血迷う

 風呂から上がり自堕落にタオルを巻いただけのありさまで脱衣所から出て、居間の時計を見ればいつもより遅い時間だった。点けたままにしていたテレビはどうでもいいスポーツニュースを流している。髪を乱暴に拭いながら、俺は机の上に置きっぱなしにしていた缶チューハイを手に取る。炭酸の微妙に抜けた一口を飲み下したとほぼ同時に、唸るような音を立てて置きっぱなしにしていたスマホが震えだす。通知よりも長い振動に液晶を確認すれば、通話画面には弟──亮彦の名前があった。


 両親は北陸に魚を食べに行くと言って早朝から出かけている。帰りは明日になるという連絡が三時頃にあったから、とりあえず身内でも死なない限りは今日中に戻ってくることはないだろう。弟はどうも部屋に気配がないので寝ているのかと思ったら出かけていたらしい。俺自身もずっと自室で寝たり起きたり映画を観たりという怠惰極まりない土曜を過ごしていたので、そもそも家にいる人間の把握自体をしていなかったのだ。個々で思い付きの旅行に出ようが遊び歩こうが、俺の予定に干渉してくるような要素がないのならばどうでもいい。それは弟も似たような性分だと思っていたが、どういう理由でわざわざ電話をかけてきたのかだけは少し気になった。恐らく迎えの車が出せないかとかそんなことだろうが、残念ながら既に飲酒しているのでその要望には応えられない。そんなことを言えばあいつは怒るだろうが、そもそも十七にもなって自分の遊びの始末もつけられないのは問題だ。

 半裸のまま益体のないことを考えていたせいで、冷え始めた体が震える。室内とはいえ秋の夜ならばそれなりに冷え込む。湯冷めするまいと椅子に引っ掛けておいたTシャツを被ってから、俺はようやく通話ボタンに触れた。


「何。ど──」

『兄貴! 何ですぐ出ねえんだよ!』

「風呂だよ。今何時だと思ってんだお前、明日休みだからって夜遊びもほどほどにしろ」


 通話した途端に罵声を投げつけられたことに予想通りだとうんざりとしながら、俺はいつもならば亮彦か母に占拠されているソファの真ん中に座り込む。どうせ明日は休日な上に家には俺一人という破格の状況だ。行儀の悪い弟の電話など適当に聞き流しておけばいいだろうと、せっかくだから居間のテレビで気に入りの映画でも見ようかと思いついて、ソファの上をずるずると這い、壁際に置かれたDVDラックを物色しながら通話を続ける。


「で、何だよ。迎えに来いってんなら無理だよ、俺呑んだもの」

『違えよそういう──ああ、もう、居るんだろ家に、鍵掛けてっていうか、カーテンとか、母さんたちがっつうか、なあ』

「あ?」


 いつにもまして論理と意味の組み立てがぼろぼろな物言いに流石に苛立ちを抱く。いつも反射と思い付きだけで喋っているような馬鹿な弟だが、ここまで無茶苦茶なありさまをぶん投げてくるのは久々だ。ただひどく興奮しているということだけが分かって、俺は適当に選んだパッケージを胸に抱いたまま僅かな不安を覚える。


「分かんねえぞ言ってることが。俺今日出てないから、お前が掛けたんなら鍵掛かってるよ」

『ああ、うん、チェーンは? チェーン掛けてくれよ』

「馬鹿か。母さんたちはともかくお前入れなくなるぞ」

『いいから!』


 とんでもない声量がスピーカー越しに届き、驚いて耳からスマホを離す。恐る恐る再び耳に着ければ、切れ切れの唸り声に混じるようにごめん、ごめんなさいという哀願するような声が聞こえた。

 いくら馬鹿な弟とはいえどうも尋常ではない反応に、ざわざわと胸に砂が溜まるような不快感が増していく。


「亮彦、お前どうしたんだ」

『ああ、ごめん兄貴……とりあえずチェーン掛けてくれよ、今。俺ならいいから』

「分かったけどさ。俺これから下手すりゃ寝るよ? 起きて待ってたりしないぞ」


 何かごちゃごちゃと聞き取れない呟きを聞きながら、玄関まで歩きついてチェーンを掛ける。居間の照明も届かない、暗い玄関にチェーンの落ちる派手な金属音がいやに大きく響いて、僅かな不安が胸に湧く。


 見透かすように高らかに鳴り響いたチャイムの音に心臓が盛大に跳ねて、俺は慌てて明るい居間へと駆け戻った。


『掛けた? なあ、兄貴、大丈夫だよな』

「掛けたけどチャイム鳴ったんだけど。何、お前客でも呼んだの?」

『──』


 意味をなさない嗚咽のような音がして、しばらく無音が続く。耳を澄ませば小さく嫌だと繰り返す声が聞こえて、俺は舌打ちした。


「何喋ってんだよ。説明しろ。しねえと俺は今すぐ警察を呼ぶぞ」

『警察呼んでも駄目かもしんない、ごめん、ごめん兄さん──』

「分からねえことばっかり言ってんじゃねえ、何だヤクザでも来てんのか、なあ」


 お前何やらかしたんだよと問いかければ通話先からは荒い呼吸とノイズが聞こえるばかりだった。


 長い間があった。痺れを切らしたようにもう一回呼び鈴が鳴って、俺はモニタだけを点けた。だが押したであろう相手は一切見えずに灰色の暗視画面が見えるばかりで、カメラの撮影範囲外にいるのだろうかと思案する。カメラに映らないようにして──しかもこんな深夜にだ──呼び鈴を押すような相手なら尚更警察を呼んだ方がいいんじゃないのかと考えこむ。

 警察を呼ぶにしろとにかくこの通話にどうにか応対しなければいけないと考えて、俺は抱えたまま見る機会を逸したパッケージをソファに放り投げ、もう一度弟に問いかける。


「悪かった。怒っちゃないが、お前どこにいるんだ。これも答えられないってんなら俺だって怖いから切って警察に掛けるぞ」

『……夕方にさ、山下たちから誘われて駅前に出たんだ。兄さん部屋にいたから気付かなかったろうけど、普通にマックで食ってだべろうぜって、そういう』


 脈絡はないがとりあえず意味のある内容が返ってきたので、俺は黙って続きを促す。ここで急かしてまたヒステリーを起こされても厄介だ。話しているうちに落ち着いてくれれば状況の把握に役立つだろうし、なにより小心な一般市民としては警察に通報するような事態もできれば避けたいのも本音だ。明確な被害や問題が確認できていないのにお上に相談するということに、うっすらとした罪悪感のようなものがある。何事もなかったら迷惑をかけることになるんじゃないだろうかという恐れと、他人に手間をかけさせてしまうことへの後ろめたさがどうにも拭いきれないのだ。

 俺の小市民じみた葛藤など知るよしもなく、弟はだらだらと話を続ける。


『マックで一時間ぐらいだべって、いい加減飽きたなって出てさ。そのまま駅前のカラオケ入ったら滝田が先輩とか他の知り合い呼んでくれて、そこで結構盛り上がって……あの、ドライブしようぜって話になってさ、車出してもらって流れで乗って』


 ふと一拍長い間を挟んで、震える声が続けた。


『幽霊屋敷にさ、行ったんだ』


 重なるようにチャイムが鳴り、俺は慌てて電源の入ったモニターを見もせずに切る。どうせ誰も映っていないだろうし、映っていたとしてどの道チェーンを掛ける以上のことができないのだから見るだけ無駄だ。


「……幽霊屋敷ってあれか、大学の近くの住宅街にあるやつ」

『死人が出たとか事件があったとかさ、そういうのを浅田が言ってたけど──ただの廃墟だって先輩が言うから、みんなそうなんだろうなって納得してさ』


 マイクがスピーカー設定になっているのか、背後で微かに環境音らしいノイズが入り込む。たどたどしく語る声はひどく震えていて、弟が露見した悪事を白状するときはよくこんな声を出していたなとどうでもいいことを思い出した。


『着いたらもう真っ暗で、あの辺街灯とか全然ねえから本当に怖くて……けど滝田が呼んだ先輩が玄関開けてくれたし、滝田が張り切って突っ込むから、俺たちも何かそのままさ、探検しようぜってなりゆきで』

『冗談で玄関のチャイムを押したら鳴って、悪ノリした山下が玄関のノブ捻ったら普通に開いて──お邪魔しますとか言ってたの誰だっけな、滝田だった気もするし、他の知り合いだった気もする』


 嘔吐するようにつかえながらも口を閉ざそうとはせず、弟は懺悔のようにどろどろと言葉を続ける。


『玄関から土足で上がって、階段は老朽化とか危ないからって浅田が言うからじゃあ一階見て回ろうぜって話になって、和室とか風呂場とかぐるって見て回って』

『全部なんにもなかったんだ、落書きとかゴミはちらほらあったけど、血の跡も幽霊も怪物もなんにも出なくて、真っ暗なだけの普通の家でさ……やっぱり噂だったんじゃねえか、ただの廃墟じゃねえかって滝田が不満そうだった』

『台所からリビングに行って、ずたずたのソファとかひっくり返ったテーブルとかそういうのでちょっとだけテンション上がってさ、そこで壁の落書きとかにツッコんで遊んでたら、滝田が──滝田がこっち来いって』


 嗚咽が幾度か挟まって、深呼吸のような長い息がスピーカーに割れ響く。


『みんなして振り返ったら、あいつ自慢げにメモ帳みたいなの掲げててさ。なんだなんだって集まったんだ。台所のカウンターに置いてあったって……真っ黒い表紙で、中がちっちゃいリングファイルみたいになってた。リングのところに、細くて小さいペンがついててさ』

『中には表? みたいなやつが挟んであった。あのほら、ファミレスの順番待ちで書かされるやつあるじゃん、あれのもうちょっと高そうっていうか細かいやつ。名前とか住所とか、そういう、病院で予防注射で書かされるやつみたいな』

『別に血の跡とかは全然なくって、新品みたいだなって誰か言ったくらいに綺麗だった。そんで、ただのメモ帳じゃんってみんなシラケて、そしたら滝田が不機嫌になって、』


 ひゅうひゅうと浅い呼吸音と空咳が幾つか続いてから、小さな声がした。


『一緒になってたペンでざらざらって名前と住所、高校名まで全部書き込んで──俺たちにも書けって、ビビってねえって心霊スポットなんてただの噂だって証明するんだってすげえ声で怒鳴るから──怒鳴るから、俺たち、俺』


 嘔吐を堪えるように喉が鳴る音がして、震えて裏返りそうになるのを無理矢理押さえつけたような声が、通話口から聞こえた。


『山下も、浅野も、他のやつらも──俺も、名前と住所、書いちゃったんだ』


 ぴんぽんと高らかに玄関先のチャイムが鳴り、そのまま二度三度と続けざまに押される。とうとう泣き出した弟のしゃくりあげる声をスマホ越しに聞きながら、俺は机に置いたままだった缶チューハイに機械的に口をつける。そのまま缶を片手に握ったままフローリングの床に座り込む。


 幽霊屋敷に対しての諸々の噂は俺だって知っている。怪奇現象やまことしやかに語られる恐怖体験の真偽はともかくとして、年季の入った心霊スポットなのは確かだ。長期休暇の時期にもなれば暇で馬鹿な連中が物見遊山で突撃して、そのささやかな非日常をSNSや与太話として得意げにおどろおどろしく語っているのを見るのはさほど珍しくない。

 現在起こっている異様なこと鳴り止まないチャイムと見えない訪問者や尋常ではない様子で泣きじゃくる弟に、幽霊屋敷。関連付けて考えようとすると、どうやっても悪い頭が荒唐無稽な因縁理屈を作り始めることにうんざりする。心霊番組に怯える子供でもあるまいに、いい年をしてそんなものを信じていていいわけがない。怪談話は安全な恐怖を面白がるものであって、それに怯えて居もしないものを恐れるようでは論外だ。恐怖にわざわざ接触するような真似をしておいて後悔するというのも馬鹿な話だろう。本当に怖いのなら、そもそもそんなものに関わらずにいればいいだけのことだ。

 遊び半分で燃え盛る焚火に手を突っ込んで火傷をしたやつは笑われるのが常だ。余程の理由がなければ頭の割れるような馬鹿の所業と切って捨てられる。だが現状では鹿を引き起こしたやつが血の繋がった身内だということにうんざりする。


「お前──お前、何してんだよ。個人情報撒き散らしてんじゃねえよ馬鹿」

『だってやめられる空気じゃなかったし、舐められたくなかったし、俺』


 というお約束のような台詞が聞こえてきて、俺は黙り込む。

 小説やドラマなどの刺激的なフィクション嘘っぱちで使い古された台詞を現実で使わざるをえない状況とは──およそそれは生活という平穏無事であることにこそ価値がある日常において、想定外のトラブルに巻き込まれたときがほとんどだからだ。

 チャイムはひっきりなしに鳴っている。テレビの画面はいつのまにかニュースキャスターが奇妙に歪んだ静止画が張り付いているだけで、一本調子のホワイトノイズのような音が鳴り続けている。ここに来てこの泣き言を垂れ流すだけの通話を切って通報すべきだろうかと考えてから、これは警察を呼んでどうにかなるようなものなんだろうかという疑問に正気が叩き倒された。


「あんなことってなんだ、答えろ、亮彦」

『山下がすぐいなくなったんだ。浅野が机の下に──だってさ、机だってひっくり返ってたのに、おかしいよ何がいたらそんなことが』

「亮彦、お前無事なんだな? 無事なんだろ今」

『俺と滝田は逃げようとして、玄関に走って俺夢中でドア開けて、そしたら先輩電灯んとこで煙草吸ってて、俺もう帰るって、警察行こうって先輩に車乗せてもらって、けど俺しかいなくって──』

「車乗ってんのか。じゃあ、」

『帰れないんじゃねえかな。いや、たぶんさ、亮彦君』


 覚えのない声が割り込むように聞こえて、俺は目を見開く。受話口から絶えず聞こえる荒い息遣いに混じって、軽薄で冷ややかな声が続く。


『こうなったら無理だと思うんだ。いや、逃げてきたのはすごいんだけどさ……家も名前も割れちゃってるしね。やらかしたのはさ、変えらんねえからさ、今更』


 もう手遅れなんじゃねえかな。


 知らない声が軽い調子で告げた一言は通話先にも聞かせたかったとしか思えないくらいに明瞭に聞こえて、暴力的かつ端的に現状と行く末を告知されたのだと直感した途端に強張った俺の手からスマホが滑り落ちた。


 チャイム音は鳴り止まず、今や数秒おきに鳴らされている。ごつんと玄関戸を直接殴りつけたような音がしてから、がちゃんがちゃんとノブが乱暴に弄られる金属音が聞こえ始めた。取り落としたスマホからは悲鳴と盛大な雑音が溢れ出し、それを聞きながら背後の窓が控え目にノックされているのに気付いて、俺は唇を噛んだ。

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