第4話ー02

「ああ、そうだ。その前に、もうひとつ悠音ちゃんが僕に訊いていたことがあったよね。トウジョウサネアヤって人の名前。僕にも聞き覚えがあったはずでね、うちの神苑に封じられている鬼の名前が『実斐さねあや』っていうんだよ。すごい偶然だね」

「あ……はは、そうだねぇ」

 目の前の日向はにこにこと笑っているのに。その優しい笑顔が、なんだかとても怖しく思えてしまって、悠音は引きつったような笑顔で固まってしまう。

 やっぱり絶対に気が付いている。そう思うのだ。

 そういえば ―― と悠音は思い出す。

 昔からこの人はそうだった。自分が何か悪戯をして迷惑をかけても、決して彼は怒らない。いつもの優しい笑顔のまま接してくる。それで良心の呵責に耐えられず悠音はいつも自分から謝ってしまうのだ。

 この神職がそれを待っているのだと悠音が理解したのは、少し大きくなってからだったけれど。

「……日向おじさん、怒ってる?」

 だから、思わずそう訊いてしまう。

 紅い鬼を悠音が解き放ったのだということに日向が気付いていれば、代々それを封じてきたこの神社の宮司である彼が怒っても仕方がないことだった。

「え、どうして? 悠音ちゃんは何か僕に怒られるようなことをしたのかい?」

 変わらず優しい口調で訊き返してくる。

 美味しそうにマグカップを口に持っていくその表情からは、彼が気付いているのかいないのか。さっぱり判断できなかった。

「ううん。なんとなく……訊いただけ。それより本題に入ろうよ。ね、おじさん」

 とりあえず薮蛇にならないようにと思いながら、悠音は日向に鬼の話を促すように首を傾げてみせる。

 日向も特に追求しようとはせずに、くすりと笑って頷いた。

「鬼が封じられた理由、だったね」

「うん。そう」

 実斐が封じられることになった原因を知ることができるのだと思うと、少し緊張もする。悠音は緊張をほぐすように甘いホットチョコをひとくち口に含んでから、神職の穏やかな茶色の瞳を見やった。


「まあ……理由には事欠かないんだけどね。何せ人を殺しては喰らうし、女はさらう。なかなか好き放題にやってたみたいだからねぇ」

「なんかそれって、普通におとぎ話でも出てくる鬼のイメージだよね?」

 疑わしげに悠音は首を傾げた。

 確かに実斐も自分で似たようなことは言っていたけれども、あまりに一般的な鬼のイメージに合いすぎていて、逆に信じられないような気分になる。

 ましてやそんなの理由であの美しい紅い鬼が封じられるというのは、あまりに不釣合いな気がしてしまうのだ。

「そうそう。これは一般的なイメージと同じだね。ある意味事実ではあるんだけど、僕ら藤城神社で神職を務める者たちもその程度しか知らなかったんだよ」

 日向はちょっぴり可笑しそうに苦笑した。

「で、ここからが本題。蔵の文献で調べた封印の最大要因はここから先だよ」

 話の腰を途中で折ってしまったのは自分だったらしい。そう気がついて、悠音はぺろりと舌を出す。

 日向はにこりと笑って話の先を続けた。

「あの鬼はね、この一帯の人々からの信仰が篤かった『弓月ゆづき神社』を燃やしちゃったんだよ」

「……弓月神社?」

 聞き馴染みのない名前に悠音は訊き返す。日向は、ああと小さく頷いて笑った。

「この藤城神社の前身だよ。場所はここじゃなくて……そうだなぁ今となっては正確な位置は分からないけど、たぶん悠音ちゃんの家のほうかな。そのあたりに建っていたんだけど、鬼に燃やされてしまって今のこの藤城に移転したんだよ。ちょうどここは鬼を封じた場所でもあるし、監視するにも都合が良いと言うことでね」

 やんわりと瞳を細めて日向はそう補足した。

「でも……なんで神社を燃やしたりしたのかしら」

「その上で、鬼は弓月神社の巫女姫を攫ったんだよ。止めようとした宮司も殺害してね。それで神職たちも民衆も、鬼に対する恐怖心よりも怒りの方が勝って、封じるという強行手段に出たんだねぇ。封じたのは弓月神社の禰宜ねぎだったんだけど」

「ふうん……それじゃあ、鬼は神社を燃やして巫女さんを攫ったから封印されたってことね」

 悠音はなんだか不愉快な気分になった。むかむかと、何故だか心の奥底がざわついてくる。

「うん。その巫女姫はかなりの美姫だったらしいから鬼の目に留まっちゃったんだろうねぇ。でもまあ、無事に助け出したらしいから良かったけど、鬼に愛されたって困るよねぇ」

 にこにこと、日向は屈託なく笑った。

「…………」

 その言葉に、さらに悠音はむかむかと苛立ってくる。

 神社を燃やしたとか宮司を殺したとか。そういう酷い話の方よりも、なぜか『美しい巫女姫を攫った』という言葉に強く反応してしまった自分自身が苛立たしい。

「悠音ちゃん、どうかしたのかい?」

 不思議そうに日向が穏やかな茶色の目を向けてくるので、悠音は思わず泣きそうになった。

 本当に、あの鬼に出逢って以来、自分の心を持て余し気味なのだ。

 いっそこの大好きな宮司に実斐の話をしてしまおうかとさえ思ってしまう。そうすれば、少しは楽になれるかもしれない ―― 。

 そう思って口を開きかけたその刹那、慌しい足音とともにガラガラと引き扉の開く音がした。


「日向宮司っ!! 拝殿の注連縄しめなわが外れて、下に落ちてしまいましたっ!」

 入ってきたのは、悠音も見知った宇山というあの初老の神職だ。確か権禰宜ごんのねぎという役職だったか。全速で走ってきたのだろう、白髪混じりの頭髪は振り乱れていた。

「注連縄が? 誰も怪我人はでなかったかい?」

「は、はい。こんな時間ですので、参拝客は居りませんでしたから」

 宇山の返答を聞くと、日向は安堵したように息をついて立ち上がった。

「そうか。それならよかった。……にしても。困ったことをする人だなぁ」

「あの……宮司。私が落としたわけでは……」

「ああ、ごめんごめん。宇山くんに言ったんじゃないよ」

 軽く頭を掻きながらにこりと微笑む日向は、どこか意味深で不可思議な眼光を宿していた。

「じゃあ僕はちょっと様子を見て来るから、悠音ちゃんはここで待ってなさい。あとで家に送ってあげるからね」

 そう言い残すと、日向は宇山と一緒に社務所から出て行った。


「……拝殿の注連縄しめなわって。私、いつもどおりあそこにいたら怪我してたかもしれないんだなぁ」

 悠音は驚いたように呟いた。あの重そうな、太くて大きな注連縄が頭上に落ちて来たらと考えるだけでぞっとした。

「そんなわけがなかろう」

「きゃあっ!?」

 不意に背後で声がして、思わず悠音は飛びあがる。

 ゆっくりと振り返ってみると、日向たちが出て行った社務所の入口とは反対の、大きな窓の外に、どこか不愉快そうな紅い鬼が立っていた。

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