出くわす
さらさらと肌を撫でる夜闇の中に金木犀の香が重たく纏いつく。市が予算を渋るせいでまばらにしかない防犯灯が不整脈のように点滅する道にはただ夜が
深夜、皆が寝静まった頃合いを見計らい、音を立てずに開けた玄関から夜に踏み出す。別に盛り場に行こうとか、悪い連中と落ち合うとか、植木鉢を叩き割って回るとか──そういう目的があるわけではない。日常慣れ親しんだ路が深々とした夜に覆われて見せる異貌、防犯灯の明かりが届き切らない暗がりをうろついて、音も気配もすっかり消えた街路を歩く。時折遭遇する野良猫や突風の立てる物音に驚かされたりしながらも、基本的には何も起きない静寂の中を気が済むまで歩いているうちに、時間はどろりと流れ去る。そうして新聞配達のバイクの音が遠くで聞こえたあたりで家に戻れば、あとは設定したアラームが喚きたてるまで眠る。
どうしてそんなことをするのかと言われても、俺自身にもよく分からない以上は答えようがない。学生生活や人間関係、家族とのあれこれなども思い浮かばないわけではないが、それらしいようでどれもいまいちしっくりこない。一番雑で焦点が合うのが『趣味』という結論なのかもしれないが、幾らなんでも乱暴が過ぎる気がしなくもない。
そもそもこんな田舎で悪いことをするハードルが高いのもあるだろう。時期も時間も問わずに閑散とした駅前では、非行の夜遊びをしようにも遊ぶ場所どころか明かりが点いている場所自体が無いという惨状だ。不健全な遊び場の代表格だろうゲームセンターは一昨年あたりにガールズバーに改装される有様で、子供向けの娯楽どころか飲み屋さえも終電に合わせて十時前後には看板だ。そんな娯楽も危険もない場所の象徴のように、とどめに今朝の町内放送では鹿が出たと言っていた。絶望的なのはその大捕り物が夕方のニュースとして大々的に扱われたことであって、害獣の捕獲だなんていうある種日常的でしかないことがさも一大事のように扱われる平穏さと刺激の無さが何より苛立たしいのだ。
防犯灯の真下は時折点滅を繰り返しながらもぼんやりと明るい。柱の根元に蛾が落ちている。電灯の光に安っぽく浮かび上がる翅の白さがいやに目立って、俺は目を背ける。
ネット、テレビ、SNS。現代において『ここではないどこか』の情報を眺めるのは容易いことだ。大昔の田舎の
深夜にネオンと照明の輝く歓楽街の映像。未明を回っても人通りの絶えないスクランブル交差点。煌々と明るく膨大な人を吐き出し続ける巨大な駅。店舗の看板に黒々と記された24時間営業の文字。漠然としたイメージだけではなく、鮮烈かつ確かな情報として共有されるそれらに圧倒され憧れるのは、現代の田舎者とて同じことだ。実在が保証されているだけ、現代の憧憬はよりタチが悪い。
都会では皆がはぐれ者で他人で、生き方も嗜好も何もかも──夜の過ごし方すら選択肢が与えられている。選んだ先がどこに繋がっているかはさておいても、選ぶ機会が与えられるということは、子供にとってはとてつもなく魅力的だ。
それでも俺はまだ恵まれている方だという自覚はある。家出だの失踪といった短気で非常識な方法を取らずとも、黙って学生としての役目に耐えていさえすれば、進学という大義名分を以て地元を離れることができることだろう。自身に並外れた才覚も欲望も無い以上は、黙って一日一日をやり過ごすことしさえすれば、不必要な代価を払わずに望みを叶えるのに適切な道筋だということくらいは俺にだって分かる。
微かに響く自分の足音を聞きながら、俺は自問を続ける。防犯灯の光の届かぬ隙間に差し掛かり、冷え切った夜風が頬を撫でる。
平凡に恵まれていることに拗ねるほど愚かではないが、それでも時折要求され続ける『平穏』にうんざりすることはある。この深夜徘徊がその憂さ晴らしだというのが我ながら小物過ぎて悲しくなるが、それでも夜の静けさの中、ひとりきりでうろつくのは快適だった。非行でも反抗でもない、ただそれが俺にとっては好ましいというだけのことだ。
見上げた空は冷たく冴えて、秋の星がさびしく光る。都会の連中がよくほざく『田舎の風情』だの『自然の豊かさ』なんていうたわ言は理解しがたいが、この静かな夜の風景は決して嫌いではない。
次の防犯灯の明かりの端が足元に見えて、俺はふと視線を前に向ける。途端見えたものをきちんと認識して、そのままぎくりと足を止めた。
電柱に取り付けられた灯は無機質に白く、柱の周りを安いスポットライトのように照らす。
その狭苦しい光輪の中、柱に凭れて煙草をふかす男。耳元のピアスは防犯灯にちらちらと煌き、安っぽいくせに派手な上着の刺繍が夜目にも鮮やかに見えた。
見慣れないというだけではなく、その出で立ちと佇まいから一目で真っ当な人間ではないと分かる。このご時世に灰皿もない道端で喫煙しているというだけでもそこそこ眉をひそめられる類のあれだろうが、そもそも今が深夜だということを思い出して抱いた不安の大きさが増す。徘徊している俺が言えたことではないが、夜中に家にも帰らずにうろつく時点で、
流石にそんなあからさまな
途端くるりと男はこちらを向き、咥え煙草のままじっと俺の目を見た。
見つかった。手遅れだ。もうどうすべきか分からない。
そんな凡庸な混乱と男の目線をまともに見てしまった以上露骨に逸らすのも躊躇われる。轟々と血を流す心臓の音が聞こえるのではないかと怯えながら、せめてもの虚勢で叫び声だけは懸命にこらえて、俺は夜の中で男と対峙する。
「こんばんは。散歩か?」
夜になると冷える時期だなと男はへらりと軽薄に笑い、緩やかに手を振ってみせた。
※ ※ ※
「脅かしたんなら悪かったな。怪しいけど危ねえことはしてねえよ」
「いえ、俺こそ……失礼しました」
「失礼ってこたねえだろ。都会ならいざ知らず、こんな田舎で夜中に人に会やビビるもんだ」
熊だったら死んでたもんなと言って、男は小さな笑い声を立てる。俺は何と返すべきか分からずに、曖昧に頷くような仕草をしてみせる。
逃げ損ねたと観念して近寄り、電灯の下で見る男はやはりお世辞にも正業に就いているようには思えないタイプの恰好だった。無闇に甘い香りのする煙草を悠々とふかしながら、手首にはぎらぎらとした重たそうな腕時計が巻き付いていて、羽織った上着の背中には赤地にぎらぎらとした龍の刺繍が施されている。一見してチンピラとしか言いようがないその男は予想外に穏やかな表情で、囁くような声のまま、軽薄ながらも親し気に話しかけてきた。
「俺が言うのもあれだけどさ、坊主はこんな夜中に何してんの」
「散歩です……気晴らしに」
「そりゃ結構。いい趣味してるじゃんか」
ここの夜ってすることねえからなと男はゆっくりと煙を吐く。細められた目はじっと俺を見て、時折ゆらりと遠くへずれる。
「子供は寝なさいって言いたいけど、坊主ぐらいの年頃じゃあ眠るには長すぎるもんなあ夜」
「そうなんですか」
「そうだよ。大人になると場合によっちゃあ寝かせてもらえなくなるしさ。現に俺今仕事だもん。真夜中に立ち番なんてそこそこの罰ゲームだろ」
「……それ、あの、聞いて大丈夫なやつですか」
「ん? 大丈夫に決まってんじゃん。俺そういうんじゃねえもの。地域貢献だし」
「地域貢献」
治安維持みたいなもんだよと囁いて、男は薄く笑う。そのまま煙草を持った手をすいと差し出して、真正面を指すような仕草をしてみせた。
煙草の先端、ぽつりと赤い火種が示すその先には高塀の合間から続く小路。その先にある玄関扉のノブは微かに光り、薄闇にぼんやりと浮かび上がる。
真っ当な大人は口を噤み、真面目な子供は見ないふりをし、暇な馬鹿どもは楽し気に語る。
誰もが皆知ってはいるのに、忌まれるように日常から切り離される幽霊屋敷が、秋の夜闇に微睡む獣のようにあった。
「坊主がどのへんのガキか知らねえけどさ、聞いたことない? 幽霊屋敷の噂」
「ありますけど……空き家ですよね、ただの」
「興味ない?」
意外そうな顔をした男に、俺は少しだけ考えこむ。まつわる噂は血塗れの陰惨なものから夢の無い金銭がらみのものまでいくらでもあるし、夏休みの前後には行った行ってないの真偽も怪しい武勇伝が聞きたくもないのに流れてくるのに辟易した。最近では行方不明者が出たとか庭先で倒れていた高校生が病院送りになったとかの話も聞くが、誰に聞いても案の定『友達の友達』や『友達の先輩』や『先輩の友達の同学年の後輩』などのあやふやで顔の無い体験者らしきものが出てくるばかりだった。
「興味というか──あれです、信じる信じないの話なら信じたくない方ですよ」
「怖いモン苦手?」
「進んで危ない目には遭いたくない、ですね。退屈しのぎでその後を全部棒に振るの、怖いじゃないですか」
「真面目じゃん。おまけに我慢強い」
「怖がりなだけですよ。怪我をするかもしれないと思うと……痛いのって嫌ですよ、俺は」
男はしげしげと俺の顔を眺めて、短くなった煙草を携帯灰皿に押し付ける。そのまますり替えるようにパッケージを取り出し、新しい一本を咥えた。
「いやあ、賢いんだな最近の学生……ちょっと驚くもん、初めて実物見たわ」
「実物っていうか多数派ですよ俺、きっと」
「俺の知り合い大概馬鹿だからなあ。退屈でくたばるより、大怪我しても刺激がある方選ぶ連中ばっかだもん」
同類同士でしか集まれないってことなのかねと、火の点いた煙草から細い煙をたなびかせて男が言う。独り言のように放り投げられた言葉に不意を突かれて、俺は何となく黙り込んだ。
「ま、そういうことなわけよ。こういうご立派な幽霊屋敷には馬鹿が暇潰しに遊びに来るから、近隣住民の方々からは苦情が来るわけ。当たり前だよなあ、苦労して高い金稼いで引っ込んだ家の傍にクズがうろついてちゃ安心もできない」
「クズっていうか……まあ、知らない人が来るのは怖いですよね。分からないから」
「だよな。だからそういうのの監視員とか管理業務とか、まあそういうやつだよ俺の仕事」
そう言って男は口の端だけを器用に吊り上げて、横顔のまま、じっと俺の方を見る。予想より真面目な回答に納得して、俺は相槌のようにため息をついた。
つまりこの気さくな不審者は、市や町内会あたりから何らかの業務を委託された下請け社員か何かなのだろう。それだけ分かっただけでも十分マシだ。少なくとも熊のように無造作に殺されることはないだろうし、これだけ呑気に話を続けておいて今更刃物を突き付けてくるようなことも考えにくい。もし何かしらの悪いことの下拵えだとしたら、こんな真似はせずに脅し付けて追い払うだろう。惨いことを仕掛けるタイミングはいくらでもあっただろうし、それでもこうしてだらだらと無駄話に付き合ってくれたのだから、害意は無いのだと思いたかった。
男は俺の考えなど気にする様子もなく、だらしなく柱に寄り掛かったまま数度煙を吐き出す。そのまま意外なほどに細い手首に巻き付いた時計を眺めて、
「そろそろ二時だな。いいのか坊主、家帰んなくて」
「そうですね、二時なら帰った方がいいですね」
「明日も学校だろ? すげえな、四時間ぐらいしか寝れねえのに学校行けんの」
「出席しちゃえばどうにでもなりますもん。授業中寝てればいいだけですし」
「違いねえや」
居眠りって気持ちいいもんなという男の笑いにつられるようにして、俺も少しだけ笑う。微かな笑い声は静謐な夜闇に僅かに爪を立てて、すぐに跡形もなく消えていく。
屋敷の方からばんばんばんと何かを勢いよく叩く音がして、不意に絶叫が響き渡った。
それはほんの一瞬で、秋の夜闇はその程度の無作法を易々と飲み込み、再び息詰まるような静けさが満ちる。
何が起きた?
聞こえたものが本当だったかどうかすら判断がつかず、俺は縋りつくような気持ちで男を見る。
男はふうと溜息と共に白々と煙を吐き出して、
「行儀が悪いんだよ、あいつら」
そのまま大儀そうに電柱から離れ、男はのそのそと屋敷の門をくぐる。そのまま玄関まで歩いて、平然とした様子でノブに手を掛ける。そのままくるりと顔だけ振り向いて、
「俺は仕事にかかるけどよ、良かったら見に来るか?」
よく通る、少し嗄れたような低い声。暇が潰れるのは保証すんぜと笑うその顔の中で、双眸の白眼だけがぎらりと光って見えた。
俺はゆっくりと首を振って、
「遠慮します。高くつきそうですから」
おやすみなさいと一礼すれば、軋るような音を立てて男が笑う。
「おやすみ。寄り道しないで真っ直ぐ帰んな、坊主」
気が変わったらいつでも来なよといやに優しい声に背を向ける。駆け出すのは恐ろしいが、振り返る気は毛頭ない。見逃された幸運と何かを逸した気配だけをいやになるほど自覚して、俺はゆっくりと家に向かって歩き出した。
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