刻み込む

 玄関のノブには銀色のチェーンがぐるぐる巻きにされていて、とどめに提げられた南京錠は晩秋の陽に静かに光る。私たちは周囲の目をほんの少しだけ気にして、傷だらけのローファーでなるべく足音を立てないように慎重に、伸び放題のイチイの茂みの隙間を抜けて、屋敷の壁沿いにひと気のない裏庭へと続く通路を行く。


「美咲ちゃん、これ見つかったら怒られない?」

「見つからなければいいんだよ」

「そうだけど……ローファーって意外と音するよね。じゃりじゃり言ってる」

「しょうがないじゃん制服だもの。靴だって指定守んないと怒られるし」


 背後から飛んでくる真優からの他愛ないぼやきを適当にあしらっているうちに、広い裏庭が目の前に現れる。ベニヤ板で乱雑に封鎖された裏口や閉じられたままの窓々には目もくれず、私はぐるりとあたりを見回す。

 竿のない物干し台。ところどころに錆が滲む物置。わさわさと雑草にまみれた花壇。

 裏口よりは少し奥、物置の天井と地べたに大ぶりの葉を散らしながら灰色の幹から枝を葉を伸ばして佇む一本の庭木。午後の日射しに淡い影を地面に落として、静かにそこにあった。


「おっきい樹だねえ。幹が立派」

「何の樹だろう」

「葉っぱ落ちてるから落葉樹じゃない? それ以上何にも分かんないけど」

「あ、それは習った覚えがある……小学校だっけ? 中学生?」

「どっかで習ったけどどこだったっけね」

「思い出せないねえ。ちょっと前のことのはずなのに」


 心底おかしそうに真優が笑う。その拍子に薄い唇の端から八重歯の先が覗いて、私は少しだけどきりとする。昔から見慣れているはずなのに、未だに彼女の口元にふとした拍子にちらつく、自分とは違う鋭さに違和感とも異物感ともつかない感情が湧くのだ。

 真優はしげしげと樹を見上げてから、そのままくるりと私の方を振り返った。


「美咲ちゃん、これでおしまい?」

「おしまいっていうか目的地だよここ。カーナビだったら案内終了するやつ」

「幽霊屋敷の裏庭って幽霊出るの?」

「どうだろう……屋敷と庭って別だしね。お化け屋敷だってお化け建物の外に出ないしさ」

「昼間だしね。しかも平日」


 悪いことしてる気分だねと楽し気に言う真優の口元から目を逸らし、私は振り返って幽霊屋敷を眺める。くすんだ壁面には淡い日差しと微かな影が張り付いているばかりで、怪しいものの気配は微塵もない。

 澄んだ青空に冷たい風が吹き渡る、雲一つない快晴だ。定期テストのおかげでぽっかりと空いた午後の時間をどうしようかというのが今日の私たちの問題だった。電車で帰ろうにもこの時間帯はローカル線の悲しさで、適当な運行がない。だからと言って市営の図書館で真面目に勉強なり復習なりに当てるような勤勉な真似などしたくもない。

 そんなことを真優とぐちぐちと話しながら校門を出たのが少し前のことだ。進学校ならともかく成績も卒業生の進路も地元の評判もパッとしない地味な母校で、唯一悪くない評判のデザインの制服をひらひらさせながら馬鹿みたいな長さの坂道を前にして考えた。

 普段なら楽しくもない授業に塗り潰される午後の数時間、手に入れたからにはどうにかしてささやかな非日常を楽しめないものか──そんなささやかだが重大な企みのためにない知恵を絞り脳内の心当たりを総動員した結果、思い当たったのが幽霊屋敷の噂だった。


「けどさ、ここで何をするの? 『面白いことやる』ってしか聞いてないよ私」

「女子高生っぽいこと」

「端折んないで。ちゃんと言って」

「恋愛成就のおまじない」


 問いに素直に答えた途端に真優は私の顔をまじまじと見てから細い首を傾げて、


「馬鹿なの?」

「馬鹿じゃないよ。女子高生だよ」

「嫌な返しをしないでよ。そういうとこよくないよ」

「噂話を試したくってさ、聞いたことない? 真優」


 幽霊屋敷の広い裏庭、そこの片隅にある庭木。その幹に相合傘を刻めば、名前を書いた相手との恋が成就する。

 聞きかじったおまじないの内容を話せば、真優は困惑したように僅か目を伏せた。


「……やりたいことは分かったけどさ、美咲ちゃん。私少しも信じられない。正直半信半疑どころか七割疑ってるよそんなの」

「あ、そこは大丈夫。私は十割信じてない。なんせ言ってんの成宮先輩だし。成宮先輩は部活の先輩から聞いたらしいけど」

「よりによって成宮先輩かあ。あの人この間準備室前で大騒ぎしてたけど」

「ああ標本相手に呪霊がどうこうってやってたんだっけ? 詳しく知らない」

「呪霊ってあたりがさあ、漫画じゃんねえ流行りの……」


 校内でも有名な『霊感少女』の名前に真優が軽く眉をしかめる。切れ長の目が細まって睫毛に翳り、真っ黒な目と相まって滲む嫌悪が深くなったように見えた。


「そんなに嫌い? 成宮先輩のこと。スイッチ入らなきゃいい先輩だよ、委員会の仕事はちゃんとやってくれるし」

「美咲ちゃんは一緒なんだっけ、委員会」

「校風やってる。見回りとかで組むと報告書いてくれるから助かるよ。たまに『ここから先は悪い気配が強くて行けない』ってなるくらい」

「ちゃんとやってないじゃん」


 美咲ちゃん優しいねと呆れた声で言われて、私は上手い返答が思いつかずに、とりあえず笑ってみせる。真優は妙なものを見るような視線のまま私を見て、数度瞬きをしてから笑顔のようなものを作ってみせた。


「……先輩の話やめよっか。でも誰の名前書く? 美咲ちゃん好きな人いたっけ」

「真優いるでしょう。千川先輩」

「いるけどさあそうだけどさあ。好きなお菓子みたいなノリで口に出すよね」

「人もお菓子も同じ比重でよくない?」

「それいつかどこかで不具合が出る認識だと思うよ。よその人に言ったら駄目だよ」


 真優はたしなめるような口ぶりのまま一瞬だけ細めた目で私を睨んでから、またいつもの柔和な表情に戻る。


「話の流れ的にさあ、千川先輩の名前書くの? 私と相合傘で?」

「書くっていうか刻むんだよね聞いた方法だと。ほら持ってきたんだ彫刻刀」


 鞄からおもむろにケースを取り出して見せれば、真優の口から驚きとも呆れともつかない妙な声が零れた。


「懐かしい、中学校のケースじゃんそれ。よく持ってたねというかそれ持ってきたの今日? テストの日に鞄に彫刻刀セット忍ばせてたの?」

「ちょっとどきどきした。怒られるらしいじゃんナイフとか持ち込むと。その点彫刻刀なら安心、だって学校の授業で使うやつだから。美術とか」

「安心かなあ。美術部ならともかく校風委員が持ち込んでも何の正当性もないんじゃないかなあ」

「見つからなかったからセーフ! 私は勝った!」

「何と勝負をしていたの」


 真優は呆れたような言葉の語尾に僅かに笑いを滲ませる。いつもの──それこそ小学校の頃から変わらない、昼休みや下校時の他愛もない悪ふざけのときに見せる表情に、私は安堵する。

 小学校の高学年、人数が足りないと顧問に拝み倒されて入った合唱部でペアを組んだのがきっかけだったと思う。パートの関係で作ったペアだったが、音域と声質以外もそこそこに気が合った。そこから何となく付き合いが続き、選択肢のない田舎ではありがちに小学校の面子がほとんどそのまま持ち上がった中学校でも、ゆるやかに私たちの関係は維持されていた。そうして幸か不幸か学力も同程度だった私たちは進学先すら同じだったため、この関係はそれなりの継続期間を記録しているのだ。

 私と真優の付き合いにおける相性を判断する上で一等重要だったのは、思春期の少女にありがちな友人関係の問題──嫉妬や執着に起因する諸々が煩わしくて仕方がないという一点を共有できたところだろう。登下校で出会えば気まずくならない程度に会話は弾み、他愛もない話題で無難に時間を潰せる。人によっては物足りないと感じるかもしれないが、私たちにはそのくらいがちょうどよかった。適当に馬鹿をやったり言ったりしながら、とりあえず当座の学生生活を楽しく過ごせればいい。私にとってそこのスタンスが共有できたのが真優だったというだけだし、真優にとってもそうなのだろうと思っている。

 それらしい装飾品兼嗜好品としての憧れの域を出ない恋愛話。学生らしい授業に対しての愚痴。踏み込み過ぎない程度の趣味の話。高校生らしい好奇心と悪ふざけと出所の怪しい噂話。


 それなりに学生らしいと判断される青春時代を世間様への言い訳の立つ程度に履修するための道連れのようなものだと言えば、真優は怒るだろうか。


 思いついたうわごとを押し込めて、私はケースを片手に樹木へと近づく。


「やるの?」

「だって目的それだし……やだ? 真優は」

「やだっていうより怖いって方が大きいかなあ。幽霊屋敷だよ真後ろが」

「怖いのはお屋敷の方じゃん。こっちは樹だもの」


 ううんと唸りながら真優は自分の髪を梳くように触る。


「お屋敷の方はさ、有名じゃん。分かるよそれは目立つしさ、こっちは裏庭だから入らないと気付かないっていうのはあるけど……」

「何か問題?」


 真優は黙って樹を見上げる。つられて私も枝を眺めるが、何の変哲もない木の枝葉越しに晴れた空が青いばかりだった。


「そこそこ立派な樹でしょう。なのに全然噂にならないっていうか……そのおまじないで聞くまで知らなかったもの。幽霊屋敷は有名なのにさ、こんな大きい樹の──そうだ、存在感が薄いのがね、不思議でさ」

「幽霊屋敷の方が本命だからじゃない? 分かり易くヤバイのがあるからどうしても樹だと脇役になっちゃうっていうか、後ろから刃物持った人に追っかけられてるときに目の前の赤信号と左折してくる車に意識が飛ぶかっていう話じゃん」

「例えが非日常過ぎて想像したくない」

「じゃあもうちょっと身近な表現に変えよう、目の前に熊いるときに隣りに猪がいたらちょっとかわいくない?」

「どっちも物騒だってば。想像できるだけに怖いし……通り魔が想像できないのに、熊が想像できるの嫌だね」


 地域性だねと適当に返せば、ツボに入ったらしい真優が笑った。押し切るなら今だと判断して、私は努めて軽い調子で説得する。


「とりあえずさ、せっかく来たんだからやっておこうよ。彫刻刀も持ち込んだし」

「美咲ちゃんがどうしてもやりたいっていうならもう止めないよ」

「やった! じゃあ先輩の名前教えて、名字しか知らない」

「……そこさ、ちょっと変えようよ」


 提案が受け入れられたことに喜んだのもつかの間、聞いたことのない声音に私はまじまじと真優の顔を見る。いつもと同じ色白の頬には見慣れた泣き黒子があって、少しだけ伏せられた睫毛が目元に翳を落とす。


「私の名前は書いてもいいよ。で、相手先輩じゃなくて美咲ちゃんにしてよ」

「……真優、私と恋愛成就してどうするの? 意味がなくない?」

「ないからだよ」


 ばさりと言い切られる。さすがに意図が掴めずに、私は彫刻刀を抱えたまま真優の言葉をじっと待つ。

 淡い日差しと冷たい風の中、黒い目を数度瞬かせてから真優は口を開く。


「フェアじゃないよ。私ばっかり当事者になるのは嫌だもの」

「だって私好きな人いないもの」

「それは別にいいんだけどさ。だって試してみたいんでしょうおまじない……先輩も許可を取らずに巻き込むのは行儀が悪いじゃない」


 知らないうちに連帯保証人になってるようなものだよと現実的に嫌な例を出しながら、真優は続ける。


「その点美咲ちゃんならほら、都合がいいじゃない。試したい人と実験台が一緒だからええと──自業自得みたいなさ」

「もっともだし分かったけどその単語嫌だなあ。それに恋愛成就しちゃったらどうするの」

「どうせしないでしょう、噂だもの……したとしてもそれはそれでいいじゃない。特に何にも変わらないよ、きっと」


 そう言ってにんまりと笑う真優の口端から見事な牙が覗いた。


***


「幽霊屋敷はさ、噂がたくさんあるじゃない。引きずり込まれるとか、夜な夜な叫び声が聞こえるとか、そういうやつ」

「あるね。入っちゃうとヤバイみたいな話は先輩から聞いたよ」

「また先輩……けどさ、樹の話は本当にないね。うちの学校のはあるのにね」

「あるの? 知らない」

「体育館の傍に桜あるじゃない。あれで昔首括った子がいるんだって」

「ああ樹って大体首吊るね。縄掛けるの大変そうだけど……この樹だと首吊るには枝が細くない?」

「やめなよそういうこと言うの」


 軽口を叩きながら、木肌にがりがりと線を刻む。最初は刃先が滑って大変だったけども、相合傘を書き終える頃にはコツのようなものが掴めてきた。

 三角刀で真優の名前をカタカナで刻む。本来なら漢字の方がいいのかもしれないが、さすがに難易度が高すぎる。続いて私の名前を刻めば、最後の一画で刃が盛大に滑って、どこか体に突き刺さりはしまいかと少しだけ肝が冷えた。

 彫り終わって一息ついて、彫刻刀を地面に置く。丸めていた背中が微かに痛んで、ぐいと背伸びがてら立ち上がる。


 その目の前に青黒い裸の足がだらりと下がって私は咄嗟にしゃがみ込んだ。


「美咲ちゃん? どうしたの」

「あし……え、誰か、首吊ってる……」

「やめてって言ったのにその冗談」


 そういうのはよくないよと棘のある口調で言われて、私は顔を覆ったまま真優に問いかける。


「真優何か見えない? 上の方」

「成宮先輩みたいなこと言わないでよ」


 何にもいないよと呆れ混じりに言われて、私はゆっくりと顔を上げる。目の前の幹には刻まれたばかりの相合傘と私たちの名前。恐る恐る見上げても、ただ枝葉と青空が見えるばかりだ。


「そういうのは本当にやめた方がいいっていうか、そういうもの怖がるなら最初からおまじないとかしない方がいいと思うよ」

「いやだってぶらんって目の前にさあ」

「見間違いだよ。だって事実今ないじゃん目の前に何も」

「見間違いったってさあ……まあそうだね、そうした方が」


 怖くないもんねと続けようとした途端に真優が短い悲鳴を上げて私の肩にしがみついた。


「真優、何、そういうの駄目って言ったじゃん自分でさあ」

「だってほら、美咲ちゃん、見てよ」


 白い指先が震えながら指す方に視線を向ける。

 樹に刻んだ相合傘。削られた樹皮のあとに沿うようにして赤黒い液体が滲み零れている。


「──あ」


 樹液だよとでも言ってやりたいのに、声がどうしても出てこない。縋りついたまま小刻みに震える真優に寄り掛かりそうになるのをこらえながら、どうにかこの状況を笑い飛ばせるような一言を絞り出そうと喉に力を込める。


 じゃらじゃらじゃらと盛大に枝葉が擦れる音が頭上から響いて、私はそのまま真優の腕を掴んで駆け出した。


***


 もつれた足が突っ掛かって盛大に地面に倒れ込む。強打した膝の鈍い痛みに悶絶しながら足元を見れば車止めがローファーの爪先に派手な傷を作っているのが見えて、足が止まったを幸いに周囲を見回せば高校近くのコンビニの駐車場だと呆けた頭が回答をよこした。


「美咲ちゃん、」


 か細い声にぎくりとしたと同時に、自分の左手が誰かの手を握っていることにようやく気づく。慌てて視線を移せば真優が地面に伏すような姿勢で座り込んでいて、私は恐る恐る声を掛ける。


「真優、ごめん、痛くない……?」

「ちょっと擦ったけど平気、大丈夫」


 美咲ちゃんこそ怪我してないと荒い息の合間から気遣われて、私は黙って頷く。

 幽霊屋敷から逃げ出し無我夢中で走り続け、どうやら近場のコンビニに辿り着けたらしい。一番近くて明るくてひと気のある場所なのだから当然といえば当然だ──何せコンビニを除けばこの周囲には団地と個人商店の成れの果てのようなものしかない。恐怖に駆られて逃げていたからこそ本能的に明かりと気配に惹かれたのかと考えて、虫みたいだなと場違いなことをぼんやりと思った。


「ああ……もう、怖かった、けど逃げられたから、ああ──」


 空咳を何度かしてから、真優はゆっくりと顔を上げる。黒々とした目がこちらを見て、ぎこちない笑みがゆっくりとできあがっていく。

 口元だけが無理矢理に吊り上がったところで真優はひゅうと笛のような音を立てて硬直した。

 見開かれた目と真っ白な顔色。明らかに異様な反応に、私は渇いて引き攣る喉から声を絞り出す。


「どうしたの真優、そういうのほら、怖いから──」

「くび、のどのまわり、ぐるって」


 冷たい指先が私の首をぐるりと撫でて、そのまま目の前に細い人差し指が差し出される。


 白い指先は赤黒い汚れにべっとりと濡れていて、私は咄嗟に指先から真優の首元へと視線を移す。


 真優の白くて細い首をぐるりと囲う赤い線は指先のそれと同じ色をしていて、刻んだ文字に滲んだものとよく似ていると気づくのに時間はかからなかった。

 真優は私の視線に気づいたようで、黙ってもう一方の手で首を撫でる。そのまま指先をまじまじと眺めてから、


「お揃いだね」


 泣きそうな声で真優が言う。らしくない冗談だと答えようとして喉が詰まって、私は泣き出しそうになるのをこらえながら真優を見つめる。

 歪んだ口の端から微かに覗いた八重歯が、翳り始めた日射しの中でにいやに白々として見えた。

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