第6話ー02

 突然変わってしまった青年の姿に、悠音は目を見開いた。これではまるで、初めて会った時の実斐だと思う。

 風にそよぐ髪は漆黒で、輝く角もない美しい"人間"の青年。居る場所も、あの大楓の根元だ。

 違うのは、周囲の木々に紅葉の彩りがないことと、天に在るのが太陽ではなく、沈みゆく上弦の月だということ。

「実斐さん、その姿は……?」

 彼が自分の意志でこの姿に変わることは有り得ないと、悠音にもわかる。

 何せ実斐は初めに会った日に言っていたのだ。人の姿になるのは"屈辱"だと。そんなことを、この不遜な紅い鬼が好んでするわけもない。

「……ちっ。忌々しい」

 実斐は不愉快そうに吐き捨てた。

 己の意志ではなく失われた"鬼"としての姿が、視界に映る黒髪に見せつけられているようで腹も立つ。

「もしかして、日向おじさんが……」

 実斐という"鬼"の存在に日向は気付いていたのだ。それならば。彼を封じようとしてもおかしくはない。

 そう考えて、悠音は一気に蒼褪めた。思わずその手を伸ばし、ぎゅっと、鬼の青年の衣の端を強く掴んだ。

 再び実斐が封じられてしまう。それは悠音が最も懸念し、恐れていたことだった。

 夕刻に彼が眠っているのを見つけた時は不安のあまり叩き起こした。今は……不安よりも先に恐怖がたった。

 彼の"この姿"を見てしまえば、自分の悪い想像が確定的に思えてしまうのだ。

「実斐さん……封じられちゃうの?」

 そう考えただけで、心がおしつぶされそうに苦しい。自分の中でこれほどまでに実斐の存在が大きくなっているなどと、今まで自分自身でも気付かなかったけれど。

 怖ろしくて。ひどく心細くて。衣を掴む手が微かに震えた。


「悠音。そなたは、我を見くびっておるようだのう」

「 ―― ?」

 パニックになりかけていた悠音は、ふと聞こえてきた艶やかな声と、優しく頭に置かれた大きな手の重みに、そっと目を上げた。

 目の前で、実斐の深い闇色の瞳がゆっくりと笑むのが見えた。

「前にも言うたであろう。あの宮司に、我を封じる力などない」

 さっきまで不愉快そうだった実斐の双眸が、どこか可笑しそうに悠音を見やる。

 この少女が、自分のことをとても心配しているらしいということに、何故だか気分が良かった。

「だけど、実斐さん前に言ってたでしょ。人の姿になるのは鬼の妖力ちからが足りない時だって。そんなこと起こるのは、封じられる時くらいじゃないの?」

 実斐の笑顔に少しだけほっとして、けれども消えずにいる不安を悠音は問う。

「我の力は弱ってなどおらぬ」

 実斐は眉間に皺を寄せ、ゆるゆると頭を振った。闇夜で染め抜いたような漆黒の髪が、悠音の視界を流れるように揺れて静かに止まった。

「ただ……何故か人の姿になってしまっておるのだ。こんなことは初めてだ」

 己の状態を把握してみても、あふれんばかりの鬼の力に衰退や変化は感じられなかった。少し気になるが在るのは確かだったが、それほど大きな問題ではないように思う。

 それなのに、何故か力を失った時のように鬼の姿を保てないのは、実斐にとっても不可解だった。

「そう、なの? ……良かった」

 ほおっと、悠音は深い呼吸いきを吐き出した。

 変わったのはその外見だけで、力がなくなったわけではないという言葉に、緊張して強張っていた心がふっと軽くなる。

 何よりも、実斐の不遜ともいえる力強い存在感が健在なのも悠音は嬉しかった。

「原因が分からないのは不安だけど……力が弱ったわけじゃないなら、外見なんて気にすることもないかな?」

「鬼が鬼の姿でなくてどうするのだ。まあ……そなたにとっては他人ひと事よな」

 少女の能天気な言葉に、実斐は軽く眉根を寄せた。

 力が足りないわけでもないのに人の姿になるなど、屈辱の極みもいいところだ。それは、人間である悠音には分からないのだろうが。

「え? 他人事なんて思ってないよ。でも、実斐さんが私の前から消えちゃうわけじゃないなら、どっちでも良いんだもの」

 にこりと悠音は笑う。さっき感じた息苦しさを思えば、容姿がどうあろうがたいした問題ではない。

「……は?」

 あまりに率直な言葉に、思わず実斐は目を丸くした。

「そなたは、我が消えるのは嫌なのか? くくっ……そんなに、我に傍にいて欲しいと。やはり可笑しな娘よのう」

「 ―― あっ! だ、だって、せっかく仲良くなったんだし……ね。うん」

 くつくつと笑う実斐に、自分が何気なく言ったことばの意味を理解して悠音は真っ赤になった。

 それでもいつものように「そういうわけじゃない」と否定しなかったのは、先程の心細さを思い出すからだ。

「仲良く、か。ふふ……そうだな」

 実斐の眉間に刻まれていた縦皺がゆるりと和む。真闇のような漆黒の瞳が穏やかに笑むように細められ、じっと少女の目を見やった。

「心配せずとも良い。我は、欲しいものは必ず手に入れる主義なのでな」

 すっと大きな手が伸ばされて、悠音の両頬をつつみこむように長い指が添えられた。肌に触れる実斐の手は氷のように冷えていたけれど、何故かとてもあたたかいと悠音は思った。

「それ故……そなたを喰らうまではここに居る」

「う……」

 長い睫毛に彩られたその眼差しが艶っぽくて、悠音は一気に心臓が跳びはねたように更に顔が火照ってしまう。

 深く穏やかな闇色の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。

「く、喰らうだなんて、またやりもしないことを……」

 まったく本当に、どうしてこの鬼は心臓に悪い表情をしてくるのかと、文句を言ってやりたいくらいだ。

 もちろん、そんな恥ずかしいことは口には出さなかったけれど。


「そ、それよりもね、実斐さんっ!」

 ほんのひととき。互いに見詰めあうように訪れた沈黙が気恥ずかしくて、悠音は慌てたように上擦った声を上げた。

 実斐は可笑しそうに目を細めると、先の言葉を促すように首を傾げた。

「うん?」

「あ、あのね。もうこんな時間だし、私そろそろ家に帰るね。いちおう袖も直したんだから良いでしょう?」

 本当はもっと一緒に居たいと思ったけれど、このままここに居ては自分が何だかおかしくなってしまいそうだと悠音は思った。

 このところ実斐を前にすると感じる不可思議な思考と感情の有り様に、自身で戸惑うばかりなのだ。

「ふむ。まあ"出来"はどうあろうと、確かにそなたはちゃんと約束は果たしたのだからな。文句は言わぬよ」

 僅かに笑むように口許を上げて、実斐はねぎらうようにぽんぽんっと少女の頭に大きな手を置いた。そうしてふいに夜空を見上げ、西の空にかかる月に今のときを計る。

「随分と遅くなったようだのう。家まで送ってやろうか?」

 何気なく、実斐は言った。

 このまま彼女がここに居ても、自分の姿の変化の理由がわかるわけでも、解決ができるわけでもないし、それならば帰す方が良いかと思った。あとはもう、己で何とかする他ないのだから。

「えっ?」

 まさかそんな優しい言葉をかけられるとは思っていなかった悠音は、大きな瞳をきょとんと丸くした。

 今までにも遅くなったことはあったけれど、「送る」などと、この鬼の青年がそんなことを言ったのは初めてだった。

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