2話ー後編

「……誰が来たの?」

 小さな声で悠音は実斐に問いかけた。

 彼が『ああいう人種』と評したのがどういう人間なのか知りたいと思ったけれど、こうもしっかりと抱きとめられていたのでは、顔も動かせなかった。

「あれ? 悠音ちゃんの姿がこっちに見えた気がしたんだけどなぁ」

 ふいに、この藤城神社の宮司である聞き慣れた男の声が聞こえてきたので、やって来たのが日向であると判った。

 おそらくいつものように鳥居周辺の掃き清めを終えて社務所に戻る際に、拝殿に悠音の姿を見つけて近付いてきたのだろう。

「うーん……おかしいなぁ」

 考え込むような日向の唸り声とともに、かさり。かさりと足音が近付いてきて悠音はどきりとする。すぐ近くに、日向の気配が感じられた。

 実斐は「他者には見えない」と言っていたけれど、もしかして宮司である日向には自分や鬼の青年が見えてしまっているのだろうか? 実斐の胸に顔を押し付けられたまま、悠音の鼓動は更に早くなる。

 もし実斐が鬼だということがばれてしまったら、やはり日向は実斐を封じようとするのだろうか? そう考えて怖くなった。

 見つかってはいけないと、鼓動の音が聞こえたりしないようにと必死で落ち着くように自分に言い聞かせる。

 けれども、そうすればするほど鼓動は早く大きくなるように思えて、悠音は気が気でなかった。


「……気の、せいだったかなぁ」

 どこかのんびりとした声と深い溜息が聞こえて、再び落ち葉を踏む足音がする。

 それが、どんどん遠ざかっていく音なのだと気がついて、ようやくほっと悠音は息をついた。

「ふん。勘のいい奴め……」

 苦々しい青年の声が聞こえて、悠音はひょいと顔を上げた。

 実斐は、不愉快そうに日向が立ち去った方向を睨みつけていた。

「日向おじさんに、気付かれてた?」

「……いや、気配を感じただけであろうな。焦点はこちらに合っていなかった。だがよい勘をしておる」

 心配そうに自分を見あげる少女に、実斐は軽く頭を振って見せた。

「よかった。見付かってたら実斐さん、また封じられちゃうもんね」

「馬鹿を申すな。あんな神主ごときが我を封じられるものか。あの"結界オリ"の中で眠っておった以前ならいざ知らず」

 自信たっぷりに笑むその表情は、とても華やかに力強い。

 確かに、今の彼ならば、そう簡単には封じられたりしないだろうというのが悠音にも感じられた。

 千年前にこの鬼を封じることが出来た人というのがどういう人間だったのか、そちらの方がそらおそろしい気さえする。

「ふーん。まあ、それなら良いんだけど。……それで……あのね、そろそろ……放してもらえないかな」

 いまだに自分を抱きすくめている鬼の青年に、悠音は気恥ずかしそうに訴える。

 日向から身を隠すためにこうしていたのだから、その理由がなくなったのならば、さっさと離れたかった。

 このままいつまでも密着していては、なんだか目眩がしてきそうだ。

「くくっ……そなた、顔が赤くなっておるぞ。意外と純真なものよ。結界の鍵を壊した時などは、そなたの方から我に抱きついて来たくせにのう」

 くつくつと笑いながらも、実斐はゆるやかに悠音を解放してくれる。

「し、仕方ないじゃない。私、今までこんなに男の人に密着したことないんだもん! あの時は、あの時でしょ!」

 笑われたのが悔しくて、悠音は赤面している自分を隠すようにわざと怒ったように叫ぶ。十八歳にもなって……とは思うけれど、無いものは無いのだ。

 力いっぱいそんなことを主張されて、実斐はきょとんと目を丸くした。

 けれどもすぐにまた、可笑しそうに肩を揺らして笑いだす。

 そんな様子が腹立たしくて、悠音はぷくりと頬をふくらませた。

「もう、そんなに笑わないでよ! 良いのっ。私の恋人は弓道なんだから」

 自分で言っていて哀しくなるようなことを思わず悠音は口走る。実斐は、くすりともう一度笑った。

「ほお、そうか。そなたの恋人はその弓か。そのおかげで我はあの檻から出られたのだからな。我はそなたの"恋人"にも感謝しなければならぬな」

 からかうような口調ではあったけれども、その深い漆黒の瞳はどこか優しい彩を宿していた。彼女の弓道の技量のおかげで、あの閉じられた空間を出ることが出来たのは確かだった。

「べ、別に。感謝ならもう、してもらったでしょ」

 気恥ずかしげに、悠音ははにかむように笑った。感謝ならば、先日彼には『星』をもらったのだから ―― 。

「それよりも、さっきの話の続き。実斐さんは、千年前に戻らなかったの?」

 日向が来たことで立ち消えになっていた先ほどの話を、悠音は引き戻す。

 自分の"恋"の話題などはさっさと流してしまいたかったし、そのことが気になるのは嘘じゃない。

「うん? ああ、そのことか……」

 紅い鬼の青年は先程と同じように楽しそうに目を細めると、ゆったりと大きな伸びをして見せる。

「我は、もともと己の居た場所に戻っておるぞ。……千年前、になるのか?」

「えっ? でも ―― 」

「ただ……我が解放されたあとも、そなた等はそのまま儀式を続けたであろう? それ故、あの空間オリには僅かな結界ちからが残ったようでな」

 あざやかな微笑を、実斐は口許に佩く。

「我を封じたあの空間に流れる小川の水が、こちらに同調しておったのだ。その流れに沿って、我はここに来ただけのことよ。……そなたを喰らいに来ると、宣言してしまったのでな」

「あの、水の流れに!?」

 大きな瞳をさらに大きく見開いて、悠音はまじまじと紅い髪の青年を見やった。

 あの神苑を流れる『忘れ水』。あの水の流れを見付けなければ、自分は実斐と出会うことはなかった。

 そして ―― あの水が無ければ、こうして再び鬼の青年と再会することもなかったのか。

 悠音はあそこで自分が見つけた水の流れが、とてつもなく自分にとって大きな意味を成しているような気がして、思わず身を震わせた。

「もしかして、私はあなたに会うのが運命だったのかなぁ……」

 ぽつりと、悠音は呟いた。

 実斐はびっくりしたように彼女を見おろして……ふと。可笑しそうに。けれどもどこか暖かい笑みを浮かべた。

「ふふん。鬼を引き寄せるのがそなたの運命か? だが……」

 言いながら、不意に苦笑するように眉が逆立って、実斐は彼女がしっかと抱きしめている荷物を見やる。

 その表情の変化が不思議に思えて、悠音は自分の手元へと目を向けた。

 彼女が手に持っていたのは、先ほど実斐にあげた小さな鬼ではなく、少し大きめの赤い鬼のぬいぐるみ。その頭部だけが、紙袋のなかで持ちあげられたように隙間から顔を覗かせていた。

「断じて、それは『鬼』ではないがな」

 長い指をすっと伸ばして、青年はぬいぐるみの赤い顔をぴんっと弾く。

「ふふ。けっこう根に持つんだねぇ、実斐さん」

 くすりと、悠音は笑った。


 あの忘れ水に導かれて鬼と出逢ってしまったこと。そして鬼に魅入られてしまった自分。そんな運命も ―― 悪くないかもしれない。

 目の前で笑う紅い鬼の青年を眺めやり、そんなふうに悠音は思った。

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