第3話ー後編

「なんで、来たの?」

 この家を実斐が知っているはずもなかったし、来る理由も分からなかった。

「ふふん。我は優秀なのでな、そなたの居る場所くらい、気配をたどればすぐに分かる」

 当然のように笑って、実斐はぽんっと、悠音の頭上に彼女が自分に投げつけていった紙袋を乗せる。

「忘れ物を届けに来てやったのだ。感謝するのだな」

 にやりと微笑むその表情は、いつものように不遜だ。

 それが ―― 何故だか嬉しいと思ってしまう。けれどもすぐにそれを隠すように唇を尖らせて、悠音は頭上の荷物を腕に抱えなおした。

「持って来てほしいなんて、頼んでないもん」

 さっき神社で「来て欲しいと言ったことはない」とばかりに笑った実斐に仕返しをするように、悠音はそっぽを向いた。

 実斐の眉が、一瞬むっと嫌そうに跳ね上がるのが見えた。しかしすぐに気を取りなおしたのか、軽く溜息をつくと苦笑に似た笑みを浮かべ少女を見やる。

「ふん。我とともにそれを喰らうためにうて来たのであろうが。だからわざわざ、を届けてやったのだぞ」

「両方って……」

 問いかけながらそれが何なのかふと気がついて、思わず悠音は顔が赤くなった。

 ひとつは、悠音が買った"あんまん"だ。

 そしてもうひとつは、一緒に食べる相手 ―― "実斐"だ。

 なんて気恥ずかしいことを平然と言う鬼なのだろうと思う。けれども、それが決して気障きざに聞こえないのが不思議だった。

「でも、もう冷めちゃってるよ」

 近頃だいぶ気温も下がってきたので、寒いだろうと思って悠音は温かいあんまんを買って行ったのだ。しかしもう時間が経って冷めきっているはずだった。

「構わぬよ。我もちょうど空腹なのでな」

 にやりと笑って、実斐は手ごろな物 ―― 机の上にひょいと腰掛ける。

「まだ、そなたを喰らう気にはならぬしな。その饅頭で我慢するとしよう」

 寄越せとばかりに手を伸ばして来る紅い鬼に、思わず悠音は笑いを誘われた。

 まだそんなことを言っているのかという可笑しさと、どこか不器用な優しさのようなものを感じて、さっきまでの苛立ちは綺麗さっぱり消えていた。

「……これは『あんまん』だよ。まだちょっとだけ、あったかいみたい」

 大きなその手に、ほのかにまだ温かいあんまんを乗せ、悠音はちょこっと訂正して見せる。

 名称などは気にもせずに、かぷりと白い皮にかじりつく鬼の姿を見ながら、自分ももうひとつを紙袋から出して食べた。

 そのあいだ二人とも言葉を交わすことはなかったけれど、なんとなく嬉しくなって、悠音はにこりと相好を崩す。

 彼は自分が神社に行けば必ず出て来てくれる。無視する事はないのだ。待ってくれているわけではないにしても、それだけでも十分なのではないかと、実斐を見ているうちにそう思えて来るのは不思議だった。


 不意に、窓の外からぱらぱらと屋根を叩く水音がした。月を隠すように厚く空を覆っていた雨雲が、とうとう破れたのだろう。

 そんな窓外の様子を見やるように目を上げると、実斐は軽く眉をひそめるように溜息をついた。

「降ってきたか。……雨に濡れるのはあまり好きではないのでな。止むまでここにおるが……構わぬな?」

 じっと、青年は深い漆黒の瞳を悠音にむける。有無を言わさぬその強い眼光に、悠音は大げさに溜息をついてみせてから、ゆうるりと笑ってみせた。

「まあ、忘れ物を届けてくれたわけだしね。追い返すわけにもいかないでしょ」

 本当に嫌ならば傘でも貸せば事は済む話なのだが、もちろんそんなことは考えも及ばなかった。

「ふふん……そうか」

 鬼の青年は可笑しそうに目を細めると、さらりと紅い髪をかきあげながら、やや顎を上げるように悠音を見おろした。

 その表情は艶やかで ―― 思わず見惚れてしまいそうになる。窓の外から差し込んだ強烈な青白い閃光が、更にその横顔を美しく引き立てていた。

「 ―― きゃあっ!」

 その閃光が何だったのか考える暇もなく、腹の底に響くような重く低い音が周囲に轟いた。

 思わず、悠音は悲鳴をあげてその場にしゃがみこむ。雨だけではなく、空には雷鳴がとどろきはじめたようだった。

 子供の頃に目の前で落雷を見て以来、悠音は雷の音が苦手だった。

「ほお? これは驚いた。そなたは雷が怖いのか?」

 くすくすと笑いながら実斐は机を降りて、しゃがみこんだ悠音に近付いてくる。

「可笑しな娘よのう。鬼である我をまったく怖れぬゆえ、豪胆な娘だと思うていたのだが……」

 ぽんぽんと少女の栗色の髪を軽くなだめるように叩きながら、鬼の青年は笑った。

「こ、怖くなんかないわよ。ちょっとびっくりしただけだもの」

 強がるように悠音は言って、しかし再び鳴った雷鳴に頭を抱え込む。隣で忍び笑いをするように、実斐の肩が揺れるのが見えた。

「普通はな、雷よりも我を恐れるものだがな」

 可笑しそうに言いながら、実斐は悠音の隣のラグマットに足を伸ばすように腰を下ろす。そして無造作にひょいっと悠音の頭を自分の方へと引き寄せた。

 まるで、そうすれば雷の大音声も聞こえないだろうと言いたげに、薄墨の袂を少女の頭の後ろへとまわす。

「 ―― ちょっ……実斐さん……」

 青年の胸に寄り掛かるように頭を倒されて、悠音は思わず目を見張った。

 雷鳴は怖いが、この状況は違う意味でもっと心臓に悪いと思った。先日以来、何故か実斐に密着することが多い気がして、顔がどんどんと火照っていくのが分かる。

「我の見立てでは単なる通り雨だ。すぐに雷もおさまろうよ。しばらく我慢しておれ」

 今すぐに離れれば火照りも治るとは思ったけれど、どこか優しげなその声に離れることが躊躇ためらわれて……悠音は結局そのまま実斐の胸に頭を預けるしかなかった。

 外ではまだ雷鳴が鳴っている。けれども ―― 不思議とその音は気にならなくなった。青年の静かな鼓動が、より近くで聞こえているからかもしれない。

 しばらくそうして居るうちに、密着しているのだという緊張さえもゆるやかにほどけていく。

「……実斐さんは鬼だけど、やっぱり怖くないよ。意地悪だけど……優しいから」

 少し顔を上げて、悠音はぽつりと呟いた。

 普通は雷よりも身近に居る鬼の方を怖がるものだと、さっき彼が言っていた言葉を思い出したのだ。そんなことはないのだと、訂正したかった。

 ぴかりと。窓の外から交差するように激しい稲光が差し込んで、実斐の美しい顔を青白く浮き彫りにする。

 部屋の電灯の下で見るよりも、こういう自然な発光に照らされた方がこの青年には良く似合う、などと少しずれた事を思いながら、悠音はにっこりと笑った。

「…………」

 実斐は異星人でも見るように、眉をひそめて少女を見おろした。

 いきなり何を言い出すのかと思った。思えば初めて会った時から、この少女は自分のことを「良い鬼」だと勘違いしている節がある。

「ふん。勘違いもはなはだしいな、悠音。何度も言うが、我は人の命など何とも思うておらぬ。我を優しいなどと思うていると、痛い目に遭うぞ」

 にやりと唇を吊り上げて、実斐は脅すように言った。

 自分がその気になれば、このような小さな存在など、一瞬でただの肉塊に変えることも出来るのだ。

 けれども悠音は、その言葉にさえ、くすくすと笑い声をたてる。

「ふふ。それって……雷鳴の音から庇ってくれながら言う台詞じゃないよね。いつか残虐なことをやってみせてから、その時にもう一度言ってね。そうしたら怖がってあげるよ」

「……まったく。鬼を挑発してどうする。そのように言うて本当に殺されでもしたら、馬鹿を見るのはそなたであろうが」

 実斐は不愉快そうに眉をつりあげて、漆黒の瞳を剣呑に細めて悠音を見返してくる。その、拗ねた子供のような表情がまた可笑しくて、悠音は堪えきれないというように肩を揺らして笑った。

「ふん……まあいい。その様子だと、もう雷鳴も怖くはないようだな。雨も上がったようだし、我は帰ろう」

 すっと悠音を抱えていた腕を放すと、実斐は音もなく立ち上がる。

 確かに先程まで屋根を叩いていた雨音は消え、しっとりと濡れた空気だけが外の闇をおおっていた。まだ稲妻はときどき窓の外で光ってはいたけれども、その音はだいぶ遠くなっている。

「え? もう、帰っちゃうの?」

 思わず悠音はそう言ってしまう。もう少し、一緒にいたかったのだ。その口調は計らずとも引きとめるようなものになる。

「……そなたは本当に読めぬ娘よのう。この前は我に抱き寄せられて赤くなったかと思えば、今日はそれか」

 くつくつと鬼の青年は笑った。

「これより先は……我の居た時代には男が女のもとに通う時刻ときなのだが?」

 すっと長い指を伸ばして悠音のあごを摘むと軽く上に持ち上げて、紅い鬼は闇夜の瞳を細めてみせる。その微笑みが、必要以上に艶かしい。

「 ―― !?」

 その意味を理解して、一気に悠音の顔は真っ赤に染まった。

 それを見た実斐がいかにも可笑しそうに身を捩らせて笑ったので、悠音は憤慨するようにめいいっぱいに頬を膨らませた。

「もうっ、とっとと帰りなさいよ。さいってー!! エロ鬼! バカ実斐!」

 からかわれたのが悔しくて、思わず実斐の背を叩きながら窓の外へと追いやるように叫んでしまう。

 窓の外に叩き出されそうになった実斐は、ふわりと庭の楓へ飛び移ると、しっとりとした雨上がりの風に紅い髪をなびかせて、にやりと笑った。

「悠音、明日も神社に来い。……明日くらいはそなたを待っていてやろう。雨宿りの礼にな」

 自分が言いたいことだけを言ってのけると、紅い鬼は悠音の返事も待たずにくるりと背を向ける。そうしてまるで翔ぶように、他の木々へと移り去っていった。

「……もうっ。偉そうに何言ってるんだか」

 溜息まじりにそれを見送りながらも、悠音の表情は可笑しそうだ。

「でも……まあ、仕方ないからなぁ、明日も行ってあげようかな」

 悠音は既に雨の上がった夜空を仰ぐように、大きく身体を伸び上がらせる。そうしてにっこりと笑った。

 にわかに起こった雷鳴のせいで、思いもかけずに自宅で過ごした、紅い鬼の青年との時間を思いだすように ―― 。

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