ある手紙
坂口柚痲
ある手紙
×××病院 〇〇先生
突然、見ず知らずの私のような村娘が斯様なお手紙を差し上げますご無礼をどうぞお許し下さい。
私はもう、先生に頼るより他無いのです。
どの医者に掛かっても皆総じて首を捻るだけで、何も安心出来る答えを得られませんでした。
ですから、どうか最後の砦である先生に――古今東西あらゆる病を治してきたと評判高い先生に、私の体に起こっているこの恐ろしい症状の原因を突き止めていただきたいのです。
私の体に最初の異変が起こったのは、丁度二週間前のことでした。
その日もいつも通りに目覚め、お恥ずかしながら母を数年前に亡くしたものですから、母に代わって家の事を済まし、仕事に出る父と学校へ向かう二人の妹を見送って、私は一人遅めの朝食を頂くことにしました。
少し贅沢をしてパンと紅茶を用意しました。
コポコポと子気味の良い音と匂いをさせながらカップに紅茶を注いで、こんがりと焼き目のついたパンに齧り付いた、その時です。
味が、しない。
そんなはずは無いと思いました。
風邪やなんかで鼻を詰まらせたりした時は、味を感じないと言うのはよくある話ですが、実際私はさっきまで紅茶の匂いを感じ取っていたし、パンを焼いた時だってその香ばしい匂いに一人舌鼓を打ったのですから。
しかしいくら咀嚼を重ねようと、一向に何の味も感じられません。
そうだ紅茶は、と私は紅茶に手を伸ばし一口啜りました。
駄目でした。
私にはそれが、水を飲んでいるのか、お茶を飲んでいるのか、はたまた珈琲を飲んでいるのか全く判別出来ないのです。
匂いはします。確かに紅茶の匂いはします。
パンの匂いもします。
しかし、味だけがおかしな位にしません。
昼食の時になっても夕食の時になっても何も変化がありませんでしたが、私は新手の風邪かなにかだと言い聞かせ、その日は早く床に着きました。
次に異変を感じたのはそれから四日後、今から十日前です。
結論から申し上げますと、私は味覚に続いて嗅覚を無くしたようでした。
いよいよ拙いと思った私は、例のごとく父と妹達を見送ってから、彼らが戻って来る前に、一人、町の医者の元へ向かいました。
その道中私は考えました。
そうだ。町では今、奇妙な感染症が流行っているらしいではないか。村で見かけたことはあまり無いが、町の方まで下って仕事へ行く父が貰ってきたとも十分に考えられる。
ここでお医者様にはっきりと診断を下して頂ければ、私のこの症状にも説明がつき、きちんと薬を処方されて、きっと良くなる。
そう考えると、私の心は幾分か軽くなり、つられて足取りも軽くなったような気がしてきます。
その時の楽観的で安心しきった私は、目的の町医者の元へ辿り着くと、そこに救いがあると信じて疑わず、その病院の門をくぐりました。
陰性でした。
何もおかしな所はないと言われました。
おかしな所がない?
私は今、何を食べても何を飲んでも何を嗅いでも、それが一体何だか分からないと言うのに。
これこそとんだおかしな話です。
私の心はたちまち悔しさと訳の分からない腹立たしさで一杯になりました。
薮医者なのだと心の内で罵りながら、歩ける範囲内にある限りの病院を二軒三軒と廻り続けました。
結果は全て同じでした。
私がおかしいのでしょうか。
何も異常が無いのにも関わらず味覚と嗅覚を奪われたと勝手に一人で思い込んで、騒いでいるだけなのでしょうか。
そうならば私は本物の狂人でしょう。
しかし、私はこの時、私の残された感覚だけを誰が何と言おうと信じ抜いていこうと、そして必ず失った感覚を取り戻そうと、固く心に誓ったのです。
こんな状況では自分が自分を信じてあげないと、他は誰も私の事を信じてくれませんから。
父や妹達には言いませんでした。余計な心配を掛けたくなかったからです。
……先生。聡明な先生ならもうお察しが着きますでしょう?
私が失くしたものがこれだけでは無いことを。
あの朝目覚めた時の感覚は、とても私には言い表すことが出来ません。
ただ大きな絶望、それだけが私に覆い被さって、私の息の根を止めんとしているようでした。
私は、感触をなくしました。
私は、私が触れるもの全ての感触を、もう二度と感じることが出来ないらしいのでした。
可愛い妹達の頭を撫でた時の絹のようにさらさらな髪の感触も、家族のために料理を作る時の食材の温度も、幼い頃父と手を繋ぎ歩いたあの温かさも、今は亡き母に抱かれたあの温もりも、全てが、私の中から消えて無くなって、思い返そうったってもう二度と思い返せない。
こんな、こんな辛さが、先生にお分かりになりまして?
絶望の深淵へと叩き落とされた私の両目からは次へ次へと涙がとめどなく零れ落ちました。
残念ながらこの感覚も私にはなく鏡に映る私をはっと認めて気が付いた事なのですが。
いよいよ私は本当に気がおかしくなって、今までのどの瞬間よりも一番大きい、自分の声の限りを尽くして泣き喚きました。
畳の床に垂れた涙が作った染みと、張り裂けんばかりに鼓膜を震わす慟哭だけが、私が生きているという事を実感させてくれました。
私の叫び声に気が付いた父が慌てふためきながら私の部屋へ飛んできました。
狼狽した声でどうしたんだと繰り返す父にも構わず、私は
父に「私を殴って」と叫び散らかしました。
父の顔からさっと血の気が引きます。
そんなことは出来ない、父はそう言います。
それもそのはず、父は今まで私に一度も手を上げたことがないどころか、怒鳴りもせず、いつも優しさと愛情を持って私をここまで育て上げてくれたのですから。
私は何と親不孝者でしょう。
恩を仇で返すとはまさにこの事、愛する娘に手を上げると言う父が最も嫌悪していた行為を、まさにその娘が実行させようとしているのです。
私は更に強く父に懇願しました。
矜恃の欠片も無く、ひたすらに希い続けました。
しばらくして父はようやく折れたのか、優しく撫でるかのような手つきで、私の頭を一度叩きました。
実際の所は知りません。
真正面の父が私の頭に手を伸ばした所まで目視で確認出来ました、が、何の衝撃も、感覚も、私の頭には相変わらず降ってきませんので、恐らく父ならばこうしただろうと言う私の妄想でしかありません。
見上げると父と目が合いました。
その目を見た瞬間、私の胸中に激しい憎悪の炎が燃え上がりました。
贅沢者め。感覚全てを持ち合わせて私の前に存在している贅沢者め。その事を当たり前と思って疑いすらしない、この贅沢者め。
私はその感情の赴くまま父に殴り掛かりました。
殴る瞬間、父の目が大きく見開かれたことを覚えています。一瞬だけ申し訳なさが押し寄せましたが、それもすぐに掻き消されてしまいました。
何を口走ったのか記憶していませんが、それでも何か酷いことを叫びながら、私は父を殴り付け、やがて揉み合いへと発展していきました。
これが私と父の初めての親子喧嘩です。
苦しかったです。死ぬ程、苦しかったです。
矢っ張り痛みなどは感じませんので、その分の肉体的苦痛が無いといえども、逆にその事実が私の心を苦しめました。打擲する鈍い音とそれに合わせて揺れる視界を確認できても、一番感じたい父の肌の感触が感じられませんでした。
……苦しかったです。死ぬ程、苦しかったです。
何よりも父を愛していましたから。
先生、私からは以上です。
この流れからして私の聴覚も失われたという事は申し上げるまでもないでしょう。
私は今、恐ろしくて堪りません。
私が外界を認識する唯一の手段となってしまったこの視覚が、いつ無くなってしまうのか、毎日戦々恐々としながら生きています。
もしもこの視覚を奪われてしまったなら、私は自分が生きているのか死んでいるのかもまるで判断できずに、死にながら生き延びるのです。
考えるだけで涙を超えて吐き気すら催してしまいそうな話でしょう。
ですから先生、どうかこんな私を哀れんで、私の目が機能している内に、一刻も早く、私の病をお治し下さい。
もう本当に時間が無いのです。
どうぞ、誰も、私を見捨てないで、早く、私を助け
手紙はここで途切れていた。
正確にはもう二、三行続いているのだが、それは全く文字の形を呈していなく、読もうにも読まれない状況だった。
私は手中の手紙を握り潰した。
押し入れの奥の方に、埃を被って様々なものと共に一緒くたんにされていたこの手紙の真相を知る術はもう無い。
この手紙の宛先である「先生」――私の母方の祖父は、つい先日この世を去ってしまった。
降って湧いた忌々しい感染症のせいで、誰にも看取られずに。
手紙の主がその後どうなったのかも分からない。
祖父はこの手紙の主に会えたのかすらも分からない。
ただ一つだけ、人という存在があまりにも儚いという事だけを、二つの命は痛切に示していた。
ところで。
こういった、何年も人の目にも日にも触れずに埃を振り積もらせていた物は大抵独特な匂いがするはずなのだが、この大量の遺品達から全く何の匂いもしないのは、祖父の管理能力が異常に高かったためなのだろうか。
ある手紙 坂口柚痲 @BIISAN0304
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