪い去っていくのが分かり、青年は憎々しげに神職の男を睨み据えた。

 けれども神職の言葉は止むこともなく、滔々と流れるようにいくつものことばを奏でていく。

「…………」

 鬼の青年は急速に深い闇へと落ちて行く意識の中で、木陰に隠れたままこちらを見やる少女の瞳から静かに涙があふれ、零れ落ちたのを見たような気がした。


  ***


「……斐さんっ。実斐さんってば!!」

 頬に感じた痛みと激しく肩を揺さぶられる感覚に、実斐はハッと目を開いた。ゆうるりと開けた視界には、どこか心配そうに眉根を寄せてこちらを覗きこむ見知った少女の姿があった。

 少女の肩の上でさらさらと揺れる栗色の髪が、風にまぎれてあちこちへと舞っている。それがどこか可笑しくて、実斐はくすりと笑った。

「悠音か。どうしたのだ?」

 言葉を返しながら、しかし何故自分が彼女にこうして起こされているのか。その状況がいまいち把握できない。

 ぐるりと辺りを見回してみれば、そこはいつもの藤城神社の拝殿前だ。

「まったく……『どうしたのだ?』じゃないでしょう? びっくりしたんだからね。私がここに来たら、実斐さんってば拝殿の珠垣に寄り掛かって寝てるんだもの。誰も来なかったから良かったけど、見付かってたら大変だったじゃない」

 怒ったように、悠音は大きく頬をふくらませて鬼の青年を睨み据えた。

 こんなところで居眠りするとは不注意すぎる。いつもならば自分がここにやって来るまで出て来たりはしないのに、どうして独りでここに居たのかも不思議だった。

 それに ―― まるで初めて会った時のように。硬く目を閉じて眠る実斐の様子にひどく不安を覚えて、一生懸命に叩き起こしたというのに。あまりに暢気な返答に腹が立った。

「そんなに我は、深く眠っておったか?」

 何故だかひどく怒っているらしい少女に、実斐は不思議そうにゆっくりと、漆黒の眼差しを向ける。

 叩き起こしたというくらいだ。いろいろ派手にやったのだろう。なんとなく、両の頬が少し痛む気もした。

「……ここまで手荒にするほどに」

 目覚める前に感じた痛みを思い出し、軽く頬を手で押さえながら苦笑すると、もたれていた珠垣から身体を起こして実斐は立ち上がる。さらさらとなびく深紅の長い髪が背中でゆらりと揺れて、流れるように静止した。

 その艶やかさに思わず見惚れながらも、悠音は頬をひっぱたいて起こしたという事実を誤魔化すように、今度は楽しそうに実斐の顔を見やる。

「もうっ。爆睡もいいとこだよ。神苑で会ったときもそうだったけど、実斐さんって寝起きが悪すぎなんじゃない?」

 あの時だって何度も揺り起こして、ようやく彼は目が覚めたのだ。いくらなんでも寝込み過ぎだ。

「ふん……。そう、人をぐうたらの眠り馬鹿のように申すでない」

 どこか拗ねたように、紅い鬼は胸の前で腕を組んでそっぽを向く。そもそも自分の眠りはそう深い方ではないのだと、まるで子供の言い訳のように呟いている。

 今日の事に関してはまだ実斐自身よく把握出来ていなかったけれど、初対面の時は事情が違うのだ。寝起きが悪いなどといわれる筋合いではない。

「結界の力が弱まっていたとはいえ、あの時の我はまだ封じられておったのでな。そう簡単には目覚めはしまいよ。そなたが我に触れたことで、人の持つが僅かなりとも流れ込んで来たからこそ目覚めたに過ぎぬ。その"生気"の源……そなたを喰らって更に力を得るために、だがな」

 くつくつと、実斐はその時のことを思い出したように楽しげに笑った。

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