居残る
車内に淀んだ夜闇を室内灯がぼんやりと照らす。先程まで聞き慣れない洋楽を流していたカーステはすっかり黙り込んで、染みついた甘い煙草の匂いだけが変わらずに香る。起き上がろうとした視界がぐらりと揺れて、俺はぐったりとシートに凭れる。
地元で評判の幽霊屋敷での肝試しに向かう車中で車酔いを起こすなんてことがあろうとは小学校のバス遠足で後部座席で目を回していた頃には予想もしなかった。
「すげえな車酔いってこんなんなるんだな」
「すんません……」
「謝ることじゃねえけどさ、車乗っただけでここまで具合悪くなれるのってバグってねえ? 歩いただけで具合悪くなるようなもんじゃんもはや」
どっか不具合でもあるんじゃねえのという万遍ない罵倒をぶつけてくる有橋先輩に、人間は二桁の速度で移動したりしないし過剰に縦揺れもしないと言い返そうとして、こみ上げる嘔気に俺は黙り込む。余計なことを言うと、乗る前に食べたホットスナックの残骸を他人の車にぶちまけることになりかねない。
市営駐車場とは名ばかりのだだっ広い空き地にはまばらに車が止まってこそいるが、人の気配はまるでない。歩道沿いに設置された街灯の光が僅かに届く程度で、周囲は静かな夜に満たされている。
目を灼く車内灯を遮るようにしてこちらを覗き込みながら、有橋先輩が口を開いた。
「シチュエーション的にさあ、仮病使ってんじゃねえよってやるとこだけどもさ。マジに顔色悪いしな」
顔真っ白だぞと言われてのろのろと窓に視線をやれば、映り込む自分の顔が悲惨なありさまなのが見える。笑おうとしたが口元を僅かに攣れたように歪ませるのが精一杯で、閉じた目の奥で室内灯の残光がちかちかと閃いた。
ぼくんとドアの開く鈍い音がして、俺は流れ込む夜気の冷たさに身を強張らせる。
「どうよ有橋、後輩君大丈夫そう?」
「駄目っすね、見てくださいよ五木さん。顔色ひどいですもんこいつ」
「うわ死体みてえ。こういうときって二種類だよな。血昇って溜まって土気色になるやつと、血引いちゃって真っ白になるやつ」
後輩君白くなる方だねとどうでもいいことを感心したような声と共にずいと手が伸びてくる。何事だろうと懸命に手先に焦点を合わせれば、突きつけられているのが天然水のペットボトルだということが分かった。
「とりあえず水な。今の時期だとさあ、自販機の冷たいものって選択肢がねえのよ」
「いえ……ありがとうございます」
受け取ったはいいが手先に力が入らず、俺はペットボトルを抱え込んで、ヘッドレストに横向きに頭をもたせかける。
「どうする? やめとく?」
「いやせっかくここまで乗せてきてもらいましたし。中入れるってのに帰んのもあれですよ」
「有橋はやる気があんねえ」
「せっかくの幽霊屋敷探検ですから。一回行ってみたかったんですよ俺」
「あそう。元気だね本当に」
俺はどっちでもいいんだけどと呟くような五木さんの声と食い下がる有橋先輩のやりとりが聞こえるが、反応するだけの気力が俺にはない。明らかに俺のせいでややこしい状況になっているのだが、元凶自身も口を聞けない程度のダメージを受けているのだからどうすることもできない。
「ビビッてるのを連れて行くのが楽しいのは分かんなかねえけどさ、明らかに具合悪いだろこいつ。そういうのは駄目だろやっぱり」
「駄目ですかね。風通しいいところに置いとくとかしても無理っすか」
「だってこいつ歩けねえだろ自力でさ……連れ出して吐かれても困るしなあ。駄目だろ公道汚しちゃ。ただでさえこの辺りそういうのうるせえだろうし」
どうすっかなあと思案するようで何かを待ち構えるような声に、俺はそろそろと頭を正面に向ける。そのままかつて学校の教室で散々やったように片腕を挙げようとして怠さに屈し、肘あたりまでを起こしてから胸のむかつきをこらえて口を開いた。
「あの……俺置いてってもらえますか。待ってますから、幽霊屋敷、行ってきてください」
絞り出した言葉の後に沈黙が続いて、二人が顔を見合わせているらしい気配がした。
「後輩君こう言ってるけどどうすんの、有橋」
「いや俺は是非行きたいってずっと言ってるんでやった! って置いてきますけど……大丈夫? お前ひとりで置いてって死んだりしない?」
「車酔いで死ぬやつは今んとこ見たことねえから大丈夫だろ。冷えたら死ぬかもしんねえけど」
「三十分ぐらいなら大丈夫じゃないすか。マフラー置いてきますし俺」
言うが早いか丸めたマフラーが胸元目がけて飛んできて、俺は抵抗する気力もなく、腹の上でとぐろを巻いたそれをぼんやりと眺める。
少しだけ思案するような間があってから、五木さんの声が飛んできた。
「まあ、最悪吐いても片付けてくれるってんなら別になあ……後輩君、免許とか持ってる?」
「ないです」
「あそう……じゃあこの時期なら蒸し焼きってこともねえしな。鍵掛けとけば窓割られねえ限りは平気だろうし」
だったら二人で行くかという確認じみた言葉に有橋先輩が嬉し気な奇声を上げる。俺は何かを言う気にすらなれず、持ち上げたままの手を左右に振ろうとして肘掛けにぶつけて、そのままだらりと下に垂らした。
じゃあ行ってくるわとはしゃいだ声で有橋先輩が宣言するのが聞こえて、ばたんと乱暴にドアが開け閉めされてから足音が騒がしく遠ざかっていく。五木さんはその様子を呆れたような顔で眺めてから、運転席から身を乗り出すようにして、
「一応鍵は持ってくけど。大人しく留守番しててくれや、後輩君」
いい子にしてろよと車内灯を後光のように浴びながら五木さんが笑う。
どうしてか一瞬煙草の香が強く匂った気がして、俺は緩やかに顔を逸らしてから項垂れるように頷いた。
***
馬鹿でも分かる超大作ドンパチ娯楽映画を観た直後だった。このあと面白いとこ行こうぜ、車出してくれる人がいるからさというあからさまにフラグじみた一言を食べ切れなかったポップコーンを抱えたままで有橋先輩が言った時点で抵抗するべきだったのだろう。知れ切ったパターンと結末が見えていたのに、逆らわなかった俺が悪い。
地方都市には標準設備となった感のある、チェーン店のショッピングモール。家からは徒歩三十分だが、歩いて行けるだけマシな立地だろう。車という選択肢のない学生が映画を観ようと思えばここしか選択肢がない。プログラムは一般向け超大作かご当地PR映画しかかからないが観られるだけいい方だ。ゼロよりはどんなに小さい数字でも無限に『存在している』のだから、何もないよりはまだマシだ。
昔はこの辺りにも小さな映画館がいくつかあったとは親や親類から聞いたことはあるし、実際に俺も小さい頃に子供向け映画を観に連れていかれたような記憶がうすぼんやりとはある。だが今の映画業界の青息吐息ぶりを見るまでもなく、こんな地方で映画館なんてものが存続できるわけもない。思い出の映画館は俺が中学生の頃に廃業したし、近所には閉館してからも解体の目途が立たずに、シャッターが閉まったまま放置された廃屋もある。
今更ショッピングモールと地元企業のどうこうなんて話をする気もない。そういうのは賢くて偉い連中がよりよい将来のためにすることだ。そもそも将来も何もないような地元がチェーン店に食い潰されようがどうだっていい。俺や有橋先輩のような連中には、その場で楽しめて消費できるだけの娯楽でさえあるのなら提供元の素性も娯楽の素材も不要な情報でしかないのだ。
待ち合わせた深夜のコンビニ前の喫煙所。有橋先輩の知り合いだと紹介された五木さんは、乗りつけたアルファードも派手な刺繍のスカジャンも安っぽく明るい髪色も、すべてが胡散臭くてろくでもないチンピラとしかいいようのない人だった。初手のミスを取り返したければここでどうにかして帰る言い訳を組み立てるべきだったのだろう。それでも高校から付き合いが続く有橋先輩の紹介だというしがらみと、先輩は全くの善意好意でしたことなのだろうという状況で、それを無下にするのも気が引けた。
結果として車酔いで潰れて他人の車中で留守番役という状況になっているのだからどうしようもない。ことごとく選択肢で外れを引いている。こうやってこれからも貧乏くじと不運を引き続けて生きていくんだろうかと思いのほか壮大な規模の不安が浮かんで、手元に山を作ったままだった先輩のマフラーを握り締めた。
血が淀んで火照った頬に、車内のぬるい闇がまといつく。自分の鼓動がいつもより大きく聞こえて、耳元で轟々と血の流れる音がする。車が動いていない分だけ悪心はマシになってきたが、血の茹だったような不快感と脳にまな板を押し込まれたような頭の重さはしぶとく残っている。
幽霊屋敷で肝試しだなんて時季外れな真似だが、それでもあれだけはしゃげる有橋先輩の頭のつくりはどうなっているんだろうと失礼なことを考える。俺もさほど頭のいい方ではないが、心霊スポット突撃というだけで浮かれ倒せるほど馬鹿なつもりもない。
地元では色んな噂がある。住宅街の真ん中、堂々と日常の一部のような顔をして『在り続ける』幽霊屋敷については、馬鹿なガキから暇な大人まで目を逸らしながらも好き勝手なことを語りたがるからだ。
入り込んだ連中が行方不明になった。庭樹にぶら下がる人影を見た。廃屋のはずなのに大勢の人が出てくるのを見た。夜になると得体のしれない悲鳴が響く──。
どれもこれも心霊スポットにつきもののありふれた怪談だ。まともな大人なら眉を顰めてすぐに忘れる類の噂話でしかない。そんなもので飾られたただの廃屋に、馬鹿で人生を持て余した連中が暇潰しにやってくるのだから救いようのない話だ。そんなことでも十分に暇潰しとして成立するくらいにここには何もないという目を覆いたくなるような事実からは目を逸らして、俺たちはどうにか生活を続けていくのだ。
ずっと同じ姿勢で凭れていたせいか首が痛みはじめて、俺はなるべく頭を揺らさないように横向きの姿勢を作る。そろそろと体を入れ替れば、目の前に夜に塗り潰された窓が見えた。
まだ血の気の戻らない顔はいつもより白々として、本当に死体のようだなと先程の五木さんの言葉を思い出した。
「のこってるんすよちゃんと」
はっきりと耳元で囁かれた一言に俺は身を起こす。急な体勢の変化に猛烈な吐き気と悪寒がぶり返すが、それどころではないと無理矢理にこらえて車内を見回す。
特に珍しくもないミニバンの車内。染みついた煙草の匂いがいやに甘ったるいくらいで、殺風景なほどに何もない車内にはただ夜が暗く淀んでいるだけだ。
「空耳、だよな、きっと」
一番合理的であろう可能性を確認するように口に出してから、悪化する目眩に耐えかねて俺はシートへと再び寄り掛かる。少し身を離しただけでシートは冷え切っていて、触れただけで身の熱が奪われていくのが分かった。
肩口に縋るような指の感触があったかと思えば腰に食い込む爪の痛みが確かにあって俺は短く悲鳴を上げた。
反射的に逃げ出そうとドアの把手を掴むが、がこんがこんと鳴るばかりで開かない。ロックがかかっているのか、と気づいた瞬間に猛烈な力で座席に体ごと押し付けられて、そのまま指の一本すら動かせなくなる。辛うじて動く目玉で周囲の状況を探ろうとするが、ただ暗いばかりの室内には何の怪しいものも見えない。なのに肩口に食い込む誰かの指先の感触は嫌になるほど確かで、足首にさえひやりとした何かがぎりぎりと巻き付き始める。どんと天井から重たいものが飛び乗ったような音がして、ばたばたと踏み鳴らす音が続けざまに聞こえた。不規則に視界が揺れ始めて、俺は堪えかねて目を瞑る。
耳元にはぶつぶつと虫の羽音のような異音が纏いつき、耳鳴りに混じって意味のある言葉が聞こえそうになって俺は必死で意識を逸らそうとする。
理解してはいけない。言葉だと認知してもいけない。きっとそうしたら取り返しのつかないことになるということだけは何故か分かった。
こんこんと窓を叩く軽い音に顔を上げる。勢いよく持ち上がった頭が予想外の揺れに悲鳴を上げるが、その感覚から動けるようになったのだということを少し遅れて理解した。
窓の外には五木さんの顔がある。窓越しにこちらを見た五木さんは片目だけを眇めてから僅かに首を傾げてみせる。ドアロックが外れる音がして、どさりとシートに座り込む音がした。
「何してんの後輩君、まだ具合悪い?」
結構経ったのにまだ白いねとごそごそと運転席で物音を立てながら、五木さんは振り向きもせずに軽口を叩いた。
「あ──天井、何にもなかったですか」
「天井? 車の? なんも載せてねえからよく分かんねえけど何もねえよ」
何かあったのかよと当然の質問が飛んできて、俺は答えられずに黙り込む。五木さんが乗り込んでから、あれほど騒々しかった何かは痕跡一つ残さずに消え失せていて、ただの深夜の車内には倦んだ闇が残るだけだ。どう答えてもビビリが置いていかれた恐怖に耐えかねて見た夢ぐらいにしか思ってもらえないだろう。
それを差し引いても
「五木さん、有橋先輩、は」
「ん、もうちょい遊んでくって……後輩くんには先帰っててくれって言ってたからさ、俺が来たわけよ」
歩いて帰れねえだろと笑う声には不自然なくらいに何もない。明らかに嘘をついているのが分かるのに、俺にはそれを指摘することができない。
指摘したところでどうにもできないということが分かっているからだ。
「どうする? 調子悪そうだけどさ、有橋に合流したいってんなら連れてくけど」
バックミラー越しにこちらを見る目には明らかに好奇と揶揄いの色が浮かんでいる。
俺は少しだけ躊躇してから、ゆっくりと首を振る。これは致命的な選択だと分かっているのに、それ以外を選ぶ理由をどうしても見つけられなかった。
「そっか。賢明だなあ後輩君」
俺としちゃどっちだっていいんだと嘯く声には微かな感情の気配があるが、それがどういった種類なのかを俺は必死で気づかないように努める。明確に認識してしまったら、何か致命的なものを引き摺る羽目になるという予感のようなものが確かにあった。
見捨ててしまった。諦めてしまった。裏切ってしまった。どうしようもないことをしてしまったのだという感覚だけがいやにはっきりとしていた。
「大体のことは手遅れだからよ。気付いたところでどうあがこうとさ、まあ無理なもんもあるんだわ世の中」
場違いに明るい口調に心の底を言い当てられて、車酔いとは明らかに違う目眩と悪寒に襲われながら、俺は手元のマフラーを縋るように握り締める。滑らかな生地の感触が冷えて強張った指には何かの生物の肌のように思えて、俺は嫌悪感とも焦燥ともつかぬ感情に唇を噛む。
五木さんはミラー越しにこちらを見ながら片目だけを細めて、
「何すぐ会えるって。マフラーだって返さなきゃいけねえだろ?」
結局逃げきれねえもんだよと言って五木さんは笑い声を立ててから、咥えた煙草に火を点けた。
吹き溜まった煙に一瞬だけ誰かの顔が浮かんだような気がして、俺はこみ上げた吐き気を必死にこらえた。
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