第4話

 リビングのソファで目が覚めた。肌寒い。カーテンから差し込む明かりはまだ暗い。昨晩はあれから私、羽佐間の順番でシャワーを浴びて、私はシャワーを浴びた後の下着姿のままで、ソファに座って足を手当し直した。それから疲れを感じてソファに寝転がったところまでは覚えている。

 きっと、その後にシャワーを終えた羽佐間が部屋から持ってきたのだろう。ブランケットが肩の下辺りから掛かっていた。

 私は頭が醒めるまで、胸に引っかかったブランケットのチェックの柄を眺めた。それから昨日の醜態が思い出されて、ブランケットを被って、身を捩った。

 くそ。

 そのうちにまた眠りに落ちたらしい。


 眠っている間に何か、大事な夢を見た気がする。リビングに漂い出した人の気配と食べ物の匂いで目が覚めた。身を起こして台所の方を見ると、ホットケーキを焼いているらしい羽佐間の後ろ姿が見えた。その光景が、なんだか非現実的で夢の続きかと思われたが、足を踏み出すとしっかり、痛かった。昨日よりはましだが。

 昨日の晩に確認した限り、左足裏が派手に皮が捲れて、皮膚の間に細かい砂が入り込んでいた。それに、右足の親指、人差し指の爪の中が内出血を起こしていて、そこも痛んだ。きっと昨日の人混みの中で踏まれたのだろう。私はテーブルの上に置いてあったテーピングに手を伸ばして、両足の負傷箇所をガーゼの上からきつめに抑えた。それでなんとか歩き回れる程度の痛みに落ち着いた。

 局所に体重が掛からないように、慎重に歩いて冷蔵庫を開けた。羽佐間は私に気づいて、「おはよう」と挨拶した。見慣れた、ノースリーブにジーンズの格好だった。私は「うん」と返して、天然水を一気に飲み干した。

 昨晩の出来事から時間を置いたからか、私は彼女との距離感を掴み損ねているようだった。彼女にしてもそうだったのかもしれない。「何枚食べる?」と聞いてきて、私は「二枚」と答えた。

 その日も昼から通し稽古だった。

 私が自室で紺色のTシャツとジャージの下を発掘してから、お互い無言でホットケーキを食べ終えた頃には九時だったので、少し時間が空いた。

 食器をシンクに置いた羽佐間が「部屋、片付けようか」と提案したので、私は断る理由も無く、二人でのろのろゴミ拾いを始めた。片付けている間、つくづく私がゴミを捨てなかったことが謎であった。インスタント食品の容器はそこら辺りに散らばっていた。一所に積み上げていたのが、ある日うっかり崩してしまったのだった。二枚目のゴミ袋を開いたところで、羽佐間が「あれえっ」と声を上げた。

 羽佐間は何か本を手に持って、私を見ていた。「滲み」だった。

「私の本」

 私は気まずいような照れくさいような気になった。痒くもないのに頭を掻きながら「杉の歌は読んだよ」と言った。

「あ。ありがとう……」羽佐間はしげしげと「滲み」の表紙を眺めた。「……じゃあ、知ってたんだ。私の名前」

「……」私は黙ってゴミを拾った。

「まあ、隠したつもりも無かったからねえ……」彼女は「滲み」を机の上に置いた。「て、ことは。君はもう私と歌川がどういう関係か見当が付いてるわけか」

「まあね」

「一応聞かせてよ」

「……羽佐間は、薫さんのお姉さんだ」

「当たり」

「羽佐間も、歌川薫だったんでしょう」

 羽佐間はソファに座った。

「それも当たり」

「それで、薫さんと姉妹になった頃から、アンタは薫さんに色々な物を奪われ始めた」

「……」羽佐間は何かに思いを馳せるような顔をした。

「恋人とか、家庭の居場所とか、そういうの。色々」

「ひどい奴だよねえ……。薫のやつ」

「でも、それって嘘でしょ?」

 羽佐間薫は私を睨んだ。肘をソファの縁に掛けている。

「嘘って?」

「本当はさ、アンタが薫さんの色々な物を奪ったんじゃ無いかなって」

「……」

「なんか、羽佐間とあの主人公は合わないんだよね。それが読んでいる間ずっと違和感だった。でも、本当の主人公が薫さんだったらって思ったら、色々納得が行くところがあった」

 羽佐間は鼻で笑って、初めて見る狡猾そうな笑みを浮かべた。

「外れ。残念でした」

「え」

「実際の所はね、私たちは、歌川薫であることを掛けて戦ってたんだよ」

「戦ってたって……薫さんも?」

「うん。あの娘にその気があったかは分からないけど、少なくとも、私は危機感を覚えていたし」

 羽佐間は長い髪を手で弄び始めた。

「羽佐間は、私の元の姓。私が高校卒業する時に親が離婚したんだ。それでも姉妹ではあったし、お互い薫でもあったから、妙な距離感のまま、他人にもなれなくてね。だから、警察の人にこの家の鍵を貰うまで、あの娘が……共同生活? していることも知らなかったんだよ」

「それで、私に会いに来たの?」

 私は立ちっぱなしで足が痛くなってきたので、羽佐間とテーブルを挟んで向かい合う位置で床に座った。

「そう」

「じゃあ、映画を撮るっていうのも嘘?」

「ははは。あれは満更嘘でもないね。楽しいし。そのうち、また続きを撮るよ」

 私は内心ほっとした。流石に虚言で撮っている映画の出演料を貰う程、金に卑しくはない。ただ、金を貰わないとすると懐に不安が付き纏うのは事実だった。

 ……待てよ。今の話が本当なら、西山の過去と……あの指輪は?

 私が少し天井を仰いで考え始めたところで、羽佐間が「あのさ、あの娘、居なくなって寂しい?」といつか誰かに聞かれたような事を聞いてきた。私は狭間を見て、少し考えて、「うん」と簡潔に答えた。

 それから羽佐間は少し呆けたような目をして、「そうか……」と呟いた。「やっぱり死んじゃったんだなあ……」と呟いた。

 私が立ち入れないような領域に入ったらしい羽佐間を置いて、私はまたゴミを拾い始めた。二枚目の袋が一杯になる前に部屋は一通り片付いた。丁度明日朝がゴミの回収日だったので、家の前の回収ボックスにゴミを運ぶところで、私の部屋にも一つゴミ袋があることを思いだし、それも外に出した。

 家に戻ると、羽佐間はテレビを点けていて、通販番組を興味なさそうに観ていた。特に面白くも無いのにテレビを点けるのが彼女の癖なのかもしれない。私は掃除機で床の細かいゴミを掃除した。時計を見ると、もう少しで稽古に出向く時間だった。私が稽古に向かう準備をしていると、「そういえば、公演はいつからだった?」と羽佐間が聞いてきた。公演はもうすぐ。今日で通しを終えて、明日から仕込みを始める。舞台はやはり駅前、さいたま市のホールを抑えたらしい。その旨を彼女に伝えると、「チケットはどう買えばいいのかな。チケットバック? ……<西山>の規模でそれは無いか。もう買えるの?」

「どうかな。予約くらいはもう始めてるかもしれない。けど、一人分くらいは私が舞監に言って貰ってくるよ」自分で言って、ようやく公演が近づいてきたという実感が湧いてきた。

 そうか。もうすぐか。

 玄関に出て、サンダルを突っかけたところで、私は唖然とした。

 これから、この足で、劇場まで、歩いて行くのか? 足の裏の傷だぞ。なんとか車で迎えないだろうか。

 タクシーでも呼ぼうかな、と思ったが、金が無い。次に心ちゃんの車が頭に過ったが、論外だ。……そうか、彼女とは昨日終わったのだったなあ……。今後彼女と顔を合わせることを考えて沈鬱な気分になった。

 どうしようか。少し考えて、西山に送迎を頼むことを考えた。しかし、男と車中二人になるのは嫌だし、役者と違って演出家は稽古の他に劇団の仕事があるだろうから、時間が合わなそうだ。結局、相沢に電話を掛けることにした。相沢よりは、相沢の父の顔が思い浮かんだ。……迷惑だろうか。当たり前だ。だが仕方ない。相沢はすぐに電話に出た。

「はい?」

「相沢、まだ家出てない?」

「うん。……なんで?」

 私はある程度ぼかして(その結果殆ど嘘になったが)足を怪我した経緯を説明した。相沢は気の毒そうな声色で「あらあ……」と言った。私は重い物を足の指に落として、その直後に怖い犬に追われて派手に転んだことになっていた。まあ、相沢にしても本気にはしていないような雰囲気だが。

「……それで?」

「うん、それで、相沢の家の車で送って貰えないかと思って」

「ああ」

「お願いします」

「うん、分かった。言っとくよ」

 父親に、ということだろう。

「お願いします……」

 電話が切れた。考えてもみれば、彼女の父親にこそ「お願いします」と言うべき所だ。


 塀に腰を掛けて待っていると、黒いベンツが静かにやってきた。実は、道が分かるか気を揉んでいたのだが、私を一度送っただけでしっかり記憶していたらしい。出来る人、なんだろうな。そんな雰囲気だったし。私が妙な歩き方で近づくと、運転席の扉が開いて、相沢の父が出てきて挨拶した。私はまたぺこぺこ頭を下げて、謝罪と謝辞が混在したような台詞をのたのた喋った。それから相沢が後部座席から出てきて、せっかく出てきた父親を「いいから」と制し、扉を大きく開いて私を奥の席に招いた。

 車が発進すると、相沢がテーピングの上に包帯を巻いた私の足を見て、「思ったより重症だね」と言った。

「見た目ほど大事ではないんだよ。ただ、ほら、足の裏怪我してるから」

「うん」

「だから、あんまり歩いたら傷が酷くなるからさ」

 私は弁解するようなちょっと情けない声で喋った。

「分かってるって」

「通しまでには舞台で歩けるくらいにはなると思うんだけど」

「分かってるって。別に気にしてないって。私は」

 私は相沢ではなく相沢の父に申し訳なく思っているのだ。ただ、この車の中、というより、彼女と彼の間には、ちょうどタクシーのように、薄い透明の壁みたいなものが存在する気がして、私まで相沢の父親に話掛け難いのだ。

 それ以降の車中で彼女たちの間に会話は無かった。この間の夜は相沢が寝ていたが、普段からこんなものなんだろうか。だとしたら、相当気詰まりだ。


 稽古場の駐車場に到着して、建物の中に入るまでは相沢が肩を貸してくれた。相沢の親切心に水を差すようで本当に悪いとは思うのだが、相沢の体温が近くなって、彼女の山なりにたるんだ襟元から胸の形が見えたりして、ドキマギというか、まあ、ハッキリ言ってムラっとした。顔に血が昇って、どうしようもなかった。

 大抵の場合は平気なのだ。というのは、例えば知らない女が着替えをしている所を見たり、羽佐間が裸でいる所を見たりしても、下腹部が疼くようなことは無いのだ。だが、これが私の困ったところで、時折、肉欲。としか言いようのない欲望を感じるタイプが存在する。こういう人間のタイプについて、私自身よく考えるのだが、どういう人間がストライクするのか未だによく分からない。単に美人であるのが条件ではないということは分かる。顔のことを言えば(これは口が裂けても口には出さないが)心ちゃんはそれほどでもないし。ただ、ある出来事が切欠になることはある。それは相沢が予想以上にスリムだと気付いたことだったり、心ちゃんに殆ど無理やりキスをされたことだったりする。一度そう認識し始めてしまうと、これを覆すのは非常に難しい。困難だ。私はこれからも、心ちゃんと顔を合わせたら彼女の左右に流れる乳房を想像するし、羽佐間と顔を合わせる度、彼女のスリムな腰を想像するんだろう。……いやいや。考えるな考えるな。

 くそ。言っちゃなんだけど、これはどう考えても心ちゃんと付き合った影響だ。彼女との記憶を悪い過去にしたくないが、これは明らかにそうだ。彼女を抱くまで私は肉欲なんてものを言葉でしか知らなかった。

 ……まあ、うまく付き合っていくしかないんだろうな。肉欲とも、人間とも。

 私は一心にジョバンニ少年の純粋な台詞を頭の中で呟きながら稽古場に向かった。その時、不意にジョバンニに関する、私にとっては割と重大な疑問が頭の中に思い浮かんだ。だが、それは稽古場の喧騒に揉まれて、また思考の沼の中に沈んだ。


 役者たちは鏡を前にして体を伸ばしていたり、その反対側の、いつも西山が座っている辺りに椅子が沢山積まれていて、そこで座ってスタッフと話していたり、居場所が見つからないのか、変なところで床に座って、俯いて脚本を読んだりとその辺りはいつも通りだ。ちょっと変に思ったのは、今日はフロアの丁度真ん中辺りに鈴木を中心に集まっているグループがあって、何となく、彼女たちの話している内容に、フロア全体の人が耳を傾けているように見えたことだ。

 なんだろう。……嫌な予感がする。

 鈴木は稽古場に入った私を発見すると、「あ」という顔をして、「あ~!」と声を出した。横で肩の筋肉を伸ばしていた水野は「まずい」という顔をした。後ろの椅子がたくさん積んであるところで、若いスタッフのお喋りを聞いていたらしい大石は「おや」と顔を上げた。他の劇壇員も何となく相沢の隣に立っている私を意識したらしかった。

 鈴木は嬉しそうに私に近づいてきた。水野と、その辺りに立っていた女性スタッフは「馬鹿!」という顔をした。鈴木は気の毒そうに「ねえ、恋人に逃げられたんだって?」と、馬鹿みたいに腹から声を出して言った。きっと彼女は馬鹿なんだろう。

 鈴木は馬鹿だ。馬鹿に違いない。だが、悔しいのはそんな馬鹿な女の言葉にみっともなく狼狽えてしまったことだった。後頭部の皮が後ろから強烈に引っ張られる感覚。血の気が引いたらしい。多分私の顔は青いのだろう。横目で鏡を見た。やっぱり青い。隣に立っていた相沢は事実を問うように私を見ている。

「分かる!気持ちは分かるよ……辛いよねえ。うんうん」と、鈴木は嬉しそうに私に同情している。きっと山ほど失恋した経験があるんだろう。当たり前だ。馬鹿だから。

「いや、違う。違くて……」と私は顔が青いまま言ったんだろう。私はみっともなく俯いてしまった。それが鈴木を助長させたらしい。くそ。これじゃあ私も馬鹿みたいだ。冷静じゃないんだろう。

 ああ、くそ。この……。こんなはずじゃ、無いのに。多分、昨日の私が、誰かに見られたんだろう。何しろ駅前だ。それで、そいつが誰かにくっちゃべって、そいつがまた誰かにくっちゃべって。……。どこまで見られたんだろう。私は内心ひどく焦った。もしかしたら、心ちゃんに迷惑を掛けることになるかもしれない。そうなったら、……かなり辛いな。本当に辛い。私は、何より大好きな彼女が傷つくのが怖んだ。私はちょっと泣きそうになった。

 鈴木はそんな私を見て、「まあまあまあまあ」と言いながら、心底私に同情した表情で、私の肩に手を掛けた。「落ち込むことないって。男なんて一杯いるんだから。そうだ、今度良い人紹介す」

 本能なんだろう。私は鈴木をぶん殴った。

 安心したのは、拳、つまりグーでは無かったことだ。パーだ。ビンタだ。しかも、インパクトのギリギリに自制が働いて、加減したのだ。本当に、自分自身を褒めて、抱きしめてやりたい。役者の矜持だ。公演を控えている女優の顔を、跡が(長くは)残らない殴り方をしたのだ。

 まあ、当然のことだが、稽古場は静まり返った。ビンタは大きく音が出る。水野たちは「あちゃあ」という顔をした。私は見てないで世話をしてよ! という気分だ。こいつは馬鹿なんだから、保護者が必要でしょーが! ちゃんとオムツを付けろっつの! 鈴木は泣き出している。情動失禁だな。そら見ろ!

 私はというと喉が震えて、息が揺れている。惨めだ。私は怒りに震えている。だが、この馬鹿は、いや、ここにいる人間の殆どが、私が昨日、男に捨てられて、必死に追いすがっていたと信じているんだろう。違う。私は、傷付けた心ちゃんを励まして、……元気付けるために走ったんだ。だから、私はプライドを捨てて、必死に走れたんだ。誤解されていることが、本当に悔しくて。隣の相沢は心底困ったように掛けるべき言葉を探している人間の顔をしていて、そう気づくとますます自分が惨めに思えた。

 私は痛む左足を引き摺って、速やかに稽古場から外に出た。通りの広い歩道を歩いていると、相沢が後を追いすがってきて、私の名前を呼んだ。彼女が何か言う前に「一人にして。頼むから」と言った。相沢は言葉を失ったらしかったが、無言で、私の足を引き摺る歩行速度に合わせて、後ろをしばらく歩いていた。

 相沢が堪えかねたように「ねえ、駅まで行くの」と言葉を投げてきた。

「うん」

「今日は帰るの」

「分からない……」

 私はとっくに今日の稽古をサボる気でいた。今日の所は駅の喫茶店で時間を潰すか。……駅までどれくらい掛かるのかな。いつもは徒歩十五分くらいだから、多分三十分くらいだろう。

「ねえ、ちょっと待って。待って。止まって」相沢が前に立ち塞がってきた。「お父さん呼んだから。車使って」

「ええ……?」

「車で送らせるから」

「やめてよお……」

 惨めだ。だが、向こうから黒い車が走ってきて、静かに私たちの横に停車した。仕事が早い。出来る人間なんだなあ……。

 結局、態々呼んだ車を追い返すわけにもいかず、私は相沢の父が運転する車に乗ることになった。私は無駄だとは思ったが、車に乗る前に「ねえ、昨日は私、別に自分を捨てた男を追い縋ったわけじゃないんだよ」と言った。

「分かってるよ。そんなこと」と、相沢は当たり前のように私が一番安心する言葉を言った。「あなたは、なんかそういうキャラじゃないもん。本当に、私には分かってたよ」

「……」

「ただ、今は一人になりたいんでしょう。分かってるから。でも、気が向いたら稽古に来てね」

 そこで、相沢と別れた。私は車に乗って相沢の父と駅前に向かった。車中は無言だったが、駅前に到着したときに、運転席から降りた父親が後部座席の扉を開き、私を外に招く(外に、招く? なんか変だが本当にそんな感じだ)。私が地面に足を付くのを待って、両手で彼の名刺を寄越してきた。シンプルだが、センスを感じさせるデザイン。フリーのものではないな、と思った。外注したのだろうか。

 相沢丞。アイザワジョウ。名前の他には家の電話番号、携帯の電話番号、あの豪邸の住所に、フリーランス Webエンジニア、その下にポートフォリオなのか、Webサイトのアドレスが書かれてあった。

 丞か、かっこいい名前だ。……エンジニアなのか。へえ。でも、どうして私に名刺を寄越すのだろう。まあ、いつまでも相沢のお父さんでは変ではあるけど。

「私はここらを適当にぶらぶらしているので、移動するときは電話でお知らせください」と丞さんは言った。

 私は大いに恐縮した。

「そんな、困りますよ。私一人で帰れます」と、割と強く拒絶したのだが、丞さんは「私が華に怒られますので、すいません。お願いします」と頭を下げて、どうしようもないのだった。お願いします、は私の方なのだが。多分、この人はこういう遜った押しつけが得意なんだろう。こういうのは、まともな社会経験が為せる技なのかなあ。

 間合いに入ったら、斬る。ここが私と違う所なんだろうな。……私はマトモな三十代になれるのだろうか。どうやら無理そうだ。困るな……。

 はあ。

 私はいつもの駅で使う喫茶店に入った。チェーン店だし、アイスコーヒーのLだし、味はそれほど期待していないのだが、こういう店はぼーっと時間を潰すのには結構悪くない。

真昼時なので、結構人が混んでいる。運良く改札が見える席が空いていたので、そこに座った。着替えを入れている鞄は隣の席に置いた。

 改札からスーツを着た人々が流れてきたり流れ出て行くのを見ていると、ふと将来の不安を感じ始めて、行き交う人々、喫茶店で本を読んだりお喋りをしたりしている人々とは違う社会に属しているような気がしてきて寂しい気持ちになった。

 最近の私はどうも情緒が不安定だ。原因は色々思い当たるのだけど、どれも解決するには遅すぎる、という実感しか沸かない。後ろのテーブル席で若い女が二人、楽しそうに話していた。下品な笑い方をしない、いい雰囲気(如何わしい意味ではなく)の二人だ。

 もう、色々が終わったんだな。薫さんは車にぶっ飛ばされて死んでしまったし、心ちゃんとはキッパリ綺麗な別れ方をしたし。だが、一番の悩みはというと、こんな状況にあっても刻一刻と公演が近づいていることだ。だから、こんなところで他の劇団員が稽古している間に、優雅にコーヒーを飲んでいる場合ではないのは分かっているんだ。分かっているんだが、さっきの稽古場の、あの雰囲気は耐え難い。まあいいさ。どうせ明日の場当たりが始まってしまえばあっというまに公演。それから三日毎日演じて、千秋楽。それからバラシ。

 人が流れるのを見ていると、左から男が歩いてきた。無精ひげを生やした痩せ男で、私の座っている方をちらっと見ると、忙しく喫茶店に入ってきた。レジで注文して、アイスコーヒーを受け取ると私の隣に座った。津田だった。

「津田さん」

「よう。揉めたんだって?」

「ええ、まあ」

 津田は舞台監督だが、<西山劇場>ではトラブルを起こしたスタッフのケアを買って出ることが多い。西山にその能力が無いからだろう。<西山劇場>が小劇団のころからやっていることが、今も癖になって続いているという感じだ。そういえば、面と向かって津田と顔を合わせたのは久しぶりだ。以前の舞台で相沢とトラブルを起こしたとき以来か。

 きっと、相沢に電話で言われて、私の様子を見に来たんだろう。

「俺たち、舞台を見てたんだぜ」と津田が言った。

「今度の舞台、さいたまの劇場ホールでしたっけ」

「そうだ。まあ、上等な劇場だな。客席も多いぞ。声の通りも良い。中堅のウチとしては、まあ頑張ったほうかな。いや、これから頑張るのか」

「そうですか」

「今日はサボりか?」

「……」

「ま。そういう日も、あるか……」津田はちょっともじもじした。煙草を吸いたいらしい。

 私はふと、羽佐間のことを思い出した。

「そういえば、公演のチケット、もう予約取ってるんですか?」

「おお、結構多いぞ。カムパネルラ目当ての、怖いもの見たさかな。ネットでもちょっと奇人・西村の思い付きって感じでちょっと盛り上がっているようだ。少なくとも宣伝にはなってんのかもな」

 カムパネルラ目当て、か。相沢が苦い顔をするかもしれない。

「なんだ? 融通は利くぞ。何枚要るんだ」

「一枚でいいんですが」

「ああ、分かった。明日やるよ」津田はポケットから小さいメモ帳を取り出して、何かを書き込んだ。それから、懐かしそうな目をして「ふっ」と笑った。

「なんですか?」

「いやあ、うちも大きくなったなあと、思ってな」津田はポケットにメモ帳を仕舞った。「まだ、<西山劇場>が小劇団だった頃はさ、全然若手を育てる余裕なんてないし、役者を採るのは集客率ファーストの時代があったんだよな」

「役者の集客率ですか……」私にはよく分からない話だ。都会の方の小劇団なんかは、役者がどれだけチケットを身内・知り合いに捌けるかが評価のポイントとして重要視されている、という話は聞くが。私は薫さんの紹介で若手のオーディションを受けてから盤石な実力を付けた今まで、ずっと<西山劇場>で演じているのだ。ちょっとヌルいかも。まあ、子どもの頃から薫さんと遊びのような稽古はしていたが、……やっぱりヌルい気がするな。まあいいか。

「だから、コミュニケーションは上手いが、演技がガタガタの奴なんて珍しくなかったんだ。それはそれですごいけどな。今みたいに、大きい劇場抑えて、裏方仕事もスタッフが充実している、ってのは……。やっぱり恵まれてるよ」

「……? 役者に、ですか?」

「運に」

「ああ……」

 まあ、運も大切だけどさ。

「……本当にさ。これは、ウチの劇団には苦い歴史の一ページなんだけどな」と、津田が何かを語る感じになった。「昔、抱えていた公演のちょっと前に、劇団員同士がトラブルを起こしたことがあってさ。そいつらそれから稽古に来なくなっちまって、ほとほと困ったことがあったんだよ」

 ……どこかで聞いた話だな。

「悪いことに、そいつら主役でさ。だから、西山は……というか、俺たち。……そうか、その頃は歌川も居たんだな……。ま、いい。とにかく、俺たちは急遽舞台の脚本から演出まで変えないといけなくなったんだよ」

 間違いないな。これは以前<アトール>で西山から聞いた話だ。だけど、津田が気持ちよさそうに喋っているから、ここは知らないふりして聞いてあげよう。稽古をサボってるんだし、それくらいの舞監孝行はしてやるか。

「それ、大変ですね……」と、私は深刻そうに頷いた。

「そう。もう、てんてこまいさ。西山は青い顔して脚本直しているし、役者は突然台詞が増えて喚くし、俺は泣きながら舞監仕事で走りまわるし、歌川は役者を宥めるし」津田は苦しそうな顔をしたが、少ししたら晴れやかな顔になった。「でも、あの時の、打ち上げのビールは美味かったなあ……。俺は打ち上げのビールを飲むために舞監やってんのかなあ……」

 聞きたいところがスキップされたらしい。私は慌てて質問を投げた。

「結局、舞台はうまくいったんですね」

「うん。まあ、上手くは行ったよ。ただ、西山が臍を曲げたんだったなあ。……その時はな、結局どんだけ脚本調整しても尺が足りなくてさ、苦肉の策で歌川の伝手の劇団に共演を依頼したんだよ」

「へえ。歌川さんの伝手ですか。……西山さんが臍を曲げたって?」

「うん。歌川の伝手は、俺もよくは知らないんだけどな。ま、前座だ。軽くて、笑えるやつさ。だけど、その一人芝居の出来が結構良くてさ、アンケートでも前座の方ばかり褒める客が多かったんだ。それで西山が拗ねたんだよ」

 なるほど。中途半端にプライドの高い西山らしい。

「一人芝居をしたっていう人は、どういう人だったんですか?」

 津田は、何故そんなことを? という目で私を見た。しかし、すぐにどうでもよくなったらしい。最近の仕事が多忙だから、今は難しいことを考えたくないのだろう。もしかしたら、この喫茶店で私を発見したとき、彼は内心涙が出るほどうれしかったのではないか。

「なんか、脚本から芝居まで一人でやったって人だったな。女性だ。結構美人だったよ。名前は何だったかな。……聞き損ねたかな。わかんねえわ」

 きっと、羽佐間だな。困り果てた薫さんは、自分の姉でもあった羽佐間に前座の依頼をしたらしい。劇団に依頼した、という話だけど、おそらくは殆ど個人的なやり取りだったんだろう。彼女たちは仲が良かったのか悪かったのかよく分からないな。とにかく、薫さんは羽佐間に一目置いていたわけだ。

 そして、西山にとって、羽佐間はコンプレックスの象徴みたいなものなんだろう。自分よりも、少ない期間、少ない人員で、自分よりも良い舞台を作った、という屈辱感。そりゃ、臍を曲げるわけだ。ははは。なんだか気味が良いわ。

「で、当時ネットでも、ちょっと盛り上がったんだ。<西山>には良い役者がいるってんで。観客の何人かが、前座もウチの舞台だって勘違いしたんだろうな。何せ宣伝も中途半端になったし。だが、その出来事が切欠ってわけでもないが、<西山劇場>の業績はそれから右上がりになっていったわけだ」

「運ってそういうことなんですか」

「そういうことさ」

 それからは、私にとってはどうでもいいようなことを津田が一方的に喋り始めた。鈴木に優しくしてやれ、だとか、役者はプロだから一々気にしないとか、そういうことだ。だからどうした、と言うところだが、気分は少しだけ軽くなった。私はコーヒーを啜りながら、適当に神妙な顔をして相槌を打っているだけだった。そのうち津田の携帯が震え始めて、それに応答した津田が「もう戻らないといかん」と言い、「場当たりはサボるなよ」と言い加えた。それから私はまた一人になった。

 グラスはとっくに空だったので、私がそれ以上駅に居座る理由は無かった。

 外に出て、丞さんに貰った名刺を見て彼の電話番号に発信した。彼は電話に出なかった。

 ……どうしたんだろう。もしかして、置いて行かれたのだろうか。まさかな。

 喫茶店から出た後だったので、また入店するのも変だった。それに、アイスコーヒーの味は、ちょっと飽きるくらい味わった。だからと言ってどこに行く宛てもなく、結局駅の入り口前のベンチに座って空を見た。まだ日は高い。履いていたサンダルから、包帯を巻いている左足を抜いて、右膝に載せて踵と踝の間を指で揉んだ。さっきから変な歩き方をしているから、筋肉が固くなっているような気がする。電話は鳴らない。

 どうしようか。稽古場に戻るつもりはないが。遠慮していたとはいっても、車で帰れないとなると、ちょっと悲しいな。

 しばらく俯いて足を揉みながら考えた。いくら考えても歩いて帰る以外に選択肢はない。長く息を付いてから、サンダルに足を入れて立ち上がった。目の前に立っている男と目が合った。

「君、足怪我したの?」

 男は頭が悪そうにヘラヘラ笑っている。一度目を合わせてしまうと、存在ごと無視するのは難しい。私は内心舌打ちをして、男の脇を通り抜けた。しかし、歩行速度が遅いからか、しばらく歩いても男は私に付いてきた。夢を見るような言い方で「おおい」だとか「送ってこうかあ」だとか私のすぐ後ろを歩きながら宣った。平日の昼間だぞ。何をしているんだよコイツは。

 後から考えると、このときの私は油断していた。

 駅の入り口に入る所で、後頭部に叫び声が叩き付けられた。何を言ったかは分からない。とにかく高い変な声だった。次いで、左腿の辺りに強い衝撃。膝が折れて、体勢を崩した。

 つい男と目を合わせてしまった。虚ろな表情で、怖じ気が背中に伝わった。なんだか、私を通して「女」という概念そのものを見ているような目をしている。「女」という存在に対する憤怒を、今、私に叩き付けているようだ。

「ビッコ!」と叫んだ。口の端に泡が付いている。「無視しゃがって、この」

 蹴り上げられる、と構えた所で、誰かの奇声が上がった。こっちは聞き取れた。

「オイ、コラァー!」

 私と唾液泡男が、同じ方向に同じタイミングで首を向けた。相沢の父さん、丞さんが、恐ろしい表情でこちらに走ってくる。私はかなり驚いた。唾液男はというと、すぐさま理不尽な出来事に恐怖する純粋な青年の顔になり、丞さんが駆けてくるのとは反対の方向に、全力疾走していった。

 息を切らした丞さんが、私の前で止まった。手を差し出されて、ちょっとドキっとしたが、なんとか平静に手を借りられた。

「足は大丈夫ですか」

 左腿を手で撫でて、変な痛みが残っていないか確認した。大丈夫だ。

「ええ。大丈夫です。ビックリしただけで」

「彼は?一体何者ですか?」

「さあ……」

 本当に何だったのだろうか。丞さんは唾液泡男が走って行った方を見て、溜息を付いた。

「ちょっとおかしい人みたいで」

 私は男の目を思い出した。「女」を見る目。そして、「ビッコ!」という間抜けな罵声。私はあの男に違う、と言い返してやりたかった。女であるのは体だけで、足を引いているのは怪我のせいで、障碍じゃないんだ。そもそもお前が私を、今の私のような人を罵倒する権利は無い。

 悔しい。丞さんの車で家に帰る道道、ずっと奥歯の辺りに力が入っていた。何が悔しいって、あの男の、自分より弱いと見える人間を徹底的に侮蔑して、それが当たり前だと思っていたような態度もそうだが、あんな、犬の糞を踏んだような出来事で、私は狼狽している。それが悔しい。今日はこんなのばかりだ。


 丞さんは、私が電話したとき携帯を車に置いて買い物していたらしい。車の後部座席に食料品が詰め込まれた袋が置いてあった。車に乗ると、まずそれを謝られた。謙虚が過ぎて、少しやりにくい。彼としては、先ほどの出来事に責任の一端を感じているのかもしれないが。

 車中はやはり静かだった。後部座席に乗っていたので、かなり気詰まりだった。

 私は運転の邪魔になるかもしれないとは思ったが、耐え切れずどうでもいい疑問を投げることにした。

「舞台に来ることは、相沢……華さんには、内緒なんでしたね」

「ええ」

「あのう、すると、チケットはご購入なされる?のですか」

 私は敬語が下手だ。恥ずかしい。今度練習しよう。

「ええ、そうですが」

 車が右折した。

「よろしければ、私がチケット融通しましょうか」

 丞さんが笑った。

「ありがとうございます。是非、お願いします」

 それで車中の空気が少し、和らいだように感じた。それで、つい余計なことまで聞いてしまった。

「やはり、華さんのお母さんと……」というところで、私は自分の失言に気がついた。相沢の母さんは別の男と舞台に来る、ということをすっかり忘れていたのだ。丞さんの笑い声が乾いて響いた。

 私は馬鹿ですよ。うん。

「静香……妻は、どうも……はあ……」と、丞さんは流石に返事を濁した。

 私はなんとなく、こんな彼を見たく無かった。だから余計自分を責めた。

 相沢の家庭が、もっと平穏であれば良いのにと思う。だったら、相沢(華)も、もう少し幸せになれたかもしれない。丞さんにしてもそうだ。となると、全ての原因は相沢の母親にあると帰結するのだが、母親がいなければ、相沢と丞さんは家族という関係にならなかったわけで、それはそれで救いが無いような気もするのだ。世の中、どうも上手くいかないんだよな。

 いっそ、相沢と丞さんがくっつけば良かったんだよな。非常に不道徳的な考えだが、そう思わずにはいられない。もしそうだったら、彼女らは平穏に家族でいられるんだろうなあ。

 車が左折してちょっと徐行した後、私の家に到着した。丞さんに礼を述べて、必要ないとは思ったが、さっき男に絡まれていたことを、くれぐれも相沢に話さないようお願いした。何故か、その話が伝わると彼女の期待を裏切るような気がしたのだ。彼は快諾した。

 車が通りを抜けて見えなくなるまで、私は立って見送った。それから、相沢と丞さんが過ごした今までの時間とこれから過ごす時間を想像した。私が口止めするまでもなく、彼と相沢の間には会話が無いはずだった。


 家の扉を開けると、気の疲れが重くのしかかってきた。羽佐間は彼女の部屋で何かしているらしい。リビングのソファに寝転んで、羽佐間が読んでいたらしい、机の上に開いて置いてあった小説をちょっと読んだ。ハードボイルド探偵の海外小説で、「ハードボイルド探偵」というと真っ先に思い浮かぶタイトルの小説だった。私も以前図書館で読んだことがある。

 タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きる価値がない。

 ハードボイルドの彼によれば、こういうことだ。私はどうも、タフとはほど遠いようだ。それはいい。とにかく私は生きているから。ただ、優しくなれない私が生きている価値はあるのだろうか。分からない。含蓄深い台詞じゃないか。……。


 それからうとうとし始めて、ページを開く手が覚束なくなった。本格的に眠りに落ちる寸前、不意に頭の隅に引っかかっていた謎が解けた。私の手から本が滑り落ちた。


 今夜、花火が上がるそうなのだ。大宮駅から一駅を行った、打ち上げる会場は大宮公園駅。私の家は丁度大宮駅と大宮公園駅の中間地点くらいにあるから、徒歩でもそう遠くは無い。きっと、いつものランニングコース、ケヤキが並ぶ参道から見られるだろう。

 羽佐間の気配を感じて目が覚めたときに、見に行こうと誘われた。ビデオカメラを持っているから、撮影する気なのだろう。丁度腹が空いた頃合いなので、帰りに<アトール>で夕飯を食べられるだろう。

 羽佐間が先に外へ出たので、私は忘れ物があると言って羽佐間の部屋の引き出しから礼の指輪を取り出して、ポケットに入れた。サンダルを突っかけて外に出ると、日が沈んで間もない紫色の空だった。羽佐間が気持ちよさそうに外の空気を吸っていた。今日初めて外に出たのだろう。「ずっと仕事してて、肩凝っちゃった」と、彼女は言った。私たちはちんたら歩いて遊歩道に向かった。


 疎らに人の集まりがあって、わざわざキャンプに使うようなアウトドアチェアを持ってきている人もいた。舞台が始まる前の客席のような雰囲気が、参道の道、そこらに拡がっていた。

 私たちはケヤキが疎らになって、ある程度空が見渡せる場所までのろのろ歩いた。その内に、細い縁石に座って花火が上がるのを待ち始めた。

 私はポケットから、引き出しに置いてあった指輪を取り出して、羽佐間に寄越した。

 その頃には、空が本格的に暗くなっていたので羽佐間は指輪を指で摘まんで、星や月の微かな明かりにそれを翳した。それが何か気づいた彼女は微笑んだらしかった。暗いから彼女の表情がよく分からないが、息を漏らし方でそう思った。

「こんなの、どこにあったの?」

「羽佐間、というか薫さんの机の引き出しにあったよ」

「うそお」彼女は指輪を懐かしそうに指で弄び始めた。「知らなかったな」

 俄に、周りに人が集まり始めていて、二人きり、というには些か騒がしすぎる雰囲気になってきた。しかし、声を上げなくても隣に座っている羽佐間の声はよく聞き取れた。

「私の方はね、これもうお金に換えちゃったの。あの娘が、まだ持っていたなんてねえ……」

 やっぱりか。

「その指輪は羽佐間のお父さんの結婚指輪なんだね」

「そう」

「二人が姉妹じゃなくなる時に、その指輪をそれぞれが貰ったんだ」

「そう。親の結婚指輪なんて、貰ったって重いし、気味が悪いだけだと思っていたんだけど」羽佐間は指輪を私に寄越した。「あの娘は、そう思ってはいなかったみたいだね」

 私は指輪を眺めた。この輪を通して、彼女は家族であった時間を見ていたのかもしれない。

 それは、考えすぎかな。

「遺品だね」

「そうだね」

「羽佐間、持っててよ」羽佐間に寄越そうとした。しかし、彼女は受け取らなかった。

「私は、いいや」彼女は立ち上がる。

「でも」

「いいんだよ」

 遠くの空に、音も無く光線が上がった。空に花が開く。周りの人々は「わあ」と歓声を上げた。次いで、ポン、と音が拡がる。赤くて明るい花火が上がったのだ。

 羽佐間は私の前に屈んで、私に向かって何かを言ったが、花火の音と歓声で聞こえなかった。次々と花火が上がって、夜空が明るくなった。私はなんと言ったのか尋ねたが、彼女は顔を逸らして遠くの空に火が上がるのを見ていた。暗がりに、彼女の耳が赤くなっているのが見えた。きっと恥ずかしいようなことを言ったのだろう。例えば、「君がいるから」なんていうようなことを。

 それから私たちは花火が打ち終わらないうちに<アトール>へ向かった。驚くべきことに<アトール>には数人の客が入っていた。彼らはみなカウンター席に座っており、妙に内輪の雰囲気を醸し出している。私たちが店に入ると、彼らはそわそわと緊張したらしかった。店内のどこにも、あの喋らないウェイトレスは居なかった。テーブル席が空いていたのでそこに座り、適当にナポリタンを注文した。夜の<アトール>はちょっとしたバーのような雰囲気だった。というより、マスターはどうみてもバーテンダーというような佇まいだし、常連と思われるカウンターの客たちはショットグラスやカクテルグラスを手元に置いているから、夜はバーとして経営しているのだろう。こっちが本業なのかもしれない。羽佐間も海鮮風味のパスタのついでに酒の注文をした。

 羽佐間に「飲まないの?」と聞かれたが、朝が早いことを理由にして酒は頼まなかった。勿論、本当の理由は私が酒に滅法弱いからだ。

 和風のパスタを食べている間、初めて他人を抱いた夜のことを思い出した。その頃は、そう。心ちゃんは白田さんで、薫さんはまだ生きていた。

 窓の外が明るくなった。花見大会のフィナーレで、大量の花火が豪勢に上がっていた。正面に座っていた羽佐間は右手でカクテルグラスの足を摘まんでいて、夢を見るように、ちょっと淫靡な感じの目つきでそれを見ていた。私は不意に薫さんの体温を感じるような気がして、窓とは反対側の隣の席を見た。当然誰もいなかった。

 マスターがカウンターから歩いてきて、「おおーやっとるなあ」と言った。それを皮切りにカウンターに座っていた客たちも、どれどれと私たちの座っていたテーブルに近づいてきて、子どもみたいな目で窓を覗き始めた。


「ジョバンニは幸せになれるのかな」

 帰り道、羽佐間はカメラを私に向けて、ふらふら後ろ向きに歩いていた。

「あの物語にはそこが書かれていないんだ。一緒に幸せを探す、と誓った親友が死んで、そこで終わる」物語は終わる、という事実。優しい閉塞。残酷な投擲。私はジョバンニを演じているうちに、彼を誰よりも私を知っている親友のように思っていた。だから、物語が終わった後の彼の物語を想像して、すごく辛くなる。「ジョバンニは幸せになれるのかなあ……」残された彼は、本当に幸せを見つけることができるのだろうか。

 所詮私もあの物語の観客に過ぎないのかもしれない。本当の物語を私は知らない。それでも、私の中の彼を私は探す。

 だけど、演じるって、こういうことなのかもしれない。

「どうして役者になったの?」と千鳥足の羽佐間が尋ねた。

 

 ***

 

それからは、あっという間に時間が過ぎた。本当に、あっという間だ。


 朝、劇場ホールに行くと、既にスタッフ達がせっせと舞台装置を設置したり向きや位置を調整したりしていた。西山も舞台裏で津田と話合いながら指示を飛ばしている。役者たちは邪魔にならないように稽古場のそこらに散らばっている。荷入れを手伝う人、楽屋で友人同士で固まって喋っている人もいるし、舞台から広い客席の一席一席を眺めている人もいる。私がそうだった。

 この劇場ホールには地下二階、地下一階、一階、二階とあって、一階と二階をぶち抜いて大きなホールがあり、これが私たちが公演に使う舞台となる。その他には小ホールもあるし、小さな稽古場から大きな稽古場までほぼ全ての階層に設えられていて、おまけにカフェテリアもある。結構豪華だ。

 私は大ホールの舞台に立っていた。後ろの方では、というか舞台のそこらでテープを持ったスタッフがペタペタ役者の立つ位置の印を付けている。私はぼーっとしていたら、心ちゃんにバミりを手伝わされていたのだ。

 心ちゃんは客席を中央に行ったり左端、右端に廻ったり、後ろに歩いて行ったりして、位置を綿密に確認している。私は舞台の真ん中に立っていて、座標系の原点になっていた。

 彼女が客席の後ろの方で両手で円を作った。それで舞台からスタッフが取り敢えず去って行って、私も自由を取り戻した。私は少し舞台の上を歩いて、改めて腹の底が震える感触を味わった。

 立派だ。すごく立派な劇場。ここで主役をやるのだ。私は。

 

 場当たり初日の朝はこんな風に、役者は放置されることが多い。朝はずっとスタッフがチャカチャカ準備をして、昼休憩を終えた頃にさあやろうか、というところだ。尤も、大半のスタッフはその頃には疲弊しているので場当たりの段取りが悪いことも多い。

 場当たりは今までの、役者だけの稽古とは違って、本格的に裏方、演出スタッフも本番同様の動きで舞台を作っていく。とはいえ、舞台の稽古となると稽古場では気付きにくい間(物理的な意味でも時間的な意味でも)の悪さが際立つし、西山にしてもいよいよ本番が近いとあって焦りもあるんだろう。「オォィ!」だとか「声量!」だとか檄が飛んで、

とにかく私たちは「ハァイ!」と全力で返事をして、演出家の言葉の意味を深く考えて再び演技する。あっという間に解散の時間となる。役者も普段意識しない、舞台での声の響きを意識するから、思っているよりも稽古場の練習通りにはいかない。だが、響きの良いホールに舞台の上から台詞を響かせるのは結構気持ちが良いものだ。


 とにかく、この頃になると、解散の時間は殆ど守られることはない。二時間、三時間と軽くオーバーして、ようやく西山が「ま、こんなもんだろ」と思うか、劇場が閉まる時間になるところで劇団員たちはホッと一息つき、帰り支度をする。

 着替えを終えて楽屋に荷物を取りに戻ると、何故か相沢と鈴木が声を潜めて会話していた。「それ、本当なの?」という相沢の声が聞こえる。何だろう、と思って荷物を取りながらさりげなく耳を傾けたが、二人は私がいるために会話を中断したようだった。


 一階玄関近くの情報プラザという名前の円形の吹き抜けでベンチに座っていたら相沢がやってきた。

「おかしな噂が立ってるみたい」と彼女は言った。

「噂?」

「うん。昨日、劇団に変なメールが届いたんだって」

「……」

 沈黙で先を促したが、何かを言いにくそうにしている羽佐間が先を続ける前に、私の携帯が震えた。

 心ちゃんからの電話だった。気まずいと感じる前に嫌な予感がして、通話ボタンを押した。

「はい」

 電話の先に沈黙があった。

「白田さん?」

「昨日……」

「え?」

「昨日、変な男の人に会いましたね」

 変な男。唾液泡男か。

「まあ……」

「何か、変なことされませんでしたか」

「……あの男が、何?」

「あの人が、彼なんです」

「は?」

「私の頬を殴った」

「ちょっと待って、どういうこと?」

 相沢は眉を顰めて私を見ている。

 昨日の唾液泡男が、心ちゃんの言っていたデザイナーの友人。……ということは、どういうことだろう。

「あの夜から、彼ちょっとおかしくなって。……あの、私、尾けられていたみたいで……だから、あの時のことも……見られていたというか、多分……」

「……ちょっと、待って……」

 見られていたってどこからだ? 私が彼女を追う所か、……稽古場を出るところからか? だとしたら、一緒にホテルに入った所も、

「見られたのか……」

「昨日、劇団の問い合わせに変なメールが届いて、私とあなたを名指しで挙げて、すごくひどい文面で……写真も」

「……もういいよ」

「彼、だと思うんです。ごめんなさい」

「もういいよ」

「ごめんなさい」

「私は、平気だよ。心ちゃんは大丈夫なの?」

「はい」

 私は電話を通話状態にしたままポケットにしまった。相沢が私を見下ろしていた。このときの私は知らなかったが、この噂は私が危惧した程劇団の連中はまともに取り合わなかった。あの鈴木ですらも、これは殆ど笑い話かちょっとしたゴシップのように相沢に話していたらしい。それはそれで良いのだが。ただ、この時の私の様子を見ていた相沢は何か思ったのか、私には知る由もない。

 劇場の玄関口を出て、駐車場に行くと心ちゃんの車がまだあった。夜だ。私はポケットからスマートフォンを取り出して、また喋りかけた。

「白田さん」

 スピーカーから溜息が聞こえた。

 私は車に近づいて、窓を軽くノックした。運転席で俯いていた彼女が私を見て、ちょっと戸惑った顔をして、窓を開けた。私は通話を切った。腕を車の窓の縁に置いて体を支えた。足の痛みはもう殆ど感じなかったが、それでも体重を乗せると痛みがぶり返す気がしていた。

「あの男のことで、困ってるの?」

「いえ。あのメール以降、特に何もないんですけど」

 そういえば、あの男、昨日丞さんに脅かされたのだったか。すると、あのメールは子供染みた負け惜しみ、みたいなものなのかもしれない。

「あのメールのことなら大丈夫。皆まともに取り合っていないよ」

「そうですか。でも、……本当に……はあ」

 心ちゃんは心底自分自身を情けなく思っているらしい。何故、あんな男に束の間の時間でさえ付き合ってやったのか、何故自分には「男」を見る目が無いのか、何故別れた年下の、同性の子に迷惑を掛けてしまったのか、と。

 お互い、しばらく近づかない方がいいかもしれない。そのことを伝えると、彼女は俯いて、頭を揺らすように頷いた。

 それから、送っていこうかと聞かれたが、私は断った。彼女は「そうですか」と言って、車を発進させた。

 車の赤いテールランプを見送っているとき、私には違う未来があったんだよな。と思った。日本では同性婚が無理らしいから、実際に結婚することは、無いだろう。でも、本当に彼女と一緒に暮らして、生涯を共にして、家を買って……ああ、駄目だ。私には金が無かった。

 やっぱり、どう考えても、彼女が幸せになるとは思えないな。私は自分の将来にあまり自身が無い。だから、彼女との将来を考えると怖くなる。

 私はタフではない。タフにはなれない。

 私たちは普通の友人に戻れるのだろうか。と思った。しかし、そもそも普通の友人であったことは無かった。今更、そんな関係になれるか? ……無理だろうな。非常に残念だ。

 駐車場には先に照明を付けた柱が疎らに立っていた。車は駐車場の出入り口の所で一度テールランプを赤くさせて、それから通りに出て消えていった。

 舞台が終わったら、私は変われるかな。

 

 *


 時間が過ぎた。忙しさのせいか、先日稽古場で私が鈴木を殴ったことはさして取り沙汰されなかった。鈴木は私にびびっていた。それだけだ。


 *


 本番初日に羽佐間が楽屋に顔を出した。彼女は肩の辺りから腕にかけてレースでデザインされている紺色のドレスを着ていた。珍しく化粧もきちんとしていたし、長い黒髪もルーズサイドアップで纏めていた。普段の羽佐間のスタイルから乖離していたからか、随分驚いた。私と同じように、顔を出した知人友人家族と話していた役者たちも、謎の美人が出現したからかちょっとどよめいた。美人って、すごい。だが、羽佐間は片手にいつものハンディカメラを持っていたので、急に現実に戻された気がした。それに、照れくさかった。私も私で舞台用のメイクをしていたのだ。カメラを構えた彼女の質問に適当に答えている内に、ちょっとだけ緊張が解れたような気がした。

 相沢には誰も会いに来ていなかった。


 暗い舞台に一人で立っていた。奥行きのある一階の客席も、二階の客席にも色々な形の、観客の顔の影だけがここから見える。舞台照明は舞台裏手に設置された、ころがしと呼ばれる下方向から舞台を照らすものだけだった。

 

 なんで演技をするのか、って。そういえば薫さんに聞いたことがあった。その時彼女はこう言ったのだ。「誰かに私を覚えておいて欲しいから」って。

 分かるよ。今なら分かる。誰かがの目がないと何者にもなれない自分を知ってしまったから。男にも女にもなれない夜の怖さを知っているから。でも。

 舞台を終えたら、優しくなれる気がするんだよな。ちょっとだけ。

 花火大会の夜に、羽佐間に言った言葉。

 

 タフにはなれない私だけど。

 今は、それだけでいいかな。


最後の稽古の日に、思い切って西山に「ジョバンニは幸せになれるのか」と尋ねた。

 彼は「それはお前が決めることだ」と言った。

 そういえば、彼は最初に「お前がジョバンニだ!」と私に叫んだのだった。


 

 ゆるりとスポットライトが私の周りを照らし出した。








*エピローグ


 公演は結構大入りだった。昼と夜に本番があったので、忙しかった。

 公演の間、私は自分のことで一杯一杯だったので気づかなかったが、相沢のお母さんは結局来なかったらしい。そして、その事は相沢にとっては結構ショックな事件だったらしい。私は「いい加減な人間の言うことをマトモに取り合うな」とも思ったのだが、千秋楽からの帰りの車中、肩を落として黙った相沢は、見ていて結構心が痛んだ。まあ、そうだよな。彼女だって、もしかしたら来ないかもしれない、なんてことは思っていたのだろう。そう思ってはいるのだが、心のどこかで信じてもいいかもしれない、なんて思うことはあるさ。それが期待であったのなら、尚更そうだと思う。


小規模な打ち上げみたいな飲み会は、本番がある夜は毎日あったが、私は千秋楽の日だけ顔を出した。相変わらず賑やかな会話の隅っこでグラスの底の氷をぐるぐる回したり天井を見たりするだけだったが、途中から、化粧室を出た相沢が私に気づいて、それからグラスを持って私の隣にやってきた。

「お父さん、離婚するみたい」

 私は天井の縁から相沢の顔に目線を移した。

「今朝、リビングの机の上に離婚届があってね。お父さんの名前が書かれてて、そのうち家に帰ってきたお母さんも、それにサインすると思う」

「はあ……」

「あーあ。何だったのかな、あの人。なんでお母さん、あんなのと結婚したんだろう」

「……ハンサムだからじゃないの」

 相沢に鼻で笑われた。

 私はグラスの底の氷をぐるぐる回した。

 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

「……丞さんは、いつも舞台を見に来ていたんだよ……」

 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。

「うん、知ってた」

 スポン。

 小さな氷がグラスの縁から滑って飛んでいった。放物線を描いて机の上に落ちて、粉々になった。私たちは氷の破片が溶けるのを見届けた。


 *


 それからしばらく、劇団の中で人の出入りがあった。大きな舞台を終えたあとだからか、他の劇団から<西山劇場>でちょっと演ってみたいという人や、西山の演出を勉強したいという変な人が何人か新しく入った。出て行ったのは、幾人かの役者と劇団スタッフだった。結構評判の良い舞台を作って、ちょっと泊も付いたし、ここらで独立でもしてみるか。それとも、もっと人が少ない劇団で和気藹々とやってみるのもいいかな、というような雰囲気だ。西山も津田もそんな雰囲気には慣れているらしく、歓迎会、送別会には全て出席して、主役とは関係ない所で大騒ぎしていた。心ちゃんは劇団に留まって、もう少し舞台芸術の現場を勉強してみるつもりらしい。鈴木は留まり、水野は退団するらしい。送別会で鈴木が泣いていた。

 そんな劇団員達を見て、さて、私はどうしよう。と思ったのだが、どうやら劇団を退団する人間の中には「特に行く宛てもないけど、元恋人もいるし、ちょっと気まずいし、ようしやめちゃえ」という馬鹿はいないようなので、様子見のつもりで、蕎麦屋とクリーニング屋のバイトを続けながら<西山>でもう少し続けてみようか。

 と思っていた、いつもの駅の構内、改札口が見渡せる喫茶店である。

 スマートフォンが震えて、私は通話ボタンを押した。通話の内容は、簡単に言えばドラマ番組の出演のスカウトだった。

 私は喫茶店の中で立ち上がって、小躍りしたい気分だった。ただ、ドラマの撮影のスケジュールを尋ねると、次の公演のスケジュールと完全に被っていたのだった。

 そのときは、羽佐間と近くの映画を見に行く予定で、私は連載の打ち合わせから帰る彼女を喫茶店で待っていた。喫茶店では、「オー・シャンゼリゼ」のアレンジが流れていた。

 私が<西山>を取るか、ドラマを撮るかで嬉しく悩んでいると、改札口前の右側から見覚えのある男が現れた。

 丞さんだ。黒いシャツに、紺色のパンツ。大きなキャリーバックを転がしている。右の方をちょっとの間細い目で見つめて、それから改札を通って八、九番線に続くエスカレーターに乗って視界から消えた。

 私はそれまでの悩みを捨てて、今の丞さんの行動の意味を考えた。改札口の電光掲示板を見ると、東京上野方面に出る宇都宮線がもうすぐ出るところだった。

 頭が答えを出す前に、見知った女が右側から走ってきた。こっちはかなりラフな、Tシャツにスウェットの下。今にも泣きそうな、切なそうな表情で改札前に立ち止まり、電光掲示板を見上げた頼りなく息を切らした背中を見た。改札から人が流れ出して、彼女の姿が人混みに隠れた。その頃には私は喫茶店を飛び出している。

「相沢!」

 私は叫んだ。

 人混みの切れ間に、一瞬相沢と視線が交差した。また人が流れて、彼女は見えなくなった。

「九番ホーム!」と、私はまた叫んだ。

 人混みが捌けて、電光掲示板の前に相沢はいなかった。周囲の人々が大声で叫んだ私を怪訝な目で見ていた。それから、改札口に彼女が戻ってくることは無かった。


 誰しも、他人が知らない自分の物語の主人公だ。相沢の切なげな表情が目に焼き付いていた。彼女にも、私の知らない物語があったのか。私は改めて、演技では彼女に敵わないな、と心の中で降参した。

 

 羽佐間が面白そうな顔でのんきに歩いてきて、「何?良いことでもあったの?」と面白そうに言った。

 私は笑っていたらしい。


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