第7話 夏の影

 暦の上では秋だ、という言葉に何の意味があるのだろうとカレンダーを見る度に思う。私の記憶にあるかぎり、9月はずっと夏の一部だった。夏休みが終わっているというのにまだまだ暑く、どうして学校に行かねばならないのだとため息をついてばかりだったことを覚えている。旧暦だから今の季節とはずれているのだとかなんとかいう理屈も聞いたが、何の慰めにもならない。ずれているのならとっとと直すべきではないのか。そんなことを言っても暑さには変わらないので、私はランドセルを背負っていた頃から何年も経った今も、ため息をつきながら暑い道を歩いている。月単位であった夏休みもなくなっているので、状況は悪化している気がしないでもない。

 今日行かなくてはいけないのは、少し寂れた住宅街だった。書類の変更と手続きの為のアポイントメント。既に何度か顔を合わせた相手で、愛想悪く返されることもないのがせめてもの救いだった。最盛期からは少し静かになった蝉の声が響く中を、汗をしたたらせながら歩いて行く。日陰を選んで進んでも、熱気がじわじわと肌を包むのがどうにも不愉快だった。一瞬、視界がぶれて足下がふらつく。熱中症になりかけているのかもしれない。ちょうど自販機を見つけて、時間までは少し余裕があるのだからと休憩することにした。普段使っているICカードは使えないタイプの古い自販機は、色あせているがしっかりと稼働している。小銭をいくつか機械へと放り込み、麦茶のボタンを押して、出てきた冷たいそれを喉に流し込んだ。気持ちも体も生き返るようだ。どこかぼけていた視界も鮮やかになる。

 落ち着いて周りを見回すと、年季の入った団地の中にいることにあらためて気がついた。見覚えはある。ぼんやりしたまま歩いていたが、道順は合っている。こう暑くては誰も外を歩く気にはなれないのか、人の姿はなかった。ひび割れた壁の塗装に目をやって、なんとなく窓を下から上に向かって数えていく。一番上までたどり着いたところで、屋上に人がいるのが見えた。こちらに向かって手を振っている。戸惑いつつ頭を下げた。シルエットからして男のようだが、一体何をやっているのだろうか。ヘルメットも被っていないので業者ではなさそうだ。しかし、住人は普通屋上には上がれないようになっているはず。悪ふざけか? こんな真っ昼間から?

 通報した方がいいのか迷ったまま、私は彼を見つめていた。太陽を背にした彼を見ているのはまぶしくて、目がくらみそうになる。そして、その一瞬で彼は屋上から下に落ちていった。「あっ!」と叫ぶ暇もなく、だが私は反射的に身を乗り出した。続いて嫌な音が響くのを覚悟する。しかし、いくら待っても音はせず……確かめに行かねばと歩き出そうとしたところで、再び屋上に手を振る人影があるのに気がついた。まるで何ごともなかったかのように元通り。だが、古びたカセットテープを巻き戻すように、少し歪さを増して。

 彼は、生きている人間ではないのだ。そう気づいて、私は出しかけた足を元に戻した。そういうことならば、どうすることも出来はしない。ペットボトルの麦茶がチャプンと音をたてた。

 嫌なものを見てしまったと、未だ手をを振る人影から目をそらして団地のポストに視線を移すと、隅に「お父さん、おかえりなさい」という子供の字で書かれた紙と干からびたキュウリの精霊馬があるのを見つけた。だが、ナスの方が見当たらない。迎えばかりで送るものがいないのだ。それが作為であれ、事故であれ。

「……だからか」

 彼は、帰ってきたまま戻れないのだろう、となんとなくわかった。それならば求めてくれる人のそばにいられれば良いのに、それもできず炎天下の中、ひたすら誰もいない屋上で手を振っている。哀れなものだと思いながら、私は残った麦茶を飲み干した。

 彼が暑さを感じているのかどうかは知らないが、もし感じていないなら羨ましい。もう夏はうんざりだ。休みの少ない毎日も、面白みのない仕事も。いっそ、地球が滅んでしまえば良いなんて思考すら湧いてくるのが私にとっての夏だった。もう炎天下を歩きたくなどないが、そろそろ行かなくてはいけない。残念ながら、私はまだ彼と違って生きているのだから。

「代わってもいいですよぉ?」

 背後から声がした。それも良いかもしれないなと思いながら、空になったペットボトルをゴミ箱に放り込んだ。

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