第2話『水』

2話ー前編

「あっ。かわいい……」

 学校からの帰り道。可愛い小物がたくさん飾られたドールハウスの前を通りかかって、思わず悠音はくすくすと笑った。

 可笑しそうに細められた瞳に映るのは、デフォルメされた『赤鬼』のぬいぐるみ。触り心地のよさそうな柔らかな生地でつくられた可愛らしい鬼の人形が、澄ました顔で店先から外の景色を覗いていた。

 この店にはお伽噺をモチーフにした人形がたくさんあって、『かさ地蔵』やら『桃太郎』やら『かぐやひめ』など可愛く多彩な和風のぬいぐるみが、お伽噺の世界のまま店内に飾られている。

 おそらくあの鬼のぬいぐるみは、童話の『泣いた赤鬼』がモチーフなのだろう。

「ふふ。買っちゃおうかなぁ」

 三十センチメートルほどの大きさのそれを抱き上げて、悠音はもう一度笑う。

 真一文字に結ばれた口許からのぞく小さな牙と、つぶらな黒いボタンの瞳がとても愛らしい。

 今までは気にもしなかったのだけれども。近ごろやたらと『鬼』に目が行ってしまう悠音だった。

「そうだ。これも……」

 可笑しそうに肩を揺らして、二つの鬼をレジに持って行く。

 ひとつは大きめの、さっき抱き上げた赤い鬼のぬいぐるみ。そしてもうひとつは小さな……頭に赤い飾り紐のついた親指ほどのプチぐるみだった。



「それで……これを我にどうしろと言うのだ、そなたは?」

 目の前にぶら下げられた親指ほどの赤い人形に、実斐は途方もなく困惑したように眉をしかめてみせる。

 たったいま、この行動不可解な少女は『あなたにあげる。星のお礼だよ』などと言って、これを差し出してきたのだった。

 お礼と言うのならば受け取らないではないが、全身赤い肌をして、頭には二本の角が生えた"ソレ"は、虎のような柄をした布きれを付けているだけの童人形のようだった。そんなものを、いったい自分にどうしてほしいのか ―― 。

「それね、"赤鬼"だよっ」

 耐え切れないと言うように、悠音は楽しそうに笑いだした。

「あなたの同類さんだね」

「 ―― !?」

 くすくすくすと可笑しそうに、少女は鬼の青年のぽかんとした表情を眺めやる。

 実斐は目の前に在る『モノ』が鬼なのだと言われて、その深い漆黒の瞳をこぼれんばかりに見開いていた。

「……ばっ、馬鹿を申すな。鬼はこのようなものではないぞ。我は人に『紅い鬼』と呼ばれることはあるが、全身真っ赤なわけではない。しかも……こんな布きれ一枚で身体を……」

「だからね、私たち現代の人が知ってる『鬼』はこういう生き物なの。私が実斐さんのこと最初は鬼だって信じられなかったのもそのせいだもの」

 真っ赤な素肌に虎パン一枚履いただけの赤鬼の姿は、あまりにも心外だったのだろう。かなり不機嫌そうに否定してくる実斐の様子が可笑しくて、悠音は思わず顔が緩んでしまう。

「いったい……何をどうやったら、こんな鬼が出来上がるのだ。合っているのは角があることだけではないか」

 いかにも不愉快そうに眉を逆立てて、実斐はぷいと横を向いた。

 初めて会った時からそうだったけれど、この紅い鬼の青年は時々かなり子供っぽい反応をする。顔に似合わぬそれが、悠音は可愛いと思うのだ。

「じゃあ、受け取ってくれないの?」

 ゆらゆらと青年の目の前で赤いプチぐるみを揺らして、少女はわざと拗ねたように青年を見上げてみる。

「せっかく、実斐さんのために買ってきたのに」

「…………」

 ちらりとそんな少女の顔を見おろして、ゆっくりと五つ数えるほどの時間そのまま眉をしかめていたが、ふと、実斐は仕方なさげに唇を曲げて溜息をついた。

「ふ……ん。そんなに言うのであれば、一度はもろうておくが……あとで我がそれを捨てても文句は言うでないぞ」

 ひょいっと無造作にその赤い鬼の人形を奪い取ると、見もせずに薄墨色の袂に放り込む。一度もらってしまえば、あとは自分の物なのだから、それをどうしようが構わないだろうと言いたいらしい。

「もうっ。もらったものは大事にしなさいよね!」

 思わず悠音がそう言い返すと、実斐は何故か、くつくつと可笑しそうに笑いだした。

 何か、笑われるようなことを自分は言っただろうか? 悠音は不思議そうに首を傾げ、笑い続ける青年を見やる。いったい何が可笑しかったのか分からなかった。

「そなたは本当に面白い。よくもそうぽんぽんと、我に噛み付けるものだ」

 今まで自分が知っている人間といえば、ほとんどは鬼が姿を現しただけで悲鳴をあげて逃げていくか、敵意を剥き出しにして襲いかかってくるかのどちらかだったというのに。

 笑いながらそう言われて、悠音は少し考えるように目を細めた。

「あなたが姿を現しただけで人が逃げ出したってことは、相当酷いことしてたんじゃない?」

「だから ―― 」

「"我には良し悪しは分からぬよ"でしょ? 前にもそう言ってたもんね。でも、私はあなたが怖くないんだもの。怖くもない相手に、遠慮なんかするわけないでしょ」

 いったいこの鬼は、千年もの昔は何をやっていたのだろうか?

 考えてみると少し怖ろしい気もするが、いま目の前に居る紅い鬼からは『姿を見ただけで逃げたくなる』ような邪悪さを感じられないのだから仕方がない。

 この鬼は悠音の前では笑っていることが多く、どちらかといえば一緒にいて楽しいとさえ感じてしまうのだから。

「……ふん」

 少女に言葉の先を越されて、実斐は苦笑しながら溜息をついた。そういえば、彼女が自分を怖がったのは爪で引っ掻いてみせたときだけだった。その時だけを除けば、それ以前もそれ以降も悠音は一貫してこの態度なのである。

「だから、そなたは面白いと言うておるのだ。それとも、現代ここの人間はみんなそうなのか?」

 にやりと形のよい口許を吊り上げて、実斐は笑った。

 本当に、この少女には興味が尽きないと思った。見ているだけで、楽しくて仕方がない。

「千年前の人間がどうかは知らないけど……あっ!」

 不意に悠音は大きな叫び声をあげた。ひとつ、気になることがあったのを思いだしたのだ。

「なんだ、いきなり」

 とつぜん上がった大きな声に、実斐は呆れたように少女を見やる。

「そういえば、実斐さんは千年前に戻らなかったの?」

 その呆れ顔は無視して、悠音は不思議そうに自分の疑問をぶつけ、鬼の青年の顔をじっと見上げた。

 自分は、あの結界オリを抜け出たあと、あそこに迷い込む前の時間に戻っていたのだ。

 だから ―― 彼もきっと封じられる前。千年もの昔に戻ったのだろうと思っていたのに、こうして今も会うことが出来る。それが、悠音には不思議だった。

 例えば鬼が長命で、彼はあれから千年以上も生き続けてきたのかもしれないと思うこともあったけれど、それにしては、あまりにも実斐の様子が変わっていない。

「ほお。そんなに我のことが気になるか?」

 くすりと、どこか艶やかな笑みを実斐は浮かべた。自分が彼女に興味を持っているように、悠音もまた自分に興味を持っているのだろうということが、なんだか楽しいことであるような気がした。

「あなたのことが……っていうか、不思議だから知りたいだけだよ」

 長い睫毛に彩られた濡れたような漆黒の瞳が、じっと悠音を射るように見つめてくる。あまりに艶っぽいその微笑に思わず見惚れそうになりながらも、悠音は軽く舌を出して悪態をつくようにうそぶいた。

 まったく、どうして彼はこんなふうに人の心を揺さぶるような笑みをつくるのか。そんな笑みを見せられたら、こっちの正気がもたないではないかと、訳の分からない苛立ちさえ覚えてしまう悠音だった。

「ふふ。そうか ―― 」

 いかにも楽しそうな口調で呟くと、実斐はとつぜん悠音を抱きすくめるように腕を回す。長身の彼に比べて小柄な悠音は、すっぽり実斐の薄墨色の狩衣にくるまれるような形になった。

「 ―― !!??」

 あまりのことに、悠音は思わず声も出ない。先ほど見た彼の艶やかな微笑もあいまって、自分の鼓動が早鐘のように波打ってしまうのが分かった。

「な……何す ―― 」

「しっ。人が来る」

 密やかに囁く声が耳元で聞こえて、悠音は赤くなった。

 こんな場面を他人に見られたらと思うと恥ずかしかったし、青年の囁く声が鳥肌が立つほどに心地よいと思ってしまった自分の心の在りようも恥ずかしかった。

「こうしておれば、我の"力"が壁をつくる。他者には我らの姿は見えぬよ。……今はまだ、我も人前に姿を現したくはないのでな。とくに、ああいうの前には」

 抵抗するように腕の中で身じろぐ少女に、実斐は静かに囁くように言う。

 その言葉に驚いて悠音が動きを止めると、落ち葉を踏みしめるかすかな足音がこちらに近づいて来るのが分かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る