第3話『交差する光』

第3話ー前編

「今日はもう、来ないのかと思っていたぞ」

 さわさわとゆるやかな風が木々の葉を揺らし、どこか笑い含みの声が葉擦れの音とともに悠音の耳に降りそそぐ。

 陽は既に落ちきっており、空は暗い。鈍く曇った空のためか月や星の輝きも見当たらず、ただ神社の外灯だけが僅かな明かりをともして周囲を照らしていた。

「今日は道場で射会があったから……」

 応えながら、そこに居るはずの青年の姿を探すように悠音は僅かに顔を上げて木々の隙間を見やる。

 彼はたいてい拝殿脇の一番大きな木の紅葉に紛れるように現れるのだ。

「もしかして、待ってた?」

 まるで自分が来るのを待っていたかのような青年の言葉に、悠音はくすりと笑う。

 その視線の先には、やはりいつも通りのその場所で、紅い髪を風に遊ばせるように美しい鬼が佇んでいた。

「ふん。なにゆえ我がそなたを待たねばならんのだ。馬鹿馬鹿しい。寝言は寝てから言うがよいぞ」

 ふふんと馬鹿にしたように笑って、実斐はふわりと木の上から舞い降りる。

 毎度のことながら、その美しさには思わず感嘆せずにはいられない。けれども、その性格だけは本当に可愛くないと悠音は思った。

「会いたいなら、もっと素直になれば良いのに」

 くすくすと笑って、悠音は目の前に立つ青年の端正な白い顔を見上げた。

 深い闇のように吸い込まれてしまいそうな漆黒の瞳が、じっとその悠音の視線を見て返す。

「ほお? その言葉、そっくりそなたに返そう」

「……なんでよ」

 ちらりと目を細めるように実斐の顔を見上げて、悠音は唇を尖らせる。

「そなたが我に会いにここに来ているのであって、我がそなたに会いに行っているわけではないのだからな」

 にやりと、実斐はどこか勝ち誇ったように笑った。

 思わず、悠音はぐっと言葉に詰まってしまう。

 この場所で紅い鬼の青年に再会して以来、悠音が自分からここに来ているのは確かだ。会いに来ようと明確な意思があるわけではないのだけれど……気が付くと悠音は学校帰りにこの場所を訪れてしまうのだ。

 実斐が「ここに来て欲しい」とか「待っている」などと言ったこともなければ、会う約束をする事もない。彼女が神社を訪れると、実斐もここに現れる。

 ただ、いつもそれだけだった。

「…………」

 そう考えてみると何だか理不尽な気がして、悠音はむぅっと頬をふくらませた。

 これでは本当に、自分自身がこの鬼の青年に焦がれて会いに来ていると言われても仕方がない状況ではないか。そう思うと腹が立った。

「どうした? なにも反論できぬだろう」

 くつくつと、さも楽しげに実斐は笑う。いつもならば見惚れてしまうその華やかな笑顔が、更に悠音の癇に障った。

「ばかっ! だいっきらい!」

 まるで幼稚園児の悪口のような言葉を吐き捨てて、悠音は持っていた紙袋を紅い鬼に投げつけた。

 それは青年の胸にぶつかってから、無残に地面に落ちていく。

「悠音……?」

 しかし実斐は物を投げつけられたことよりも、悠音の表情の方が気になった。

 限界近くにまで吊り上げられた眼差しが、かなり彼女が怒っているのだと主張している。

 けれども ―― その大きな瞳には涙が浮かんでいたのだ。実斐にはまったく、その理由が理解できない。いつものように、少しからかっただけだというのに。

「もう……帰るっ!」

 体中でそう叫ぶと、悠音はくるりと鬼に背を向けて、来たばかりの参道を駆け戻っていく。

 何をこんなに怒っているのか ―― 自分でも分からなかった。けれどもこのまま、あの紅い鬼の前に立っているのは何だかひどく悔しい気がした。

「なんだ? 我が何をしたというのだ」

 取り残された実斐は茫然と、少女が立ち去った参道を見やる。別に追い掛けるつもりもなかった。ただ、彼女の行動がまったく理解できず、ゆるゆると頭を振って溜息をついた。

「うん? この荷物は持って帰らずともよかったのか……」

 ふと目に付いたので、先ほど彼女が自分に投げつけた紙袋を何気なく拾いあげ、微妙に場違いな感想をもらす。

 青年の胸と地面の二度に渡って衝撃を受けた紙袋はぐしゃりとひしゃげていたが、幸い破れてはいなかった。それを持つ手が何故か温まって来るような気がして、思わず実斐は中身を覗く。

 その中には、ほかほかと暖かな湯気を立たせながら、白いものが二つ、身を寄せ合うように入っていた。

「饅頭か?」

 それにしては大きすぎる気もするが、食べる物なのだというのはその香りで分かった。二つあるということは、おそらく実斐と一緒に食べようとでも思って買って来たのだろう。

「まったく……世話の掛かる奴よ。悠音という娘は」

 その言葉とは裏腹に、浮かぶ表情はどこか楽しげでもあった。くすりと形のよい唇に笑みを刻むと、鬼の青年は闇夜の瞳をやんわりと細める。

 そうしてゆっくりと、月も星も出ていない暗い空を見上げた。



「あー、もうっ。腹立つったら!」

 ぽすぽすと赤鬼のぬいぐるみを叩きながら、悠音は小憎らしいほどに美しい紅い鬼の青年を思い浮かべた。

 いつだってあの鬼は不遜な微笑を浮かべ、悠音を馬鹿にしたように見下ろすのだ。そう思うとさらに腹が立ってくる。

 実際にはそんな態度ばかりではないのだが、怒りに身を委ねている今の悠音にはそうとしか思えなかった。

「私だって、別に会いたいから行ってるわけじゃないもん。あんな鬼……」

 ぼすっともぐら叩きでもするように赤鬼の頭の天辺を殴ってから、ごろんとベッドに横になる。

 嫌なことは忘れて、楽しい事でも考えよう。そう思いながら目を閉じた。

「…………」

 それでも浮かんでくるのはあの鬼のことばかりで ―― 。

 いったい自分は何をこんなに怒っているのだろう? ふと冷静な自分が、怒り続ける自分に問い掛けてくる。

 その答えは簡単だ。実斐が、"あんなこと"を言ったからだ。

「 ―― あんなこと? 何を言われたんだっけ……」

 ふっと、悠音は身体を起こした。彼の言った言葉の何に自分は怒ったのだろうか。改めて考えてみると分からなかった。

 軽く膝を抱えて壁に寄り掛かると、紅い鬼に言われた言葉を思いだすように膝にあごを乗せて考え込む。

 その目がちらりとデスクの上を流れ、実斐がくれた『星』がほんのりと輝いているのが見えた。

「…………」

 彼に言われたのは、悠音が勝手に会いに来ているだけで、自分が会いたいと言ったわけではない ―― というようなことだったと思う。

 思い出すとやっぱり腹が立った。

 腹が立つと同時に、哀しくもなる。

 その思いもよらぬ感情の変化に、自分が実斐に会うのをけっこう楽しみにしていたのだと、自覚せざるを得なかった。

 あの紅い鬼に会うのが楽しいと。会いたいと思っていなければ、毎日のように学校帰りに神社に寄るはずもなかったのだ。

 それなのに ―― そう思っていたのが自分だけだったと思い知らされて、ショックだったのだ。

 だから自分はあんなにも怒ってしまったのだと、ようやく気が付く。

 自分のそんな感情がどういうものから生まれているのか、それはよく分からなかった。友達や両親と喧嘩した時などに感じるものとはどこか違う。

 ただ ―― 胸が痛いと思った。

「馬鹿みたい……」

 ようするに、あの怒りはやつあたりだったわけだ。そんな自分が情けなく思えて、悠音はがっくりと溜息をついた。

 あの鬼に出会ってからというもの、自分自身の心が分からなくなる事が多い。そう思うと、再び溜息が出た。

 その視線の先で、ベッドから逆さまに転がり落ちた赤鬼のぬいぐるみが、つぶらなボタンの瞳でじっと自分を見つめてくるような気がして、悠音はひょいっとそれを抱き上げる。

「……おまえにも、やつあたりだったねぇ」

 思い切り殴ったためか、少し捩れてへこんでしまったぬいぐるみの綿を元通りに直してやりながら苦笑する。

「その人形を、我に見立てて殴ってでもいたのか? 怖ろしい娘だな」

「 ―― !?」

 不意に、聞きなれた笑い含みの美しい声が聞こえてきて、悠音は目を見開いた。

 あたりを見回して見ても、ここは自分の部屋だ。あの鬼がいるわけもない。

 ハッと気が付いて窓を開けて見ると、既に葉の少なくなった庭の楓の木の枝に、ゆったりと腰掛けるように、紅い鬼がいつもの艶やかな笑みを浮かべてこちらを見やっていた。

「少し、そこを退け」

「……え? あ……うん……」

 心地よい低音でそう言われて、悠音は怒っていたことも忘れて思わず身体をずらして窓の前のスペースをあける。

 ふわりと、軽やかに跳ぶように実斐は部屋の中に入ってきた。

「ほお、やはり我の知らぬような物が多いな」

 ぐるりと部屋の中を見回して、実斐は苦笑するように口端を吊り上げる。

 確かに、千年もの昔と比べたら知っている物の方が少ないだろう。けれども。悠音はそんな実斐の呟きも耳に入らないように、大きく目を見開いていた。

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